3 約束の朝
「おはようございます。早くにすみません」
今にも土下座を始めそうな雰囲気をまとって、マルクがやってきたのは、確かに朝早い時間だった。緊張感もあらわに、扉の取っ手にすがりついていた彼はけれど、戸口に姿を現した二人を見るなり、目をみはる。
「よう、おはようさん」
「あ、はい、おはようございます……。ところで、あの、そちらの人は?」
混乱しきった少年の瞳は、ロトの隣――物珍しげに学生を見下ろす、マリオンの方を向いている。彼女は少年に問いかけられると、満面の笑みを見せた。
「はじめまして。マリオンです。魔術師で、ポルティエに住んでます。で……ロトの幼馴染です」
「――ええっ!?」
「え、そこまで驚く?」
のけぞった少年に、マリオンは素朴な疑問を口にする幼子のような目を向けた。少年はしばらく口をぱくぱく動かしていたが、あきらめたように脱力し、青年を振り仰ぐ。
「お、幼馴染、ですか」
「ああ」
ロトは眉ひとつ動かさず、端的に答えた。マルクは物言いたげな顔で二人を見比べていた。
「えっと。えっと。あ、そうだ。三人とも、ロトさんからお話が聞けること、喜んでました。明後日、大学が休みなので明後日にしてもらえますか?」
「明後日か。わかった。それと、急で悪いけど……こいつも同行することになるかもしれない。大丈夫か?」
マルクが、言葉を失った。話題を切り替えたつもりが、もとの場所に戻ってきてしまったことに、気づいたのだろう。うろたえる学生を見ているうちに笑いがこみあげてきて、ロトは唇の端をゆがめる。マルクはそれにも気づかず、しばらくマリオンを見つめていたが、やがて「大丈夫だと思います。みんなに伝えておきますね」と、うなずいた。
それから、待ちあわせの場所などを話しあう。ひととおり話がまとまると、マルクは晴れやかな顔で手を振り、『便利屋』を去った。その頃には、マリオンへの警戒とも羞恥ともつかない感情も、いくばくか薄らいでいるようだった。
「元気な子だったね」
扉を閉め、ロトが机の上を整理していると、マリオンがにこにこしながらそう言った。マルクのことだと聞かずともわかったロトは、苦笑する。彼が、ロトが面倒を見ている子どもたちの一人に似ている、ほかの三人がどんな子たちか、などとしばらくはなごやかなやり取りが続く。その終わりに、椅子に腰かけたマリオンが、ぽつりと呟いた。
「……本当に、話すのね」
対面で本をめくっていたロトは、手を止める。
「やっぱり、
マリオンは、強く首を振った。
「そう、じゃないの。あたしも、もしあたしたちのことを知りたい人がいるなら話そうかと思っていたところだったから。……そうじゃなくて、あんたのこと、心配してんのよ」
苦悶を吐き出す言葉には、とげがひそんでいた。ロトは思わず息をつめ、つかのま、視線をそらす。
「……俺だって、正直、自分がどうなるかわかんねえよ」
だからこそ、マリオンに付き添いを頼んだ。昨日、彼女がやってきたすぐ後に、ロトは事情を打ち明けた。マリオンはかなり驚いていたものの、ロトと一緒に学生たちに会うことは、快く了承してくれたのだ。
覚悟と、優しさを。それぞれのまっすぐな思いを受け入れた今。逃げだしたくなるほどの不安は、なくなっていなくとも、いったん胸にしまえるほどにはなっている。
「それでも、やるって決めたんだ。話せるとこまで話してみるさ。……そうしないと、これ以上先には進めないんじゃないかって、気がしたんだ」
ぽそりと、思いを机に落とす。それからロトは、改めてマリオンの方を見た。彼女はやわらかくほほ笑んで、真摯な瞳で、彼を見すえていた。
「そう。――大丈夫よ。そばにいるから」
「ん」
二人はそれから、静かに笑いあった。
※
大学生たちに会う日は、朝からからりと晴れていた。抜けるような青空の下、凍てついた空気に身をさらした魔術師たちはしかし、顔をしかめることさえない。ただ穏やかに、白い息を吐きだして、歩きだす。
彼らの多くは、自分も含めて庶民街の出なのだと、マルクは語っていた。だから自然と、待ち合わせ場所も庶民街近くの喫茶店に決まった。
街は今日もにぎやかだ。学生たちが人混みの端々で、制服をひるがえして走ったり、道の脇を陣取って何事か語りあったりしているのが見える。しかし、大通りを抜け庶民街に近づくと、少しだけ雰囲気が変わる。学生のかわりに、簡素な上下をまとった子どもたちと、いかつい大人の姿が目立ちはじめる。彼らは二人の方、おもにマリオンを物珍しげに見ていた。すぐそばを通りかかった、葉巻を揺らす四角顔の男などは、彼女が軽く会釈すると、わずかに頬をゆるませる。しかし、その後すぐにロトの姿に気づくと、眠りから覚めたような顔で、そそくさと人混みの中に消えた。
「……なんだあれ」
ロトは、呆然と呟く。
柄は悪いように見えるが、子どもと犬猫が大好きな男だ。何度か依頼を受けたこともある。だからロトは挨拶しようと思っていたのだ。
彼は、気づいていない。依頼をしたがゆえに、あの男が、ロトのよいところも恐ろしいところも知っているということを。
「いい抑止力だわ」
「おまえはおまえで何言ってんだ」
「あたしらの関係を知らない人が、この様子を見たらどう思うか。そういう話よ」
ロトは、軽く首をかしげたあとに、眉を寄せる。だが、マリオンの方はなぜか鼻歌を歌い出すほどご機嫌になっていた。
「よくわからん奴だな」
青年は、足を速めた。
そんな一幕もありながら、二人は待ちあわせの店に着く。赤煉瓦の壁に、緑の屋根。一昔前の、北国の民家のような喫茶店。その店先に、おぼえのある濃紺の長衣をまとった少年ひとりと少女ひとりが、いた。
ロトとマリオンは、顔を見合わせる。近づきながらマリオンが口に手を添えて呼んだ。
「ねえ、君たち。マルクくんのお知り合い?」
少年と少女は弾かれたように振り返る。あきらかに驚きひるんでいたが、こちらの正体を察したのか、すぐに目を輝かせた。
「ひょっとして、『ヴェローネルの便利屋』さんですか?」
「ああ。ロトだ。よろしく」
「マリオンよ。……ま、あたしは付き添いの幼馴染だけどね」
淡白にうなずくロトと、片目をつぶるマリオン。二人を何度か見比べたあと、快活そうな赤い巻き毛の少年が、まじめくさって敬礼した。
「え、えっと。フレデリック・マールです! 今日はよろしくお願いしますっ!」
「おお、元気いいわ」
マリオンが半歩退いて苦笑する。そのときちょうど、彼女と目が合った黒髪の少女が、ほほ笑んだ。
「キアラ・ベルニエです。っと、よろしくお願いします」
快活そうな少女は、シェルバ人二人をまっすぐに見ていた。
ロトは、自分の耳がぴくりと動いたのを感じ、振り返った。雑踏にまぎれ、高い足音が聞こえる。それは間違いなく、こちらに近づいていて――ややして、キアラが、あっと身を乗り出した。
「リュー! こっちこっち!」
彼女はロトの肩越しに、細い手をぶんぶん振る。人混みの中から、金色の長い髪をやわらかく揺らす少女が、抜けだしてきた。人形めいた美貌は、けれど汗だくである。
「ご、ごめんなさい!」
「大丈夫、大丈夫」
キアラが笑い、フレデリックはわざとらしく両手をあげてかぶりを振る。駆け寄ってきた金髪の少女は、うるんだ瞳で天をあおいだ。そのとき、学生以外の人間の存在に気づいて飛びあがる。
「あ、すみません! リュクレース・オランシェと申します。本日は貴重なお話を聞かせていただけること、たいへん嬉しく思います」
彼女は、息も絶え絶えの状態ながら、足を引いて上品に挨拶する。ロトもマリオンもうなずいたが、二人とも目の中に驚きをにじませていた。恐らく彼女だけは、上流階級の出身だ。挨拶の口上もさることながら、走り方も庶民のそれよりかなり控えめだった。
不思議な取り合わせだな、と思いながら、ロトは三人を見つめる。それから、庶民街に続く道をにらみ、足りない一人を探した。
「で、肝心のマルクはまだなのかね」
聞こえるか聞こえないかの小声。しかし、学生たちはそれを聞きつけた。フレデリックが顔をしかめる。
「マルク、集合時間の半刻前に来るようなきちがいなのにな。珍しい」
「フレディと違ってまじめなのよ」
「うるせえ!」
からから笑うキアラに、フレデリックがかみつく。なごやかなやり取りは、その後もしばらく続いた。だが、ロトは騒ぐ彼らを尻目に、通りすぎてゆく人の波をにらむ。頭の奥で、狩人の己が警鐘を鳴らしているような気がした。
「……嫌な予感がする」
喧騒の中に落としこまれた呟きを、拾ったのは彼の幼馴染だった。
「ねえ。マルクくんのご自宅は知ってるの?」
「あ、それなら私たちが」
キアラがフレデリックの腕をつかんで、まっさきに挙手する。
「迎えに行くんですね。いいと思います、集合時間も過ぎていますし」
リュクレースが、しとやかにほほ笑んだ。
――その、直後だった。ロトの耳が、風に乗ってきたかすかな怒鳴り声をとらえたのは。
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