追い詰める者・追い詰められる者
薄暗い通路をトードリリーが歩いて行く。
静かに、ゆっくりと・・・直前に見せた下品な言動はおくびにも出さずに貴婦人の様に、しとやかに歩みを進めて行く。
聖堂と聖火を繋ぐ通路が
実際、本人に理由を聞いたとしても『何となく・・・』としか答えようがなかっただろう。
だが、もしも後世の戯曲家がこの一幕を筆に起こす事があったならば、童女のような笑みを浮かべた女優には『だって楽しみは少しでも長引かせたいじゃないの』と言わせたかもしれない。
ゆっくりと進むその顔は『子供がお菓子を前にして食べたい気持ちと名残惜しい気持ち』で揺れ動いている様にしか見えなかったのだから。
ゆっくりと進むトードリリーとは別に、大勢の人間がその横を追い越して行く。
胸に炎を灯し、泣いているのか悦んでいるのか分からない顔をしながら亡者の様に進む者達だ。
不意に彼らの前方、通路も半ばに差し掛かって最も薄暗くなった場所で壁の一部が煌めき始めた。
波打つ様に乱れた壁面が
直ぐに波打ちは収まったがその直後には悲鳴を上げ、足を縺れさせた者達が次々と壁から吐き出されてくる。
転がる様に飛び出したその人達は、向かって来る群衆を見てギョッと動きを止め、次いで叫びながら反対方向へ逃げて行く。
だが入り乱れて走り去る人の中で、最後に出た数人は向きを変えて足を止めた。
「親分は先に行ってください。俺たちが少しでも時間を稼ぎます。」
良く通る男の声は逃げる者達にも確かに届いた筈だがそれに応える者はなく、ただ走り去る足音だけが男達の耳に残った。
男の一人が腰の物入れから何かを取り出し、突き付ける様に追い掛けてくる群衆にかざす。
透明な球体はセレーマを
男が使ったのはパンメガス・ゼーレ―――
このエリアルは注がれたセレーマに応えてスライムの粘体細胞を高速で増殖させる。
スライムコアかエリアルが働いている限り朝露の様に盛り上がった状態を維持するので粘体使いの男がセレーマを注ぎ続ける限り、崩れる事無く
障害物が現れたにも
その弾力に僅かの間動きを止めたが、あとから来る人波に押し付けられるとムニュムニュとメリ込んで粘体の中に全身を埋めていく。
だが動きはそれで終わらない。
やがて透明な粘体の中でもその男はゆっくりと進み始める。
当然の事に、中で息はできないが塞いだ距離がわずか2シュードではこの津波の様な群衆にとって『歩きにくい』以上の意味はなかった。
事実、最初の数人は止まることなく歩き続けて既に粘体の半ばを越えようとしており、何事も無く通り過ぎるのも時間の問題かと思われた。
だが粘対使いの男もその程度の事は予想しているし、対応策も用意している。
「あとは頼む。」
うしろに控えていた一人が粘体使いの男を追い越しながら声を掛ける。
セレーマを注ぎ続ける男には答える余裕がなかったが、言った方も答えが欲しい訳ではない。
また相手に答える気が在ったとしても聞いている時間はなかっただろう。
すれ違った直後には勢いもそのままに粘体に飛び込んでいたのだから。
狭い粘体の中、水中を歩く様にゆっくりと進んでも直ぐに反対から来る男達と向き合う位置に着いてしまう。
それでも構わずに進み、片手で先頭の男の腕を、更にもう一方の手で次の男の腕を掴んで引き寄せる。
その直後、
――― ボボボバン ―――
相手の胸で揺れる炎が弾けると、小さくはない火花が周囲に撒き散らされ、透明な粘体を赤黒い光で染め上げた。
少し前の事。
エリグマやリューイ達はファミリアの地下道でユウキやゴーザを待っていた。
ここは特殊な空間なのか神族トードリリーといえど入る事も中を窺う事もできなかった。
だが、エリグマ・ファミリアの中にも炎に囚われた者は大勢おり、地下へ降りる資格のある者も何人かは確認する事ができていた。
そしてそれらの者はトードリリーの配下となっても変わらずに地下道へと下りる事ができた。
だが数人では返り討ちになるだけで、地下から追い立てる事など出来る筈もない。
実際には証を持つ者が居れば他の者を地下に入れられるのだが、幸いなことにトードリリーがそれに気づく事は無かった。
一計を按じたトードリリーは配下の者にある命令を下す事にした。
すなわち
『配下でない者が近づいたら全ての力で炎を撒き散らせ』と。
この為、地下道で待機していたエリグマ達は一人の接近を許しただけで数人が炎に巻きこまれ、その数人が更に多くの被害者を生み出す事で際限のない連鎖を引き起こす事となった。
多くの者が犠牲になり、人数を減らしたエリグマ達は地下道から出るしかなかった。
粘体の中で炎を弾けさせた者は意識を失って沈む様にその場に倒れた。
ファミリアの男も一人で2~3倍の敵を無力化できれば戦果としては上等だろう。
しかも粘体の中に横たわる身体は文字通り障害物として後続の歩みを遅らせる事ができる。
但し、この方法では敵をゼロにする事はできない。
通常の炎であれば粘体の中で飛び火する事は無いがこれは神威が炎の様に見えているに過ぎない。
物理的な障害は障害たり得ず、勢いを増した炎は起点となった男の全身をなめまわして新たな囚われ人を一人造り出す事と成る。
しかも、この男は最も味方に近い位置にいる。
新たな敵が歩みを引き継げば『仲間が逃げる時間を稼いだ』とはお世辞にも言えるものではなかった。
だが、飛び込んだ男は敵に支配されるより前に自分の腕を周囲の者の身体に縛り付けていた。
地下道でも散々目にして来たのだからこの程度の事は予想していたのだ。
新たに炎を灯して相手の駒に成り果てたものの、身動きの取れない状態になる事で仲間を護る。
自身は壮絶な自己犠牲の果てに身悶えながら3人目の障害物としてその場に横たわる事は覚悟の上だった。
後続の数人が死体の山を乗り越えようとしたとき、再び飛び込んだ者が同じことを繰り返した。
そして更にもう一人が犠牲になった頃には多くの障害物に遮られる事と鳴り、粘体のプールを息のある内に越える事はできなくなっていた。
この状況は操る男のセレーマが尽き、粘体が崩れ去るまで続いた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「目を閉じてなよ。」
無造作に、だが言外の優しさの籠った言葉を聞いてもクリュテは小さくかぶりを振った。
幼いクリュテとヘレンは大人の速度についていけないので最初から抱きかかえられて移動していた。
運が悪いとしか言い様のない事だが、後ろを向けられていたクリュテは足止めの一部始終を目にしてしまっていた。
直前まで隣りを走っていた人間が溺れて動かなくなる様子は幼児の精神に多大な負荷を掛けた。
堪らずに運んでくれている男の背中に盛大に吐いてしまったが衝撃が収まる事はなく、水が漏れるように滔々と涙を流し続けた。
同じように運ばれるヘレンは涙を流しながらもギュッと目を閉じて抱きかかえた男の首にしがみ付いている。
クリュテにも『そうした方がいい』とは分かっていたが、この事を忘れてはいけない気がして遠ざかる景色から目を逸らす事はできなかった。
人の顔も分からない位離れたころ、薄く燐光を放っていた粘体の壁は何の前触れもなく消えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます