間1 エリスの悪夢(一)

 エリスの悪夢(一)


 時は遡り、魔獣が出現し、村や街に対し破壊の限りを尽くしていた頃。他と同様にその被害を受け、対抗すべくしていたカストラムの街。

 毎晩欠かさずにエリスを魘そうと、脳が、それ自身を守るという役目を捨てて、夢に映す一年前の物語。


   ***


「バケモンだ……! はぁ……はぁ……。バケモノが、こっちに……、……ッ、向かってくる……!」

 そそり立つ石壁に、人が登れないように取り付けられた鉄製の逆茂木。当然これらは、対敵兵のためだけに付けられた、戦争専用兵器の一つだ。

 その逆茂木が一部設置されていない石壁。

 その目の前で、そう叫びながら、仰向けになって横たわる一人の兵士がいた。

「お前はどこの所属だ! この時間に帰城する手筈など聞いておらん! その上その装備、敵兵のものと見える!」

「違う……! いや、敵兵として見なされるのは間違いではないけれども……」

「問答無用だ……!」

「まて……! そんなことをする前に人の話を……!」

 石壁の上から、外を見張る監視役の男は、その背後に構える弓や銃といった、進化しても過去の産物を手放しきれない状況がよく見て取れる装備を付けた兵士に目配せし、見下す位置にいる一人の人間を殺すように示す。

「まてって……! バケモノが来るんだ……! もうすぐここにも……!」

 背後を気にする様に、何度もなんども振り返りながら、石壁を拳で殴る。

 しかし、突如敵兵が単騎で訳も分からない言葉を言っているだけのこの状況下では、誰一人彼の言葉を信じるものはなく、目の前に緑豊かにひろがるメリディオナリスの森に、一つの視線を、送ることすらもせずにその人間の射殺をさせた。

「撃て……!」

 石壁の上、互いを撃ち抜くようなヘマをするだけの広さもなく引かれた弓、指の掛けられた引き金は解き放たようとした瞬間。

「ズズズズズ…………」

 辺りに響き渡る地鳴り。身体でも感じるほどのその揺れは確かにこの近くで起こっているような感覚だった。

「バケモノが……来るんだ! 俺を早く中に入れてくれ……!」

 扉を開けるよりも先に、心臓へと小刻みながらに重く不快感を与える地鳴りの正体を暴くべく、森に目を向けた。

「早くしてくれ……!」

 石壁に額を当て、必死ながらも諦めたように、石壁を殴り続けていた拳は止まっていた。

「なんだあれは……」

「バケモンだよ」

 その光景を見て呆然とする石壁の上の兵士達。

 肉眼でもはっきりとわかるその異様な変貌を遂げる森。

「穴が……」

 ぽっかりと空く青々しい葉の色。その周辺では何羽もの鳥が何かから逃げるように羽を羽ばたかせ、発生源不明の追い風に煽られ姿勢を崩しながらも一目散に散開する。

「あれがバケモノだ! 分かったか! 俺の言っていることは本当だろう……!」

 その言葉にハッと空気中を漂っていた意識をはっきりと掴み、自ら城内へと駆け込む。

「おれは、援軍の要請に向かう……! あの姿不明の何かがこちらに来てもいいように迎撃体制を整えろ!」

 未だに何が起きているのか把握出来ていない兵士達。

「大至急だ! やることはいつもと変わらない!」

 目を覚ますのに数秒のロスをしてしまったが、防衛軍偵察部所属、ケイラスは、地下に縦横無尽に掘られた軍部専用の通路を用いて、白の内部まで喧騒に苛まれることなく辿り着こうと、その入口へと向かっていた。

「何時になったら扉を開けてくれるんだ……! 俺はこの通り丸腰だ! たった一人、攻撃だって出来やしない! 何で中に入れてくれないんだ!」

 その光景を眼前に持つ、一兵卒の彼らからすれば、ケイラスの指示に背く門扉開放どころか、敵勢力の壁内侵入という叛逆罪とも取られかねない行為を進んでしようという考えには誰ひとり至らなかった。

 むしろ、目の前で何が起きているかわからない、助けを求める彼いわく「バケモノ」にはじめに対峙するのが自分でなくてよかったという安堵を覚えるほどだった。

「上からの命令だ……! 何が何でも、例えお前が丸腰であってもこの扉を開ける訳にはいかない!」

 便利な言葉だと手のひらを擦り合わせるかのような気持ちの中で言う。

 しかし、放たれた側からすればたまったものではない。

「この辺りじゃあここが一番軍事力もある! あのバケモノから逃げるにはここに入るしかないんだ……!」

 その抵抗が無駄だと分かっていても何もせずにただ逃げることは出来ない。逃げることで、この壁を回り込み、何時か自身にたどり着き一番はじめの犠牲者になってしまうのではないだろうか。

「助けてくれよ……!」

 心からの悲痛の叫びは、だれの心にも共感せしめるものにはならず、事態は一向に変化しない。

 鳥の鳴き声や、地鳴りが止み、一旦の静寂を作り出す。

 そして静かな空気の中に聞こえる異音。

「バキバキバキバキ」

 その音に反応して振り返った男に釣られ、彼を見張るため、敵に視線を浴びせ続けていたが、森の方に視線を送る。

 彼のおかげで、その恐怖を一秒でも早く感じ取れて良かったと頭に思い浮かべる。

 一直線にこちらに向かってくる何か。葉が揺れ、その一本道だけ地表を目視でき、木を薙ぎ倒す音を添えた人間には為せない現象が起きている。

「どうした……!」

 そこへ駆け付けてきた迎撃部隊。

「……ッ」

 言葉もなく指先で二度森を示す。その目立ちたがりな光景は誰の目にも止まるスローペースながらも、確実に進行してきている。

「なんだよあれは……」

 皆が皆口を揃えて発する。

「敵軍……じゃあねぇよなぁ?」

 確認するようにこちらの顔を覗く。

「まあ、敵軍……ではあるんじゃないですか……?」

 人間では無いだけで。

 と、安易に続けられず、言葉を飲み込む。もちろん下の敵兵を全面的に信用するわけには行かないが、この展開を見て信じないわけにも行かない。

「来るぞ……」

 敵はついにその姿を現した。

「羽の生えた……猫……?」

 その表現は何よりも特徴を捉えていた。

「あの身体で、どうやってあれだけの木々を破壊したんだ!?」

 その身体は決して大きくない。比較するならば、人一人ほどの体高と言ったところだろうか。

「迎撃隊……構えておけ! 合図をしたら撃て」

 のそりのそりと、「猫」という生き物からは想像出来ないほどのゆったりとした足取りで、石壁に、ひいては、門扉に背を向け、腰を抜かすようにして座り込む敵兵に照準を合わせているようだ。

「……ッハハハハ……」

 諦めがついたのか、現実から目を背ける為なのか、首を曲げて顔を俯かせる。

「もう少しだ……。確実に射程圏内に入ってから撃つんだぞ」

 のそりのそりと歩く姿は、地鳴りとは接点のない程柔らかく関節を使い、相手に気付かれないように近づこうとしているのがよくわかる。

 もちろん、森から抜け、その巨体が顕になっている現在ではその意味は無い。そもそも、森の中ですら木を薙ぎ倒し、見事な道を作り上げる腕前のためにその能力の必要性を感じられない。

 羽の生えた黒猫は着実に石壁に近づき、しかし、こちらに一度も視線を遣らず、確実に目の前の敵兵に狙いを定める。

「撃て……!」

 その中で、発する遠距離弾。

 しかしその攻撃の一切は当たらずに地面の肥やしともならない鉄グズとなり変わってしまう。

 そして同時。

「っあああああ……」

 という呻き声、喚き声が自身の周囲、至る所から聞こえたことで、何が起きたかを察する。

「見えなかったぞ……。それなのに迎撃部隊が壊滅……」

 聞こえないように発されたはずの射撃の合図にもかかわらず、それを頼らずに射撃対象とされていることに加えて、射出された瞬間を感じ取れ、頭でっかちな結末を迎えずに同時に敵を瞬く間の速さで殲滅するだけの攻撃力を持つ。

「ダメだ」

 ここからの判断は早く、被害を受けなかった数名を即座に下がらせ、攻撃の一切をやめさせた。

 迎撃部隊の隊長を務める人物が、こちらに無言ながら視線を当ててくる。

「どうしますか?」

「どうしようもないな」

「なっ……!?」

 困ったと言いたげに頭を掻き出す。

 ここまでおっさんという言葉が似合う人物がいるだろうか、という程の容姿に反する若さを持ち合わせる彼だが、隊長を務めるからこそ能力は持ち合わせている。迎撃部隊として、百戦錬磨である人物が、未知の生物に頭を悩ませているのだ。

「正直、何をしても倒せるビジョンが見えないな。撃ってもダメ、あれだけ早く動けるなら近づいて直接剣を振るうというのも話にならないだろうし……」

「何かないんですか……!?」

「やると、この辺り一帯は火の海になる……ぞ?」

 それ即ち、焼夷弾を石壁の前にばら蒔いて、火の海に溺れてもらおうという魂胆だろう。

「もし街の中に入ってこられたら……」

「だから、ダメなんだろ。そもそも焼き払うんなら、街とか言ってられない。敵を中心に相当の範囲を焼き尽くさなくてはいけない」

「自らの命を……ですか……」

 不満げな顔を浮かべる迎撃部隊長。

「とにかく殺さねばならん。そうでなければ下の男の次は俺達が真っ先に狙われる」

 既に逃げる気を失って項垂れる男を指差していう。

「そう言えば、ケイラスの奴はどうした?」

「隊長は城内部へ応援を呼びに直接」

「ほう」

 難しい表情から一転、長いトンネルを抜けたかのように、顔は幾分か明るさを取り戻し、真剣な眼差しからは思考を回転させ最善の方法を考え出している様子が窺える。

「お前ら! 倒すことは考えなくていい。奴を足止めすることだけ考えろ。投擲系の爆発物山のようにもってこい!」

「どうするんですか?」

「城に直接行ったんだよな? わざわざ信号弾を使わずに」

「そうですね。そもそも隊長からの指示がなかったので撃ってすらいないですが……」

 その言葉に一瞬唖然とした表情が見て取れ、内心「やらかした」と思っていたが、意外にもその言葉はなかった。それどころか、

「いや、それで良かったのかもしれない」

と言い出す程だ。

「隊長装填完了しました!」

 璧上に横並びに備え付けられた大砲型の射出機の前には、それぞれ二人ずつが照準と点火の役割を分担し、合図を待っている。

「よし、本体を狙うな! 確実に、爆風すらも当たらないように、門扉から出られないほどの堀を穿つ様に狙いを定めろ!」

 大砲に手をかけた各人が、魔獣本体を狙っていた照準を移動させ、その重量感が伝わらせる振動を感知できなくなると、迎撃部隊長は合図をする。

「撃て!」

 その合図で放たれる砲弾は、決して飛距離はない。しかし、砲弾に含まれる薬物は着弾とともに辺りを焼き、爆発による衝撃で穴を穿つ。

「手を止めるな! できるだけ深く……!」

 数発によって集中砲火すれば、その威力により地下深くまで、地層が露になる。

 その爆音と飛び散る砂礫に、一度周辺を窺うような仕草を見せはしたものの逃げる気配はない。

「これでいいだろう……!」

 深さ数十m、幅は百メートルほどに達するのではないかという範囲を掘削した。

「なんであんな堀を……? もうこの扉は使えないですよ」

「どっちにしろ焼き払うのならこの街が使えなくなるんだ。それよりは何倍もマシだ。それにケイラスは城に向かったんだろう? その御膳立てには十分だろう」

「お膳立て……?」

「そのうち分かる」

 真剣な顔でポンポンと方を二度叩く。

「引き上げるぞ! 装置はそのまま放置すればいい! それよりも敵から目を切るなよ!」

 その一声で、ぞろぞろと低い姿勢を保ったまま、魔獣の視界に入らないよう壁内に去っていく。

 残る監視部には火力も無ければ、敵を倒す作戦もない。

「助けてくれよ……!」

 砲撃が止んでしまったせいで聞こえる悲鳴。

 どうしようもなく、ただ目の前の敵兵とはいえ人間が、天使のような純白の羽の生えた黒い猫を模した魔獣に貪り食われるのをただ目を背けて待っているのみだった。

 だんだんと距離を詰める二者への直視を避け、手持ちのバインダーで顔を隠す。

「カーンカーンカーン」

 そんな時に鳴り響いた鐘の音。甲高く、この緊急事態に鳴り響くそれは、チャペルでも時を知らせる鐘の音でもない。

「三回……。ここの扉を開けろというのか……!?」

 鐘の音は北を一とから数えて時計回りに門扉の開放に対して鳴らされるものだった。いま、魔獣がいるのはメリディオナリスの森前。三回の鐘の音が示す、南の森の門扉を開けという命令だった。

「チッ……!」

 上からの命令とあれば仕方が無い。絶対を示す中心からの命令は目の前の光景と違い背くことは叶わない。わざわざ魔獣の目の前の扉を開くことは、同時にそれを開いた人間も敵兵同様標的になり得るのだ。

 石壁内部の階段を駆け下り、途中詰所に寄り、扉を閉ざす鍵を解除する。

 さらに下へ下へ一段飛ばしで、時折手すりに身体を滑らせつつ下ると、感動的な時間で門扉の前へたどり着くことができた。

「助けてくれ! 中に! この扉の向こうには誰かいるんだろ!? なあ! なあ!!!」

「閂を取るぞ!」

 一枚の扉の向こうからは泣き叫ぶ声が聞こえる。同様に下ってきた監視部の仲間とともに、最後の鍵である閂をずらす。

「せーの……ッ!」

 その掛け声で、外開きの扉を目いっぱい、力の限り押す。

 隙間から覗く敵兵。その後方では、太陽光を反射するほど表面が鋭利にとがれた爪を立てた腕で、ネズミを弾き飛ばすかのような構えを取っている魔獣。

 これ以上扉を開けば、人一人通れてしまう隙間があれば、間違いなく魔獣の被害を受けてしまう。

 その恐怖に身体は自然と拒絶反応を起こし、異常な程に収縮し、歯がカチカチと鳴る。

 嗚咽を催す恐怖心の中、しかしはっきりと聞き取った剣を抜く金属音。

「よく持たせた」

 何もしていない。そう思いながらも、口に出す喉すら捨ててしまった状況で、人一人分、遂に開いた門扉から敵兵を跨いで、急加速して一人飛び出していく。

「……ッ!!!」

 飛び出すと同時、振りかぶられていた魔獣の腕は、本来敵兵がいた位置へと振り下ろされ、魔獣も、その行動を制御不能に陥っている。

 その一閃を、二段突きを発した細き刀身が払い除ける。

 揺れる髪の明るい茶色はクローク家の遺伝の証明。

 その姿に誰もが見とれ、名前を口に出す。

「エリス・クローク……」

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