間7 幸運なこと(一)

 幸運なこと(一)


「……ぅ…………」

 涙を一滴頬に伝わせているフィリアは細く目を開ける。

「!」

 ハッとして辺りを伺うと、塔の地下空間で繰り広げられていたディセクタム・ドラゴンとの戦いに進展は無かった。フィリア自身も、イオナもアスカも皆が皆、地面に壁にと様々なところで蹲る様は圧倒的不利な状況である。

「久しぶりに思い出したよ、ネムル…………」

 今は亡き、元同小隊員の事を夢に見たように、意識を失っていた数分の間、頭の中で流されていた。

「ふぅ…………」

 その過去の映像は子細に記憶領域に留められている。改めて思い出したその景色とネムルの言葉に覚悟を決める。

「あぐっ……ぅううぅう!」

 壁に凭れる状態で、更には矢が腕に突き刺さりそれは貫通して背後の石壁にまで鏃を埋め込んでいる。フィリアが彼女自身の自由を得るには、ドラゴンに対して放ったにも関わらず、ドラゴンの攻撃によりその居場所を彼女の腕へと変えた矢を引き抜かねばならない。

「はぁ……! はぁ……!」

 焦点の定まらなくなるほどになる視界は腕だけでは収まらない痛みに起因する。

 石壁からも引き抜かねばならないという状態で、取り外そうと試みれば、当然上下左右へと動かすことになる。腕への負担は過去の経験上の痛みを容易に超えるもの。

 ポタリと汗が地面を濡らす。しかし石畳状の地面は数秒で水分を吸い尽くす。

「……ぅぅあああぁあぁぁああ」

 しかし、痛みに構っていたら、このドラゴンを倒す前にネムルの二の舞になる。その思いは、金属製の箆に再び手のひらから熱を伝える。

「! ……もっと……!」

 手に伝わる感覚が一段階先へ進んだ。

「うぐうぅぅぅ…………!」

 忍苦して、忍苦して。

 ボタボタと断続的に流れ出続ける血液は、矢も腕も壁も箆も服も手も床も濡らす。何度も何度も引き抜く動作を繰り返しているうちに、顔にまで飛沫が着いた。

「ふぅ……はぁ……」

 喜びよりも、体力的にも精神的にも疲れて、吐く息も吸う息も、とにかく呼吸が荒くなったのが一番

に来る。

 休んでいる暇はないと、常備していた白い厚手の包帯で白い肌に垂れた鮮血ごと包み込み、圧迫して止血に掛かる。

「……よし。取り敢えず使い物にはなる…………」

 使い物にはなると言っても、その腕で通常の弓二本分以上の重量を誇るパイルパッドを持ち上げられる訳ではない。手を開いて閉じて、顔に浮かんでいるであろう動揺の表情を紛らわせる程に動くと言ったものである。

「イオナとアスカを、起こさないと…………」

 よいしょと口にして、足取りは重く、しかし、確かに二人を叩き起すべく近づいていく。自身のつい先程まで矢が突き刺さっていた部分を慰めているドラゴンに気づかれないように。

「うぅ……。ゆっくり歩いてるのに、それだけでも腕にずんずん響くのは不便だなぁ……。一人だと止血が甘かったのかなぁ…………」

 心配なのは、パイルパッドから矢を打ち出すために、水平方向にすら持ち上げる事が不可能なのではないかという点。

「足音を立てないように……!」

 左手のリハビリを兼ねて、抜き足差足で移動する間にも、手に力を込めては抜いてを幾度と無く繰り返す。

 細心の注意を払って、まず近づいたのはイオナの元。

「イオナ……! イオナ起きて」

 意識を消し飛ばされた中でも剣を握ったままであるのは、やはり剣士であるということを認識させられる。

 口を開けてする浅い呼吸。

「イオナ……!」

 何度声を掛けても、その意識が戻る気配はない。強い衝撃を与えるべきか、それとも、このまま一旦寝かせておくべきか。

 しかし、その選択肢は必然的に一つに絞られた。

「ガシュッ」

 イオナのすぐ脇に降ってきた一本の大剣。

「ひっ」

 思わず身体をぶるっとひとつ震わせる。

 石ころをパラパラと空中へと弾き舞わせながら、地面に音を立てて突き刺さった大剣の持ち主はもちろんアスカ。

「ドラゴンじゃなくてよかった……」

 ドラゴン以外には魔獣や動物はこの地下空間には存在していないと感じていたために、突如視界内へと急激に侵してくるならば、それが、アスカの大剣であっても身体を硬直させるには十分。

「もう……」

 地下空間の中空を見上げれば、予想通り行動の主はアスカであり、丁度フィリアとイオナのいる軸と同じくして天井に埋め込まれていた。

「ごめん」

 アスカは大袈裟なまでに口を動かして、声を発さずとも意思疎通を図る。左手では、身体を宙に浮かせて固定されている状態で顔の前に手を置いて、手刀を格好に似た形で謝罪の意を示していた。

 その言葉と行為に二度ほどこくりこくりと頷く。すると、二ヒヒと口元で笑みを浮かべた。

 そして、音のない会話を続ける。

「剣で……ここの……壁を……壊せ」

 三文字ずつ、アスカの身体で唯一自由な左手で身振り手振りを交えて伝える。

 その要求は、彼女が地下空間の天井という領域で、ドラゴンからの衝撃によって埋め込まれた特異な状況で、身体の自由に動かせないアスカからのものとしては至極当然のものである。

「壁を壊す……!? どうしよう……。今の私じゃ、剣を投げても天井までなんてそんな易々とは届かないし……、そもそもアスカが持ってる馬鹿みたいな剣が持ち上がるかもわからないのに」

 重量物を操作するために鍛えた左腕だが、今現在ではその力を失っている。パイルパッドよりも重量があるアスカの愛剣を、いくら試行錯誤を繰り返したとしても持ち上げられるかなど分からない。

「……ぅ……ぁぁ…………?」

 その中で、アスカが落とした大剣が契機となったのか、それともアスカを助ける為になのか、イオナが音を漏らして意識を取り戻す。

「……ぁ……フィリア…………?」

 首を左右に揺らすイオナと目が合う。そしてそのまま数秒見つめあっていると。

「あっ!」

「静かにして! まだドラゴンには気づかれてないんだから」

「いっつつつ…………」

 急激に身体を起こして、ドラゴンから与えられた衝撃を身に染みるように感じているイオナは、特に痛むのか関節を擦り、少しでも紛らわせようとしている。

「ドラゴン…………」

 イオナから見ると、フィリアを挟んだ向かいで佇むドラゴン。未だに、尻尾に突き刺さったであろう矢の刺傷が痛むのか、体勢も変えずにいる。

「ホントだ…………。あの様子なら、フィリアの撃った矢が、相当効いたんだろうね」

「お陰でそれ以上のダメージを負わされた気もするけれど…………」

 ドラゴンの巨大な身体に対して、矢が刺さったことで生じた程度の傷と、力に任せてぶん殴られたように与えられた衝撃によって、壁や床や天井からと無機質なものにつけられた多数の傷。何倍にも、何十倍にもなって返ってきた気がしてならない。

「それよりも…………」

 夢の中で言っていた、ドラゴンの弱点。

 声の届かないアスカにも、何のことを話しているのかわかるように、ちょうど背を向けているドラゴンの一点を予め指で示しておく。

「背中に、鱗が一箇所だけ剥がれている所があるわ」

「背中…………?」

「そう。正直、鱗のことまでは頭からすっぽり抜けてたんだけど、昔ネムルがこのドラゴンに殺られた時、その前に一枚だけドラゴンの鱗を剥ぐことが出来てたの」

「そう言えばそんなことを…………!」

 ディセクタム・ドラゴンがネムルの敵だということを忘れたことはないが、一枚の鱗を剥ぎ取ったことに成功したことを思い出したのは、走馬灯のように流れてきた過去の記憶を見た時。紅い鱗という印象があったのも、硬さや性質によるものよりも、手にした鱗一枚の記憶が存在していたからであろう。

「…………それなら、あそこ……?」

「どこどこ?」

「暗くてほかの鱗と同化して見えるけど、肩から少し下の背骨のあたり…………。彼処だけ確かに色が黒ずんでるというか、鱗の色じゃない」

 燭台が照らす程度の明るさでは、その僅かな違いに気づくことにすら一つ労力がかかる。

 しかし、細めた目でどうにか捉えたもぞもぞと動くドラゴンの背中には確かに一点、妙な色を反射させている領域が存在していた。

 二人よりもドラゴンからの距離が直線的にも離れているアスカが、一点の剥がれた鱗の痕跡が目視できるかを確認する。

「確かに見えるぞ」

 その口型が、真剣な表情のまま、しかし身体が完全に天井に埋まり手足だけが垂れる不思議な格好をしたままのアスカから返答として送られたので、そこがネムルが命懸けで行った、弱点の作成によって出来た傷跡と見ていいだろう。

「……ごくん」

 いつまでもこうしてはいられないと、緊張から口のなかが渇く中集めた唾を飲んでフィリアとイオナの二人は立ち上がる。

「ジャリッ…………」

 敢えて足音を大きく目立つように。不安を浮かべた顔とは裏腹に、挑発行為をエスカレートさせなければならない。

「ガフッ」

 ドラゴンが寝かせた首を起こして、こちら二人へと視線を向けたのは、最も小さかった音と言っても

過言では無い、パイルパッドをセカンド状態まで展開するために生じた摩擦音による。

 静かな空間で自身以外の何者かが、肌が触れて生じる音を発すると不愉快に感じることと同じように、武器に対して敏感な耳を持たされてしまったのだろう。

「はぁ…………っ。コホッ……コホッ」

 深呼吸をしようと一旦息を吐くと、肺が空になり自然と咳が出る。

 口元に手の甲を添え、口元を意味もなく拭う。

「ガァアア!」

 気づかれてからの行動は、ドラゴンの方が上手だった。

「撃て…………な……!?」

 パイルパッドを展開したことによる音で気づかれたことで、矢もセットする時間もない。まさか人の気配を感じさせる十分な音よりも、人間の耳では、聞き取れるか聞き取れないかの間にあるような些細な音によって反応するとは考えていなかった。

 悔しさと驚きが入り交じる表情を浮かべ、対処が遅れつつも、立ち上がりざまに突進するドラゴンに対して、二人は向かって左側へ同時に飛ぶ。

「足先が当たっただけでも砕けそう……」

 着地と同時、後方に翻りながら距離を取りつつも、既に展開済みのパイルパッドを怪我をした左腕で持ち上げて構える。

「あぐぅうぅ…………」

 しかし、指先から肩を通り越し首の元まで突き刺すような痛みが走る。

「ズザァ」

 と音を立てて地面に転がる。痛みに耐えられなかったのだ。

 それでも、急には止まれないドラゴンがこちらを向き切る前にパイルパッドの一撃を放ちたい。

 尻餅をついた状態で、パイルパッドを斜めにし、力の限り弦を引く。

「照準が…………! 定まらない…………!!」

 唇を噛む。口元に広がる痛みによって、ほんの僅かであっても腕に広がる激痛を紛らわしたい。

 鏃はドラゴンを向いているが、そのブレ幅はドラゴンの持つ巨躯にも関わらずそれをオーバーしてしまっている。反動にも耐えられない腕では、放ったところで外してしまう。

「フィリア」

 左腕にかかる負担が途端に軽くなる。

 イオナが、直剣を構えつつも、空いた左手ではフィリアの弓を支える。矢をセットする為に空いた一つの小さな穿孔を中指と薬指に間隔を持たせ避けて握る。

「ドン」

 めいっぱい引かれた弓は、瞬間的に衝撃音を発してパイルパッドを放れる。そして、確かにドラゴンへと命中するが、二度目は上手く行かず、鱗に弾かれる。

「グルルルル」

 噛み付く攻撃を連続して繰り出すドラゴン。標的は二人に分散されているから、どうにか避けきれている。

「あと少し」

 そしてそれが何とも都合よく、一度の突進などではないために位置調整が容易となる。

「もう……ちょっと…………」

 徐々にドラゴンの位置が目的地、つまり、アスカの直下に近づく。狙いを均等に保つためにも、二人は絶妙な距離を保持したまま、誘導するのはフィリア、突き刺さるアスカの大剣を回収するのはイオナと、それぞれの役目を果たす。

 そして最もアスカ直下のポイントへと接近した時。

「ガラガラガラガラ……ズシャン」

 イオナにとっても重量感を覚える大剣を引きずって二人は合流し、ドラゴンの攻撃を待ち受ける。

 欲しいのはドラゴンの頭が低い位置に下げられるような攻撃。それこそ散々連発している噛みつき攻撃などで満足できる。

「はああぁああぁあぁぁ……!」

 攻撃が欲しいから、敢えてこちらから仕掛ける。

 ドラゴンの顎したから突き上げるように、大剣を身体の周りを一周遠心力で速度を増させて攻撃をする。

「ガァアアアァア」

 ように見せる。

 噛み付こうとし、姿勢を下げつつも、完全に攻撃を避けようと、顔を横へスライドさせた瞬間。全ての感情が解放されそうなほどスッキリと引っかかるドラゴン。

 遠心力で上方へと力のベクトルが向き、それにより浮き上がるイオナは、空中で身体を捻り、その剣をはるか上空で天井という岩に埋もれたアスカに向かって一直線。

 イオナは、剣が手から離れてからは、頼んだぞという願いを込めて、微笑みを浮かべる。

「お前の一撃で終わらせていい」

「ガンッ」

 つっかえとなっていた一つの岩に衝撃を与え、バラバラと崩壊させる。それに伴いドラゴンの尻尾の叩きつけによって埋もらされていたアスカは、久しぶりに全身を空気に触れさせる。

「完璧っ」

 背中の傷はアスカの直下に。イオナの活躍により、地面に突き刺された大剣は居場所を天井という反重力地へと移し、そのままアスカの落ち際に、刺さった剣は所有者の手元へと戻る。

「っ……ぁああぁああぁあ!」

 ドラゴンは避けるという思考もなく、為されるがまま、一枚だけ鱗もなく剣が深くまで刺さる領域に落とされた痛みを感じるのみ。

「ウガアアァアアァ!」

 力を込める度に咆哮が繰り返される。

 そして五度目。遂に鍔元まで差し込まれた大剣。

 アスカは鮮血をべったりとまとわりつかせた大剣を引き抜いて、二人の元へと華麗に着地を決める。

「仇討ち達成だな」

「そうだね。やっと一つ…………だけどね」

 と言い終えてから二秒。いち早く視認できたのは、唯一ドラゴンに背を向けていなかったフィリアだった。

「ダメ!!」

 暗闇の中でもハッキリとドラゴンの紅い鱗の顔がみえたのは、口元に再び火種を作り出していたから。

「え……?」

 咄嗟に片手で最も近かったアスカを後方へと引きずって投げる。

 そして対処法もなく、ただドラゴンの火球を望む。

「フィリア!」

 することが出来たのは、パイルパッドを握ったままだった左腕で、火球を寄せ付けないこと。

「ぁぁあぁ…………!」

 握ったまま。パイルパッドを握ったまま、たった一メートルほどであっても、紛れもない火球を素手で触れている。

 燃えるような暑さ。焼ける痛み。

 矢が腕に突き刺さったものとは全く異質の何か。

「あがぁぁぅぁぁぅぁ…………!」

 火に包まれたパイルパッドとフィリアの腕は悲鳴を上げた。

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