21.可愛い三白眼野郎


 シャーはあまりこの周辺には詳しくない。

 似たような路地裏を走っているが、土地勘があまりなく、暗いのでシャー自身も道がわからなく迷いそうだった。

 ジャッキールがどちらを追いかけてきているのかは、闇に紛れてわからなかった。

 だが、どちらにしろ、彼を撒いてしまうのがいいだろう。ザハークが言うように、彼が正気に戻るまでの体力勝負だった。

 ジャッキールは、シャーほど足が速くはなかった。この状態の今はどうだか知らないが、いくら何でも負けることはないと思う。

 詳しくないなりに、複雑な路地裏を逃げ回る。そうすれば、彼は迷って自分を見失うかもしれない。そうなってから、様子を見るのがいい。

(蛇王さんとこ、行ってたらそれはそれで怖いんだけど)

 ザハークは、逃げ回らないのならとどめを刺せといっていた。もちろん、あの男がそういうのは本気だ。

 しかし、シャーの心配はどうやら的外れなものになりそうだった。

「ジャッキールのヤツ、こういう時だけオレのこと大好きになるんだからなあ」

 シャーは憎まれ口をたたきつつ、ちらりと背後を見た。

 先ほどから、獣の気配がする。耳をすませば、自分の足音と別のリズムで地面を踏み鳴らす音が聞こえる。

 肩で息をつきながら、シャーは何度か同じ道をぐるぐると回った後、別の路地に飛び込んだ。間髪入れず、相手が飛び込む気配がした。

「くっそ! ロートルのくせに、そろそろバテろってんだ!」

 シャーも流石に息切れしていた。

 そろそろ突き放してやろうかと思ったが、急に開けた場所にでた。

 かすかに上の方でともしびがあるらしく、周囲の様子が見える。高い家の塀が四隅を囲んでいた。

(しまった、袋小路か!)

 ざっと背後で音が聞こえる。シャーは思わずため息をついた。

「ってえと、なんかこういうことになるんだよねえ」

 シャーは、苦笑しながら剣の柄に手を置きながら振り返った。

 予想通り、彼の背後にはすでにジャッキールが立っていた。流石に荒い息をついているが、それが走ってきて疲れているからなのかどうかもわからない。笑いもしないが、確実にシャーを獲物としてみているのは確かだった。

「蛇王さんとこで殺し合いされても困るけど、オレを構いに来られても困るんだけどな」

 返事はない。獣のような唸り声が響くだけだ。

(これは覚悟を決めるしかない)

 逃げ場をふさがれている状態だ。これは相手をするしかないらしい。

 ジャッキールは月を背景に相変わらず逆光に立ち、シャーの姿はよく見えているはずだった。

 しばらくの沈黙の後、ふっとその黒い影が動いた。

 シャーは素早く剣を抜き、一撃目を弾き返す。

「行くぜ!」

 だっとシャーは地面を蹴った。ざっとジャッキールが鋭く切り下してくる。風圧がシャーの髪を揺らし、紙一重で避けた後、飛び込んで切りかかる。

 ジャッキールを傷つけたくはないが、ザハークの言うとおりだ。ジャッキールを相手にして、本気で勝負しないわけにはいかない。

 ぎらっとジャッキールがシャーを見る。懐に飛び込んでそのまま突き上げたところで、素早く引き込んだジャッキールの剣がシャーの剣を弾く。ガッと火花が散り、空に飛ぶ。

「ちッ!」

 シャーは舌打ちしてそのまま後ろざまに押されながら、後退する。ジャッキールはそのままついてくる。

「相変わらず、しっつこいんだよ!」

 シャーはそれを避けて、足を引っかけるが、ジャッキールは踏みこたえた。そしてそのままがっと剣を薙ぎ払う。

「うわっ!」

 受け損ねてそのまま吹っ飛ばされ、シャーはあわてて横に逃げる。

(くそう、まともに行くのは無理だな)

 第一、元から強い男だ。今は限界を知らずにひたすら攻撃だけしてくる。

(そうだ、防御自体はおろそかなんだ)

 なのでこちらも攻撃をすればよい。しかし、相手はジャッキール。そう簡単に攻撃の糸口はつかませてはくれない。

 さて、どうするか……。

 そんなことを考えると、不意に闇の中からカラーンという音が響いた。そちらをむくと、石畳の上にいつの間にか、松明が一本落ちている。

(何故……誰か故意に落としたのか?)

 上をうかがうが、暗くてわからない。

「うおっ!」

 気を取られた瞬間にジャッキールがとびかかってきて、シャーはあわててそれを避ける。マントがかすれてちぎれ、シャーは松明のあるほうへと飛んで逃げた。

 すっと手を伸ばすと、松明を手にする。ぱっと周囲が明るくなり、ジャッキールがたじろいだ気配がした。

「誰かに指示されたみたいで、ちょっと癪だけど……乗るしかねえな」

 左手に松明を持ったまま、シャーはそれを振る。

 ジャッキールは、やはり光に反応しているのだ。光をまぶしがっているらしく、思わず左手で目をかばう。

「悪いけど、これで行くぜ!」

 うおおっと気勢をあげ、シャーはジャッキールに突進した。

 ぶわっと松明をふると、彼が後退する。だが、ジャッキールもそれだけで終わるわけではなかった。まぶしさのもとを消そうとばかり、剣を薙ぎ払ってくる。それをどうにか受け流し、シャーはざっと足を踏んで咆哮転換した。

「ジャッキール!」

 声を上げ、シャーは松明を投げた。

 思わずジャッキールがそちらに気を取られ、松明を真っ二つに割った。その瞬間、シャーは足を踏み込んだ。

 まっすぐジャッキールの懐に飛び込む。

(このまま、突けば勝ちだ!)

 ジャッキールに切っ先を向けている。このまま貫けばいい。

 しかし。その切っ先の向く方向は心臓だ。

 ――中途半端に相手をするとこちらが死ぬぞ!

 ――哀れに思うなら殺してやれ!

 ザハークの言葉が思い出された。そう、相手はジャッキールなのだ。ここで決められなければ、多分、もう勝ち目はない。

 もともと、彼とは敵同士だった。彼が王都にすみつくようになってからは、親しく言葉を交わしたのは間違いないけれど、それでもいつかは殺し合うものだとは思っていた。最初はうわべでは親しく付き合いながらも、シャーもどこかでいつか自分がコイツを殺すのかもしれないとも考えていたこともある。

 けれど、いつの間にか、彼らは楽しく暮らしていたのだ。ジャッキールは、いつの間にか彼の理解者になっていた。からかいながらも、彼の相談事を真剣に聞いてくれるのは、いつも彼だった。

「良いではないか、お前は今のお前のままでも」

 何かの時にそんなことを言って、ふと優しい表情をしていた彼が脳裏をよぎった。

(駄目だ!)

 シャーははっと目を見開き、とっさに手首を返した。

 シャーはジャッキールの胸元を突く形で突進した。がっと手ごたえがあった。ジャッキールは直撃を食らってそのまま倒れこんだ。

 はぁはぁと肩で息をしつつ、シャーは手をちらりと見た。先程手首を返した為、シャーはほぼ逆手で剣を握っていた。ジャッキールに向けたのは切っ先でなくて、柄の先。

「くそっ、前と一緒じゃねえか」

 シャーは苦笑しつつ、ふらっとよろめいた。石畳の上でジャッキールに切り捨てられた松明が、まだ燃えている。

「頼むから、今度こそ、立ち上ってくんなよ!」

 かつて、ジャッキールと戦った時、鳩尾に一撃を加えたが彼は結局起き上がってきた。

 今起き上がられたら、多分、今度は勝ち目がない。シャーもさっきの攻撃でずいぶん体力を使ってしまった。

 静かだ。ぱち、と松明の火が跳ねる音が鮮明に聞こえる。

(しかし、一応手加減したつもりだが、まさか、死んでないよな?)

 あまりにも反応がなくて、シャーは不安になり、そうっと彼の方をのぞき込んでみた。

 そのとき、ふとジャッキールの手がぐっと拳を握った。はっとシャーは後退する。剣を持ったまま、ジャッキールが起き上がって即座に襲い掛かってくる。

「くそおおっ!」

 慌てて後退しようとしたとき、不意にジャッキールの背後から白い手が伸びてきた。その手は小ぶりの樽のようなものをもっていて、ジャッキールの頭からかぶせる。

 混乱したジャッキールの動きが止まった瞬間だ。

「えいっ!」

 そんな声がきこえ、長い棒がジャッキールの被った樽を直撃した。樽がばらばらと崩れ、同時にジャッキールがその場に崩れ落ちる。

 シャーは思わずあっけにとられていた。

「やった……」

 達成感に満ちたそんな言葉を小声でつぶやくのは、華奢な女性だ。

 折れた棒を持った女は、ふうとため息をつくと、シャーの方に向き直った。

「大丈夫だった? シャー」

「え、えええ? リ、リーフィちゃん? え、な、何が?」

 何が起こったの? とききそうになって、シャーは思わず口ごもる。

 リーフィはすっかり伸びたジャッキールをちょっとのぞきこみ、瞼に手をやってみたり、首筋に手を当ててみたりしていて、安堵の様子を見せた。

「大丈夫。気絶しているだけみたい」

「あ、あー、そ、それはいいんだけど」

 シャーはまだ呆然としていて、困惑した様子になった。

「な、なんでここに?」

「ああ、それなんだけれど」

 リーフィはそういうと、鍵束を取り出した。

「これは店長さんから預かったの。もしかしたら怪我人が出るかもしれないし、避難場所に別荘を貸してくれるっていっててね、ここからほど近いから案内してあげてって」

「え、えええ、アイードが?」

「ええ、店長さん、アイードさんっていうんでしょ? 私もお名前、初めて知ったわ」

(なんだ、あのカワウソ! 気ィきかせたフリして、リーフィちゃんをどんなところに連れてきてんだよ!)

「で、でも危ないし……」

「あら、大丈夫。さっきまで副官さんと一緒にいたの。何か向こうで騒がしかったので、副官さんが様子を見に行ってくれていたのだけど、そうしたら近くの路地でシャーの声が聞こえたので見に来たのよ」

 よかった、とリーフィは付け加えた。

「ああ、アイードの副官てえと、あの美形の彼」

「”彼女”」

 素早く訂正された意味がシャーにはすぐわからない。尋ねようとしたとき、リーフィがさっと話を変えた。

「それはそうと、ジャッキールさんを運ばなければね。別荘はここから近いんだけど」

「あー、でも、大丈夫かな。また暴れないかな」

 シャーはそういいつつも、ジャッキールの様子を見るが、どうも先程の一撃で完全に気絶しているらしい。

(いろんな悪条件は重なっていたとはいえ、あのクソ丈夫なジャッキールを一撃で……)

 シャーはふと我に返ってそんなことを考える。

(蛇王さんやオレでも、コイツ伸ばしたことないのに、リーフィちゃん……、何気に前人未踏? そういえば、あの棒切れ折れてたし、どんな力で……)

 そう考えるとリーフィがちょっと怖くなって、シャーは思わず彼女をじっと見てしまう。

「どうしたの?」

「あ、あああ、なんでもないよっ! リ、リーフィちゃん、助けてくれてありがとう! いやー、マジで助かった!」

 シャーはとりあえずそういうと、ジャッキールの剣をとりあえず手から離させ、鞘におさめてリーフィに渡した。暴れられると怖いが、刃物がなければまあどうにかなる。シャーはジャッキールを肩にかけて持ち上げた。

「はっはっはー」

 不意に上から笑い声が降ってきて、シャーはギクリとした。

「ははははははー、いやー、おもしれえおもしれえ! 見てみるもんだなあ。そういう決着がつくとは思わなったぜ!」

「誰だ!」

 シャーが声を荒げると、声の主は笑いながら告げた。

「いいじゃねえか、そんなツンケンしねえでもよ。俺はただ見てただけだぜ。お前の敵でもなけりゃ、味方でもねーんだ。ただの傍観者よ」

 そういうと、男は四隅の建物の一角からぬっと姿を現した。

 だが、光が入らず彼の影しか見えなかった。二人いる。その内の一人が、こちらに身を乗り出していた。

「それによ、俺だって覗きしようと思ってたわけじゃねえ。お前らの方が、俺のところに飛び込んできたんだ。それでじっくりと観戦させてもらったってえワケよ」

「お前もリリエスってやつの仲間か?」

「まさか。あんなド変態と一緒にされちゃ困るってもんだぜ。悪いが俺はもっと洒落がきいてるし、第一俺のがもっと”男前”だぜ」

 楽しげに笑いながら男はそんなことを言う。

「それよか、よかったじゃねーか? 生き残っても兄貴分殺しちまったら後味悪いもんな、三白眼のお兄ちゃんよお。死にそうだけど、今まだ死んでねえだろ?」

「っ、てめ……」

「シャー」

 リーフィが小声で制する。

「どなたかは存じないけれど、ご用は何?」

 静かにリーフィが尋ねる。

「何だって?」

「だって、声をかけてきたのなら、何か御用があるのでしょう? 私たち、急いでいるの。用件を教えてくださらない?」

 リーフィにそう言われ、男は苦笑した様子だった。

「はは、美人のおねいちゃんにいわれりゃ、しょうがねえなあ。いやあ、いいモン見せてくれた礼に、ちょっとお前らに褒美をくれてやろうとおもってさ」

「褒美だ? 何だよ?」

 シャーがやや喧嘩腰に尋ねる。

「”解毒剤”さ」

 その言葉にシャーが思わず黙り込む。その反応を見て、相手の男は楽しそうになった。

「欲しいんだろ、解毒剤。お前が抱えてる奴、多分、死んでもおかしくない量の薬盛られてるぜ。まー、ソイツ、黒いゴソゴソする何かみてえに丈夫だろうから、滅多なことじゃ死にゃあしないかもしれないが。とはいえ、死ななくても正気に戻らねえのは、お前辛いよな? 責任感じて?」

 男は言った。

「だって、ソイツが薬盛られたの、お前をおびき寄せる為だろ。何とかって指輪持ってるとか、リリエスが言ってたよ」

 ぐっとシャーは詰まる。

「何が望みだ?」

「望み? 別に」

 男は冷たく言った。

「俺に望みなんざねえ。ただ、退屈な人生送るのがまっぴらごめんなだけよ。お前らが多少面白いモノを見せてくれたんで、褒美を取らすだけだ」

 そういって、男は手のひらで何か小さなものを弄んでいた。

「解毒剤は本物なんだろうな?」

「サテ、それは俺にもわからねえが」

「ふざけんな、テメエっ!」

 なんとなくこの男の声が、生理的にムカつく。もとから気が立っていたシャーは、ますます怒りを強くする。

「シャー、だめよ」

 リーフィがなだめつつ、上を向く。

「では、何故貴方に解毒剤だとわかるの」

「それはコレは俺がリリエス=フォミカんトコからくすねてきたモノだからさ」

 男はそう告げた。

「ちょいと部下のおねいちゃん達を褒め殺ししてな。俺はなんてたってイケメンだからな、女に恨まれて薬盛られたら困るから、解毒剤教えてくれって。そうしたら見せびらかしてくれるじゃねえか。その一個を失敬した。それだけ」

 彼は続ける。

「解毒剤が何故あるか。実はな、ソイツに盛られた薬は、効きすぎると盛ったやつも危ない。その男だって誰彼構わず牙をむいたろ? そうならねえように、アイツは調整していたわけさ。投与しすぎたら中和してたというわけ。ソレに使っていた薬を、そのままいただいたというわけだ」

「その言葉、信用できるのか?」

 シャーがぐっと怒りをおさえて尋ねる。それを何を思ったのか男は見下ろしている様子だったが、ふと笑ったようだった。

「俺が信用できなきゃ、ソイツ、死ぬぜ?」

 シャーが黙り込むと、男がくすりとして何かを投げた。シャーが慌ててそれを受け止める。

 受け止めた途端に硬い感触。光に透かして見ると、二枚貝のようだった。

「あばよ。また気が向いたら面白いモンでも見せてくれ」

「待てよ!」

 シャーはそう言って呼び止めた。

「お前、何者だ?」

「それはお前にききてえよ」

 男はそう返して笑ったらしい。

「貰ったんだろ。たまには素直にありがとうって言え。クソガキ」

 そう吐き捨てる。

「なんだと……」

「ありがとう」

 怒るシャーに代わってリーフィがそう礼を述べる。それにやや驚いたように身を翻そうとしていた男が立ち止まった。

「はは、おねいさんも俺を信用しているわけじゃねえんだろ。それなのに礼は言うか。まあいいさ。好きなようにしな」

 そういうと男の影が消える。それに続いて、もう一人の人影も立ち消えていった。

「なんだ、アイツ……」

 シャーは何となく苛立っている。何故だろう、初めてあった気がしないが、どうも思い出せない。

「それより、シャーそれを」

「あ、ああ」

 リーフィに二枚貝を渡すと、リーフィはそれを開いて中を改めた。リーフィが持ってきたランプに照らすと、赤っぽい膏薬のようなものが仕切りに入り、その反対側に実のようなものがいくつか砕かれた状態で入っている。

「これ、一種の豆じゃないかしら。強い毒のある豆だわ」

 リーフィが小首を傾げた。

「え? ど、毒って」

「昔見たことがあるの。そのままだと確か凄い毒なんだけど、少量だと薬になるの。症状からすると、今のジャッキールさんには効くんじゃないかしら。あの人が解毒剤だっていったの、まんざら嘘ではなさそう……」

「え、リーフィちゃん詳しいんだね」

「ええ、ちょっとね。ただ、私の判断で飲ませるのはちょっと怖いから、お医者さんに尋ねないと」

「ああ、それじゃ、とりあえず、ダンナをカワウソの別荘に運ぶとして……」

 とシャーが、動こうとしたところで、ふと目の前を黒い影が横切った。さっと白銀の光が閃き、シャーはそれが短剣であることを知る。

「シャー!」

 リーフィの声が響く。と。

「わあっ!」

 不意に横から強い力で押されて、シャーはそのまま倒れた。その間を黒い影が通り抜ける。

「ば、馬鹿がっ!」

 まだあまりろれつが回っていない。だが聞き覚えのある声だ。視線を向けると、ジャッキールが立っている。先程はジャッキールが自分を押したのだと、シャーは知った。

「油断するんじゃ、ない! 前を見ろ!」

 立っていられなくなったのかジャッキールは膝をつく。シャーは素早く起き上がり、剣を抜くと襲撃者の方に向いた。

「てめえっ、さては女狐ンところの……」

 襲撃者は周囲を見回すと不利と悟ったか、狭い路地に逃げ出す。

「待て!」

「追うんじゃない!」

 リーフィに支えられたジャッキールがシャーを止める。

「深追いはやめろ……。危険すぎる……」

 ぐらっとジャッキールの体が揺らぐ。

「ジャッキール!」

 慌ててシャーが駆け寄る。ジャッキールは再び気を失ったのか、ぐったりとしていた。

「眠っちゃってるだけよ。大丈夫」

 リーフィに言われてシャーはため息をついた。

「そっか……」

 シャーはそうつぶやき、視線を落とした。

「おい、大丈夫か? 何か物音が……」

「お嬢ちゃん、大丈夫かよ?」

 そう言って路地の方に現れたのは、ザハークとアイードの副官であるゼルフィスだった。

 どうやらリーフィについてきていたゼルフィスは、ザハークと敵が交戦しているのを察知してそちらに回っていたのだろう。

「なんだ、貴様ら一緒だったのか?」

「それはオレが、アンタたちに言いたい」

 妙にのんびりとしたザハークに、シャーはやや気が抜けてしまった。

「エーリッヒは?」

 ザハークが尋ねる。

「大丈夫だよ。寝てるだけ……」

「そうか」

 ザハークは少し安心した様子だった。

「俺なら殺していたな。お前の方に行ってよかった」

「いや、よくはないけどね……。俺も思い切りやっちゃったから、怪我をしてるかもしれない。医者をはやいトコ呼ばないと」

 シャーがそういうと、ゼルフィスが口を挟む。

「ああ、大将の隠れ家に運ぶんだっけ? 大将ご用達の医者でも呼ぶか?」

「でも、こんな遅い時間ね。すぐに来てくれるかしら……」

 リーフィが心配そうにそういうと、にっとザハークが笑う。

「医者のことなら心配するな。ちょっとアテがある」

「え、本当、蛇王さん」

「ああ、こういう関係の症状には強いはずだから安心しろ」

 そういうとザハークは、シャーに代わってジャッキールを担いだ。ジャッキールは長身な上に、鎖帷子などを着込んでいるので重い。疲れていたシャーは、ようやくほっとした。

「それはそうと、お前の上官のカワウソ男はどうした?」

 ザハークはまだアイードのことが気になるのか、ゼルフィスに尋ねた。

「さー、私もよくは知らないが、どうせ野暮用があるんだろう?」

「野暮用」

「うちの大将は”そういう”男だからさ」

 路地裏を出、川面の並木道に出る。アイードの別荘とやらは、運河をのぞむ場所にあるのだという。

 その道を足早に歩いているあいだ、ジャッキールは目を覚ます様子はなかった。

(あの野郎の言う通り、ジャッキールのことはオレのせいだ)

 シャーは懐に隠してあるエルリーク総司令の指輪印章を思わず握った。

(名案だなんて思ってたけど、……ダンナを巻き込んだんだ)

 黄金に輝く月がまだ空高くのぼっている。それが川面で揺れている。

 シャーは沈んだ様子ででそれを眺め、指輪を懐中深くに戻した。指輪はまだ音もたてずに眠っていた。



  *



「いい月じゃねえか。あー、今日は本当にいい夜だ」

 再び元の場所の椅子に座り、葡萄酒を盃につぎながら、ギライヴァー=エーヴィルは楽しげに言った。それを不服そうに眺めながら、彼の従者であるキアンはため息をついた。

「説明していただけますか、殿下」

「は? 何を?」

 すっとぼけるギライヴァーに、キアンはややイラついて尋ねる。

「先ほどの件です。何故、あの三白眼の男に解毒剤など? 彼らは敵ではないのですか? あの男はシャルル=ダ・フールの……」

「恐れ多い名前だしてんじゃねーよ、キアン」

 ギライヴァーが低い声で戒める。しばらくキアンの怒ったような顔を見ていたが、やがて彼は深々とため息をついた。

「キアン、お前、老け顔だから忘れるけど、なんだかんだ言って若いんだな」

「何がです?」

「わかってねえ、ってことだよ」

 そういってギライヴァーは静かに立ち上った。

「……一国の王を狂わせるってのは、どんだけか恐ろしいことだってことをな」

 ギライヴァーは葡萄酒の盃を机の上に置いた。

「俺が餓鬼のころの話さ。お前は生まれてもいねえ。あの頃、この国は酷く乱れていた。俺は、名門アレイル=カリシャ家の王子だった。当時はな、王子が生まれると宮殿に幽閉するのが習わしだった。何故かって? 誰かが王子を担ぎ出して王位簒奪されるのが怖いからよ」

「それはお聞きしました。だからこそ、殿下は退屈な生活がお嫌いだ。少年時代に退屈な生活をしていたからこそ、今は自由を謳歌したいと」

「そうよ。しかし、話はもう少し続く。これは、おめえにも話したことはねえ古い話だ」

 ギライヴァーは静かに続けた。

「俺にはその時、”兄上”と呼ぶ男がいた。俺より少し上の王子だった。直接の血のつながりはなかったが、狭い世界の中で俺達はお互い兄弟のようにして育った。優しく聡明な男だった。兄上は俺をことさら可愛がった。世界で二人っきりの兄弟みてえに、信用のおけない自分の肉親よりも俺を可愛がってくれた。だが、兄上は俺よりももっと王位に近い男だった。乱世は、王の乱立がつきものだ。先代の王が暗殺され、兄上が王位についた。さっきも言った通り、兄上は聡明で優しい男だった。誰しも、彼が待ち望んだ名君だと思った。だが、ある時毒を盛られた」

 ギライヴァーは首を振った。

「高熱を出したものの、命だけは助かった。しかし、それっきり兄上は人格が変わってしまった。兄上の気に障っただけで、みんな殺された。陰口をたたいた、批判した、自分の視界に入った、理由なんざどうでもいい。宮廷の中は粛清の嵐が吹き荒れた。その日、血塗れの兄上は、人がいなくなってガラガラの宮殿で俺にこういったよ。『弟よ、私とお前に害をなすものはもう誰もいないよ』。俺は呆然としていた。何が起こったかもわからなかった。それはかつての優しい兄上ではなかった。ただの怪物さ。俺は恐ろしかった。その夜は眠れなかった。俺もいずれ兄だった怪物に殺されるのだと思った。そして、もはや昔の兄上ではなくなったその化け物は、翌日に親衛隊の裏切りで暗殺されて死んだよ」

 ギライヴァーは、キアンを振り返った。

「俺は、別に世の中が乱れようが、民草が死のうがどーでもいいんだぜ。内乱が起これば退屈しのぎができて楽しいぐらいに思ってる。だが、権力者である王を狂わせるということが、どれほど恐ろしいことかは知っている。特にシャルル=ダ・フールは、信奉者が多い。そういう男が狂うとどれほど恐ろしいか……」

 は、とギライヴァーは笑った。

「リリエスのド変態のな、好奇心風情の為に、この世の地獄をもう一度見たくねえんだよ、俺は」

 ギライヴァーは、続けた。

「アイツに解毒剤を手に入れさせたなら、シャルル=ダ・フール側はどのような薬が使われるのか、必ず調査する。だからこそ、アイツに渡したんだ」

「しかし……」

 言いかけて、キアンは首を振った。

「いえ、殿下のお考えは理解致しました。しかし、ラゲイラ卿の支援は続けられるおつもりで」

「これとあれとは別問題よ。あいつを殺してくれるならいいんだよ、狂わせなきゃなあ」

 はあ、とキアンはわかったようなわからないような口調で頷いた。

 そんな彼を気にも留めない様子で、ギライヴァーはいつものわがままな口調で言った。

「おいキアン、ちょっと寒くなった。何か、被るものもってこい。今日はもう少しここで飲む」

「は。お待ちください」

 そういってキアンは退出した。

 人気がないテラス。空には美しい黄金の満月が輝いている。星たちもなりをひそめるほど、強い光の美しい月。

 川面に映るそれを眺めながら、ギライヴァーは思い出していた。

「ふん、しばらく見ねえ間にでかくなったもんだ。俺も年を取るわけよ。年々兄貴に似てきやがる、あのクソ甥っ子」

 ギライヴァーは、酒をぐびりと飲み吐き捨てるように言った。

「だが、塩を送るのはこれが最初で最後だぞ。後は自分でやるんだぜ。可愛い三白眼野郎シャルル=ダ・フール

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