魚料理(1)
異世界に転生、転移すると、以前は気にもとめなかった(と、しばしばそう書いてある)コメや味噌、醤油に執着するラノベ主人公は少なくない。魚もその例に漏れないだろう。だが、魚料理で飯テロやさすごしゅはあまり見かけないように思う。
なにしろこの十年程の間でさえ、日本人ひとりあたりの魚介の消費量は三割も減っているのだ。もっと長いスパンで見たら相当な魚離れだ。ラノベの書き手、読み手のなかで魚を技術的にも心理的にも抵抗なく捌いて料理できる者はどれだけいるのだろうか。
言うまでもなく書き手がどんなによくわかっていることであっても、読み手にとってまるっきり未知の事柄であれば、それは理解不能な記述になりかねない。
ひとは自身が既に知っていることしか理解できない。
読者に理解できるようにと細かく丁寧に説明を書いても、物語のスピード感、テンポが最重要な要素のひとつであるラノベではネガティヴな効果しかもたらさない。僕のこの駄文がそうであるように、面倒くさい、よく解んない、難しい、などと書籍であれば放り投げ、WEB小説なら即ブラバとなるだろう。
だからといって、スピード感を重視するあまりに詳細な説明抜きでさらっと記述しても、読者の記憶にはまったく残らないだろう。少なくとも飯テロにはならない。
こうなると、異世界(中世ヨーロッパ風であろうとなかろうと)で主人公が扱える魚料理は塩焼きがせいぜいということになろうか。魚のぬめりを洗い流し、鱗を取る。わたを抜き、塩を振る。それに串を打つかあるいはそのままグリルする。秋刀魚の塩焼きに思い入れのある日本人は多いけれど、異世界の魚だとどうなのだろう。
そもそも、ラノベの異世界は、作者と読者のどちらか、あるいはその両方にとって都合よく改変された世界の部分的なコピーと見なすことができるものも多い。そのコピー元はしばしば現実世界だ。無双、チーレム、現代知識チート、それらを許容あるいは主人公に要請する世界は、作者や読者にとって既知の事柄で満ちた(あるいは類推や簡単な論理によって諸々の事象が想定可能な)世界であり、既知の事柄とはすなわち作者あるいは読者の現実世界に存するものだ。だから、とりわけ読者にとって既知の事柄あるいはそれらに類似したもので異世界が満たされている方が物語的には都合がいい筈だ。
ある作品で、主人公が近現代フランス料理の知識チートしているのがあったが、カタカナの料理用語が頻出し、それもなかなかに正確だから僕としては感心すると同時に、一般読者はついていけるのだろうかと余計な心配をしたことがある。なにしろその内容や知識レベルが、調理師学校の生徒でもついていけるかどうか、僕も他山の石としなければと感じるくらいのものだった。もちろん作者がそう書きたければそれでいいわけだが、読者の反応を過剰なまでに気にする傾向にあるWEB小説、ラノベの場合はどうなのだろう。あるいは「食」にテーマを絞り込んだ作品なら読者もそのつもりで読むからいいだろう。だが、作品全体としては最強プラス現代知識チートの転生モノであれば、ツマンネと感じる読者も少なくないように思う。読者にとって未知の事柄というのはそれ自体が非現実どころか存在しないも同然のものだろう。
だから、飯テロや現代食文化チートのごときがつまるところ「洋食屋」のメニューにある品ばかりだったり、コンビニの人気商品だったり、若い独身男の手抜き(?)料理的なものが中心になるのは必然といってもいい。読者にとってなじみがあり、それらを好む読者が多ければ多い程、理解しやすく、かつ面白いと感じさせるものになるだろう。
これはとても大切で、僕が書いているようなリアル中世ヨーロッパの食文化がああだった、こうだったという蘊蓄、無駄知識、面倒くさいこだわりに過度に惑わされてはいけない(そこそこなら大歓迎だ)。
などともっともらしいことを書きながら、さて中世ヨーロッパで魚料理は……と続けることにする。というか、ようやく本題である。
近代以前のカトリックの慣習(厳格な戒律ではなかったと思う)として、一年のなかで肉料理を食べない日がかなりの日数で設定されていた。いまのカトリックの用語では「小斉」というらしい。フランス語では
ジュール・メーグルの最大のは四旬節といって、復活祭の前、46日間。一ヶ月半にもわたる。その年によって日付は異なるが、概ね春先だ。この四旬節に突入する前が謝肉祭(カーニヴァル)だ。カーニヴァルはもともとラテン語の carne + levale (肉を取り除く)ということらしい。日本で伝統的に葬式などの後に精進落しをするが、その逆と考えるといい。これから精進みたいな「小斉」の期間が46日も続くのだからそれまでにたっぷり肉料理を食べておこう、というわけだ。
で、謝肉祭の後、46日間は肉料理不可となる。そのほかにも週一くらいで(だいたい金曜)肉料理を食べない日があった。合計すると年間百日くらいは肉料理を食べちゃならんというわけだ。
四旬節に肉料理を食べないのは、昔の農村の生活サイクルを考えるとイメージしやすいだろう。冬至の頃に「死と再生の祭り」(クリスマスの原初的なものがこれだと言われている)を行ない、飼っていた豚を屠畜、塩漬けやソーセージ、ハムなどに加工する。春に向かって気温が上がっていくから、それらの貯蔵肉が腐る前に全部食べちゃえ、となる。それが謝肉祭。肉を食べきっちゃったから、魚でも獲って(あるいは買って)食べざるを得ない。それが四旬節の時期。四旬節が終わり、復活祭のころには、豚や羊が出産のシーズンを迎える。当然ながらその一部は即座に食用となる。
さて、そういう四旬節そのほかの日々だが、日本の精進料理のように徹底した菜食にはならなかった。肉が駄目なら魚介を食べればいいじゃない、と魚料理を食べていた。だから中世から近世にかけてのフランスの料理書には魚介料理のレシピがとても多い。
ところが根本的な問題として、ヨーロッパ人は(いまでも)肉料理が大好き。放っておいたら年中のべつまくなしに肉料理を食べていたいのだ。ところが宗教的な慣習で魚介しか食べられない日々がけっこうある。当然のこととして、魚料理をいかに美味しくするかというのは料理人たちの重要テーマとなり、料理書にはその苦労というか成果が見うけられる。
だから中世〜17世紀くらいのフランスの料理書の見どころは魚料理だと言ってもいいくらいだ。
とはいえやっぱり肉が好きなので、逃げ道というか詭弁というか、水鳥(水辺にいる鳥)は驚くべきことに魚扱い。だから肉を食べない日にもオーケー、とするあたり、いかにもヨーロッパ的な論理の強引さによるものか、はたまた食欲という
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