学術都市の片隅から

蒼井七海

Ⅰ 猫たちの鎮魂歌

1 ある朝の猫探し

暗い空を切り裂いたのは、少女の悲鳴だった。

それが開戦の銅鑼どらがねであったかのように、殺戮さつりくがはじまった。

暗闇に刃が光り、血潮の華が咲き乱れる。絶望の旋律が奏でられ、嘆きの涙が天地を切なく彩った。

――ひどく暑くて、憎らしいほど月のきれいな夜だった。

 

 

 東の地平線から太陽が顔を出してから、しばしの時間が経った。空は澄みきった青へと装いを新たにしていて、街もまた人のざわめきと、朝を告げる学び舎の鐘の音に包まれている。閂を外して扉を開ける者、洗濯物を干す老婦人、せわしなく駆けてゆく学生たち。彼らの上を、パンの焼ける芳ばしい匂いがふわりと漂い、消えてゆく。平穏な朝の街の風景。だが、一部の人は、そんな平和とは無縁の場所にいた。

 明るい大通りから少しそれた小路のつきあたりに、古い空家がある。壁の塗装がはがれた空家の軒先に、なぜか魚の干物がぶらさげられていた。干物は独特のにおいをあたりに振りまきながら、ぷらぷらと揺れている。そんな干物のにおいに誘われたのか、路地に一匹の猫がふらりと現れた。銀色の毛に濃い灰色の縞模様が入った子猫だ。動きに会わせて揺れる毛は、つややかで、よく手入れされていることがわかる。子猫はきょろきょろしながら、そしてひげを震わせながら、ゆったり、ゆっくり歩いていく。やがて、空家の軒先にぶらさげられている魚の干物に気づいた。大好物にひかれた子猫は、えい、とばかりに前足をのばし――

 次の瞬間、後ろから抱えあげられた。脇の下を持たれて、さらに尻を支えられる。猫は少し驚いた様子だったが、いつもの「嫌な抱っこ」と少し違ったため、暴れることを忘れてしまったようだ。

 自分の体と干物を見比べる猫。猫を抱えた当人は、そんな様子を見おろして、ため息をついた。

「よっし。本日の飼い猫、捕獲っと」

 投げやりに呟いた人間の青年は、はあっ、とまた盛大なため息をこぼした後、ぶらさげていた干物を取って猫に与えたのだった。

 

「あれじゃあ逃げだしたくもなるわな……」

 ロトは、ため息まじりに呟いた。頭の中と耳の奥には今もまだ、「依頼主」が猫に頬ずりする姿と、甘ったるくて高い声の余韻が残っている。もしも自分が猫ならば、あんな人間のもとで暮らすのは謹んで辞退させていただくところだ。あの子猫のことを少しばかり、尊敬してしまったくらいである。

 まったく朝からとんでもない仕事を持ちこんでくれたものだ、と、ロトは苦い顔をした。


 ここは、小さな王国の西に栄える都市・ヴェローネル。高等学校から大学、研究機関まで、ありとあらゆる学びの場が集まっているがゆえに、「学術都市」という呼び名で知られている街だ。そしてロトは、学術都市の片隅で、その雰囲気に似つかわしくない便利屋を営んでいる。もちろん便利屋というくらいであるから、ありとあらゆる依頼をこなす。落とし物探しや迷子の捜索はお手の物。もちろん、猫探しもだ。

 猫はもともと自由な動物なのだから、少し見えなくなったくらいで騒ぐのはかえってかわいそうだろう、というのがロト個人の意見ではある。愛玩動物を飼っている人は――少なくとも彼の知る限りでは――誰もかれも過保護なのだ。ただ、彼が今げんなりしている理由は、それだけではない。


 息子の顔を見に来たという富豪の宿屋から、自宅に戻るため、見慣れた大通りを歩く。すでにあちこちから若者たちの騒ぎ声や馬蹄の響きが飛んでくる時分だ。ただそれは、都や港町の喧騒と比べれば優しいもので、うるさいことが嫌いなロトでも、落ちついて街の散策ができるほどであった。

「はいよ、みなさん! 新鮮な情報知りたくないかーっ!」

 洗練された空気が漂う通りの中を、突然、快活な声が駆け抜けてゆく。周囲の人々の視線が声にひきつけられ、ロトもついついそちらを見た。

 声の主は、通りの脇を駆ける小柄な少年だった。体格に似合わない鞄はぱんぱんにふくれ、大きな帽子が動きにあわせて揺れている。ロトがなんの気もなしに少年の方へ歩を進めていたとき、突然、強い風が吹いた。「おわっ」という少年の声がする。大きな帽子が風にさらわれ、舞ってゆくところだった。ロトは、自分の目の前を通りすぎようとする帽子を冷めた目で観察したのち、さりげない所作で手をのばした。大きな手があっさりと帽子を捕まえる。ロトは、駆けよってきた少年に、無言で帽子をかぶせた。

「おっと、誰かと思えば便利屋の兄ちゃんじゃないか! いやあ、助かったよ」

「もう少し注意した方がいいんじゃないか。いつもかぶってるってことは、大事なんだろ、その帽子」

「おうともさ。これからは注意する」

 少年は、びしりときれいな敬礼を決めてみせる。ロトは目を細めてから「あと、新鮮な情報ってなんだよ。野菜か、魚か」と投げやりに指摘してみた。「へへっ。変わった言いまわしの方が、みんな聞いてくれるだろ?」との答えが返ってくる。ロトは肩をすくめた。

 少年は彼からわずかに視線をそらし、道端をゆっくり歩く老人にむけて手を振った。

「あ、クレインおじいさん! 具合どうー?」

 紳士然とした老人が顔を上げ、少年に気づくと、ゆったりとした足取りで彼の方に歩いてくる。背筋はじゃっかん曲がっているが、杖は持っていなかった。

「おや、おや。配達の坊やか。今日は調子がいいよ。さっきまで、野良猫と遊んでいたところでね」

 そう言う老人の黒服をよく見てみると、猫の毛がところどころについている。少年も気づいたらしく、吹き出した。帽子を深くかぶってごまかしたつもりのようだが、あまりごまかしにはなっていない。

「そっか。そりゃあよかった。おじいさんの猫好きも、大概だよなあ。飼っちゃえばいいのに」

「残念ながら、じじいは貧乏でな」

「えー? おれんちだって、そこまでお金持ちじゃないぜ」

 屈託のない笑みを浮かべる彼の横顔を見て、ロトは、あいかわらずだな、と口の中で呟いた。

 名前も知らない新聞配り兼配達屋の少年だが、仕事で街を行ったり来たりしているうちに顔見知りになってしまった、という仲である。彼はいつも明るく元気いっぱいで、表情がくるくる変わる。注意していても、気付けば彼の調子に巻きこまれて、会話にひきずりこまれるのが日常だった。

「そんで、兄ちゃんは今日、朝から仕事か? たいへんだなー」

 まあな、と、ロトがそっけなく返すと、少年は目を見開く。

「なんの仕事だったんだ?」

「猫探し」

「うお、またか。この間会ったときも、そう言ってなかったっけ」

 少年は帽子をつまんで首をひねった。便利屋の青年は、うなずいてから、空をあおぐ。

――ここ最近、三週間くらいだろうか、飼い猫がいなくなったので探してくれ、との依頼がしきりに舞いこんでくるのである。大半は猫にわざわざ餌を与える余裕のある富裕層からの依頼だ。なのだが、時折、名前をつけてたまに面倒を見ていただけの猫を探してほしい、とまで言われることがあるのだから、不思議なものだ。

「実入りはいいんだけどな。げんなりしてくる」

「うーん、気持ちはわからなくもないけど、おれの家も猫飼ってるからなあ」

「なら、せいぜい気を回してやるか、いっそ放任しておいてやるか、のどちらかにしてくれ」

 暗に「面倒事を持ちこむな」と釘をさしたロトへ、少年は曖昧な笑みを向ける。

 こいつも野良猫を探せといってくる手合いかもしれない、と呆れつつ、ロトもほほえみ返しておいた。ついでに、まっすぐ右手を突きだす。

「一部」

 少年はぽかんとしたが、言葉の意味をのみこむと、目をきらきら輝かせて、鞄から新聞をとりだした。

「ありがとさんよ! また、よろしく!」

 さわやかな笑顔とともに渡された新聞をロトが受け取ると、少年は彼に手を振りながら、またヴェローネルの街を疾走していった。



     ※

     

     

 硬い音が、規則的に鳴り響く。魔術書を読みふけっていたロトは、机の端を見やった。繊細な装飾が彫られた、鈍い金色の懐中時計。ついこの間、仕事で王都に出かけたときに、時計職人の依頼主から報酬としてもらい受けたものだ。時計はすなおに買うと高いので、もらえるならもらっておこうという精神で持ち帰ってきたわけである。

 ロトは大きく息を吐くと、また魔術書に目を落とす。時計の針の音だけが、静かな部屋に響き渡っていた。

 それからいくらか経った頃、こつん、と何かが扉を叩いた。ロトは顔を上げ、魔術書を閉じる。静寂を振りはらい、予感を抱えて扉を開けた。そうして、小さな来訪者を見おろすと、生温かい視線を注ぐ。

「なんだ、イサか。ひと月ぶりだな」

 青年に見おろされた黒猫が、なーお、と低い声で鳴いた。黒猫はそのまま、ロトをじっと見上げる。金色の両目に見つめられた彼は、降参とばかりに両手をあげた。

「わかった、わかった。今、何か持ってくるから待ってろ」

 今度は少し甘えたふうに、みゃあ、と鳴いた。ロトはいったん家の中にひっこむと、あまっていた魚の干物を探しだして戻る。そして、干物をイサの鼻先にぶらさげて、五つ数えた。黒猫は待ち切れず、鼻先をふんふんと動かし、不機嫌そうな声を上げる。ロトは五を数え、「よしロゥ」と犬にするように言うと、お待ちかねの干物をイサへ与えた。彼は大きな魚を上手にくわえて自分のものにする。ロトは、なんとなくしゃがみこんで、猫の食事風景をながめた。

 この黒猫は、野良猫だ。イサ、というのはロトが勝手に呼んでいる名に過ぎない。長いことヴェローネルにすみついていて、凶暴で有名な猫らしいのだが、どういうわけかロトにはなついている。大人しく飯を要求されるだけで、なついている、といってよいのであればの話だが。

「今までどこ行ってたのかは知らねえし聞く気もないけど。しばらくここにいるのか?」

 小声で問うと、短い鳴き声が返ってきた。「そうか」と呟いて、ロトは立ち上がろうとする。同時にイサも食事を終えたようだ。また見つめられた青年が、軽く喉のあたりをなでてやると、イサはごろごろと喉を鳴らした。彼の指が離れると、さっと身をひるがえす。

「また寄れよ」

 ロトが大きめの声で呼びかけると、イサは歩きながら尻尾をゆっくり振っていた。放浪猫は、あっという間に街の中へ消えてゆく。その影を見送ったロトは、わずかに残った干物の残骸を片づけてから、家に入ろうとしたのだが――大声に呼び止められた。

「あ、兄ちゃん、にいちゃーん!」

 振り向くと、配達の少年が勢いよく走ってきていた。今日は身の丈にあわない鞄はないが、大きな帽子は相変わらずである。彼は、ロトのすぐそばまで駆け寄ってくると、両手を膝について、ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返した。

「おいおい、どうした。そんなに慌てて」

「た、た、大変なんだよ!」

 一応尋ねてやると、少年はすごい勢いで顔を上げて、ロトを見つめてくる。彼がのけぞっている間に、少年はとんでもないことを言った。

「トリスが、おれんちの猫がぜんぜん帰ってこないんだ! それと、猫にまつわる変な噂を聞いた!」

――ああ、やっぱり面倒事か。

 ロトは、数日ぶりの再会に、深いため息を添えた。

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