第90話 柔らかな感触

「いやああああああああああああ!!」


 続いて聞こえてきたのはクラビーの悲鳴だ。


「畜生がぁ!」


 立ち上がって駆けだす。

 ヘイトは俺の方に向いていたはずだ。

 なぜ急にオウカとクラビーを襲う!?


「オウカ!」

「ツムギ様! 逃げて!」


 暗闇の中で、俺の声に応えるオウカのはっきりとした声が聞こえた。

 大丈夫だ、まだオウカは生きている。


 と、目の間に何かが迫ってくる気配を感じた。

 黒騎士ではない、何か小さな物体だ。

 反射的に、向かってきたそれを掴んだ。


 軽い、細長い何か。

 闇に慣れてきた視界がそれを捉える。

 脚が止まる。


 ――間違いなく、オウカの腕だった。


「殺すっ!!」


 翡翠色の輝きに向かって飛びかかる。

 こちらに気付いた黒騎士が剣を振るった。

 耳を劈く音。剣と剣が重なり合い、振動の伝わった手からオウカの腕が落ちる。


「くそがぁ!」


 勢いに乗せて右脚を蹴り上げる。

 黒騎士の兜を狙ったそれは、しかし寸前で掴まれた。

 そのまま身体が大きく揺られて、地面に叩きつけられた。

 べちゃりと、液体の感触が首元から伝わってくる。

 鼻孔に流れ込んできたのは鉄の臭い。


 オウカは? クラビーは?


 ――この血は誰のだ?


 目の前で、翡翠色の輝きが剣を振り上げる。

 

「絆喰らいっ!」


 本能から飛び出した言葉。

 迫る剣が目の前で止まる。

 黒騎士の腕に影が噛みついていた。


「腕を喰らえ!」


 叫んだ俺に呼応するように高音を発する。


 軋む音が響き――黒騎士の片腕が砕けた。

 それによって動けるようになった黒騎士が後退する。

 立ち上がった俺は火球を発生させた。

 再び空洞内の姿が晒される。


 ――足元には血だまり。

 オウカも、クラビーの姿もない。

 少し先のところに黒剣と先ほど落としたオウカの腕が転がっているだけだった。


「――――」


 言葉はもう失っていた。

 感情が抜け落ちた。


 喰らう。これは本能。


 黒騎士に向かって影が飛びかかる。


「再構成情報回収完了」


 女の声。

 同時に、影が黒騎士を飲み込んだ。

 

 だが――突如として影が霧散し、そこには腕が元に戻った黒騎士が立っていた。


「全条件の一致を確認。対象者を主として認定します」


 その言葉の後、視界がぐらりと揺れる。

 否、空間が歪んでいる。

 そして頭痛を促すような背景が、徐々に形のあるものに戻っていく。


「ツムギ様!」

「ツムギさん!」

「え、あ?」


 声に振り返れば、そこにはオウカとクラビーがいた。

 足元には血だまりもないし、鉄の臭いもしない。


「契約を遂行します」


 前方から声がして視線を戻す。

 地面には黒剣もオウカの腕も転がっていない。


 ただ、そこには翡翠色の瞳をした女がいた。

 俺と同い年くらいに見える女だった。


 腰まで伸びた長い髪は、闇を吸いこんだような濃い紫色。

 身にまとっているのは黒を基調としたゴスロリの服。

 胸元には白色のリボン。頭にはヘッドドレスがついており、脚は黒のハイソックスとリボンのあしらわれたロリータブーツ。

 対照的なのは白い肌。陽に当たったことのないような、透き通るような肌だ。


 そして背中には、まるで蝶を思わせる半透明の羽が生えていた。


 人、ではない。


 そいつがこちらまで歩み寄ってくる。

 反射的に武器を構えようとしたが、なぜか手元に短剣がない。

 一瞬の驚きの隙に、女が目の前に立つ。

 そして、小さな両手で俺の顔を掴んだ。


 顔が近づき――。


 柔らかな感触が、俺の額に触れた。

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