星降る夜に《星に願いを》
月立淳水
第1話
「る、るーるー、る、るーるーるー……」
1940年に作曲されたかの名曲を鼻歌で口ずさみながら、カナは、次の引き出しに手をかけた。
数度その中をかき乱した末、古い咳止めのシロップ薬を見つける。使用期限は2011年12月。もう十年も前だ。おそらく実家から一人暮らしをするために引っ越してくるときの荷物に紛れてきたのだろうが、よくこんなものが引き出しの奥に眠っていたものだと思う。
「るーるーるーるー……る、る」
その使用期限にも関わらず、カナはそれを所定の場所に据えた。
咳止めが置かれたのと同じテーブルの片隅には、そのほかにも、頭痛薬、風邪薬、睡眠導入剤、いつもらったものだかも分からない抗生剤や下剤までもが、所狭しと並んでいる。彼女が家中をかき回して集めてきた薬だ。
深くゆっくりとした振動が、カナの胸の奥をゆする。
それが運んでくる仄かな恐怖を奥歯に押し付けて噛み潰した。
「る、るるるーる、るーるーる……」
星に願いを? いまさら?
カナは、自嘲的に口の端を上げた。
たとえ世界中の人々が一斉に星に願ったって、この運命が変わるわけじゃない。
ただ、少しでも苦しまずに眠りにつく方法を探るだけ。
そんな風に考えたとき、彼女の周りで全てのものが震え上がった。窓はビリビリと音を立て不安定なスツールがカタカタと揺れる。それは全て彼女の幻想なのかもしれない。
おおよそ家中から薬と名のつくものをかき集め終えたと確信したカナは、改めてテーブルの前に座り込んだ。
名前から頭痛薬と分かる薬もあれば、箱の説明書きを読まなければ何の薬だったか分からないものまで。
抗ヒスタミン剤が眠気を誘うのだっただろうか? だったらその成分が含まれている薬を重点的に集めればよいだろうか。
よく見れば無水カフェイン含有という物もある。かえって眠気を覚ますようなものなら混ぜないほうがいいだろう。
そんな風に薬を分類していると、驚くほど冷静になっている自分に気がつく。
おそらくこの夜が、この人生の終わりの夜になるのだ。
最後に好きなものを食べたのはいつだっただろう。あの作家の本を最後に読んだのはいつ? ……彼と最後に交わした言葉は、何だっただろう?
彼女がふと思ったのは、男友達の、ナオのことだ。
彼と出会ったのは、二年前だった。今晩と同じ、すべての星が落ちてくるほど澄んだ夜空の、七夕の宵。
それからカナとナオはずっとずっと、いい友達だった。
ナオに好きな人は、いるのかな?
ほんの数か月前、そんなことを初めて思った。
そう思ってしまうと、自分の気持ちを抑えられなくなった。
私は彼のことが好きなんだ。
錯覚のような気持ちを抱えたまま、彼といい友達を続けた。
今更その仲が進展するとも思えなかった。それがあまりにもどかしくて、毛布をかぶってめそめそと泣いた夜さえあった。
ふと、今、すべての終わりを目前にして、冷静になった自分を観察する。
鏡の中で、そばかすの多い頬が、無表情にカナを見つめ返した。窓の外を、ごうっ、と小さな突風が吹きすぎていき、その振動で戸棚の上のリップクリームがことりと落ちる。
私は彼を愛してなんかいなかった。
カナは、唇だけを動かして、心の中で呟いてみた。
そうすると、それはどうやら真実になったようだった。
分類をどうやらうまくやり終え、カナは、最初の薬の一粒を手に取り、パチリと破った。転がり出たのは、白い大き目の錠剤。風邪薬の一種だ。
すぐに口には運ばない。
続けて隣の封を破って、同じように錠剤を取り出し、無造作にテーブルの上に並べた。
一度も飲まなかったな、と、カナは思った。
実家を出るとき、風邪をひいたらこの薬を飲んですぐに寝なさい、と母に持たされた薬だ。よく効くのだ、と我がことのように自慢していたっけ。
そういえば、実家の薬箱にも、これと同じパッケージがいつも常備されていたな、と思い出す。黄緑色の畳と薄茶色の柱。地元の大工さんが大した図面も引かずに大雑把に建ててしまった平屋建てだったらしいが、そのためか、冬はいつも隙間風に悩まされた。母はいつも私を気遣って毛布を一枚余計に部屋に運んでくれたものだったな。
その母と会うことも、もう二度とないのだろう。
指の隙間から、恐怖がこっそりと忍び込んでくる。
今更怖いなんて。怖がる気持ちなんて、何も意味がないのに。
続いて、アレルギー薬。一年前、全身に蕁麻疹が出た時に処方された薬だ。
大学に入って一年と三か月ほどたったころだった。全身に吹き出した湿疹はかゆみを伴い、睡眠不足まで連れてきた。たまらずに病院に行くも、原因はわからず、薬だけを処方された。一週間後にもう一度行った時に、二週間分飲み切って治らなかったらまた来てください、と言われたが、どうもその日から一粒も飲んでいないらしい。
翌日からは一学期の試験が始まったと記憶している。勉強に忙しくて薬のことなどころりと忘れていたのだろう。そして、試験が終わって、夏休みに入ると、嘘のように蕁麻疹は治った。今になって考えてみれば、そんなに試験が憂鬱だったのかな、と思えてくる。
学生のまま、終わりを迎える。ある意味では、羨ましがられる境遇かもしれない。誰もが口をそろえて社会なんて出ても楽しくもなんともない、と言うくらいだから、社会と言う場所は、実につまらないところなのだろう。
アレルギー薬を並べ終わると、ちょっとした薬の小山ができた。
念には念を入れてもいいかもしれないが、余計に飲みすぎてアナなんちゃらショックを起こして苦しんだりするのも嫌だ。ただ、深く深く眠りたいだけなのだ。
だから彼女は、最後に、咳止めシロップのふたを開けて並べ、終わりにした。
見なくてもわかる。今日は星降る夜で、誰もが星に願いをかける夜。
夜空にはきらめく星が流れている。
天の川を挟んで全天でも随一の星たちが、輝きを競っている。
澄んで、澄みきって、雲さえも切り裂いて光が降り注ぐほど空は開いているはずだ。
空はどこまでもどこまでも――太陽よりも木星よりも海王星よりもアルタイルよりもベガよりもアンドロメダ銀河よりも――ずっと遠くまでつながっていて、それをとがめるものは誰もいない。
だから、今日は星降る夜なのだ。
「る、るーる、る、るーるーるー……」
カナはもう一度、小さく口ずさんでみた。その旋律は誰もいない部屋に反響してどこかの隙間から漏れて行った。
窓の外にきらりと何かの閃光を見た気がした。
カナの瞳は一瞬窓のほうに視線を走らせたが、すぐにテーブルの上の定位置に戻った。
風邪薬を一つつまみ上げ、口に入れると、咳止めシロップで流し込もうとして咳き込んだ。
咳止めで咳き込むなんて、洒落た失敗をしてしまったものだ、と、カナはほくそ笑んだ。
無理をせず、台所からコップ一杯の水を持ってきて、改めて錠剤を胃に流し込み始める。
テーブルの上から、白い粒と黄色い粒が、一つ一つ、消えていく。
天空にきらめく星が尾を引いて流れ落ち、消えていくように、カナには思えた。
冷蔵庫が、ふと、モーターのうなりを上げる。
もう、いいのに、とカナは思う。
もう、誰も必要としていないのに。
そういえば、冷凍したままのパンがまだ残っていた。
今日のこの日までに全部食べてしまおうと思っていたのだが、そう思うと逆に面倒になるものだ。ここ数日の食事は、ほとんどがコンビニのサンドイッチだった。
なぜこんな夜を迎えるというのにコンビニはいつもと同じように営業しているのだろうな、とカナは思った。きっと今晩も、コンビニには煌々と明かりがともっている。
最後の一粒が消化器の内へと滑り降りていった。
用意してあった布団に横になり、毛布を頭までかぶる。
真夏の夜の就寝スタイルとしてはずいぶん奇妙なものだ。
務めて何も考えまいとするが、雑念がなかなか頭を離れない。
眠れずに過ごす明け方のように。
ナオとの最後の会話を、唐突に思い出した。
電話をしたのだ。帰省する、というメールでの知らせがあったので、いてもたってもいられず、受話器を上げていた。
五分ほどの他愛ない会話。
最後に、さようなら、と言った。
彼は、おやすみ、と言ったと思う。
そうか、だから寝ようと思ったのだ。
深く深く永遠に眠ろうと思ったのだ。
意識が混濁してくる。
星が大気をつんざきながら降り注ぐ音が、遠く遠く離れていく。
完全に眠りに落ちる寸前、内と外を隔てる透き通ったアモルファスの障壁が粉々に砕け散る音を聴いた。
***
カナが次に目覚めたのは、病院の一室だった。
しばらく呆然とした後、彼女は、これは何かの間違いだろう、と何度も心の中で繰り返した。
そして、カーテンのすぐそばに、居眠りをしている男を見つけたのだ。
「……ナオ?」
カナが呼びかけると、ナオは、はっと顔を上げた。
「……カナ! よかった、起きないかと思ったよ、待ってろ、すぐにナースを――」
「どうして生きてるの?」
カナが彼の言葉を遮るように質問を投げると、ナオの足はぴたりと止まった。
「君が?」
「……あなたが」
ナオは、その言葉の意味をしばらく考えてから、得心したように小さくため息をつき、肩をすくめて見せた。
「助かったんだ。君は。――僕らは」
「どうして?」
カナには信じられなかった。すべてが終わる夜だと信じていたから。
「今、どこのチャンネルでも同じニュースを繰り返してるよ。ほら」
ナオは、そう言いながら、テレビのリモコンを取ってカナの左わきにある備え付けのテレビのチャンネルを適当に回した。
『――さてここで、改めて、今回の未曽有の災害がいかにして避けられたのか、ご説明をいたします』
テレビの中で、笑顔の女性アナウンサーが、小さなフリップを引っ張り出してきて何やら説明を始めた。
地球は、星降る夜に、滅びるはずだった。
数億とも数えられた隕石群。太陽系外から飛来した高速小惑星が小惑星帯の巨大小惑星を一撃し、死のクラスターを生み出した。それは不幸中の不幸にも、地球へとまっすぐに向かった。
衝突の正確な日時は完全に予想され、避けえぬものとして全人類に認知された。
政府機関やマスコミは、最後まで希望を捨てるな、あきらめるな、と叫び続けた。おそらくは、自暴自棄になった人々が犯罪や暴動に走るのを防ぐための方便だっただろう。が、実際にナオなどは、希望を捨てず、家族を安心させるために帰省することにしたのだった。
それでも結局、無数の星は、七夕の夜に降り注いで地上の生物の大半を焼き尽くすはずだった。
カナは、それを無表情で受け入れた。それから、家じゅうの薬物を捜索して回った。
『直前まで直撃コースを取っていた隕石群は、しかし、衝突の直前、ある事故に遭ってばらばらになっていきました。その事故は――もう何度も繰り返している通り、巨大な重力波との衝突です』
偶然か必然か。
人類を滅ぼす巨大隕石群が地球に到達しようというまさにその時、奇跡が起こった。
ベテルギウス――オリオン座に輝く一等星――かの星が超新星爆発を起こした。正確には、六百年前のその爆発の最初の一波、つまり、ニュートリノの暴風と重力波の波濤が太陽系を襲ったのだ。
重力波はほんのわずかに隕石群を乱した。
それは本当にちいさなちいさな、
――それで十分だった。
それまでバランス状態を保って突き進んでいた隕石群は、地球・月という大きな重力源の喉元でわずかに一突きされるだけで途端に度を失って散っていった。地球を集中的に爆撃するはずだった数億の小塊の大半は、地球衝突軌道から外れるか、あるいは、地球に大きすぎる角度で入射して、大気圏上層でバウンドして再び宇宙の深淵へと消えていった。
テレビがまだ何かをしゃべっている。
だがカナは、すでにその声を聴いていない。
彼女の視線は、ナオに注がれていた。
「助かった……んだ」
「ああ。でも、君のマンションのすぐ近くに少し大きい奴が落ちたらしくてね、何人も亡くなった。君のマンションも窓ガラスが割れたり被害が大きくて、救助隊が駆け付けたところ、君が倒れている。すぐに誰かを呼ぼうとして――携帯電話の発信履歴の一番上に僕の名前があったみたいで、僕に連絡が来た。いてもたってもいられずに車を飛ばして」
「……ナオが」
「うん、君の実家の連絡先も分からなかったし――その、君のことだと思ったらじっとしていられなくて」
カナは、ナオの言葉の意味を少しだけ深く考えてみてから、まだ薬の影響で思考がうまく巡らないことに苛立ちを覚え、それ以上考えるのをやめた。
「ありがとう。ずっと付いていてくれたんだね。その――今度、何か美味しいもの、おごるね」
「ああ、いや、いいよ、僕がごちそうする。きっと次は、全快祝いだ」
カナは小さくうなずいて、再びベッドに倒れこんだ。ナオがナースを呼ぶために出て行った足音が遠ざかっていく。
星に願いを。
一つはかなえられて、もう一つは、どうやら嘘で終わってしまったようだった。
人類は星に救われて、私は彼を愛している。
星降る夜に《星に願いを》 月立淳水 @tsukidate
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