4
警察が来たのは、それからわずか十分後のことだ。管理人が部屋から這い出して管理人室から電話を掛けたらしい。
わたしの頭と視線は固まってしまっていた。誰かがわたしを羽交い絞めにして、部屋から連れ出した。
「お名前は?」
「
「ありがとう。ようやく答えてくれたね。わたしは
「はい」
日比野は丸い顔に笑顔を見せた。愛想はいい。
「発見時の状況を教えてください」
「はい」
それでわたしは、会社に来てからのことを話した。部長が朝会社に出社しなかったので、副部長から所在を確認してくるように言われたこと、それでこのアパートまで来たこと、ノックをしたが返事がなかったこと、窓から中を見たら、寝転んでいる足が見えたこと、布団が赤く染まっていたこと、管理人室へ走ったこと、管理人と一緒に中へ入ったこと、以上だ。
「失礼ですが、あなたと
「上司と部下です」
「それ以上の関係は?」
わたしは理解できずに首をひねった。
「では、どうして彼に触れたのですか?」
「まだ生きているかもしれないと思ったからです」
「それは正しい判断です」
日比野は頷く。
「けれど、残念ですが
「はい」
「あの状態で、生きている可能性を考えられるとは、すばらしいことです」
「すいません」
「謝ることではありません。こちらとしては、極力そのときの状況を残しておいて頂きたかったものです。どうして、あんなにも触ったのですか?」
わたしは日比野の顔を見た。鋭い眼光がこちらを睨んでいる。
「
加藤と呼ばれた男が返事をし、隣の机にあった鏡を取り、それを日比野に渡した。そしてそれをわたしに手渡す。
わたしの心臓は再び激しく跳ねた。
血だらけだ。
顔も、服も、血で汚れている。部長の血なのだろう。
「お二人の関係は?」
「上司と部下です。それ以上でもそれ以下でもありません」
「いいでしょう。それならば、自分の行為の説明をしてください」
「……分かりません」
日比野はため息をついた。
「お疲れのようだ。それに服も汚れている。今日はこのまま帰ったほうがいい」
「会社へ」
「もう連絡はついています」
「すいません」
「送らせましょう」
「いえ、結構です」
「その格好はよくない。送らせます」
結局パトカーに揺られて、わたしは家に帰った。
すぐにシャワーを浴びようかと思ったが、先に携帯を取り出して電話をかけた。
「もしもし?」
「今週やっぱりキャンセルしたい」
「どうしたの、ユイ?」
「だって、わたし、最高だから、今」
「なんだよ、それ」
「今のわたし、最高に危険」
「とにかく、明日会いに行く」
「死にたいの?」
「ユイになら殺されてもいいって言ってるだろ?」
「明日会うと現実になるかもしれない」
「明日、七時」
電話が切れた。
翌朝、目覚めは警察の訪問だった。最悪の気分だ。
「すいませんね、突然お邪魔をしてしまって」
「いえ」
現れたのは日比野だ。丸い顔が面白い。
「いえね、まあ、分かっていると思いますが、昨日の事件の件です。正確には一昨日ですね。一昨日の九時半ごろのあなたの所在を伺いたいのですが」
「答えなければなりませんか?」
「これも仕事でして」
「一昨日は、確か疲れていましたので、その時間にはもう眠っていたと思います。仕事で残業をして、帰ってきたのが八時くらいでした。本当に疲れていたので、お風呂にも入らずにベッドに倒れたくらいですから」
「裏付けることは」
「できません」
「結構です」
「わたしを疑ってるんですか?」
「それが仕事ですから。被害者の佐々木直人氏は、正面から心臓を一刺しされています。彼の体格を考えると、それは簡単なことではありません。我々は顔見知りの犯行と見ています。それも、かなり親しい人」
「わたしは昨日まで部長の家を知りませんでした」
「ですから、総務部で彼の住所を調べたのでしょう」
そんなことまで調べられているのか。
「彼の人間関係で、特に親しい人といって、誰がいるでしょうか?」
「さあ。あまり人気のある人ではありませんでしたから。どちらかというと嫌われていたと思います」
「あなたも嫌いでしたか?」
「はい。嫌いです。ですが、殺したいほど嫌いではありません。いえ、殺すほどに嫌いという感情を持ち合わせていません」
「殺すに値しない、と」
私ははい、と頷く。
「他に、彼のことを嫌っている人はいましたか?」
「部署の人は、みんな嫌いでしょう」
「特に」
「わたしの隣の席の、
「涼子先輩?」
「部長は、わたしたちをみんな呼び捨てにするんですが、涼子先輩は呼び捨てにされる度に怒っていました。怒鳴りあいはいつものことです」
「ほうほう」
日比野はノートにメモを取った。
「ですが、涼子先輩にとっても、殺す価値なんてないと思います」
「どうしてそう思いますか?」
「あの男に、そんな価値があるとは思えません」
「なるほど、厳しいですね。もう死んでしまいましたが、今でもそう思いますか」
「……そうですね、厳しすぎました。忘れてください」
「他には?」
「誰も、彼を殺すほどの関係を持っているとは思えません」
メモを見ながら、日比野は唸る。
「一つだけ、もう一度確認させてください」
「何ですか?」
「あなたが昨日彼の家に行ったとき、鍵は閉まっていた。間違いありませんか?」
「はい」
「変ですね」
「何がですか?」
「鍵は室内にありました」
「合鍵があるのでしょ?」
「あるかもしれません。ですが、あの建物自体が古いものでしてね、彼が持っていた鍵では簡単には合鍵が作れないそうなんです」
「難しくても作れるのでしょ?」
「まあそうですが」
「合鍵を持っている人が犯人とうことですね」
「合鍵があれば、そうなります」
「ないと……」
ないと?
「もし、合鍵がなかったのだとすると、事態は深刻になります。あなたがあそこへ行ったとき、鍵は閉まっていた。そして鍵は室内に落ちていた」
「彼の近くにあったのですか?」
「そうです。正確には彼の足元付近に落ちていました。そして最悪なことに、あなたの指紋が見つかっています」
「それは……」
「あなたが死体を抱いたとき、無意識に触ってしまったのでしょう。そう解釈もできます」
胸が痛い。
「あなたなら犯行は可能です」
わたしは何も言えない。
「ですが、あなたがあの部屋に鍵を掛かっていたことを証言し、あなたが最初に彼の死を発見しました。あなたが犯人だとすると、行動があまりにも矛盾しています」
そこで一呼吸置くと彼は続けた。
「あなたが、非常にまずい立場にあることを理解してください」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます