Ⅱ-ⅱ やさしい魔女

1 幼き日の転換

 彼女が生まれ育った村のあたりでは、二人以上の子どもを持つ家は少なかった。厳しい気候が長く――時には一年の三分の二――続く場所だから、しかたがない。実は二人目以降は森や洞穴に捨てているのではないか、という不穏な噂が立ったこともある。が、自分の親がそんなことをしているとは考えたくない、というのが子の心情であった。


 彼女自身、例に漏れず「ひとりっこ」だった。そして彼女が生まれてから二年間、新しい子どもは生まれてきていなかった。けれども、その二年目が通りすぎかけた頃、ある女性が子どもを産むとわかった。隣の家で出産という一大事があったとき、彼女はあばらの前で、呆然と行き来している大人たちを見ているしかなかった。

 中から聞こえた叫び声には、子どもながらに震え上がった。それが、いつも遊んでくれる優しいお姉さんのものなのだから、なおさらだ。

 出産にどれくらい時間がかかったろうか。はっきりとは覚えていない。今であれば推測はできるし、彼らにとって命がけの行為だったこともわかる。ただ、そのときの小さな彼女は、見知った女性の腕に抱かれた赤ん坊という生き物をまじまじと見ていただけだった。好奇心に導かれるまま、すやすや眠る赤子の頬を人さし指でつつく。すると、笑いのさざめきが起きて、やつれて見えていた女性の顔も、ほんのわずか、ほころんだ。

「マリオン。あなた、今日からお姉さんよ」

 そう言って彼女の頭をなでたのは、彼女自身の母だ。

「お姉さん」の意味はわからなかった。けれど、とても大事なことだとは思ったから、力強くうなずいた。


「あー、こら! それはだめだよ!」

 いつの間にか目を覚ましていた赤ん坊が、家の端に置いてある大ぶりの刃物に手をかけようとしているのを見つけ、マリオンは慌てる。すがるようにして刃物を取り上げれば、赤ん坊は大きな青い瞳をすがめ、不服そうに口をとがらせた。

「だめだってば。これはね、あぶないのよ。いたいいたい、だよ」

 うー、と声を上げる赤子を前に、小さな姉は首を振った。今は男衆がいないぶん、残った者がしっかりしなければいけないのだ。幼いながら、彼女はそれを理解していた。

 村に新たな男児が生まれてからというもの、マリオンと赤ん坊は一緒にいることが増えた。男たちが狩りに出ている間は、二つの家が協力して面倒を見ていたからだ。常に声をかけてくるマリオンを、赤ん坊は最初こそ、誰だおまえ、という目で見ていたが、ハイハイができる頃になると、自分から寄ってきた。

 マリオンは、理路整然と喋れる年頃になると、自分がお姉さんだという自覚をはっきり持つようになっていた。赤ん坊も、少し言葉を話せるようになってくると、「おねえ、おねえ」とマリオンにじゃれついてくるようになる。彼の家で飼っている猟犬も交えて、遊びと訓練をすることもあった。


 わたしがお姉さんなんだ。わたしがこいつを守らなきゃ。


 五歳にもなる頃には、マリオンは強くそう思っていた。

 だからこそ、翌年の春先に起きた事件は、彼女にとって忘れられないものになったのである。


 その日、彼女は男の子と一緒に、狩りに行く父親たちを見送った。マリオンはすでに何度もついてきていたが、彼は初めてだったはずだ。父親たちを送りだし、その帰りを待っている途中、マリオンは男の子にあれこれと質問をされていた。そのさなか、彼が、遠くに立つ黒い豹に気づいた。黒豹は、じっと静かに二人を見ている。

 マリオンは、変だな、と思った。豹がこんな人里の近くまで出てくることなど、まずないからだ。

「変」の原因はすぐにわかった。正しくは、本能が感じ取ったのだろう。豹の全身から、おぞましく、恐ろしいほどに大きな魔力を感じたのだ。

『魔女』だ、と思った。

 黒い森に住み、侵入者に呪いをかける魔女。

 ここは森の中ではないのになぜ、という疑問は湧かなかった。とにかく逃げなければならなかったからだ。マリオンは男の子の腕をとって走り出した。すると豹も追いかけてきた。普通に考えれば、人間の子どもが豹の足に敵うはずがない。それでも彼女は必死に走った。

 だが、途中で男の子の悲鳴が聞こえた。足をもつれさせて転んでしまったのだった。振り向けば、すぐそばまで豹は迫っていて――今まさに、飛び上がろうとしているところだった。


「ロトっ!!」


 彼の名前を叫んだ。けれどそれは、なんの奇跡も起こさなかった。守らないと、と伸ばした腕は、むなしくくうを切る。


 何も、できなかった。

 空を切り裂く悲鳴を前にして、少女は慄然として立ち尽くす。

 あの子がこんなに叫ぶのを初めて聞いた。

 人の体から血が噴き出るのを初めて見た。 血は、こんなに赤かったっけ。赤いところからのぞいているあれはなんだろう。彼女が凍りついているうちに、幼い子どもを引きずりまわした黒豹は、ふらりとどこかへ消えていた。激しかった泣き声は、次第に弱くなってゆく。

 ちょうどそのとき、声がした。

「マリオン!?」

「これは……! どうした、何があったんだ!」

 非常事態を察した父親たちが戻ってきたのだ。けれども、マリオンは泣くことさえできなかった。

 そんなことは許されない、と誰かに嘲笑われているような気がした。



     ※



 ロトは一命を取り留めた。大けがをして大量に血を流した三歳児が生きながらえるとは、それこそ奇跡に近い。彼はもともと並はずれた魔力を持っていたから、それのおかげかもしれないと長老が言っていた。

 けれど、あれ以降、ロトは寝込むことが多くなった。病ではないらしい。原因がわからないことは、人々を大いに不安にさせていた。

 マリオンもまた、立ち直れてはいなかった。

 かたい土を破って、草の芽が顔を出しはじめたある日。ふらふらと隣の家まで行って、扉を叩いた。二人の大人は優しく迎えてくれたが、なんだか元気がない。

「今日も寝てるの」

 ロトの母は、寂しそうにそう言った。マリオンも、うつむいた。

 部屋の奥では確かに、皮でつくった掛け布団に男の子がくるまっている。マリオンがそばに膝を寄せてのぞきこんでも、ぴくりともしなかった。小さな手が、何かを求めるように動いている。そのことに気づいたマリオンは、手をそっと握ってやる。弱い力で握り返された。

 マリオンは、唇を噛んで涙をこらえた。

 そのとき。家の扉が叩かれる。ロトの両親が、なぜかとしたように顔を見合わせていた。父親がいそいそと立ち上がって客を出迎える。

「この家で合ってるかな」

 やってきたのは、顔がよく似たひと組の男女だった。


「おい、ガキがもうひとりいるとは聞いてないよ」

 マリオンを見つけるなり、女性の方が太い眉をしかめた。野太い声に驚いて、マリオンは身をすくませる。思わず、ロトの方へ寄りかかっていた。弟に等しい幼子を、守らなければならない。

 マリオンがにらんでいると、かたわらにいる男性が女性を小突く。

「ユーリア。我が片割れ。いきなりそんな怖い声を出すものじゃない。彼女がおびえているじゃないか」

「ガキは嫌いなんだ」

「そう言うな。それに見たところ、あのお嬢さんはこの家の子じゃない」

 どうでもいいね、と女性が吐き捨て、男性は肩をすくめる。

 その後、ロトの両親が女性と何かを話した。男性の方はマリオンのもとへ歩いてくる。やや茶色がかった黒髪の下で、やさしげな灰色の瞳が光る。村の男たち同様、角ばった顔立ちだけれど、彼はいくらか品というものをまとっていた。

 当時のマリオンは、それほど冷静に見てはいなかった。周囲を警戒する穴ネズミのように身を丸めて、突然やってきた不審者をにらみつける。

「あなたたち、だれ。なにしにきたのよ」

「その子をるためにきたんだよ。大丈夫、怖いことは何もしない」

 ほほ笑んだ男性の背後から、乱暴な声が飛ぶ。

「あたしらは、森の中からやってきた陰険なじじばばさ。せいぜい嫌っておくんなさい、ってんだ。ああ、森といっても『漆黒』の森じゃあないけどね」

「こら、ユーリア」

「なんだいネサン。あたしらはちやほやされるために来たんじゃないだろうが。だいたい、あたしが嫌いなガキのために足をのばしたのは、『そいつ』が呪いかどうか確かめたかったから、それだけなんだよ」

 そう言って、どうやらユーリアという名前らしい女性が、鼻を鳴らす。ネサンは、やれやれ、と両手を挙げた。彼の目が、苦しげにうずくまっている子どもを見たものだから、マリオンはまた威嚇をしてみせた。けれど、ネサンはまったく動じない。「ちょっと、いいかな」と、マリオンにどくよううながした。

 彼女は強く首を振って拒絶したのだが、ロトの両親になだめられ、引きはがされた。しょうがなく、壁にぴったり背をつけて、子どもをのぞきこむ男女をにらんだ。二人は少しだけロトを診察すると、難しい顔をしてささやきを交わす。

「おい。こいつ、黒い爪あとみたいなのがあったぞ」

「本当かい。どこに」

「右の広背筋こうはいきんのあたり」

「両親の話と一致するね。ということは、これは」

「ああそうだ」

 ユーリアがうなずいて、もともと深い眉間のしわをさらに深めた。

「こいつは呪い。この子は『漆黒の魔女』に呪われたんだ」

 あまりにもそっけない宣告に、少女を抱いていたロトの母親が青ざめた。


 それからしばらく、あの双子と思われる男女が村を去るまで、マリオンはぼうっとしていた。村があまりに慌ただしくなったので、事態についていけなかったのだ。

 ネサンたちは、村の大人たちに「魔女の呪い」の説明をしたようだった。大人たちはみんな、真っ青になって聞いていた。

「一応、対策は立ててあります。また、様子を見にきますね」

 ネサンがそんな言葉を残し、魔術師たちはあっさりと村を去っていった。


 そして、それからも、何度かロトのもとを訪れた。三度めにもなると、マリオンも威嚇するのをやめていた。相変わらず、ユーリアという女性の方は苦手だったけれど。

 本当の、転換の一瞬は、五度目の来訪のときにやってきた。

 はじめに、二人に気づいたのは、ロトの方だった。軒先でマリオンと並んで魔術書を広げていた彼は、遠くに人影を認めると、ぱたりと本を閉じて立ち上がる。その頃にようやくマリオンも二人を見つけて、声を上げた。

「やあ。二人とも、調子はどうだい?」

 ネサンがにこやかに挨拶をし、ユーリアは後ろでぶすっとしている。双子の姉を一瞥したネサンは、それからロトに向き直る。

「さて。ロトくん。今日は、前に話していた物を持ってきたよ」

 ネサンが手もとの袋をまさぐると同時、少年は目を見開いた。マリオンは首をひねった。

 ――彼が取り出したのは、緑の宝石がきらりと光る、小さな指輪だった。

 ロトはネサンに言われ、指輪をすぐにつけた。同時に、顔をしかめる。

「なんか、くらくらする」

「我慢できないくらいかい」

「ううん。それに、いつもの嫌な感じがしないや」

 ロトがそう言うと、ネサンは、よかった、と笑う。家から出てきた彼の両親も、ほっとした様子だった。置いてきぼりにされて立ち尽くしていたのは、マリオンだけだった。

 突っ立っている彼女に気づいたのか、ずっと片割れの影で黙っていたユーリアが、口を開く。

「『漆黒の魔女』の呪いは、術者が魔力を動かし、消費することで進んでいくもんなんだが。こいつの場合、制御訓練中とはいえ、でっかい魔力が日がな一日垂れ流し状態だろう。そんなんじゃいつ死ぬかわからん。だから、あの指輪で魔力を抑え込んだ」

「……そんなことが、できるんですか?」

「できる。あの石にはそういう効果があるし、指輪じたいにも、式を刻んであるからね」

 ユーリアは淡々と説明していたが、マリオンにはそれがどれだけ大変なことか、なんとなくわかっていた。目を輝かせて見ていると、女魔術師は鼻を鳴らした。

「ただまあ、これだとロトくんはまったく魔術を使えない。この大陸で『能なし』呼ばわりは、きついなんてもんじゃないからね。そのへんは改善していかないと」ネサンがぽつりと呟いて、頬をかくのを見ていたのは、ロトと彼の両親だった。


 間違いなく、これが彼女にとっての転機だった。


 指輪は双子魔術師の手によって、改良に改良を重ねられた。

 指輪はやがて太くなり、太い指輪は腕輪に変わった。

 見た目はどんどん厳つくなっていたのだが、ロトは気にしていないようだった。

 ロトが腕輪を身につけはじめてから、六日めの朝。マリオンは今日も、よたよたと木の枝を運び、家の脇に積み上げている男の子の姿を見つける。ちょうど、彼の父親がそばに寄ってゆくところだった。少女は声をかけるのをためらって、水の入った木桶を持ったままその場で立ち尽くす。

「おっ。ちゃんと持ってきたな、ロト」

「うん。……狩りは?」

「おまえが行くのは次からだろう」

 ロトは両手を後ろで組んで、ちぇっ、とこぼした。大人びたところのある彼も、ああしていると普通の男の子だ。同じことを考えたかはわからないが、彼の父親――マリオンから見れば「隣のおじさん」だ――が、声を立てて笑う。

「今日から『あの本』を読んでもいいから、一回くらいは我慢しろ」

「え、いいの?」

「ああ。でも、ちゃんと母さんと一緒に読むんだぞ。魔術師になるつもりなら、しっかり勉強もするんだ」

 父親の言葉が聞こえているのかいないのか、ロトは目を輝かせて飛び上がった。一方、マリオンは、ぴくりと肩を震わせる。大人たちがいう『あの本』が何かを彼女は知っている。それを開くということが、何を意味するのかも。

 あの子は術師になるつもりなのだ。

 呪いがあるのに。腕輪のせいで、本来の大きな魔力のほとんどを、封じられているというのに。

 それらをすべて跳ねのけてでも、術師になる、そのつもりなのか。

「なら、あたしも……迷ってなんか、いられない」

 無邪気に笑って家へ駆けこんでゆく少年を見送った――大きな瑠璃るり色の瞳に、強い炎が灯る。

 マリオンはなるべく急いで、かつ桶を揺らさないよう家に戻った。母に桶を渡すなり、マリオンはバタバタと出かける支度を始める。

「ちょっと、マリオン、どうしたの?」

 母に声をかけられると、彼女はきっぱり答えた。

「あの、魔術師のおじさんたちのところに行ってくる!」

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