6.”彼”の噂
翌日、またこりもせずにシャーは酒場にふらっとやってくる。もちろん、自分の金はほとんど持っていない。持たずにやってくるというよりは、財布を持っていても、中身がほとんどないだけだ。
今日は珍しく曇っていて、いつか雨がこぼれそうな空だった。
ふらっと酒場に入り込むと、シャーはいつもの奥の席に座る。カタスレニアの大体の酒場と食堂には、シャーの「指定席」なるものが存在しており、大体奥の壁側だ。シャーは壁に背をつけつつ、いつもちまちま何かを飲んだり、食ったりするのである。
今日の酒場はがらんとしていた。働いている店番の娘が一人いるだけで、店主も誰もいない。だが、それでも、シャーが酒場に来ると、いつのまにやら弟たちがやってきて、そこそこ人が入るようになった。酒を飲むシャーの右手には、包帯が巻かれているので、彼らは幾分か怪訝な顔になった。
「あれ、兄貴、どしたの? それ」
「あー、昨日、珍しく料理しようとしたらずばーっと切っちゃった」
シャーはぬけぬけとそんなことを言いながら、大きな目玉をひょいっと彼らに向けた。やる気のない、少々眠くなるような目だ。彼らは気のないシャーの目を見ながら、どうでもよさそうに納得しあう。
「なるほど」
よく考えるとシャーが切っているのは左手でなく右手だ。右利きのシャーが、包丁で右手を切るはずがないのだが、彼が「やっちゃった」といえば、それで信用されるあたりもまた彼の人徳といえないこともない。確かに、普段のシャーを見る限り、右手に包丁を握りながら、右手の甲をうっかり切りそうな気配がある。
「ねえ、ウェイアードって知ってる?」
「ウェイアード?」
急に隣でシャーのことなど知らぬ顔で茶を飲んでいたカッチェラが、口を挟んできた。
「ウェイアードってカドゥサのウェイアードですか?」
「そう、多分それじゃないかなあ」
カッチェラはため息をついた。
「兄貴、いくら女遊びがしたいからって…。あいつとつるんだんですか?」
「そうじゃないってば。ただそのお方とお知り合いになれば、オレみたいな文無しでも、郭遊びなんて夢のまた夢が~、うふふふふ~って思っただけ」
カッチェラはあきれ果てたような顔をした。
「脳天気でいいですね、兄貴は。そんなこと考えてると、ウェイアードに殺されて、砂漠で干からびてそうで、オレは不安になりますよ」
「えっ、何それ」
シャーは意外そうな顔をする。
「ありゃ、その道では結構名が知られてるんすよ。まぁ、カドゥサも相当きたねえ商売してますからね」
カッチェラは情報通だ。王都の暗黒組織の情報から、うまい料理を出す店まで、この街のありとあらゆる情報を収集しつくしている。ただの好奇心かららしいが、彼が一体どこから情報を得ているのかはよくわからない。だが、さすがのカッチェラでも、シャーのことはよく知らない。多少シャーが暴れていても、シャーという男の普段のあまりの駄目っぷりに、噂が全く広まらないのである。根も葉もないということで、あっさりと立ち消えてしまうのも、もしかしたら彼の人徳というやつなのかもしれない。
「噂によると、そりゃえれぇ美男子らしいですから、ホントは金なんかなくても、女がよりつくタイプらしいんですけどねえ」
「それじゃ、フツーじゃない。それって、そんな奴にオレみたいな妙なのが近づいたら、女の子の親衛隊に蹴り殺されるっていいたいの?」
「兄貴は怪しいですから、あり得ないとはいえませんけど、そうじゃないんですよ」
怪しいところは綺麗に否定せずにカッチェラは言った。
「あの野郎、相当腕が立つんですよ」
一瞬、酒を飲むシャーの手が止まり、目がいつもと違う光を帯びたことを、おそらくカッチェラは気づいていない。
「えぇ、なんだかわかんないですが、奇妙な武器を使うとかで」
「奇妙な武器? どんな?」
分かっている癖に、シャーは、すっとぼけてそんなことを訊く。表情はいつものままなので、おそらく誰も怪しまない。
「オレもよくしらねえんですが、剣の部類なんですけど、鎌みたいに、こう、切っ先に向けて刀身が極端に曲がってるんですよ。お陰で鞘にはいらねえんで、吊り下げたまんま歩いているってはなしですぜ。……もっとも、普段は布にはくるんでるそうですが」
「へぇ、そうなんだ」
「ええ、元々、カドゥサってえのは、ザファルバーンの人間じゃねえらしいですからね。元々の故郷の武器なのか、それとも、どこかで覚えてきたものなのか……」
「なるほど。そういえば、西の国には、そんな武器があるっていうよね」
シャーは、別に酔っているわけでもない目を、壁の方に向けて、あごをなでた。と、その時、不意にせわしない足音が聞こえた。
シャーがひょいと入り口の方に顔を向けると、ちょうどサリカとリーフィが並んで入ってくるところだった。今日はサリカの酒場にきたわけなので、サリカがいるのはまあ当然である。だが、リーフィは一体何をしに来たのだろう。自分に会いに来たわけでもなさそうだった。
なにやらぶつぶつとサリカは酒場には行って来るなり文句を言っていた。リーフィはそれをなだめているようだったが、サリカの機嫌はおさまりそうにない。 「サリカ、そんなに焦っても仕方がないでしょう?」
リーフィは、やや困惑気味に、といっても、最近、リーフィの表情を見慣れたシャーでも、ほとんど分からない程度に眉をひそめていった。サリカの方は、ややオーバーなほどに両手を広げて、振り返る。
「焦らないでって……! リーフィねえさんは嫌じゃないの? なんで、今になって、あたし達が身売りされなきゃならないの!」
「だから、落ち着いて。……まだ、そうなるとは決まっていないわ」
リーフィが落ち着いているのは、おそらく、元からあきらめが入っていたからで、サリカは諦め切れていないからなのだろう。そもそも、リーフィは今まで苦労が多かったので、自然とそういう風に割り切れるのかもしれない。だが、リーフィよりも年下で、彼女よりもきつい性格のサリカは、到底冷静になどなれない。
「リーフィねえさんはいつもそうなのよ! すぐに諦めたりして! ねえ、逃げましょう! こんなところから逃げるの!」
「サリカ、ここはお店なのよ。そんなことをこんなところで話すものじゃないわ。冷静になりなさい」
「マスターも誰もいないのよ! いいじゃない! 今なら!」
サリカは興奮気味にいった。感情が先走るタイプのサリカは、こうなると少し手がつけられないようだ。
「あ、あの~……ちょっといい?」
リーフィが困っている様子を見てか、店の隅っこにいたシャーがこそこそとやってきた。
「何よ!」
感情が高ぶりすぎたせいか、涙目になっているサリカだが、シャーを睨むときの強い視線はかなりのものだ。思わず射すくめられて、シャーはびくりとする。それでもシャーは、おずおずと、サリカの表情を伺いながら口を開いた。
「あ、あのねぇ、サリカちゃん。……何があったかしらないけど、とりあえず落ち着いてみてよ。ねっ、何かみんなで相談すればいい知恵もでるかもしんないし……。と、とにかく、マスターがいないからっていって、そんな無茶なこといって、サリカちゃんが後で怒られたらまずいよ」
サリカは無言である。わかってくれたのかもしれないと思い、シャーはそうっと近づいた。
「ね、事情を話してくれれば……」
そこまでシャーの声が響いた直後、パーンという乾いた音が鳴った。思わずシャーは、後ろの床にひっくり返る。ひっぱたかれた頬を左手で押さえつつ、シャーはそうっとサリカを見た。涙目のサリカの目には、怒りの色が映っている。
「鬱陶しいのよ! あんた!」
一瞬、酒場の全ての空気が止まったような、そんな感覚がした。サリカは続けて、シャーをいくらか罵る。そして、泣き叫ぶような声で怒鳴りつけてきた。
「あたし達の気持ちなんて、全然わかってないくせに!」
「サリカ!」
リーフィが少し鋭い声で言った。
「サリカ、シャーに謝りなさい!」
サリカはリーフィを見る。無表情でほとんど感情を表に出さないリーフィが、ここまで相手をかばうのは珍しいことだ。しかも、こんなシャーのような男相手に。サリカは、不満そうにリーフィに視線を向ける。
「リーフィねえさん!」
「サリカ、シャーだって、悪気があって鬱陶しいわけじゃないのよ。それに、シャーはあなたのことを考えてくれているから……!」
「リーフィちゃん……、かばってくれてうれしいけど、なんか今、オレの心に冷たいものがぐっさり刺さった」
シャーはぽつりとそういうが、リーフィはきいていないらしい。彼女にはそもそも他意はなさそうだし、自分がひどいことを言っていることにもあまり気づいてないらしい。
「最近、ねえさん変よ! そんな奴かばったりして」
「サリカ……。シャーは……」
リーフィが説明しようとしたが、ふとシャーが微かに首を振ったのが見えた。自分が、関与していることは言うなということだろう。リーフィが言葉に詰まると、サリカは、むっと下顔になった。
「リーフィねえさん、そんな奴に同情して、それでいい仲になったんじゃないの!」
「大丈夫、そういう可能性はないわ」
(うわ、ものすごくきっぱり否定された)
急にさらりと否定され、シャーは内心哀しかったが、とりあえず、そろそろこの騒ぎをおさめねばならない。慌てて彼は立ち上がった。
「リ、リーフィちゃん、もういいよ。ごめんね」
そして、サリカに向き直る。
「ご、ごめんね、オレ、何やらサリカちゃんの神経逆撫でたみたい。そんなつもりはなかったんだけど、ちょっと、オレ、今日出直してくるわ」
そういって、シャーはさっと酒場から出ていく。その後を慌ててリーフィが追いかけていった。
酒場にいたシャーの舎弟達は思わず呆然としたり、女の怖さを身に感じたりして静まりかえっている。ただ、サリカだけが、シャーとリーフィの去った入り口を、睨みつけるようにまだ見つめていた。
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