学園の七不思議にせよ、都市伝説にせよ、甲斐雪人かいゆきとは信じないことにしている。そもそも出所が明らかでないのが怪しい。それに、今回の図書棟に出るという話にしてもそうだ。数日かけて甲斐が噂をまとめると、『夜、誰もいなくなった図書棟の間を、血だらけの白装束だかセーラー服を着た高校生くらいの少女が、歩き回り、本を読む。しかも、時計塔に登り、部屋に寝ころび、本を読む』のだという。後半はそれまでの噂とは少し異なるかもしれないが、前半も怪しいものだ。誰も居なくなった図書棟を歩いているのを、一体誰がどうやって目撃したというのか。明りもないのに白装束だと分かったり、血だらけだと断言したり。

 一言断っておくが、甲斐は、自分で噂を調査しようとしたのではない。純正芹沢学園の中では大きなトピックの一つであり、自然と耳に入ってくるのである。

 噂の大部分は、不必要な情報である。甲斐が解釈するならば、たまたま用事があって図書棟に遅くまで残っていた生徒を、たまたま別の用事があって図書棟に夜やってきた生徒が目撃した。そんなところだろう。藤枝百合子ふじえだゆりこの場合にしてもそうだが、自分がその主役であるならば、名乗り出ないほうが面白い、と考える生徒がいてもおかしくはあるまい。

 そして、甲斐は今、その図書棟の前にいる。古風な西洋の建築を模しているようで、これ自体にも文化的な価値があるのではないか、と感じてしまう。時計塔を見上げると、時刻はすでに七時半。八時には閉められてしまうのだが、どうしても明日までに必要な資料があるので、今日中に本を借りてしまわなければならない。以前にいた学校で、課題に対して図書棟での資料が必要なことなどなかったが、今考えると、なんとも楽な学校に通っていたものか、と思う。

 こんな時刻になってしまったのには理由がある。第二学習棟から続くこちらの道を歩いている途中で、芹沢雅に呼び止められたのだ。すっかり元気になったようで、お嬢様らしからぬ饒舌じょうぜつさで話しかけてくるので、ついつい長話をしてしまった。といっても、こちらから提供できるような話題もないし、せっかく元気になっているというのに、体育館での出来事を聞くのもはばかられる。彼女から学園の生活に慣れたか、といったことを聞かれ、それに答えていただけだ。日が長い季節とはいえ、あたりが薄暗くなっていることに気がついたのか、彼女は軽く会釈をすると、頭をさっと横に傾けた。まったくもって反則な仕草である。

 くどいようだが、甲斐は、幽霊の噂を信じないことにしている。けれど、信じないことと、怖くないことはどうやら脳内では同じ事象として解釈してくれないようだ。辺りの暗さに浮かび上がる西洋風の建物は、日中に見たときとは違い、不気味な雰囲気を存分に醸し出してくれている。

 図書棟の入り口のドアを開けると、まずは小さな部屋がある。左手に受付があり、右手には台があって、そこに図書棟の中の簡単な見取り図があった。色分けされていて、色ごとにジャンル分けがされているようだ。

「あと三十分ですよ」

 受付から係の人のだろう声が聞こえた。甲斐は、分かっていますと返事をする。ちらりと見ると、セーラー服を着ていて、学園の生徒のようだ。

「量子関係の本を探したいのですが」

「緑の区域になります。分かりますか?」

「はい、大丈夫です」

 正面は扉こそないものの、そこから本独特のにおいが漂っている。甲斐はそこをくぐり、その広さに驚く。もちろん、外から見ている限りかなりの大きさがあるのは分かっていたが、どの棚も、甲斐の身長を二倍するよりも高い。どう考えても手が届かない位置にも本が詰められており、探すのも苦労しそうだ。

 自然と視界を上に向けると、中央部分の天井ははるかに高い。時計塔のせいだろう。円状に伸びていて、螺旋階段が少しずつ小さくなっている。あれを登るのは骨が折れそうだ。もう一度視線を元に戻すと、正面を見る。通路は細く、まるで迷宮だ。違いといえば、網の目のように、棚がきちんと配列されているところだろう。それなのに、迷いそうだと思ってしまう。いや、正確には、酔ってしまいそうだ。それに、例の噂のせいなのか、他の生徒がまるで見当たらない。むろん、甲斐の位置から見える範囲などごくわずかで、想像していた通り、死角は多いのだが。

 甲斐は一歩下がると、受付の女生徒に、すみませんと声をかけた。

「何でしょうか?」

 受付の小さな窓ごしに、女生徒が答える。

「実は初めての利用でして。緑色のところって、まっすぐ端まで行って、右でいいんですよね」

「ええ、合ってます。途中で曲がるほうが早いですけど、最初は端まで行かれた方が確実ですね」

「それから、他に利用者はいないのですか?」

 女生徒の視線が、ちらりと奥を見る。

「現在三名が利用してます。あなたを入れて四名です」

「数えているの?」

「いいえ、モニターされてるだけですよ。中に人がいるのに鍵を閉めたら大変ですから……ああ、もちろん中からは開けられますけど」

「ありがとう」

 甲斐は会釈をすると、まっすぐ歩き始めた。藤枝先生が言っていた管理室でチェックするシステムのことだろう。確かに、これだけ死角が多いと、うっかり閉めてしまうこともあるだろう。中から鍵を開けられるとしても、それでは防犯上、弱すぎる。犯罪者ならば、中に隠れていて、夜に本を運び出す、なんてことをしてもおかしくない。納められている本も貴重なものが多そうだし、あるいは、過去にそんな事件があったのかもしれない。

 考えながらゆっくりと通路を歩く。非常に薄暗い。燭台しょくだいはあるが、火はつけられていない。おそらく昔はこれを明りにしていたのだろう。代わりにある電灯の数は少なく、ずっと先に見えている壁面にある窓は高い位置にあるだけだ。確かに、これだけ薄暗いと棚の間から何かが飛び出してきてもおかしくない。

 何か?

 甲斐は自分で考えておきながら、笑い、体を震わせる。

 ようやく壁面に着くと、甲斐はそこで右に折れた。先ほどの通路より明るいのは、壁面についている窓のせいだろう。昼間であれば十分に光を得られそうだ。だが、その位置は高く、甲斐の身長の二倍の高さほどだ。

 どうしてあんなに高い位置に窓があるのだろう。

 不思議に思った甲斐は立ち止り、前、後ろ、と振り返る。この前後のほうが、先ほどの通路より長い。建物が長方形をしているからだろう。おそらく、入口から端までの倍くらいの距離がある。前方の窓はやはり高く、後ろの窓はさらに高い位置にある。

「ああ、なんだ。噂なんて、しょせんそんなもんだよな」

 声に出して甲斐がつぶやく。けれど、問題はそこではない。

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