警察が来たのは、それからわずか十分後のことだ。管理人が部屋から這い出して管理人室から電話を掛けたらしい。

 わたしの頭と視線は固まってしまっていた。誰かがわたしを羽交い絞めにして、部屋から連れ出した。





「お名前は?」

前田柚衣まえだゆいです」

「ありがとう。ようやく答えてくれたね。わたしは日比野ひびのと申します。よろしく」

「はい」

 日比野は丸い顔に笑顔を見せた。愛想はいい。

「発見時の状況を教えてください」

「はい」

 それでわたしは、会社に来てからのことを話した。部長が朝会社に出社しなかったので、副部長から所在を確認してくるように言われたこと、それでこのアパートまで来たこと、ノックをしたが返事がなかったこと、窓から中を見たら、寝転んでいる足が見えたこと、布団が赤く染まっていたこと、管理人室へ走ったこと、管理人と一緒に中へ入ったこと、以上だ。

「失礼ですが、あなたと佐々木ささき部長の関係は?」

「上司と部下です」

「それ以上の関係は?」

 わたしは理解できずに首をひねった。

「では、どうして彼に触れたのですか?」

「まだ生きているかもしれないと思ったからです」

「それは正しい判断です」

 日比野は頷く。

「けれど、残念ですが佐々木直人ささきなおと氏は亡くなっています。おそらくほぼ即死でしょう。包丁で胸を一刺しです」

「はい」

「あの状態で、生きている可能性を考えられるとは、すばらしいことです」

「すいません」

「謝ることではありません。こちらとしては、極力そのときの状況を残しておいて頂きたかったものです。どうして、触ったのですか?」

 わたしは日比野の顔を見た。鋭い眼光がこちらを睨んでいる。

加藤かとう、鏡を」

 加藤と呼ばれた男が返事をし、隣の机にあった鏡を取り、それを日比野に渡した。そしてそれをわたしに手渡す。

 わたしの心臓は再び激しく跳ねた。

 血だらけだ。

 顔も、服も、血で汚れている。部長の血なのだろう。

「お二人の関係は?」

「上司と部下です。それ以上でもそれ以下でもありません」

「いいでしょう。それならば、自分の行為の説明をしてください」

「……分かりません」

 日比野はため息をついた。

「お疲れのようだ。それに服も汚れている。今日はこのまま帰ったほうがいい」

「会社へ」

「もう連絡はついています」

「すいません」

「送らせましょう」

「いえ、結構です」

「その格好はよくない。送らせます」




 結局パトカーに揺られて、わたしは家に帰った。

 すぐにシャワーを浴びようかと思ったが、先に携帯を取り出して電話をかけた。

「もしもし?」

「今週やっぱりキャンセルしたい」

「どうしたの、ユイ?」

「だって、わたし、最高だから、今」

「なんだよ、それ」

「今のわたし、最高に危険」

「とにかく、明日会いに行く」

「死にたいの?」

「ユイになら殺されてもいいって言ってるだろ?」

「明日会うと現実になるかもしれない」

「明日、七時」

 電話が切れた。




 翌朝、目覚めは警察の訪問だった。最悪の気分だ。

「すいませんね、突然お邪魔をしてしまって」

「いえ」

 現れたのは日比野だ。丸い顔が面白い。

「いえね、まあ、分かっていると思いますが、昨日の事件の件です。正確には一昨日ですね。一昨日の九時半ごろのあなたの所在を伺いたいのですが」

「答えなければなりませんか?」

「これも仕事でして」

「一昨日は、確か疲れていましたので、その時間にはもう眠っていたと思います。仕事で残業をして、帰ってきたのが八時くらいでした。本当に疲れていたので、お風呂にも入らずにベッドに倒れたくらいですから」

「裏付けることは」

「できません」

「結構です」

「わたしを疑ってるんですか?」

「それが仕事ですから。被害者の佐々木直人氏は、正面から心臓を一刺しされています。彼の体格を考えると、それは簡単なことではありません。我々は顔見知りの犯行と見ています。それも、かなり親しい人」

「わたしは昨日まで部長の家を知りませんでした」

「ですから、総務部で彼の住所を調べたのでしょう」

 そんなことまで調べられているのか。

「彼の人間関係で、特に親しい人といって、誰がいるでしょうか?」

「さあ。あまり人気のある人ではありませんでしたから。どちらかというと嫌われていたと思います」

「あなたも嫌いでしたか?」

「はい。嫌いです。ですが、殺したいほど嫌いではありません。いえ、殺すほどに嫌いという感情を持ち合わせていません」

「殺すに値しない、と」

 私ははい、と頷く。

「他に、彼のことを嫌っている人はいましたか?」

「部署の人は、みんな嫌いでしょう」

「特に」

「わたしの隣の席の、涼子りょうこ先輩はいつも部長とけんかをしていました」

「涼子先輩?」

「部長は、わたしたちをみんな呼び捨てにするんですが、涼子先輩は呼び捨てにされる度に怒っていました。怒鳴りあいはいつものことです」

「ほうほう」

 日比野はノートにメモを取った。

「ですが、涼子先輩にとっても、殺す価値なんてないと思います」

「どうしてそう思いますか?」

「あの男に、そんな価値があるとは思えません」

「なるほど、厳しいですね。もう死んでしまいましたが、今でもそう思いますか」

「……そうですね、厳しすぎました。忘れてください」

「他には?」

「誰も、彼を殺すほどの関係を持っているとは思えません」

 メモを見ながら、日比野は唸る。

「一つだけ、もう一度確認させてください」

「何ですか?」

「あなたが昨日彼の家に行ったとき、鍵は閉まっていた。間違いありませんか?」

「はい」

「変ですね」

「何がですか?」

「鍵は室内にありました」

「合鍵があるのでしょ?」

「あるかもしれません。ですが、あの建物自体が古いものでしてね、彼が持っていた鍵では簡単には合鍵が作れないそうなんです」

「難しくても作れるのでしょ?」

「まあそうですが」

「合鍵を持っている人が犯人とうことですね」

「合鍵があれば、そうなります」

「ないと……」

 ないと?

「もし、合鍵がなかったのだとすると、事態は深刻になります。あなたがあそこへ行ったとき、鍵は閉まっていた。そして鍵は室内に落ちていた」

「彼の近くにあったのですか?」

「そうです。正確には彼の足元付近に落ちていました。そして最悪なことに、あなたの指紋が見つかっています」

「それは……」

「あなたが死体を抱いたとき、無意識に触ってしまったのでしょう。そう解釈もできます」

 胸が痛い。

「あなたなら犯行は可能です」

わたしは何も言えない。

「ですが、あなたがあの部屋に鍵を掛かっていたことを証言し、あなたが最初に彼の死を発見しました。あなたが犯人だとすると、行動があまりにも矛盾しています」

 そこで一呼吸置くと彼は続けた。

「あなたが、非常にまずい立場にあることを理解してください」

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