3.ネズミの若旦那
夜とは思えないほど明るい街は、シャーが普段余り来ないところである。
彼はこんな金のかかる歓楽街で遊べるような金をもっていないから、近づくことは少ない。とみに最近は、ここに出入りすることがより少なくなっていた。
この通りは、王都一の歓楽街で、少し高めの妓楼や酒屋が並んでいる通りである。
(いつの間にかここも変わったなあ)
なにやら知っている店がなくなって、知らない店がたっている場所もある。シャーは、柄にもなく時間の移ろいを感じてため息をついた。
こういう場所には、客引きの姿も多いのだが、シャーは金がなさそうに見えるのか、はたまた同業者に見えるのか、余り呼び止められることはない。シャーは、思いのほかあっさりと目的地につくことができたのだった。
目的地。それは、小料理屋の路地の裏だ。
「さすがに早すぎるんじゃねえのかなあ」
もうちょっと遅くきてもよかった。シャーは、ひっそりと後悔していた。なにせ、今日会う男は、待たせる分にはいいのだが、待つ分には大変腹の立つ男なのだった。
(でも、余りうろうろしていると、リーフィちゃんに見つかりそうだし)
シャーはため息をつく。今回の行動はリーフィには全て秘密だった。彼女は、べつにあのことについては気にしないで、というばかりなので、これはシャーの独断で行っていることだし、いってみればちょっとしたおせっかいなのだ。リーフィにもしバレて止められたり、最悪嫌われたりしたら、シャーの立つ瀬がないのである。
今日も、ちらりとだけ酒場に顔を出して、弟分がいないのを理由に「また来るね」とだけ声をかけて、とっとと逃げるように出てきたのだ。それなら、いかなければいいのだろうが、シャーとしてはリーフィの様子に変化がないかも心配だし、ちょっとした後ろめたさもあるので、そんな余計な行動にでてしまうのだった。
(うーん、やっぱり、でも、ちょっと後ろめたいなあ)
はあ。と、シャーは深々とため息をついて、暗い路地の壁に背をつけてため息をついていた。
「なんだなんだ? いきなり景気わりぃ面ァみせやがって。そんな面見ると、ツキががた落ちする感じがするなあ、おい」
いきなり、闇の向こうから無遠慮な声が聞こえ、シャーは不機嫌に姿勢を正した。
「なんでえ、もうきてたのかよ。ふん、きてたなら挨拶しろってんだ」
シャーが乱暴にそういうと、相手は鼻先で笑った。派手な上着を瀟洒に斜めに肩にかけて、彼は暗闇から姿を現した。模様の入った上着は、いつももよりもずっと派手だ。
シャーも、べつに地味な男ではない。正直、金さえあれば裏に花の刺繍が入ったきらびやかなマントぐらい好き好んで着たいタイプなのだが、さすがにゼダの着ているほどの派手な服は着られないし、着る気も起こらなかった。しかし、ゼダは着こなしがうまいので、奇抜には見えないし、よく似合っていた。シャーがこの服を着たら、あやしいことこの上なく、下手したら不審者と間違われてしまうだろう。
「おいおい、待っててやったのに、その言葉はねえだろう。まー、オレは最初からそこの向かいの飯屋の二階でくつろいでたから、おめーが来ようとこまいとどっちでもよかったんだが」
ゼダは意地悪くそういって、そっくり返る。
「お前がちょろちょろ現れるのを見て、仕方がねえから降りてきてやったのさ。もうちょっと時間がかかるとおもったが、あー、そうか。さては客引きにもつかまらなかったから、あっさり大通りを抜けられたんだな」
思わず図星をさされてぎくりとしたシャーだが、慌てて首を振ってそれを打ち消す。
「そ、そんなわけないだろ。オレはリーフィちゃんのことがかかっているから、本当にまじめに早めにここにあるいて……」
「まー、それはいいや」
ゼダは興味が移ったらしく、あっさりとシャーを無視して、話をかえた。わざとかもしれない。
「そんで、ミシェのとこにいく準備はしてきたかい?」
「準備って? ああ、顔隠せってことなんだろ」
シャーは、不服そうに口を尖らせながら、手に持っていた袋から布を取り出した。
「とりあえず、この被り物を巻いて顔を隠しとけばいいんだろ」
シャーは、青い布を頭に巻き始めたが、ゼダが肩をすくめて笑った。
「おいおい、いいのかよ。ちゃんと検査したほうがよくねえか?」
「検査?」
「ほら、お前は普段巻物しねえだろうからわからねえだろうが、よくそういうのにさそりやら毒蛇やらが入っててえれえ目にあう奴がいるじゃねえか」
シャーは、鼻で笑って布を振った。
「ふん、何いってやがる。オレが何年ここに住んでるか……」
と、突然布から何かおちてきて、シャーは慌てて足を引いた。なにやら、小さい虫ががさがさと夜の闇に紛れていく。とりあえず、毒のありそうな虫ではなかったが。ゼダがげたげたと無遠慮に笑い声を上げた。
「ほれ見てみろ。油断禁物じゃねーか」
ゼダは、笑いをおさめると、なにやら癖のある視線をシャーに向けた。
「そんな調子で、ミシェにばれねえでいられるかね?」
「ふん、余計なお世話だ」
シャーはぶつくさ不満そうにいいながら、改めて頭に巻いた布の端で鼻から下をしっかり隠す。ぎょろりと目だけが出た状態で、シャーはふてくされたようにいった。
「ほれ、これでいいだろ」
「うーん、そうだなあ」
ゼダは、なにやら急に神妙に、しばらくシャーを眺めやっていたが、急にため息をついて肩をすくめた。
「それじゃあ、ばれるんじゃあねえのか?」
「なんでだよ。ここまでしっかり隠してるんだぜ?」
「おめえさんは、目つきの印象が強烈だからなあ。本当は全体的に隠したほうがいいと思うんだがよ」
さらりとそんなことをいうゼダに、シャーは頬を膨らませる。
「これ以上どーやって隠せっつーんだよ!」
「この際、ちょっと怪しいが、フクロでも被ってるほうが自然じゃねーか?」
「なんだとう!!」
怒るシャーだが、ゼダはついと態度を変えた。
「そんなこと言ってる場合じゃねえだろ。ミシェのところにいくんじゃねえのか。まあ、とりあえず、前髪で目玉かくしてごまかしとけよ。仲間割れしてる暇はねえんだし」
「誰と誰が仲間なんだよ」
涼しげな態度をとられてシャーはますます腹が立ったが、これもリーフィのためだ。確かに、こんなところでもめている場合ではない。しかも、今回は、シャーにとっては凄まじく腹立たしいことに、ゼダの協力がなければミシェから話を聞きだすことができそうにもないのである。
「さて、行くか」
それがわかっているから、ゼダはやたらと意地悪そうな笑みを浮かべて、にやにやしながらシャーの前をひらひら歩く。
(このネズミ……。後で色々と覚えてろよ!)
シャーは、いつか振り下ろす為の怒りの拳をそっと握って、腰の後ろに回しておさめておくのだった。
**
ミシェという女がいる酒場は、歓楽街の大通りを少し入ったところだった。とはいえ、そんな安っぽい場所ではない。普段シャーがいくような場末の酒場ではないのは当たり前のこととしても、それなりの財産がなければ近寄れない場所でもある。ゼダがよく行くようなところということだから、とりあえず、シャーには縁のない場所ということで間違いはなかった。それもあって、シャーはゼダに不本意ながら協力してもらわねばならなかったのだが。
「いいか。おめえは、オレの友達で諸事情で顔を隠してる余所の人間ってことにするからな。言葉もよくわからねえからとかいうことで、喋らねえほうがいいんじゃねえか」
「うー、まあ、それぐらいしか言い訳はないな」
確かに、声を覚えられている可能性もある。今は腹がたってもゼダに従わざるを得ないのだ。ゼダはここぞとばかりに得意そうに笑った。
「とにかく、大人しくしてろ」
「言われなくてもわかってら」
「そりゃ頼もしいな」
ゼダは皮肉っぽく笑うと、急に表情を整えた。どこか優しげでおっとりした雰囲気の顔立ちをつくりあげ、彼はひらひらと歩いていた歩き方を変えた。肩にかけていた上着の袖を通した。それだけで、驚くほど彼の雰囲気は変わる。
と、ふとシャーはゼダから視線をはずした。一人の女が目に入ったのだ。
歓楽街の中にはたくさんの着飾った女たちがいる。もちろん美人も多いので、シャーとしてもあちこち見回してしまうこともある、が、その女に目を留めたのは、別に美人だからではない。
彼の視線の先には、すらりとした一人の女が、なにか他の女と話をしていた。その女は、頭からおそらく昼間見ると鮮やかに見えるであろう色の布を被り、繊細な白い花の細工のついたかんざしで髪をかざっていた。布を深く被っているせいか、顔ははっきり見えない。ただ、ひらひらした女の服と、すらりとしたその体型、そして流れる黒髪が目を引いた。そんな特徴の女はここにはたくさんいるというのに、なぜかシャーは彼女に目を留めたのだった。彼女は、もう一人の女になにか話を聞いているようだった。前々から知り合いだったかなにかのように、少し親しげにみえた。
(あれ? あの子……)
シャーは、なんとなく彼女が気にかかって、しばらくそちらに視線を向けていた。
「おい、どうしたんでえ」
不意にゼダにそういわれ、シャーは我に返った。
「あ? いいや、なんでもないぜ」
シャーは、首を振った。彼の直感のようなものが、何か引っかかりを覚えていたが、ここでぼんやりしていることもできない。
「それじゃあ、行きましょうか、お友達」
ゼダは、声色はそのままだが、随分大人しそうな口調をつくり、優雅な動作でミシェのいるという店の門をくぐった。
店の中は、香ばしい料理と酒の匂い、そして女の化粧の匂いがかすかに漂っていた。料理を運ぶ女の掛け声が聞こえる中、ゼダはなれた足取りで奥へと足を進める。
「ああ、若旦那。いらっしゃいませ」
ゼダを見た女が、そう声をかけた。
「若旦那?」
ゼダは、大商人カドゥサの御曹司だが、普段は使用人のザフを身代わりにたてて、自分が召使のふりをしている。シャーが思わずそうつぶやいたのをきいて、ゼダはシャーにだけわかるような小声で言った。
「ふふん、どこでもおんなじ顔を使ってるわけじゃあねえよ。ここじゃあ、こういう面をしていたほうが得なんでね、場所によって坊ちゃんだったり、小間使いのゼダさんだったりなのさ」
にやりとわずかに口元をゆがめたあと、ゼダはふわりと柔らかな微笑を浮かべた。
「ああ、久しぶりだね。しばらくこちらに寄る機会がなくてね、ご無沙汰してしまったよ」
そういう彼の姿は、まさしくお金持ちの家の若旦那といった風だ。かといって、店の人間は、ゼダがどこの若旦那か言わなかったので、もしかしたらゼダの身上はそれほど知らないのかもしれない。とはいえ、ゼダの近辺にはあの男、ザフが必ずいるはずだから、彼が坊ちゃん坊ちゃんと呼ぶのをきいて、あらかたの身分は判断できるのだろう。
「今日はいきなり現れてしまって、都合がわるかったかな?」
眉をさげて、ゼダは申し訳なさそうに言った。
「いえいえ、若旦那でしたらいつでも歓迎ですよ。ささ、奥へ。あら、今日のお連れ様は初めての方ですの?」
女がシャーに気づいてそういうと、ゼダはすかさずこういった。
「ああ、そうなんだ。友人なんだが、この街が初めてでねえ。商売で付き合っているとある民族のやんごとなき身分の人なのだが、少し事情があってこのままで失礼させてもらうよ」
ぼそりとゼダはシャーに聞こえないように、といっても、聞こえてはいたが声を潜めた。
「実は、顔にひどい傷のあとがあるから、見せたくないということなんだ。とてもいい人だけど、まだザファルバーンには慣れていない。ここの言葉は余り話せないんだ」
(なるほど。口からでまかせは本当に大したもんだな)
シャーは、内心そう舌を巻いた。よくもあれだけ嘘八百がべらべら口から出るものだ。おまけに、気の優しい上品で裕福なお坊ちゃんを装って!
シャーは、自分のことを棚に上げて、そんなことを思いながら、女に案内されてゼダと共に奥の部屋へと向かった。
「今日は、ミシェに会いたくてね」
「あら、若旦那、ミシェがお気に入りかしら?」
「ふふ、いやだなあ。ここにいる子は皆大好きだよ。もちろん、君もね」
優しい若旦那の皮を被ってもゼダはやっぱりゼダである。こういう女の子をコロリと落とす術は、意識しなくても行えるらしい。こういうとき、彼の童顔は特だ。害がなさそうに見えるのだろう。 ゼダがにこりと笑うと、女は少し目を伏せてほっと頬を赤らめる。
「まあ、お上手だわ、若旦那」
「ただ、街中でミシェをたまたまみかけてね。それで急に会いたくなっただけなんだ」
「そうでしたの。ミシェはちょうど手があいていますから、すぐ連れてきますわ」
彼女はそういうと、料理をもってくるのとミシェを呼ぶために出て行った。
「ここの店のコなのかい。そのミシェってコ」
シャーがぼそぼそと話しかける。ゼダは、人のいない一瞬に、本来の彼の表情を端々に見せながら、ああとうなずいた。
「それなりにいい店の女なんだよ」
「ああ。そうみたいだな」
ここまで上品なみせの女の子だとは思わなかった。そういえば、着ているものは結構上等なものだった。
かすかに足音が聞こえてくる。ゼダは面白そうにシャーのほうに目をやった。
「ほれ、やってくるぜ。お前も準備してろよ」
そういうとゼダ自身は、すばやく表情を優しい若旦那に戻した。この男は、自分より変わり身が早い。おまけに、気の弱い地味な従者と、穏やかで裕福な若旦那と、高慢で伊達男な放蕩御曹司をすぐさま切り替えられるのだから。さすがのシャーも真似ができない。
ミシェが、入り口のきらきら光るたますだれを分けて入ってきた。暖色の衣装をまとった姿は、夜の明りのもとではまばゆい。確かに、昼間も見たあの女だった。美しいが気の強そうなはっきりした顔立ちに、ランプの明りで輝く黒髪がつややかだった。
だが、昼間見た彼女とここで見る彼女は、まるで別人に見えた。シャーに短剣を向けたほど、男勝りで気の強い女の子だったのに、ここでみるとなんとなくしとやかで、華やかだった。
「若旦那、ご無沙汰しておりました」
小首をかしげて、彼女は赤い唇を吊り上げて微笑んだ。その声色には、昼間の荒っぽさが感じられない。
「ああ、すまないね。呼んでしまって。君のほうの都合は大丈夫だったかな?」
ゼダは、あくまで控えめだ。
「ええ。ありがとうございます、若旦那」
ゼダは、それなりの常連らしく、ミシェとも相当顔をあわせているらしい。ミシェのほうにもいくらか気安い感じがあった。
「今日は君とお話がしたくてね。つれはここの言葉がわからないのだが、どうしてもここでご飯が食べたいというのでね。君の歌でも聞かせてくれれば、それで満足してくれるというんだ」
「まあ、それは光栄ですわ。それでは、料理のほうをもってきますね」
ミシェはそう答えると、控えていた女たちに料理を運ばせた。
しばらく、ミシェとゼダの間でとりとめない雑談がかわされた。
本当にシャーにとってはどうでもいような話だ。今の旬の料理はどうだとか、最近はやりの服装はどうだとか、シャーにとってはうんざりしてしまうような会話だったが、ゼダはどうやらまんざらでもないようである。案外、ねずみのやつは話し好きなのかもしれない。
シャーは、運ばれてきた料理を、顎のあたりの布の開いた部分からもそもそと食べながら、軽く酒を飲んでいた。今日は、まさか普段のように騒ぐわけにもいかないので、余計につまらないのである。時々ミシェが気を遣うようなそぶりを見せてくるが、余り気を遣われて正体がばれてもいけない。ゼダが「気を遣わないで。彼はいつもこうだから」とフォローのようなものをいれていた。
そんなことが、しばらく続いた後、
「そういえば、街で君を見かけたんだよミシェ」
ゼダは、雑談の合間に、ふと話を変えた。
「この前の夜に思わぬところで君を見かけてね。なんだか、いつもと様子が違うので心配だったんだ」
ゼダは一気に核心に近いところまで話を進めた。シャーには、強引なようにも思えたが、ゼダは今までの会話の積み重ねで、すっかり会話の主導権を握っていた。猫を被っている彼のそれは、一見穏やかで控えめな会話だったのだが、さすがにゼダは食わせものだ。穏やかな男を装いながらも、肝心な部分をしっかり掴んでいる。
「あら、意外なところなんてどこで?」
ミシェがきょとんと首をかしげる。
「ああ、カタスレニア通りでね」
一瞬ミシェがどきりとしたようだった。ゼダはそれをしっかり確認しながら、全くそれに気づいていないふりをしてつづける。
「たまたま、あのあたりに用事があってね、通りがかったんだけど。あのあたりは寂しいところだから、君が一体どうしたんだろうと思って」
ゼダは、優しく言った。
「一体、何の用事だったのかな?」
「ちょっと、調べたいことがあって……」
ミシェは言葉を濁した。ゼダは、かすかに首を振る。
「ごめんね。きいてはいけないことだったかな?」
ミシェは慌てて首を振った。
「いえ、そんなことはないんです。……ただ、ここのところ、困ったことがあったから」
「困ったこと? なにか悩み事でもあるのかい?」
ゼダは、大きな目を瞬いて、その童顔にとろけそうなやわらかい笑みをのせた。
「もし、君が大丈夫なら私に話してくれないか。少しは力になるかもしれないよ」
ミシェはゼダのほうを見た。こころなしか、その目には信頼の色がうつっていた。
(コイツ……)
シャーは、内心あきれ返りながらも感心してしまった。最初から事情をある程度知っているくせに白々しい。そうしている間にも、ゼダはなにやら最後の詰めに入っていた。
「ああ。こちらの彼は、ここの言葉があまりわからないし、それに口も堅いから気にしないで。私も誰にも言わないから」
「若旦那になら、お話してもいいのですが」
ミシェが、ふと折れる様子を見せた。あの強情そうな子が、こうもあっさりと陥落しているのをみると、シャーとしてはちょっと複雑な気分である。ゼダのやつはそんなに魅力的なんだろうか。
「実は、カタスレニアには人を探しにいっていたんです。数日前から」
「人?」
「ええ、女の人を」
ミシェは、ため息をついた。その様子は、昨夜と随分違っている。ミシェは、観念したように顔を上げた。
「実は、その女の人があたしの探している人を知っているときいたんです」
「探している人? それは」
ゼダは、言葉を慎重に選んでいった。
「それは、ミシェの大切な人なんだね」
思わず彼女が、ふと頬を染める。
「秘密ですよ」
少し嬉しそうにいったミシェだが、すぐに彼女は顔を曇らせた。
「けれど、その人は一週間ぐらい前から行方がわからなくなってしまって……。彼の友達にきいても、どこにいったか知らないというの」
「それで君はカタスレニアの女性のところへいったんだね?」
「ええ」
ゼダは、性急に追求しないで、あえて彼女の返答を待った。
「……その女の人が、彼の前の恋人だったというようなことをきいたから」
「君は彼女のところにおしかけたの? そうか、彼が前の恋人のところにいってしまったのかと思ったのだね?」
「ええ。お恥ずかしいことですけれど」
ミシェは、元気のない様子で深く息を継いだ。
「でも、多分間違いだったんだわ」
「間違い?」
「ええ。その人は何も知らないみたいだった。もしかしたら、彼とも何の関係もないのかもしれない」
「人違いだったっていうことだね?」
「そうだと思うんです」
ミシェは、もう一度ため息をついた。
「でも、急にお金が手に入るから、っていって飛び出していって……。彼の行方を知るのに、聞きまわっていたら、もともとの恋人がとても綺麗な人だってきいたから、あたし……」
「本当にその人が好きなんだね、ミシェは」
ゼダは、慰めるようにいって様子を伺いながら、そっと聞いた。
「その、彼、いや、こういうところじゃあ名前は教えてはくれまいね」
彼は自分からそう断った。シャーが名前をきけばいいのに、とばかりに視線を送ってきたが、ゼダはちらりとやった目でそれを否定した。こういう店だけに、心に決めた相手がいるということも余り口外できないのだ。当然、相手の素性など教えるわけがない。万一、その名前が外に漏れれば、場合によっては別れさせられることもあるし、とても厄介なことになる。
「彼は、急にお金が手に入るといって飛び出していったということだけど、詳しい話は君もしらないのかい」
「ええ、全く。ああ、いえ、でも」
ミシェは、記憶をたどるように、途切れ途切れに答えた。
「急に、仕事が入ったんだといって飛び込んできて。彼は、その、借金があって、少し危ない仕事もしているんですが、今回は、特に危ない仕事だって……。ああ、思い出しましたわ」
彼女は、瞬きをしてゼダに向き直った。
「ムルジム」
彼女はぽつりとつぶやく。シャーは、あまり聞きなれない言葉を覆面の下で声に出さずに反芻した。
「『ムルジム』の首さえあれば、俺たちは金持ちになれるんだ。って」
「ムルジム?」
ゼダがききかえして、眉を潜めた。
「その名前は一体なんだろう」
「あたしもそこまでは。ただ、しばらくはムルジムを探すといって出て行ったんです。それから行方がわからないから、あたし……。ムルジム、も調べてみたけれど、一体なんのことなのか」
ミシェが泣き出しそうな顔になった。ゼダは、肩に手をやってやさしく言った。
「大丈夫だよ、ミシェ。その人は無事だ。ムルジムというのがなんなのか、私も調べてみよう。そのうちに、彼の行方もわかるかもしれないよ」
ゼダは、そっと声を低めた。
「ここでは、その名を口にするのははばかられそうだから、何かの機会に私にそっと教えておくれ」
ミシェは、うなずいて頼もしげにゼダを見上げた。
「けれど、私も、ムルジムというのをきいたことがないから、まずはそれを調べてみないと、彼と交差することはなさそうだね」
「けれど、危ないことになりそうでしたら、若旦那を巻き込んでしまうのは」
「いいんだ。私には、色々なお友達がいるからね。彼等に協力してもらうよ」
ゼダは、小声でそういった。
「ありがとうございます、若旦那。そうですね。あたしが考えるより、若旦那はとても強いお方ですもの。そちらの方も、若旦那の頼りになるお友達ですものね」
「ああ、そうなんだ。彼もとても強い男なんだよ」
「まあ、頼もしいわ」
ちらりと彼女はシャーに目を向けた。そして、目が合った一瞬、ふと彼女は首をかしげた。
「けれど、もしかして、どこかでお会いしたかしら」
思わず、シャーはどきりとした。会ったことなんてないです、と思わず言葉が口を突きそうになったが、ここで喋ってはいけない。それをどうにか飲み込んでいるうちに、ゼダが慌てて入ってきた。
「おや? 顔見知りだったのかい?」
「いえ、そういうわけではないのですが、どこかでお会いしたような気がして。でも、あたしの思い違いかもしれませんわね」
ミシェはにこりと微笑んで、思い立ったように腰を上げた。
「お酒がなくなったみたいですから、もってきますわ。そろそろ、追加の料理もできているころですし」
「ああ、ありがとう」
ゼダが微笑んでいうと、ミシェはもう一度愛想笑いをうかべて部屋から出て行った。彼女の足音がリズムよく弾んで遠くに去っていくのをきいたあと、シャーは深々とため息をついた。
「あ、危なかった」
「本当だぜ。俺のほうが焦ったじゃねえか」
一瞬で、ゼダはいつものゼダになっている。どこか据わった様な目をしたゼダは、シャーを横目で見ながらやれやれとため息をついた。
「しかし、オメエ、今日はここで引き上げたほうがよくねえか。ほれ、そこに窓があるからあそこからでていけよ」
ゼダは窓のほうに顎をしゃくった。いきなり彼がそんなことを言ったので、シャーは不服そうである。
「何だと?」
「どうせ俺も今日はこれ以上は聞きだせねえよ。あまり、急いで聞き出すとあいつが俺を怪しみだすだろ」
「それはそうかもな。でも、いきなり帰れってどういう意味だよ」
何となくゼダに指図されること自体が嫌なシャーが、口を尖らせるが、ゼダは肩をすくめて嘲笑った。
「何でもかんでもあるかい。このままだと、ミシェに正体ばれちまうぜ。あの娘、案外勘がいいのさ。そのうち、お前の覆面とれとかなんとかいいだすかもしれないぜ」
「う、それは、まあ」
「だから、今のうちにずらかっちまえと俺はいっているのさ」
シャーは少しうなって、立ち上がった。確かに、このままでは正体がばれてしまいそうである。シャーはあいている窓の桟に手を当てた。部屋は一階なのでどうにか逃げられそうである。
「ちょっと待ちな」
ゼダは、懐から財布を取り出して、その中から硬貨を適当に取り出すとシャーの手に掴ませた。
「お、おい、なんだこれは」
「今日はそのナリじゃあ、ろくに飲めなかったんだろ。恵んでやっから飲みなおしな」
「な、なんだとう!」
思わぬ屈辱に、怒りの声を上げるシャーだが、ふいに足音が聞こえて声を飲み込んだ。
「いけね」
シャーはぽつりとつぶやいて、慌てて外に飛び出した。
同時に扉の開く音と、ゼダの声が聞こえた。
「ああ、ありがとう、ミシェ。友人なんだが、飲みすぎて気分が悪くなったようで、先に帰るということになったんだ。ごめんね。彼は酒がまるで飲めなくてねえ」
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