七時、わたしは会社近くの飲み屋にいた。いや、飲み屋ではない。オカマバーだ。不思議と通い慣れた場所。そして、自分の部屋には念のためメモを残してある。ユウキが来てもいいようにだ。きっとユウキは事件のことを知らない。

 けれど、事件は起きてしまった。もし今ユウキと会うと、わたしは本当にユウキを壊してしまうと思う。愛おしいほどに細い体。力を入れれば折れてしまいそうな、それに抗う自信が今はない。

 死の甘美な誘惑を知ってしまった今、一体どうやってそれに打ち勝てというのだろう。まるでニュクスの海に溺れてしまったようで、もはや擬似的な体験では満足できまい。

 そして、最大の問題は、である。

「あら、今日は一人、珍しいわねぇ」

「気まぐれですから」

「こんな可愛い子が一人なんて、もったいないわ」

 隣に座った髭の濃いオカマがグラスに酒を注ぐ。

「そんな日もあります」

「けんか?」

「違います。それに誰とですか? あなたたちも聞いてるでしょ、先日の」

 わたしがそう言うと、ああ、というため息がそこかしこに聞こえた。

「あの人も、いい常連さんだったのにねぇ」

 確かに、部長もよくこの店にいた。というよりも、営業部のご用達の店である。今も、数人の客があるが、どれも知った顔だ。歓迎会が決まってこの店だという不思議な風習もあるのだが、はまってしまう人が多いらしい。かくいうわたしもその一人だ。

「部長って結婚してたの?」

「してないはずだわ。ねぇ、マリンちゃん」

 呼ばれたマリンは、巨大な体をくねらせながら、こちらに近づいてきた。

「いないはずよ。でなきゃ、あたしに言い寄ってくるはずないんだから」

「はぁ」

 本当だろうか。いずれにせよ、あのアパートに一人で住んでいたことは間違いない。

「彼ったら積極的でね、結構プレゼントしてくれたものよ」

「恋人は?」

「どうだろう。いるような雰囲気はなかったけどねぇ」

「そうね。あんなのに恋人なんていいるわけないか」

「何それ、ちょっと柚衣ゆいちゃん、あんなのに興味があるの?」

「わたしが発見したうえに、わたし疑われてるんだから。屈辱よ」

「あらまぁ、大変ねぇ。そうそう、それなら昨日ね、刑事さんが来て色々聞いてったわよ」

 刑事?

「警部かもしれないけど。ほら、彼が殺された日、彼、ここで飲んでいたから」

「本当?」

「ええ。彼と副部長さんと、あおいちゃんに涼子きょうこちゃんの四人で」

「何時ごろまで?」

「さあ、九時ぐらいだったと思うけど。その後は知らないわ」

「意外だわ」

「あら、柚衣ちゃんよりも常連よ」

「だって、意外、だもの」

「うふふ、柚衣ちゃんは可愛いわね」

 わたしはそれから、一杯のアルコールでかなりの時間を費やした。




 家に帰るとメモが増えていた。ユウキが返事をくれたのだろう。

「そんなことが起きていたんだね、知らなかった。新聞なんて読まないし、ニュースには取り上げられていなかったな。ユイの立場も分かるよ。ボクはじゃまなんだね。ああ、気を悪くしないでよ。ボクのがずっと前から望んでいたのに、先を越された気分だ。だけど、しょうがないよね。ユイが殺したわけじゃないんだし」

 そう、わたしが殺したのではない。それは確かだ。もしわたしが人を殺したとしたら、わたしは逃げない。その場から離れない。そしていつまでも絶頂を迎えていられる。

 死体となった佐々木ささきでさえ、あれだけの恍惚をわたしに与えてくれたのだ。思い出すだけでも体が熱くなる。無理やり引き剥がされたとき、どれだけわたしが抵抗したことか。

「だからボクはしばらく待つことにするよ。ユイのほとぼりが冷めるまで。そしたら、どうか、ボクを殺してくれよ。ボクはずっと待ってるんだ。お金なんていらない。それが、ボクの望みなんだから」

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