第330話 化け物

 酒瓶がドアにぶつかり落ちて地面に転がる。幸いにも割れることはなかった。


「帰るのがおせぇんだよ!」


 しかし次には父親の怒声が響く。

 防音もなにもないアパートでその声は近所迷惑だが、それを止める人はいない。

 入口の隣にある台所では、先に帰ってきていた結が晩御飯の支度を進めていた。母は仕事でこの時間にはもう家を出ている。

 小学一年生になったばかりの小さな手は見ていて危なっかしい。


「ごめん、すぐ手伝うよ」

「ううん、いいの。

 それより紡希お兄ちゃんは、お父さんのお酒買ってきてあげて」


 どうやら酒が切れたから暴れていたらしい。

 手が離せない結の代わりに、俺に行かせようと待っていたのか。

 今どき子どもが買うのなんて無理な話なのに、それでも買いに行かせようとする。


「早く行け!」


 痺れを切らした父親が俺に近づいて脚を蹴り飛ばしてきた。

 転んだ俺は思わず睨みつけそうになるが、すぐに「ごめんなさい」と言いながら財布を持って家を出た。


 少しだけ離れられる安心感よりも、すぐに戻らないといけない焦燥感が上回る。


 いい子でいなければ余計に痛めつけられる。

 いい子で素直に従順に。

 親の言われたことだけを聞け。

 


 そうやって自分にいい聞かせて何年目か。

 母親一人では俺と結を育てられないと思ったのか、今の父親が家に来た。

 だがこの男はすぐに仕事を辞め、始めてはまた辞めるという根無し草のような体たらくだった。


 それから何かがおかしくなった。

 結にはあまり暴力を振るわないみたいだが、俺には容赦なく拳を振るってくる。


 だから俺はできるだけ痛くされないように、いい子でいなきゃいけない。


 そしてそんな生活を学校の人には知られたくなかった。

 知ったところで誰が救ってくれるというのか。そんな検討もつかないから、ひたすら笑うのだ。


「紡車、今日学校終わったら家で遊ばねーか?

 新しいゲーム買ったんだ、みんなでやろうぜ」

「あー、ごめん! 今日も家の用事があるんだ」

「んだよいつもそれだな」

「ほんとごめん! 誘ってくれてありがとう」

「おう、またな」


 一時の楽しみが生む痛みは大きい。

 だから笑顔で愛想よくし、あぶれない程度の位置を確保する。

 そうして目立たない程度の普通の子供でいれば教師も気がつかない。


 これで俺は、何の変哲もない普通の小学生の紡車紡希だ。

 演じろ。演じ続けろ。

 それで不幸も痛みも生まれないのだから。


***


 しかし、そんな浅はかな考えも終わりが来てしまった。


 気付けば父親は注射器を眺めるようになり、一時は優しい父親、一時は怒り狂う男へと豹変していた。

 母親はそれを見て見ぬ振りして夜の仕事へと出かける。


 この親達は化け物だと思った。

 そんな化け物の子供も、自分を演じ続ける化け物だろう。

 唯一正常であり続けたのは結だけだった。

 唯は純粋に素直に、暴力を振るわれながらも家族のことを一番心配しているいい子だった。


 結だけはあの化け物達の中にいちゃいけなかった。

 だから終わりが来たのだ。


 それは俺が中学二年生で、結も晴れて中学生になってしばらくの頃。

 家に帰ると、父親が結を襲っていた。

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