Ⅲ 森の民、魔の獣

1 魔物連れの娘

 灰色の小さな鳥が、枝から枝へ飛び移る。チチ、と小さく鳴いたあと、木の実をついばみはじめた。しばらくすると鳥は、顔を上げて硬直する。二本足の生き物の気配。鳥はいつでも飛びたてるよう羽をばたつかせたが、二本足の生き物は、鳥に関心をもたず、森を歩いているようだった。

――二本足の生き物、つまり人間の少年は、慎重に草木をかきわけて森を進む。土の中に鼻を押しこむ栗鼠を見た彼は、冷たい瞳を上向けた。

「サリカ、どこにいるんだ!」

 彼はせいいっぱい叫んだ。すると、声に驚いた栗鼠が一瞬震えたあと、どこへともなく逃げてゆく。慌てて、森の獣に詫びの礼を示した少年は、とったばかりの木の実を栗鼠の穴のそばに置いた。ため息をつき、立ち上がって、再び名前を叫ぶ。

「サリカ」

 しかし、少年の透き通った声が木々の間をこだまするばかりで、返ってくるのは沈黙だ。頬をかいた少年は、なんとはなしに、地面に目を落とす。茶色く湿った土にくぼみを見つけて、目をみはった。しゃがみこんで、土に触れる。冷たく光る切れ長の目が、獣道をずうっとなぞっていった。

「これは……」

 森に刻まれた足跡は、ふたつ。小柄な人のものと、そばをゆく狼か犬のもの。後者は途中で消えている。

 少年は、考えるいとまも惜しみ、足跡をたどって歩いた。やがて、遠く獣道の果てに、人の手でつくられた道が見えるころになると、とうとう手にしていた矢を足もとに叩きつけた。

「まさか、また黙って出ていったのか……あの馬鹿姉!」



     ※

     

     

 グランドル王国西部・ヴェローネル市。王都と西部地域を隔てるひとつの川を西へ超えた先に位置しているその街には、歴史ある学び舎が数多く存在する。

 ロトが『便利屋』を営んでいるのは、そんな街のひっそりとした路地の一角だ。自宅を兼ねた仕事場に持ちこまれる依頼は実に多様で、先月も伝言を頼まれたのと同じ日に、街の入口で刃物を振り回す男を捕まえる、ということがあった。もっとも後者は、たまたま出くわしてしまっただけなのだが。

 飽きの来ない日々を送る、『便利屋』の主の青年はこの日、窓辺に座って半年の出来事を整理していた。彼はわけあって、自分のことを定期的に『ある場所』へ報告する義務を負っている。いつ呼び出しをくらうかはまだはっきりしないが、そろそろまとめておいた方がいいだろうと判断したのだった。深海を思わせる青色の瞳が、音もなく紙の上の文字をなぞってゆく。重要事項に赤いインクで印をつけた彼は、ため息をこぼした。

 ここ半年は、特に変わったことがたくさん起きた。報告するだけでも大変なほどに。

 彼は、相手のにやけた顔を想像して顔をしかめた後、かぶりを振って気持ちを切り替える。再び紙面に目を戻したとき――ちりりん、とかすかな鈴の音が、青年の耳に届いた。

 おっと、と呟いたあと、立ち上がって戸口に急ぐ。扉を開けると、黒髪を結いあげた、三十ほどの女性が立っていた。商人街で食堂を営む女性だと、ロトは知っていた。

「どうも。今日は、何かご用ですか?」

 いつもどおりの平たんな声で言いつつ、ロトは身構えていた。女性がかすかに青ざめているように、見えたからである。彼女は、ロトの声を聞くと、すがりつくように身を乗り出してきた。

「ああ、ロトくん。どうにかしておくれ、大変なんだ」

「……何かあったのですか」

「ま、魔物がいたんだよ! 街の中に!」

 悲鳴じみた女性の訴えを聞くと、いつもは無愛想に細っている青年の瞳が、見開かれた。彼は女性をまじまじと見て――冗談ではなく本気だとわかると、「はあ?」と素っ頓狂な声を上げてしまったのである。


 魔物といえば、魔術師と同等かそれ以上の魔力をもった獣の総称だ。空気に含まれている魔力が濃い地域で生まれた野獣が、それをとりこみすぎたがために魔物と化すことが、もっとも多いのだという。彼らはより凶悪な力を持つようになるが、反して警戒心も強くなる。小さな村が襲われたという話は聞くが、ヴェローネルくらいの都市になると、そもそも近寄ってもこないのだった。ロトは春先に、市の近くの街道に現れた魔物を退治したりもしたが、そういう案件は、特例中の特例である。

 そんな魔物が、市街地に現れたとなれば、大騒ぎどころの話ではないだろう。だからこそロトは、慎重に問いかえした。

「魔物が街の中にいた、ですか。確かなんですか」

「確かも確かだよ。子犬か何かみたいだったけど、あの妙にでっかい爪と牙は魔物のもんだろう、間違いない!」

「ふむ」

 空の透明を切り裂きそうな悲鳴を上げる女性の前で、ロトは静かに考えこんだ。彼女が何度か、遠目とはいえ魔物を見たことがあるという話は、彼も耳にしている。ひとまずは信じてみてもいいか、というのが、彼のはじき出した結論だった。

「わかりました。とりあえず、その場所まで案内してもらえます?」

 いつもどおり淡々と言えば、女性はわかりやすく、ほっとした顔をしていた。


 彼女が魔物を目撃したのは、街の南門近くだという。相手のわずかななめ後ろを歩いていたロトは、閑散とした路地の隅に揺れる洗濯物をながめながら、女性の言葉を何度か反芻はんすうしていた。どう頑張っても『群からはぐれた魔物が迷いこんだ』以上の結論が出ない。

 やっかいな事態を想像して顔をしかめたロトはしかし、ふっと顔を上げると、目をみはった。

 乾いた音が響く。二人の行く先で、初老の男が掃き掃除をしていた。彼は、女性とロトに気づいたのか、ほうきを持つ手を止めた。

「よう。メリーとロトが一緒にいるたあ、珍しいこともあるもんだな」

「ああ、モーガンかい。今日も元気そうだね」

 女性は軽く肩をすくめる。相変わらず顔色は悪いが、知り合いと話したことで、落ちつきが戻っているようだった。彼女はそのまま、男を厳しい目で見やる。

「ところであんた、魔物を見なかったか?」

「魔物だあ? んなもん、街の中にいたら大変だろ」

 再び箒を動かした男が、ひっくり返った声を上げる。ロトと女性は目を合わせ、それはそうだと苦笑した。しかし、女性が礼を述べる直前になって、男が、あ、と叫んだ。すかさず、ロトが「心当たりがあるのか」と問うと、彼はゆっくりうなずいた。彼は細い目を女性に向ける。

「おい。おまえさん、なんでそんなこと訊くんだ」

「そりゃあ、今朝、この目で見たからだよ!」

「どんな見た目だった?」

「子犬か狼の仔みたいだったさ。毛は灰色で、牙と爪ばっかり、馬鹿みたいにでかいんだ」

 熱を帯びた女性の声を、ロトは黙って聞いていた。彼女よりもむしろ、男の方を観察する。彼は、語る声が途切れると、いやに冷静な様子で「なるほどなあ」と言った。ロトを一瞥した瞳にも、理解の色がある。

「ま、落ちつけよ、メリー。そいつはほっといても大丈夫な魔物だ」

 男は、今にも走り出しそうな女性を止めた。あまりにもあっけらかんと言われたものだから、ロトも女性もぽかんとする。ロトが「どういうことだ」と問うても、彼は「行けばわかる。まだ南門のあたりにいるだろ」と言うだけで、答えを教えてはくれない。再び箒で地面を掃く作業に戻った男を、ロトは呆れてながめたが、しばらくすると目をそらしてその場を離れた。

――男の言葉は、当たっていた。遠くにうっすら門が見える路地で、くだんの魔物を見つけたのである。

 その場にいたのは、魔物だけではなかった。丸まって小刻みに震える『彼』を、毛皮の衣を着た娘がゆっくりなでていた。ロトは、叫びだしそうになった女性を手で制して、一歩踏み出す。あくまで静かに娘との距離を縮める。彼女は、獣をなでる手を止めて、はっと顔を上げた。

 娘は、黄色っぽい肌をしていた。それすらも日に焼けたのか、ところどころ浅黒くなっている。小さな黒茶の瞳は、警戒の色を宿して青年を見上げていた。

「やめて」

 ロトがまた足を踏み出すなり、娘は鋭く言った。たどたどしいグランドル語だが、人をひるませる圧力がひそんでいる。

 青年は動じなかった。ただ、彼女を見おろした。

「レーシェは魔物だけど、私の家族だわ。傷つけないで」

 その一声は、彼女より十は多く生きているであろう女性でさえもひるませた。しかし、ロトは彼女に静かな視線を注ぐと、かがみこんで目を合わせる。ぷるぷる震えている灰色の獣の、細かく動く耳を見た。

「こいつ、レーシェっていうのか。変わった名前だな」

「……私たちの、古い言葉。『足の速い者』」

「へえ」

 娘は、眉を寄せて答えた。相手の困惑に気づかないふりをして、相槌を打ったロトは、そこで仔狼が顔を上げたことに気づいた。狼特有の金色の瞳は、知らない雄をまじまじと見ていた。ロトがためしに人さし指を突き出してみると、生温かい鼻がふんふんと動く。

「魔物にしては人懐っこい。小さい頃から人のそばで育ったんじゃないか、おまえ」

 言いながら指をひょいひょい動かすと、仔狼は、興味深げに指を見つめて、くう、と鳴いた。

「あなたは怖がらない、です?」

 しばらく知らない青年と狼のやりとりをながめていた娘が、首をかしげて言った。ロトもまた、彼女を見つめ返して首をひねる。

「なんだ、怖がられたのか」

「はい。いつもは、『お知り合い』以外に見られないように気をつけて街にくるのです。けど、今日は、あの方がレーシェを見てしまった、です。それで、街の中に入りづらかったのです」

「だから、門の前で縮こまってた、ってか?」

 突然丁寧語になった娘の言葉をロトが引きとれば、彼女はこくんとうなずいた。それから、呆然と立ち尽くしている女性に目を向ける。

「驚かせてごめんなさい。けれど、レーシェはあなたを襲わない。だから大丈夫……です」

 真摯な言葉を向けられた女性は、気まずげに視線をさまよわせる。けれど、しばしの空白のあと、彼女は娘を正面から見ていた。

「こっちも、まあ、大騒ぎして悪かった。けど、魔物を人里に連れこむあんたもあんただよ。その子はいっつも連れてくるのかい」

「レーシェはふだん、森から出たがらないです。でも、私が行くところにはいつもついてくるのです」

 不思議そうな顔をした娘の答えに、ロトと女性は再び困惑した顔を見合わせてしまっていた。――どうも、この娘と自分たちの常識が、微妙にずれているような気がする。ロトは、しばらく考え、それからあることに思いいたって口を開こうとした。けれどその前に、凛とした声がまた響く。

「今回は私が抱っこして連れてきたのです」

「なんだって?」

 ロトは目を丸くした。上ずった声を上げてしまう。それまたどうして、と理由を問えば、娘は切なげに目を伏せた。

「――レーシェを、治してほしかったからです」

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