4.ムルジムの首

「畜生。あの野郎」

 シャーは、窓から店を逃げ出して、にぎやかな通りを裏に入っていた。華やかな歓楽街が遠くなるにつれ、人の通りも減り、道も暗くなっていく。

 シャーは、サンダル履きの足をずりずりと砂にすりながら、ぶつくさ文句を言っていた。

「なんだい。かっこつけやがって」

 手のひらの硬貨をじゃらじゃらさせながら、シャーは唇を尖らせた。

 これは、クツジョクである。

 シャーは人に恵んでもらったりおごってもらったりするのは平気だし、寧ろそうやって生きているところがあるのだが、さすがにゼダに恵まれるのはプライドが許さない。

 さりとて、この金をどぶに捨ててしまうのも気が引ける。シャーの懐は、今日もいつものごとく空っぽに近かった。だからといって、ここで言われたとおりに飲んで帰るのも癪だ。

 少し欠けた月が空に浮かんでいる。まだ夜は早い。夕暮れから、二時間ほどだろうか。まだまだ夜はこれからだから、飲む店はどことも開いてはいる。

「あーあ、どうしようかねえ。くそっ、むかつくー!」

 シャーは、そういいながらどんどん花街から離れた場所を歩いていた。露天商のいなくなった寂しい通りを歩いていくと、一軒、煌々と明りのついた建物が見えた。かなり大きな建物で、人通りがちらほらと見える。

「なんだ、風呂屋か」

 シャーはつまらなさそうに言った。

 街にはいくつも公衆浴場がある。この周辺の土地では蒸し風呂が一般的だが、西方の影響が少し強かった時代があり、さらに王都は水が豊富であることから、湯を張る形式のものもあった。いくつかのものは、王立のものであり、もしかしたらここもそうかもしれない。王都の郊外にはよい温泉もあり、多少温泉水を使っている場所もあるとかきいた。シャー自身は、あまり風呂が好きでないからそれほど興味がない。

 シャーは、昨日ぶどう酒を頭からひっかけられたこともあり、今日の昼間にさっさと風呂に入ってしまったので、今から入浴する気などなかった。それに、そろそろ客足も少なかった。当然だ。ここは遅くまでやっているほうだが、普通日が沈んだ後には閉めてしまうのだった。だから、もうここも終了時間なのだろう。

「やれやれ、なかなか、この腐った金をつかっちまう方法がみつからないなあ」

 シャーは、深々とため息をつきながら、浴場の前を横切ろうとした。

 と、不意に入り口から出てきた黒い影が目の前を通りすがった。

「おっと」

 慌てて避けたが、体をぶつけてしまい、相手の持っていた荷物が地面に落ちた。石鹸と手ぬぐいらしいものが下にころりと転がった。どうやら浴場にきていた客のようである。

「ああ、ごめんよ。見てなかったんだ」

 シャーは素直に謝った。相手の石鹸と手ぬぐいを拾い上げて手に渡してやる。相手は男のようで、シャーよりも背が高かった。

「いや、こちらこそすまなかった」

 相手の男はそういって頭をさげて石鹸を受け取り、もっていた桶の中に入れた。

「私もよくみていなかったようだ」

 妙に丁寧な男だ。何となく気がかりになって、シャーは彼の顔を覗き込む。低い声に聞き覚えがあるような気がしたのだ。

 ふと、顔を上げた男と目が合った。

 月明かりの下に浮かぶ青ざめた頬。鋭い、少し色の薄い瞳。その全身から立ち上る、ありがたくない気のようなもの。いかにも潔癖そうな短髪と、鋭利な刃物のような、整った冷たい容貌に。

 そう 簡単に忘れられる顔ではない。シャーは思わず身を引いた。

「ジャッキール!」

 シャーは、慌てて飛びずさった。反射的に剣の柄に手が伸びてしまう。

「なんだ、貴様か」

 ジャッキールのほうは、シャーの大げさな反応に多少困惑気味だったが、相手がシャーだとわかったせいか、少しほっとしたようである。

「いきなり騒ぐから何事かと思ったではないか。もう日が落ちているのだから、迷惑だ」

 あのなあ。シャーはため息をついた。

「何事って、あんた、何してるんだよ。こんなところで」

「何といって、俺は銭湯に行った帰りなのだ」

 ジャッキールはまだ困っているようだ。シャーは瞬きして、ようやく胸をなでおろす。どうやら、今日はジャッキールは正気らしい。夜に出会うとどうなのかわからないので、余計にびっくりしてしまうのだ。少なくとも、夜間のジャッキールにはいいイメージがない。夜、特に月の夜は、彼の血が逆流しやすいときなのだ。

 よく見れば、今日のジャッキールはいつものきっちりとした詰襟の武官風の上着とマントではなく、色こそ黒っぽいが軽い素材で出来たチュニックのような上着に長ズボンといったいでたちで、短剣だけを腰に下げていた。彼が普段持ち歩いている凶器は家においてきているようである。手ぬぐいらしきものが、大事そうに抱えている桶からのぞいていた。石鹸ももっていたから、彼の申告はうそではなさそうだった。

 それだけでも、ジャッキールの危険性は随分と下がるので、シャーはますます安心した。頭に血が上っている時は、超一級の危険人物だが、普段のジャッキールはどちらかというと大人しくて常識的な人間の部類にははいるのだ。

「ふーん、つくづく綺麗好きだね、ダンナ」

「べつに普通のことだろう。ここは水も豊富だから、湯を張った風呂があるのがよい。蒸し風呂でもよいが、やはり浸かるほうの風呂もあるとな。ここにはいい温泉もあるし、おまけに近くに質のよい石鹸の名産地もあるので、本当に住みやすいことこの上ない」

「ふ、ふーん。それで仕事もないのに住み着いてるんだな」

 シャーは呆れ気味にいった。今、ここでジャッキール向けの仕事を探すのは非常に困難だ。おまけに、ジャッキールは、某暗殺計画にも一役買っていたので、余計に仕事が見つからないはずなのである。だというのに、恐らく内職か何かしながら、王都でいまだにぼんやり暮らしている様子のジャッキールを見ると、何か理由があるのだろうなとは思っていたが。

「でも、遅い時間じゃんか。昼にくればいいのに」

「あまり人が多い時間に来ると、周りもそうだが、特に子供が怖がるのでそれはそれで気が引けるしな。この時間にくるものは、みんな顔見知りなので、気が楽なのだ」

(そりゃまあ、傷だらけでちょっと危ない雰囲気のがいたら、怖いだろうけどさ)

 シャーは、案外神経質なジャッキールの様子にため息をついた。この男は、ちょっと見掛け倒しのような一面がある。とはいえ、本当に見掛け倒しだと思って舐めていると、恐ろしい目にあうのも事実だったが。

 そんなことに思いをはせていると、ジャッキールが話を変えた。

「ところで、貴様はこんなところで何をしている。遊んだ帰りにしては少し早いし、酒を飲んでいるようには見えないがな」

 シャーは、ぱちんと指を鳴らした。

「ああ、そうそう。いいところに気がついたね、ダンナ。実は、ちょっと困ってるんだよぉ」

 シャーがなれなれしく近づくと、ジャッキールは片眉をひくりとひそめた。

「金なら貸さんぞ。貸すほどももっていない」

「金の無心じゃないってば。いやだなあ。大きな誤解だよ」

「それでは、一体何の用なのだ」

「ちょっと困ってるっていったじゃない。ねえ、ちょいとその辺で軽く飲んだり食べたりしながらちょいちょいと相談を」

「どうせ俺がおごるのだろう」

「いーじゃん。この前助けたでしょ。それぐらいお願いしてもとかいいたいとこだけど、今日は、ちょっとアテがあるんだよ」

 シャーはにんまり笑った。

 そうだ。ここでダンナを出汁にしてゼダの金で酒を飲んでやれ。それなら、シャーのちっぽけなプライドも大義名分を得ておさまりがつくというものだった。

 ジャッキールは、少し眉根を寄せて考えていたが、結局普段の彼は意外に善良なので、シャーに相談と頼まれて断ることはなかった。シャーはそのままジャッキールを連れて、適当な飲み屋に足を運んだのだった。



 *



 不思議とシャーは、ゼダに頼るのは嫌だが、ジャッキールに頼るのは平気である。

 年齢の違いと性格の違いもあるのかもしれないが、それは結局、シャーがジャッキールに一目置いているということなのだろう。

 なんにせよ、正気のときの彼は説教臭いのが玉に瑕だが、案外よい相談相手になるのだった。

 シャーは、あまり高級そうな店が好きでなく、どちらかというと場末の雰囲気漂う店が好きだ。そちらのほうが気を遣わないので、ゆうゆうと入り浸れることもある。今日もそういう酒場を選んだ。といっても、あまり汚いところだと、きれい好きのジャッキールが嫌がりそうなので、シャーとしては少しいいほうの酒場を選んだつもりではあったが。

 酒場はそれなりに人がいてざわついてはいたが、ジャッキールが嫌がりそうな馬鹿騒ぎするような場所でもなかった。人々は思い思い、自分の世界に浸っているようである。シャーもあえてそういう場所を選んだのだが、ちょうど何か相談事をするには便利なところだった。

 シャーはジャッキールと向かい合わせに酒を頼んで、ゆったりと座っているところだった。しばらくして運ばれてきたのは、つまみのハムと野菜の煮込んだもの、スープとパンだったが、ジャッキールもどうやら軽く食事はしているようなので、それで酒があればちょうどいいぐらいである。

 ジャッキールに何事か相談するのは、別にいやではないシャーなのだが、こういう状況を客観的にみるとなんとなく珍妙だった。

 ジャッキールとは何度か戦った仲だし、おそらくジャッキールは戦う理由さえあれば、シャーに襲い掛かってくるだろう。そういう相手と向かい合わせに酒を飲みながら、困ったことを相談している自分に気づいたとき、シャーはなんとなく思わず苦笑いしてしまうのだ。

 実際、戦闘中は、全身の血が逆流したかのような狂気に突き動かされているジャッキールだったが、今は静かで実に穏やかな男だった。狂気の片鱗は体の隅々には残っていて、それが他人を近づかせないような危険な気配を彼に与えているのだが、それでも、普段の彼はむしろ生気が抜けているようなところがあって、かなり脱力したような、無気力なところがあった。

 ただ、もっともこれはあくまでそう「見えるだけ」で、ジャッキールのやつは案外血の気が多いから、不用意なことを言うと、一気に火がついてしまいかねないから、油断は禁物ではあるが。

 とはいえ、戦場での彼の姿を知っていると、普段の彼の姿に何となく肩透かしを食らったような気分になるものだった。

「なるほど。事情はわかったが」

 一通り話終えた後、ジャッキールは、初めて口を開いてそういった。

「それで、リーフィさんにいいかがりをつけた女を探っていた、と」

「ああ、そうだよ。でも、俺はあの子に嫌われちゃったからさ、直接話はきけないしさ」

 シャーは、塩味のきいた羊肉のハムをつまんで口に投げ込みながら言った。ふむ、とジャッキールは首をかしげる。

「それで、あのネズミ青年に協力してもらったわけだな?」

(ネズミ青年……。コイツからみても、ゼダの奴はやっぱりネズミに見えるんだ)

 シャーは、自分のつけたあだ名の的確さに思わずほくそえみつつ、そういえば、あの男、戦士としては小柄だが、一般的に見ればそんなにちびでもないくせに、どうしてネズミのイメージがあるのだろうと不意に疑問に思った。あの童顔と、性格のかわいくなさがそう思わせるのだろうか。

「ああ。でも、あいつでも聞き出すのは時間がかかりそうなんだ。俺も同席してたんだけど、正体がばれちまいそうだし、奴に任せようかと思ってるんだけど」

 ジャッキールは唸って困った顔になる。

「ふむ。しかし、俺にそういうことを相談されても力にはなれんぞ。ネズミ青年で時間のかかるようなことを、俺が聞きだせるわけがない」

「わかってますよ、ダンナ。ダンナが女の子苦手なのは知ってるってば」

「だったら、俺に何を相談したいというのだ?」

 シャーは、またハムをつまみまながら、酒をちろりと舐めた。猫のようにだらりとした姿勢でひざに片ひじをついて、シャーはジャッキールを見やる。

「あんたにききたいのは、そのこがぽろっともらした人間の名前さ」

「名前?」

 ジャッキールが眉をひそめた。

「アンタは、仕事柄結構そういう裏方面の人に詳しいんじゃないかとおもうんだけどさ。名前知ってないかなーって」

「確かに、ラゲイラのところにいたときはそこそこ詳しかったが、今はあまり情報が入ってこん。俺はごろつきどもの用心棒はせんことにしているので、そういう方面のうわさは直接入ってこんのだ」

「確かにヤクザ連中にゃ、ダンナはちと荷が重いしな」

 シャーは冗談めかして言った。実際、ジャッキールを扱うのは至極難しい。時に発作的に凶暴になる彼なので、雇う方の度量も広くなければいけないのである。自覚はあるので、ジャッキールはどこか自嘲的だ。苦く口の端で笑いながら、ゆったりと杯に口をつけた。

「だから、期待せんほうがいい。きくだけ無駄かもしれん」

「別に何も情報がなくってもいいさ。まだ調べ始めてすぐだし、ぜんぜん情報がねえもんだから、ダメモトだよ」

「わかった。して、その名はなんと言うのだ?」

「ムルジム」

 ジャッキールが一瞬目を見開いたのがわかった。シャーはそれを、杯に口をつけながら、何気ないそぶりで注意深く観察していた。

「ムルジム、さ。その女の子のカレシが狙っている誰かさんの名前」

「ムルジム?」

 ジャッキールの顔に、わずかな動揺が走っている。シャーはすかさずきいた。

「知ってるのかい?」

「いや……」

 ジャッキールは、明らかに何か知っているようだった。だが、その顔をみると、あまり話したくないということもわかる。

「知ってるなら話してくれなきゃ。大切なことなんだよ」

 シャーがそう促すが、ジャッキールは唸って頬をかきやった。

「しかし、俺の知るムルジムは、ここでそんなに話題になるわけがないのでな」

「わかんないじゃないか」

「いや、ムルジムという人間はすでに過去の人間だからな」

「死んでるとか? そういうこと?」

「まあ、そのようなことかな」

 シャーが尋ねると、ジャッキールは含み笑いをした。

 なにやら事情はありそうだが、やはりそのことについて、話したくなさそうである。だが、彼がそう断言しているからには、それなりに信憑性がありそうだったので、シャーはそれ以上追及しないことにした。

「それじゃ、違うムルジムさんってことだろうけど、それには覚えがないんだよな……」

 ジャッキールは眉根を寄せた。

「ああ、そうだな。だが、狙われているといったが、どういう理由で狙われているのだ? 殺し屋かなにかなのか?」

「それがわかんないんだってば。でも、そういう感じのことかもね。なにせ、危険な仕事だっていってたし。もっとも、誰か要人を指し示す暗号ってこともありえるんだけど」

 こういうご時世だし、とシャーはため息をつく。

「そういうこともないわけではないがな。確かに、儲け話といえば、真っ先に思いつく。アレは手当てがいいからな」

 ジャッキールは同意して酒を口に含むと、少し声を低めた。

「結局受け取らなかったが、あの暗殺未遂の時の成功報酬は、それだけで数年何もせずに飯が食えるほどの額だった。もっとも、俺の場合は指揮官としての採用だったし、標的が標的だったから、多少上乗せされていたのだが、計画段階でも口封じ料としてそれなりの給金はもらえたものだ。相手が大臣か将軍でも、それなりに贅沢な暮らしをして余りあるほどの金額はもらえるのは確かだな」

「えー、マジ? そんなに実入りいいの。経験者がいうなら間違いないんだろうなあ」

 シャーは納得して唸った。

「だが、今のところそういう仕事の噂はきいていないな。もっとも、俺はこのところそういう筋とは縁を切っているので、情報が入っていないこともある。念のために、貴様の知り合いの蝙蝠にでもきくとよい」

 蝙蝠というのは、シャーも旧知である銀髪の将軍であるハダート・サダーシュのことだ。あの男は諜報をつかさどっているので、まちのいろいろなこともよく知っている。なにか不穏な動きがあれば、まっさきに何かを掴むはずだった。

「もちろん。あのシトは情報通だもん。明日きいておくってば」

 シャーは、そういいながら背もたれにもたれかかった。いつの間にか杯の酒は飲み干してしまっていたが、すぐに次を飲む気になれず、シャーは杯を手放しておいて両手を伸ばす。

「でもさあ、なんとなくあの人も知らない気がするんだよねえ。何かあったらオレに一言あってもいいようなもんだし」

「そうだな。貴様も耳が遅いほうではないのだから、ある程度は……」

 ジャッキールはそういって顎をなでやって何か考える。意外におっとりとした動作の多いジャッキールなのだが、彼のイメージとどうもそぐわないので、シャーはものめずらしそうにそれを凝視してしまった。

「それでは、アズラーッド。こういうことではないのか?」

 ジャッキールに突然そうよばれて、シャーはやや面食らった。

「へ? 何さ」

「その男は、ムルジムの首があれば裕福になれるといったのだったな?」

「そうだよ」

 ジャッキールのもって回った言い方にややいらだって、シャーはぶっきらぼうに言った。

「だから困ってるんじゃないの。命を狙われる可能性の高い奴は、このご時世には多すぎてよくわかんない」

 ふてくされたようにあくびをしたシャーだが、ジャッキールはシャーの愚痴を無視していった。

「その首というのだが、素直に考えれば、賞金首の話ではないのか?」

「へ? 賞金首?」

 あっけにとられるシャーを尻目に、うむ、とジャッキールはうなずいた。

「そういう仕事の話はよくきくぞ。貴様は知らんだろうが、様々な事情で他人に金をかける輩が案外いるのでな。事情にもよるが、恨みをよほど買っているかなにかした大物なら、それ相応の金が首にかかっていることもままあることだ」

 なにやらわけしり風なジャッキールに、シャーは冗談めかしてきいた。

「へえ、ダンナもそういうの一役買ったりするの」

「まあ、当面の生活費を稼ぐのには手っ取り早いからな。とはいえ、逆に狙われる危険もあるから、仕事はうまく選ばねばならん。賞金と事情をかんがみて、つりあいが取れないものは選ばんようにしているのだ」

「へえ、意外と気をつかってるんだね、ダンナも。でも、そういう筋の話っってどんなとこできけるのさ。仲介してるところがあるってことなんだろ。ダンナの言い方だとさ」

「もちろんある。普通は酒場の体裁をとっていることが多い。余り近寄りたくないが、いくつか心当たりもあるがな。そこでなら、連中が狙う首の情報もきけるのだが」

 ジャッキールは、やや渋い顔をしていった。

「なんだい。いいツテがあるんじゃんか」

 シャーは例の猫なで声でジャッキールに甘えるようにいった。

「じゃあ、案内してよ~。今日はまだ夜も早いじゃん」

「いや、それは無理だ」

 ジャッキールはつれない。それ以上話をしたくないというように、酒を飲みながらつまみを口に入れていた。

「なんでさ。店が閉まってるの?」

「夜も開いてはいるが、今日はだめだ。あの店は物騒だからな」

「ちょうどいいじゃん。最近暴れてないみたいだし」

「その暴れるのが今日は嫌だといっている。せっかく風呂に入って身を清めたばかりなのに」

「はあ~?」

 ジャッキールの思わぬ言葉に、シャーは、容赦なく間の抜けた声を上げた。

「なにヘタレなこといってるのよ、ジャキジャキ」

 シャーはあきれた口調になった。

「アンタ、いっつも暴れたい放題暴れてるじゃないの?」

 ジャッキールは、顔をしかめて首を振った。

「冗談ではない。人聞きが悪い」

「実際、そうじゃないのよ。確かに、今日のダンナは落ち着いてるみたいだけどさあ」

「だから、俺も四六時中ああでは身が持たんといっているのだ」

 彼は深々と息をつくと、野菜の葉が浮かんでいるスープを引き寄せた。さじを入れてすくいながら首を振る。

「暴れる時はそれなりに段階を踏まねばな。まず、暴れたい気分になっていないときでないと、売られた喧嘩を買う気にもならん。激しく疲れる」

「ええ? そんなこといわないでよ、ダンナ。ダンナだけが頼りなのに」

 シャーは大げさに言ったが、ジャッキールは取り合わない。

「悪いがそういうわけなので、日をあらためてほしいのだが」

「ああ、はいはい。わかりましたよお。そうしますう」

 チェっとシャーは舌打をし、そっと小声でつぶやいた。

「ったく、ちょっと暴れたら疲れて、風呂通いが唯一の幸せなんて、爺の楽隠居かよ。もうそのままいっそのこと引退しちま……」

 唐突にガッと胸倉を掴まれて、シャーは思わず悲鳴を上げる。顔を上げると、そこにはすっかり目の色の変わったジャッキールが、口元を引きつらせながら、シャーを恐ろしい目で睨みつけていた。シャーは、思わず息を飲む。そこにいるのは、先ほどまでのどことなく無気力なジャッキールではない。

「年寄りで悪かったな。貴様の言うとおり俺もいいトシなのでなあ!」

 ジャッキールは、怒りをおさえながら笑った。唇の端がわずかに痙攣して不気味に引きつっていた。

「き、聞こえてたんですか。ひ、人が悪いな、ジャキジャキ」

 ジャッキールは、不機嫌そうに手を離してシャーを突き放した。シャーがやれやれと胸をなでおろしている間に、ジャッキールは、やや怒りながら言った。

「ともあれ、そこは危険な場所なのだ。俺にも準備がいるということだ」

「そ、そうだね。ごめんごめん」

 シャーは口先だけそういいながら、先ほどの視線で人も殺せそうなジャッキールの目を思い出していた。

(コイツ、本当に一瞬でなんかいけないもんが降りてきやがるな。アブナイアブナイっていうけど、一番アブナイのはオッサン本人だろがよ)

 さすがに今度は口に出さない。聞かれたら、今度は短剣を抜かれそうである。シャーは、下手にでることにして、猫なで声で言った。

「でも、ジャキジャキー。結構この件、いそいでるんだようー。何とかなんないかなあー」

「急いでいるのなら、明日でよかろう。日が沈んだ後にこの店の前に来い。案内してやる。ネズミ青年も来るのなら、一緒に来たほうがいいだろう。味方は多いほうがいい」

 ジャッキールは、シャーの猫なで声をつめたく振り払うように、ぶっきらぼうにそういったが、ふと思い出したように付け加える。

「ああ、しかし、顔は隠したほうがいい。ネズミ青年も貴様も、自分が思っているよりも名が知られているし、特に貴様はあちこちで恨みを買っているぞ」

「ええ、そうなの。今日も変装したばっかしなのに」

 シャーは、不満そうに言った。やっぱり、自由に振舞っているほうが気が楽なのだ。シャーのようなおしゃべりが、まったく喋れなくなってしまうと、かなりつらいのである。

 シャーが、やれやれと肩を落としていると、ジャッキールは、不意に話を変えてきた。

「だが、そんなことを勝手にやってもよいのか?」

「そんなことってどんなことさ」

 唐突なジャッキールの言葉に、シャーは丸い目をしばたかせる。ジャッキールは、ふむと唸った。

「調べていることは、リーフィさんには秘密なのだろう? 彼女の過去を詮索することにはならんのか?」

「人違いなんだよ。関係ないんだもん、リーフィちゃん」

「そうかな。それだといいのだが」

 ジャッキールの白々しい言い方に、シャーはぴんと片眉をひそめた。

「なんだい。いやにからむじゃない」 

 ジャッキールは焦れるほどゆったりと姿勢を変えて腕を組んだ。

「さて、どうかな。貴様は、本当にそう思っているのかな?」

「何をさ」

「本当はムルジムを追っているとかいう男を知っているのではないかといっているんだ」

 シャーは、反射的に口をつぐんだ。

「さっきから、ムルジムの居場所ばかり気にしているだろう。どうして、当人を積極的に探そうとしない。その娘の周辺を当たれば、名前ぐらい簡単にわかるだろう」

「そ、そりゃあ、あのネズミが、今日はきくのは無理だって言ったからさ。だったらムルジムって奴を調べたら、なんかわかるかなーって」

「それだけかな」

 ジャッキールは、口の端に意味深な笑みを刻んだ。

「俺は貴様が、相手を知っているが、その居場所がわからんから、標的の居場所からどこにいるのか特定しようとしているのだと思っていたのだが?」

 シャーは、むっと不機嫌そうに眦を上げ、ジャッキールを睨んだ。

「何が言いたいんだい、ダンナ。はっきりいいなよ」

「それでははっきりと俺の予想をいうが」

 ジャッキールは、そう前おいてから姿勢を正して言った。

「俺は、貴様はその男が誰かおおよそ予想がついていると思っている。ついで言えば予想はついているが、認めるのが怖いので、あえて名前を呼ぶのを避けているのではないか」

「別にそういうわけじゃないよ。わかんないから相談してるんじゃないか?」

「俺が知っているのではないかと踏んで、俺に相談を持ちかけたのだろう。ということは、相手の男がどういう筋の人間か、ある程度判断できているということではないか。蝙蝠に真っ先に相談しようとしなかったところをみると、大体相手の予想はついているんだろう。先ほども言ったな。蝙蝠は知らないかもしれない」

 ジャッキールに畳み掛けられて、シャーは思わず口をつぐんだ。

「相手はごろつきまがいの男であって、要人暗殺や反乱などに加わるほどの度胸がない。そう、貴様が判断しているということだろう? そして、できればリーフィさんに知らせたくないと、そういうことか」

「リーフィちゃんは人違いで巻き込まれただけなんだぜ、ダンナ。そんなのに巻き込めっていうのかよ!?」

 ジャッキールは、シャーを無視して続けた。

「あの子には関係ないんだよ!」

 シャーの口調はかなりきついものになっていた。口には出さないが、ジャッキールに黙れと態度で迫っていた。

「勝手にアレコレ想像でモノをいわれても困るぜ。オレは本当になんにもわかっちゃいないんだから」

「勝手な想像ではない」

 ジャッキールは冷静に続けた。

「貴様の態度で、俺にはその男がリーフィさんとどういう関係にあったのか、凡その予想がついただけだ」

「関係ない! あの子に関係なんかねえといってるだろう、ジャッキール!」

 シャーは思わず声を荒げた。それでも、酒場の中で人が気を留めるほど、その声は大きくない。

 だが、いつの間にか、まるで飛び掛る前の獣のようにわずかに牙をむきながら、彼はジャッキールを睨みつけていた。ジャッキールは、斜めに彼を見ている。傍目からみれば、それは一触即発の険悪な空気に見えたかもしれない。

 だが、その空気はほんの一瞬で終わり、誰かにその様子が注目されることはなかった。ジャッキールのほうが、苦笑すると腕を広げ、あっさりと謝ったのだった。

「少し立ち入りすぎたな。悪かった」

 シャーはまだ彼を睨んでいたが、ジャッキールのほうは、ごく自然に話を続けた。彼はシャーを宥めるように言った。

「だが、隠していたところで、あの娘はいずれ気づいてしまうぞ。そんなに鈍い女人ではないことぐらい、貴様もよくわかっているだろうからな」

「それは……」

 シャーが言いよどんだところで、ジャッキールは諭すように言った。

「時間をおいてからでも、一言いっておくのがよいのではないか」

 シャーは、ジャッキールにそう優しく言われても黙っていた。なくなった酒を注ぐ気にも、何かを口にいれるつもりにもなれなかった。ただ、獣が唸っているときのような顔をしながら、腕を組んで不機嫌に黙り込んでいるだけだった。

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