1-18 魔神の手蔓
魔神の手蔓
寒気がした。
背筋が凍るくらいの風が吹いた気がした。いや、実際にその風はフィルの頬を撫で、さらには三人の身体をも伝っていたと考えて間違いはないはずだ。
「……ッ……!」
唇を噛んで痛みで身体を奮い立たせ、それでも言うことを聞かない身体の中ではまだ感覚の残る聴覚に頼って状況を把握する。
「うっらあぁああ!」
「やぁあああ!」
「……っはぁああぁあ!」
三人の声がそれぞれマモンの塔の地下空間に響く。
どうにかもう一度、こちらに襲いかかるべく急降下し、地面スレスレを滑空してきたディセクタム・ドラゴンを停止させることに成功したようだ。
「ズシャッ」
という生々しい音が、フィルの耳にもたしかに入っていた。
しかし同時に違和感も覚える。
「静かすぎるぞ…………あまりにも…………」
声や斬り掛かる音、三人の足音も確かに聞こえている。石畳に対して革製の靴ながら靴底の素材は硬く、コツコツと歩く度に音を立てる。それらの音しかフィルの耳には届かないのだ。
「まだ何か…………起こっているって言うのか……!」
力が抜けたために自動的に閉じてしまっていた瞼を力いっぱい開き、光を網膜へと届ける。
「……? 何も……ないな……」
目に映る光景は、先程までと大した変化は見て取れない。ドラゴンは宙に浮いたまま、それに向かって三人が剣を振るう。
しかし、仰向けのフィルが自身の周囲を見回すように、直近の物体を見れば即座に違和感の正体を理解できる。
「火も……。水も……」
驚く気力すらもないが、目に入る様子は異質なものだった。
地下空間を照らしていた燭台にともされた橙の灯は、「パチパチ」と音を立てて風に揺られるのをやめ、半球形をした空間の天面から滴り落ちていたはずの水滴はドラゴンと同じように空中で静止している。
『ワールド・ロスト・ディメンション』
フィルが口にしたこの言葉。
彼の脳裏に浮かんだ言葉が意味する魔法は、静止させるべきドラゴンを確実に静止させるだけでなく、空間全体に存在する人間とその装備以外の物体という物体全ての座標を固定し、静止させてしまったのだ。
「風……」
地下空間を包むように吹き渡った風。
この風は魔素が物体を撫で回していた風なのだろう。
一瞬で全ての物体の座標を固定するほどの魔素。
一つの魔素玉をすべて消費し、全ての魔素がフィルの体内を通過して行った。
その疲労は見ての通りのフィルの様相だが、これだけの事をしてしまう程の魔素を摂取する必要性がどこにあったのかと今更後悔する。
「ぴちゃん」
水滴が耳元の水溜りへ落ちる音。
これ程までに身体を酷使してもなお、ドラゴンを、この空間の物体を停止させられる時間は僅か一分すらも無いのか。
「パチン」
空気に触れて再び火が揺らめき始める。
「コッ……」
最後に、フィルの元へとエリスが駆けつけて剣を中段に右半身を前にして構える。
彼女もフィルの魔法の効果時間が切れることを悟って、フィルの元へと来たのだろう。
「ズンッ……」
ついにドラゴン本体もフィルの魔法という呪縛から解き放たれ、エネルギーそのままに巨体は地面へと衝突する。
「ズシャアアァアア」
両翼をもがれたドラゴンは抗う術もなく、ただただ地面との摩擦を感じながらこちらへ身体を滑らせてくる。
「ゴガアアァアアャアア……」
ドラゴン最後となる咆哮。
精一杯の威嚇か、精一杯の懇願か。
地面を跳ねるように転がる翼をよそに、エリスは目の前で、キメの細かい腹部の鱗によって滑るドラゴンを迎え撃つ。
「最後くらい私にもいい所を見せさせてよね」
「…………! ふっ……自分は使うのかよ……」
エリスは魔素玉を口に含む。
あれだけ二度目を使うな使うな言っておきながらと、内心思わずにはいられなかったが、その背中は以前に比べ確実に広く感じた。そのためにそう言葉を発したものの、心強さを感じ取っており、口調は自然と強く、頼もしさを感じた身体の底から込み上げる笑いを含んでいた。
ドラゴンは、エリスとの距離を詰める。
「もう君のその心臓は…………動いていないんだよ……」
剣先に触れた瞬間。
紅き鱗を持つドラゴンは、瞬時に停止する。それはまるでフィルの魔法のよう。
風圧で明るい茶色の髪とスカートを揺らし、エリスの目を細めさせる。
一方ドラゴンは、徐々に体内の一点を中心として鱗から漏れ出すように僅少な光を発する。
大きく口を開いたまま、動くことなく。
「分解せよ」
ドラゴンは、骨が抜かれたようにバラバラとその場に崩れ落ちる。鱗一枚一枚すべてバラバラになるまで分解されて。
「すげぇ……」
ディセクタム・ドラゴンの最後は想像以上にあっけなく、簡単に終わってしまう。
***
「なんで最後のを初めにやらなかったんだ?」
「最初にはやれないのよ、残念ながらね。この地下空間に降りてきた時は、相手が地面っていう石だったり砂だったりのこれぞ物質っていうものだったから形状を変えられることが出来たのよ。分解して小さくして、衝撃を吸収する……」
「なるほどなぁ……。ドラゴンっていう生き物相手には出来ないわけか」
「そうよ。だから、フィルが動きを止めている間に心臓を突き刺してその鼓動を止めた……。もう既に生命体としての機能を有していないから、物質の一つとして分解出来るってわけね」
なんて便利な。
「この方法があったから、目の前の鱗が大量に手に入ったわけで、鉱物以外にこれをクランディルクにでも持っていけば、なにか加工できるかもしれないしな」
そう。体長が二十メートルを超えるであろうドラゴンを丸々素材と化させてしまったのだ。鱗の一枚でもあれば何らかのものを作れるかもしれないが、それらを大量に手に入れられてしまう。
「素材としてはきっと一流だもんね!」
「や、やめてよ……? 他の魔獣に対しても、そのために私に魔法使わせるのは!」
「はいはい。よっぽどな時が来ない限りしませんよ」
「えぇ……!? その言い草は、するって言ってるようなものじゃないの!」
閑話休題。
「まあ、いいわ。とりあえずその辺りの話は、置いておいてそろそろ上に戻りましょう。分解するために使った体力も回復してきたし……」
エリスは既に肩をぐるぐると回し、元気そうな様子だ。
ドラゴンについて、鱗や骨、角などなどたくさんのものを分解することによって目立つ傷をつけることなく入手することが出来た。これについて、クランディルクのアーミスになにか頼めばできるのかなど、自身らの装備のグレードアップの夢に花を咲かせるなど話をし、湿度の高い地下空間にはかれこれ一時間以上居座っていることになる。
「フィルももう回復した?」
痛むために動かさないようにしていた身体を久しぶりに稼働させる。しかし、身体は見事にギシギシと軋むような音を立てて、未だ正常に戻っていないことをフィルに対して必死に表明していた。
「まだ完全には……。ただ、上に戻るくらいなら大丈夫じゃないかな…………多分…………」
関節を鳴らしながら立ち上がる。
「……うっ……、うぅ……」
普段感じない違和感に襲われながらも、どうにか立ち上がることは出来た。そして慎重に足を踏み出すと、悲鳴をあげている様子はありつつも歩行は可能だった。
「よし。戻るか……!」
バックパックだけでなく、袋という袋に詰め込めるだけ詰め込んだディセクタム・ドラゴンの素材は重い。
「うっ」
「これは持ち帰るのも一苦労だぞ……?」
「勿体ないけど少しは置いていきましょ」
「むぅ……。取れるならば取れるだけ持っていきたい性がだな…………」
「フィルはフィルで、回復し切ってないのにそれだけ持ったら重いでしょうに……。どうやって上まで行く気なのよ」
「いやいや、上までならすぐに着くぞ。その後がだな……」
「重過ぎてロープ切れるなんてことするなよぉ?」
「それなら大丈夫だ」
フィルはその場で屈伸を二度ほどして、つま先をトントンと地面に当てて感触を確かめる。
「来る時も、多分大丈夫……って言ってダメだったわけだが、こういう方法もある……」
数歩助走をつけて、地下空間から外の世界へと繋がる唯一の縦穴へと跳ぶ。大きな跳躍は、縦穴の入口に到達、壁をもう一度蹴ることで真上への推進力を得て、フィルは容易にマモンの塔最上部へと到達する。
「……えぇ?」
「……ったたた……」
呆然とする三人に対してフィルは、やはり魔素の影響から回復し切っていないために、急激な動きに耐えきれず痛みが襲ったことにどうにか堪えていた。
「ドラゴンよりもフィルの方がバケモンなんじゃねぇのか」
「そ、そうだね……。もしかしたらこの世界には人間以外の種族もいたりして……」
思わず三人は顔を見合わせる。
「そんな馬鹿な話無いって……! まさかまさか」
目の前で起こった出来事を噛み砕けずに無理矢理飲み込んだ格好だが、一先ずはこの地下空間から外へと出ることが優先。
エアはロープのかかる、縦穴の入口を見上げる。
「あぁ……上……」
「上?」
「光が差してる……」
地下空間からでもわかるほどの眩い光が差していることに気づく。
「おーい! フィル! 外の景色は見えるー?」
地下空間から一足先に上りきったフィルに声をかける。
その声に反応して、痛みから足をさすりながらも周囲を見渡せば、そこは先程までの黒き世界ではなく、光溢れる塔の最上部へと変貌を遂げていた。
「綺麗だ……」
遠くまで見渡せる。
一方には遠くにクランディルクやクランベリーピストリーナのある集落が、その先にはバロールと戦った戦地の付近である湖が、その奥に聳える山を反射させているところまで事細かに視認できる。
「……よ、いしょっ……!」
荷物の重量に押し潰されそうになっているエアが先ず最初に上り切る。
「わぁ……、すごーい!」
荷物を置き、外の光景を見るや否や、そう声を発した。誰もがこの光景を見れば感嘆の声を上げてしまうほどだ。
その後二人も無事塔を上り切る。同様に声を上げその光景を暫く楽しんでいた。
「で、だ」
危うくここに来た目的を忘れて帰路に着くところであった。
「第一の匣の手掛かりはどこかにあったか……?」
「そう言えば見てないかもしれないわ……」
フィルは心の中に少し焦りを発現させる。顎に手を当てて考えてみても思い当たる節がないことが、この塔に来た意味とこの塔の存在を危ぶませる。
「でも、ここまで螺旋階段で上ってくる時も、地下空間で戦っていても、特に気になるようなものは無かったよ?」
「そうだな…………ま、まさか、下の空間に地下通路でもあって、あのドラゴンを倒したらその通路が開く仕掛けになってたとかじゃないだろうな……!」
「そんな! また下に降りるのは骨が折れるよ! せっかくここまでロープを必死になってまで上ってきたのに」
しかしその心配はすぐに取り払われた。
「シュイン」
何かの起動音だろうか。
その耳に届いた、決して大きくはない何かの音に身体が反応し、足幅をとり、腰元の剣に手を伸ばした。
「ズ……ズズズ……」
四人はその光景に目を疑った。
「魔素が……、空中に……!?」
「柱も……なんで!?」
先程まで四人も使用していた魔力そのものの仕組みは、その全てが知られている訳では無いが、粗方判明していた。魔素玉から魔素が人間の体を媒体とし変換、剣によって魔法を放つという一方的な単純回路。
それにもかかわらず、今目の前には魔素が光を帯びて漂っている。
さらに、塔最上部を覆う屋根を支える柱にも異変が起きていた。
その柱は、縦に二等分に割るようにスライスされた格好で、内側の柱だけがぐるんぐるんと円形の塔外縁部をなぞるように回っていた。
「どうする! 逃げるか」
「でも、敵が襲ってくるような動きじゃないわよ? それこそ何か……塔の仕組みを作り替えるような動き……」
構えたまま、敵の襲来に備える。勿論、動き出すはずのない柱が動き出すという異様な光景が、魔獣を放出するものとは限らないが、マモンの名が記されているような強欲そのものの塔が何をしでかすかなど誰にもわからない。
「パチッ」
音の鳴った方向へ視線を先に送り、その後身体の正面の向きも変える。長らく同じ体勢を構えていれば、浮いた踵のために左足の爪先の感覚がなくなってくる。
「パチパチッ……パチッ」
一度の音、それは魔素が回転する柱に触れて弾けた音であるという認識ができたが、それを引き金にしてあまりにも煩く無数の魔素が同様の現象を繰り返す。
「目が……」
弾ける度に、光がそこに永久に留まるように発光し続けている。その光は部屋全体につけられた、松明のような柔らかい光ではなく、白い太陽光のような猛烈な閃光のようだ。瞼と腕で眼球と外界をシャットアウトする。四人は皆、その光に耐えられず、エアは手のひらで覆ったり、フェムトは目隠しのように布を目元に当てたりと様々な方法で光を遮っている。
パチッ、パチッという音がする度にそちらへと身体の正面を向ける行動も何回目だろうか。じり、じりと足先だけで行うその行為も大概だ。
段々と四人に渦巻いていた不安が大きくなる。
しかし。
「ガシュンッ」
その音は柱のものだ。柱が停止した際に発せられた、機械的で、さらには摩擦により発せられたのではないかとも考えられる音。
その考えにより、腕の力を僅かに抜き、瞼を貫通する光の様子を窺う。しかし、その光も捉えられず、もしやと思いゆっくりと、自身に二つしかない目を失わんと慎重に慎重を期してその目で確認した。
「もう……目を開けても大丈夫だよ」
身体中の力が抜ける。
「なんだこの模様の数は……!?」
窓も壁もないマモンの塔最上部。だからこそ魔素とその奥に広がる雄大な風景が組み合わさることで作られるもの。
「手掛かりだ……。きっとこれは手掛かりだろ!」
フィルも柄になく興奮した口調で、声を上擦らせて最上部をぐるりと取り囲む様々の魔素の様相の正体を口にする。
光の輪──といっても、先程までの猛烈なものではなく、淡くその周辺を照らす光──が複数個、小さのものを内側に重なっている物が、床から百五十センチメートルほどの高さに揺れることなく浮かんでいる。
その光の輪の一つに小走りに近寄り、エリスが小さな輪から奥に広がる風景を望む。
「凄い……! 光の輪の中にまるでスコープみたいに十字が刻まれてて、それが重なる先に何かが……ある……」
エリスは光の輪に手を触れ、右目でその一点を注視する。
「何がある……?」
「あれは……祠……? カストラムにあったようなのじゃなく、もっとしっかりとした作りの、まるで大刹のような」
「寺と祠は大違いだろ?」
「祠がそのまま大きくなったような感じなの。見てみなさいよ……」
フィルはエリスのいう言葉の意味を疑問に思い、光の輪を覗き込む。
「確かに」
百聞は一見に如かずとはまさにこの事。
「観音開きの扉が開いて、御神体が見えてる……」
「え? 普通そういうのって閉じてるんじゃない? 私の地元のは、お祭りとか祭事ごとの時に開いたりしてたけど……」
「つーか、そんなデカイもんが転がってたら流石に誰でも気付くだろ」
もちろんだ。ならば可能性は一つしかない。
「じゃあ合ってたってことだな」
にししと不敵な笑みを浮かべるフィル。
「この塔が、あの祠を、観音開きの扉を開く鍵だったってわけだ」
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