第77話 黒い

 部屋を出て一階へと降りる。

 受付には宿主がいない。他の客も見当たらないのだが、この宿は経営的に大丈夫なのだろうか。


 廊下を進んで湯浴み室の前へ。

 光明石の明かりが浴室を照らしているのが確認できる。オウカが入っているのは間違いなさそうだ。

 しかし、水の音が一切しない。


 この宿には浴槽がない。この世界のお風呂は貴族が入るもので、庶民が水をそんなに無駄使いできない世界だ。

 だから水溜めがあり、それを沸かすことでお湯として利用する。水の音がしないことはほぼないのである。


「オウカ?」

「ひゃ!? つ、ツムギ様ですか!?」


 声をかけると、オウカの驚いた声が返ってきた。

 妖狐の耳で俺の足音に気づいていたなら、こんなに驚かないはず。

 周囲以上に気になっていることがあるのだろう。髪とか。


「その、な。気になることがあってな」

「な、なんでしょう」


 浴室の扉越しに語り掛ける。


「最近俺たち、クエストに行ってばかりで、ゆっくりすることがなかっただろ。

 だからオウカにもいろいろと負担をかけすぎたと思って」

「そ、そんなことないですよ。私はツムギ様と毎日クエストに行くのが楽しいんですから」


 オウカがそう答えてくれるが、どことなく焦りのある喋りの早さだった。

 いますぐにでも、俺にここから立ち去ってほしいような。


「ごめんな、こんなところにまで。ただ、ちょっと遅かったから心配になってな。

 すぐいなくなるから、気持ち悪い主でごめんな」


 そういって立ち上がる。


「ま、待ってください別に私は――ひゃぁ!」


 オウカの声が悲鳴に変わった。

 同時に、浴室からガタガタと何かが転がったような音がした。


「オウカ、大丈夫か!? 開けるぞ!」

「まっ――」


 まさか転んで怪我をしたのではないかと、俺は慌てて浴室のドアを開いた。


「あ――」

「見ないで!」


 開けると同時に、床にお尻をつけていたオウカが、近くに掛けてあったタオルを頭にかぶる。


 浴室の床には、大量の桃色の髪。

 タオルを被る瞬間、わずかに見えた、髪が一本もないオウカの頭。

 そして、背中の尾てい骨あたりから伸びた、毛のないごぼうのような尾っぽ。


 やはり、オウカは――。


「すまん、オウカ、俺は、俺は……っ!」


 思わず涙が溢れてきて、俺はその場で崩れた。

 オウカが困惑の声を上げる。


「え、え、ツムギ様! 待ってください! なんでツムギ様が泣いて謝っているんですか!」

「だって、やっぱり俺が無理させたせいで……そんなに抜けて」

「いえ、これは――」


 その時、オウカの方がまぶしく輝いた。

 頭に光明石が当たって反射したのかと思ったが、よく見ればオウカ自身が光を纏っている。

 そして、全身で何かが蠢き――


「やっと終わりました!」


 光が消えると、タオルを投げ捨てるオウカ。

 裸のオウカは禿げではなくなっていた。

 肩甲骨まで伸びた黒い髪、黒い耳。

 毛先が白いふわふわの黒い尻尾。

 そして、葡萄色の瞳。


「生え変わり完了です!」


 どや顔の黒いオウカに、俺は開いた口が塞がらないでいた。

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