第172話 私ができること

 彼女は手元にナイフを握っており、いつでも攻撃できるという態勢でベリルを睨みつけていた。

 対して、彼はつまらなそうな表情でオウカを見る。


 「ん、まあ、生き物なら、吠えるよな」


 ――死。

 オウカの脳裏にその言葉がよぎる。


 死ん……でない。

 一瞬だが、命が途切れたような感覚に襲われた。

 これは、威圧感というものだろうか。

 言葉一つで、感じ取ってしまったのだろうか。


 以前、ツムギがギィクメシュと昇格試験で戦った時のことを彼女は思い出した。

 そしてダンジョンで遭遇した巨大なドラゴンのことも。

 あの時に似た感覚を味わった。

 合わせて、竜の心臓ドラゴン・ハートと呼ばれた赤い石。

 故に、オウカは気付いた。


「あなた……十の竜」

「ん、まあ、よく知っていたな」


 ベリルは大きく、ゆっくりと息を吸って、吐く。


「ん、まあ、いかにも。

 ベリル・ビクスバイト・ドラゴン

 ん、まあ、跪け」


 身体が地面に叩きつけらるようなプレッシャー。

 しかし、オウカはすんでのところで耐えた。

 顎を掴まれたままのシオンは耐えきれなかったのか、足元から液体が溢れ湯気が立ち込める。


「ん、まあ、乙女の恥じらいも、後に啜ろうか」


 ベリルがシオンから手を離し立ち上がる。


「兄貴、殺す前に赤ずきん取ってもらえませんかね?」

「ん、まあ、ベリルに命令?」

「いえいえ、お願いですよ」


 苔色髪の男が膝を折って首を垂れる。

 ベリルは「ん、まあ」と言うと、オウカの方へ腕を伸ばす。

 

 そして、オウカの目の前を突風が襲う。

 目は瞑らない。が、手が動かせず、オウカの頭巾が脱げる。

 その頭上には狐の耳はなく、黒髪の中からちらりと人の耳が見えた。


「ふぅん、この奴隷は妖狐じゃないのか」


 意外そうな顔をした苔色髪の男は細い目を瞑ると、人差し指をこめかみに当てて数秒考えこむ。


「嫌だなあ。結局あの男に関わるのか」


 そう一言だけ。そして歩き出すと窓枠に足を掛けた。


「兄貴、久々に生まれて身体も動かしたいでしょうから、多少暴れてもいいですよ。

 その奴隷ちゃんも、殺していいです」

「ん、まあ、身体は慣らさないとな」


 苔色髪の男が窓から出ていった。


 オウカは――動けない。


 あの竜は、シオンを自分のものにしようとしている。

 ならば学院の男がいなくなった以上、彼女には危害が及ばないと考えていいはず。

 だとすれば――


(私ができることは)


 主を――


(違う!)


 唇を噛む。


 オウカは分かっている。思考が逃げようとしていることに。

 ツムギが気づいてここまで来てくれる保証はない。

 シオンに危害が及ばないなどと確証できない。

 それをオウカは理解している。


(だから、自分ができることは――)


 竜の相手をして、その間にシオンを逃がすことである。


「あああああああああああああああ!!」


 彼女は叫んだ。

 身体よ動けと。

 意思を保てと。

 今ここで戦えるのは自分しかいないと。


 そして――踏み込み、ベリルにナイフを振るう。

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