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第一学習棟と第二学習棟とに挟まれた場所には庭園……庭園という表現が的を射ている……がある。中央からやや奥まったところに女神の像があり、女神が支える水瓶からは噴水のように水が流れ落ち、周りに小さく池を作っている。二つの棟から南には並木道が続き正門があり、また北には体育館がすぐ近くにある。女神の像から体育館を見ると、ちょうどラグビーボールが半分地面に埋まったような形をしていて、その中央の膨らんだ部分が二つの棟の間から見える。
甲斐雪人はその体育館の前を西に折れると、第二学習棟から伸びている並木道の入り口付近にあったベンチに腰を下ろした。外にいる生徒は多くない。昼食を教室で取るものが多いのだろう。あるいは宿舎にあった食堂を利用しているのかもしれない。
放課ごとに多くの生徒の質問にあい、うれしくもあるがせめてお昼くらいはのんびり食べたいと思い、そっと抜け出してきたのだ。甲斐が朝作った弁当を開けようとすると、背後に気配を感じる。とっさに振り替えると香川定吉が立っている。分厚い眼鏡に、髪はぼさぼさ。この学園の雰囲気にふさわしくない外見だと失礼ながら思ってしまうが、それでも先ほどの授業を見る限り、能力はかなり高い。この学園の先生なのだから、それが必要な能力なのだろう。
「やあ、一人かい?」
甲斐は真意を測りかね、疑問を浮かべた表情で香川を見上げた。
「もうじき僕のパートナーがここに来るのだけどね、いや、悪気がないのは分かってるのだけど、ここは、僕と彼女の、昼食の場所だったりするのだよ」
「はぁ」
「いや、どいてくれと言ってるわけではないよ。このベンチは十分に三人座れるだけのスペースがあるから。うん、今日のところは甲斐くんと会話をしてみるのも、悪くないと思うわけだよ」
明日からここを利用するな、ということなのだろう、と甲斐が黙っていると、第二学習棟の方から先生と思しき女性が歩いてくる。彼女も眼鏡を掛けているが、香川ほど厚くはない。清楚そうな白のブラウスに、首元には薄い空色のスカーフが揺れている。髪は後ろで束ね、香川とは正反対だ。
「お待ちしておりました、百合子先生。こちらは本日転入してきた甲斐雪人くん。それから彼女は藤枝百合子先生、専門は古典」
「はじめまして、甲斐くん。あなたは古典の授業を取る予定はあるかしら?」
「まだシステムをよく理解できていませんが、今期のカリキュラムに古典はなかったと思います」
「そう、残念だわ」
「でも読書は好きです」
「あら。それはわたしが司書としてあれの管理もしていると知っての発言?」
甲斐は一度だけ頷いた。
「隣よろしいかしら。香川先生もどうぞ、座りましょう。わたし、甲斐くんを気に入りましたわ。芹沢お嬢様が推薦なさるのも納得ですもの」
藤枝はさっと甲斐の隣に座ると、自分も弁当を広げた。遅れて香川も座るが、機嫌悪そうに、音が聞こえるほど勢いをつける。
「それで、あの話はどこまで聞き及んでいるの?」
「噂話程度に」
「芹沢お嬢様から直々に?」
甲斐は首を振った。
「そうよね、さすがにそれはないわね。それなら、わたしが目撃したっていう痕跡の話は聞いたのでしょ?」
「本当に幽霊なら、人の形に跡が残るとは思えません。以前から噂されていた幽霊とはまったく異質なものなのではないでしょうか?」
「わたしが図書棟の鍵を開けた時、同じフロアには誰もいませんでした」
「死角があるのでは?」
「入ってすぐに管理室、とでも呼べばいいのかしら、室内全体を見渡せるシステムがあるの。そこに誰もいなかったことは確実だわ。それを確認してから時計塔の階段をあがったの。あそこ、見えるでしょ?」
藤枝は第二学習棟とは反対の、並木道の先を指差した。道は曲がっていて、建物の正面は見えないが、ほぼまっすぐ先に時計塔の上の方が見えている。鋭角な円錐の上部七割を切り取ったような形をしている。投射的に言うならば台形だ。四方に時計がついていて、今は正午をやや過ぎた時刻を指している。
「時計の制御室の反対にも部屋が一つあってね、そこが件の場所」
「時計の制御は一階ではできないのですか?」
「からくりだからね。歯車の調子も見ないといけないから」
「専門外では?」
「そう、そうなのよ。ひどいでしょぅ? そういうのは、少なくとも香川先生のが得意だと思うんだけどね。マメじゃないのよ、ここの先生たちは基本的に。だから仕方なく、ついでだし、もうさすがに慣れたけどね」
「その部屋は何のための部屋なんですが?」
「以前は時計の管理人が寝泊まりしていたらしいわ。最初はその人が一階も管理してたのに」
藤枝は肩を大きくすくめながらため息をつく。
「扉は付いてるんでしょ」
「もちろん。でも、その日はその扉が開いてたのよ。おかしいなって思って、だから中を確認したわけ」
「いつもは中を見ないの?」
「うーん、日にちは決めてないけど、月に一回くらいは換気のために開けてるわ」
甲斐は黙った。
「どうだい、甲斐くん。なかなか素敵な不思議だろう」
「前日に、誰かがそこで本を読んでいた可能性は?」
「……それなら、わたしの話がこんなに広がるはずがないわ。名乗り出ればそれで終わりだもの。それに、置かれていた本は非常に難しいものよ」
「芹沢さんでも?」
「どれか一冊なら可能かもしれないけど」
「それが可能な先生は?」
藤枝と香川は顔を見合わせて肩をすくませた。どうやらそれができる程語学に堪能な先生はいないらしい。
「読んでいたのか、読んでいたふりをしていたのか。人の形の埃をはらったり、扉を開けるなんて、幽霊の仕業とはとても思えない。誰かがしかけた壮大ないたずらだとしか思えない」
甲斐の結論は昨日と変わらなかった。
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