[3] ソ連軍の改革

「バルバロッサ」作戦による壊滅的な損失に対して、ソ連軍は1941年に複雑だった組織を単純化し、従来の軍事理論をいったん棚上げにしていた。かつての組織と理論を有効に活用できる指揮官たちに指導性も兵器も不足していたからであった。だが「天王星」作戦が成功した後は、ソ連軍は「戦闘の記憶」を十分に蓄積し、急速に理想的な縦深作戦を遂行できる程度にまで進化していったのである。

 1941年半ばから43年初頭までは、事実上すべてのソ連軍は6個師団と軍司令部直轄の戦略予備から編成されていた。国防人民委員部(国防省)は43年に軍の改革に着手し、各軍を3~5個師団と軍司令部直轄の支援特科部隊による編制に変更した。

 この改革により、狙撃旅団は完全な狙撃師団へと再編され、正規の狙撃師団は親衛師団へと昇格した。生産力と兵員の許す限り、軍は工兵や火砲などの支援特科部隊を配属してもらえるようになった。これらの支援特科部隊は42年から43年にかけて拡大され、最終的には砲兵師団として軍に統合されるようになった。

 最も重要な組織上の変更は、戦車・機械化部隊で行われた。

 戦車・機械化部隊の運用は1941年中に軍団運用をいったん取りやめ、最大は旅団単位で一般の軍に追従していた。1942年は東方に疎開した工場から大量の戦車が届くようになり、戦車部隊は再び軍団運用に戻されたのである。

「天王星」作戦に始める1942年の冬季戦は、1942年に編成された戦車・機械化軍団が敵陣地の突破に一定の役割を果たした。これを受けて、ソ連軍はドイツ軍の装甲軍に匹敵する、さらに大きな機械化部隊の創設を決定した。

 新たな戦車軍の構想は、42年度末から43年度初めの機動戦の経験から生まれた。42年11月のタツィンスカヤ急襲では、複数の戦車軍団が横に展開して行動する必要性が判明し、43年2月のポポフ機動集団による攻勢で実験的な試みがなされた。

 国防人民委員部は1943年1月28日付けの「指令第2791号」において、戦車軍の創設を認可した。戦争後期には6個戦車軍が縦深作戦での先鋒を務めるようになり、ドイツ軍の陣地を突破する際に重要な役割を果たしていくことになる。

 狙撃師団から戦車軍に至るまでの変更は、全ての部隊において、漸次的な権限の分散と並行して進められていった。特に狙撃師団では、春の雪解けで戦線の移動が停止した後、「狙撃軍団」司令部の復活が急ピッチで行われた。

 軍司令官の指揮系統においても重大な改革がなされた。1942年10月9日付の「指令第307号」によって、軍に一元的指揮が復活した。政治委員は単に「政治上の事柄」についてのみ、指揮官の代理になり得るとの地位まで格下げされた。ヒトラーがますます軍人たちの独自性と軍の柔軟性を排除しようと努めていた点とは、対照的である。

 独ソ両軍に共通する問題は、全般的な人員の不足にあった。ソ連軍はドイツ軍よりもはるかに多くの人員を動員できたが、それでも多くの新設部隊の階級をすべて満たすだけの要員を確保することはできなかった。

  また、各部隊の組織は内容も異なっていた。通常の狙撃師団は定員が9345人に対し、親衛狙撃師団は定員が1万670人とされ、より多くの火砲と自動火器があてがわれることになっていた。だが実際には通常の狙撃師団はドイツ軍と同様、兵員・資材ともに甚だしく不足していた。1943年の夏には師団の平均兵員数は7000人だったが、45年にはわずかに2000人へと減少している。

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