2.襲撃
夜がふけると酒場の宴も自然とお開きになった。
みんなが家に帰っていく中、シャーもやはり夜の帳の中に姿を消そうとしていた。
路地をひとり歩くシャーは、まるで猫のように足音を消している。時々周りを見回すのは、また恐喝にあうかも、と怯えているからのように見えた。
「シャー」
呼び止められて、びくりとしてシャーは振り返る。ラティーナが、むっつりとした顔で立っていた。
「あ! ラティーナちゃん!」
シャーは満面の笑みを浮かべた。何の期待をしたのか、シャーは嬉しそうに駆け寄ってきた。
「なになに、何の用?」
「さっきの事は忘れて」
金の入った袋をちらつかせ、ラティーナは、シャーの予想に反して冷たく言った。
「あ、あのねぇ。な、何の事かな?」
シャーは首をかしげる。
「聞いたんでしょ? さっきの」
「さ、さっきのって? へ? オレ、酔ってたからわかんないな~……」
へらりと笑ってかわそうとしたところで、シャーは、ひっと声を上げた。
「あたし、本気よ?」
「ちょ、な、なに?」
ラティーナはいきなり短剣を抜き、シャーを近くの建物の壁に押し付けていた。そして、首のところに刃をちらつかせた。
「……忘れないというなら、あたしがあなたを殺すわ」
「そ、そんなぁ。た、確かに、聞いちゃったけど……。あ、あんな大それた事誰にも言わないよ。オ、オレにそんな度胸あるわけないじゃない?」
壁に押し付けられた肩が痛いらしく、シャーは顔をしかめる。
「あ、あの、お願いだから、もうちょっと力緩めてくれない? オ、オレ、こんな風にひょろいので、あまり手荒に扱われると」
「手荒に? ……ホント、あんたって意気地なしなのね!」
あきれたような怒ったような口調で、ラティーナは言った。
「……忘れる? だったら、手を放してあげるわよ」
「わ、忘れるったって、一度記憶した事を頭から消すのは難し……」
「ごまかすんじゃないわよ!」
ラティーナは、きつく言ったが、シャーのある意味哀れな顔を見てため息をついた。そして、少し手の力を緩めると、金と一緒に酒の入った瓶を一本、シャーの手に握らせた。
「……これで、忘れられるわね?」
「え、こんなにいいの? そ、それじゃあ、その、ど、努力してみようかなあ」
酒の匂いに惹かれているのか、シャーはすでに上の空である。
「努力じゃダメよ。……お願い。忘れて。あんたは密告するほど度胸は無いと思うけど、覚えてたらいいことにならないわ」
「……え?」
シャーは、少し驚いたようにラティーナを見た。少しうつむき加減に、ラティーナは小さい声でいった。
「巻き込みたくないの」
シャーは、何も言わず、少し彼女を見つめていた。
「うん、わかったよ」
シャーは、少しうつむいて言った。
「忘れる」
「そう……」
ラティーナは、ほっとして、短剣をおろした。同時にシャーもずるずると壁にもたれて崩れ落ちる。
「……そんなに恐い顔しないでよ」
そういいながらも、手はすでに酒瓶の栓をぐいぐいと引っ張っている。心底ダメな男だと、ラティーナは思いながら、彼の前から靴音を立てて遠ざかった。後ろからひときわ大きな声が聞こえた。
「あ、ラティーナちゃん! 一人歩きは危ないよ? 気をつけてね。変なのが多いから!」
(あんたも変でしょ?)
心の中で一発お見舞いして、ラティーナは振り返る事も無く、そのまま歩いていった。
暗い道を歩きながら、ラティーナは不意に思う。あんな風に軽くて腹が立つけれど、あのシャーという男もいい奴ではあったのである。
それだけに計画の一端を聞かせてしまったことには後悔していた。
(関わらなきゃよかった)
何故かラティーナは”あの人”を思い出していた。少し厚顔無恥なところがあるのは全く違ったが、それでも何となくあの人を思い出させるような温かみがある。どうしようもない男だと思ったけれど、確かに酒場の連中に好かれるだけあって、彼には妙な魅力があった。ラティーナも、何故かしら彼に影響されている。
この一件に巻き込めば、きっとシャーは消されるだろう。
彼の腕で、彼のあの態度で、あんな哀れみをこうような顔をして消されるのが目に見えている。うっとうしくて、腹が立って、いらだって、まるでどうしようもないダメ男で……。けれど、不思議と彼を誰かに殺させたくなかったし、傷ついて欲しくもなかった。このまま、できれば幸せに平穏に暮らしてほしい。
あのアティクやカッチェラといった連中が言ったように、そういう風に感じさせるところのある不思議な男だ。
(人違いだなんて……。あたし、どうかしてるわ。あんなやつと)
よくあるとはいえ、シャーとレンクはまるで月とすっぽんだ。
(明日、本当のシャーに会おう)
そう心に決め、ラティーナはひとまず戻る事にした。
不意に、寒気がした。ラティーナは咄嗟に、後ろに飛び下がる。
「はっ!」
いきなり突きつけられたものに、ラティーナはびくりとした。銀色に光る刃が、彼女の鼻先に突きつけられていた。
「ラティーナ=ゲイン=サーヴァンだな?」
「何よ? あんたたち……」
聞かなくても用件はわかる。命を狙ってきたのだ。
目の前には、黒い布を顔に巻きつけた男たちがいた。着衣も黒っぽいもので、皆が武器を帯びている。黒いマントがわずかに風に揺れる。暗がりでわかりづらいが、五人はいるようだった。
ラティーナは思わず身を引いた。逃げようとするが、後ろ以外の道はふさがれていた。怯えたようにあとずさる。短剣を抜いてみるが、かないそうはない。
いきなり、後ろから肩をつかまれた。ラティーナの全身に氷のような冷たさが走った。
「ラッティーナちゃん~!」
底抜けに明るい声とともに、微かに酒臭い匂いが漂った。
「シ、シャー!」
「心配なんでついてきてしまいました~ぁ。だって、そうだよなあ。うん、女の子には戦士が必要よ? 護衛の戦士ね」
「何が戦士よ! ろくろく役にも立たないくせに!」
ラティーナは、黒装束の男たちを思い出してシャーを後ろに追いやろうとする。
「どっかいって! あたし、ひとりで大丈夫よ!」
「あんなところに、黒装束のおじさんたちがいるのに?」
シャーは想像以上に目が良いらしく、向こうで急な乱入者に戸惑っている男たちを指差した。
「あれは……」
ラティーナが止めに入ったとき、シャーは大声を上げた。
「おーい。そこの黒装束―」
シャーは、まだ酒の香りのする息を吐きながら、ひょいっと手を上げた。
「オレさまとしょーぶだ~!」
ろれつが回っていない。しかも、足元がふらついている。ラティーナは、慌ててシャーを止めにかかった。どうせ、さっきあげた酒瓶を飲み干したに違いないのだ。酔った勢いで思わず気が大きくなっているに違いない。
「あんたは、あたしに関係ないわ」
「そういうわけには、いかないよ~。だって、ラティーナちゃんは、オレを頼ってくれたんだもんね」
舌を軽く出して、シャーは笑った。
「何よ、この酔っ払い! さっさと帰んなさい! 殺されるわよ!大体、あれは人違いだったじゃない! 頼ってなんかいないわ!」
「あ、そんな顔すると、とってもかわいいじゃん。ラティーナちゃん。あっはは~。オレを心配してくれてるんだぁ」
「何のんきな事言ってるの! あんた、酔っ払ってるからわからないだけなのよ! やめときなさいってば!」
ラティーナはシャーを突き飛ばそうとしたのだが、ふらふらしているくせに、なぜかシャーはびくともしない。それに驚きながら、それでもラティーナは叫ぶ。
「さっき、嫌だっていったの、そもそもあんたでしょ! お願い! 逃げて!」
「……そうもいかないんだよなあ」
ふざけた表情がやけに腹立たしい。ラティーナは、泣きそうな顔をした。
「お願い!」
「……でも、それじゃあ、困るのはあんただよ。目的があるのに、命を粗末にしちゃったらいいわけないじゃないか」
シャーが急に優しい声で言ったので、ラティーナは、はっとして彼を見上げる。彼は予想外に神妙な顔をしていた。酔っぱらっていたのではなかったのか。
「今回はオレを信用して、さ」
カシン……と軽い音を立てて、鯉口が切られる。
その気配が、急にガラッと変わっていた。冷たく不穏な空気が一瞬にして彼の全身を支配する。
彼女はあっけにとられて、シャーから手を離した。シャーは、無意識に少し腰を落としながら相手に近づいていった。
「自殺志願者か! 邪魔をするな!」
黒装束の男が声を荒げる。
「あっはっは。自殺はやだなぁ~。でも、おっさん達が暇そうだから、遊んであげようかなっと思って」
わざらしく馬鹿にしたような笑みがシャーの口元に浮かぶ。そして、不意に酔っ払ったものにはできない冷静な光を瞳に宿して、彼はこういった。
「だってさ~、飼い犬は遊んでやらなきゃ暇だろ? ……なぁ、あんた達、いったい、何処の飼い犬さんだい?」
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