アストレア

花々が咲き誇る庭園を風が吹き抜ける。

それまで覇を競っていた幾つもの香りは徐々に手を取り合い、やがて高名な調香師の作品の様に複雑で深みのあるものへとその有り様を変えてゆく。


険しい表情を浮かべて道を急いでいた女神アストレイアだったが、香りの変化に気づくと強張った心を少しだけ解き解す。


「少し思い詰め過ぎているな。」


いつの間にか剣呑な、それこそ戦いを仕掛けに行く様な気持ちになっていたのだ。

引き結んだ口を開けて大きく息を吸い込み、固く握り締めた拳を開いて凝り固まった身体にしなやかさを取り戻すと幾分か気持ちを落ち着かせる事ができた。

これから向かう先で待っているのは至高と言うべき存在。

無闇に諍いを起こしては望む結果など得られるものではないだろう。 


風と共に消えた香りを惜しみながら、アストレイアは気持ちを切り替えて歩みを再開した。




庭園の外れ、小さな東屋あずまやの前で目的の存在を見つける事ができた。


「エフィメート様」


話を始める為に声を掛けたのだが庭園の主人は憂いの表情を浮かべながら眼下の世界を見つめ続け、振り向く素ぶりもない。


「何を見ていらっしゃるのですか?」


主人の真意を知りたいという衝動のまま、名乗る事も必要な前置きも後回しにして、思わずそんな言葉が漏らしてしまった。

直後には『はっ!』と気づいて慌ててひざまづく。


「人の営みを。」


「世界の中心たるエフィメート様が愚かなスキンティーラ火花などを気にする必要はありません。」


アストレアは気づかなかったが、エフィメートの声には確かな悲しみが含まれていた。

先程の失態に焦るアストレアはその事に気づかないままに言う必要のない言葉を漏らしてしまった。


「神々とは彼の者達の火花スキンティーラから立ち上るフームスの様な物。1人々々は僅かな世界をしか照らす事ができない小さな者達を哀れと思わずにいられるでしょうか。」


『これは予想外だな。元々慈悲深いお方ではいらしたが些末な人族スキンティーラにまで哀れみを掛けられるとは・・・。だが、私の向かいたい結末には丁度いいかもしれない。」


未だ外を見つめるエフィメートの背中で笑みを浮かべると、殊更神妙な態度を装って声を掛ける。


「エフィメート様、その人族の事でご相談したい事があります。」

「何か難しいお話みたいね。」

「トリキルティスが向かった都市でエネルギーバランスの異常な偏りが観測されました。今はまだ第五相天秤(都市レベル)を振り切る程度ですが、続く第4相天秤の傾きも衰える様子を見せていません。このままの状況が続き第一相まで傾ききる事になれば、星の自転を乱して極転移を引き起こすかもしれません。」


ここまで話を進めて『後は分かりますよね』とエフィメートの答えを待つ。


極転移が起これば気温の分布は変わり、両極に蓄えられた氷雪が解けて惑星規模の大洪水が起こる。

実際、一度だけそれは起こっている。

かつて人族の欲望が極大化して暗黒の邪神が顕現したがあったのだが、暴れ回った邪神の影響で大地は割れ、風は渦巻き、地軸が移動した。

その時の混乱では人族の実に6割が死に絶えた。

そこまでの事態になれば神界もただで済む筈もない。

信仰を失って多くの神が消滅した。

この神域さえ一時は淡く消えかけたのだからその深刻さは推し量る事ができるだろう。

事態が収束し、新たな調和が生まれるまで実に千年を要する暗黒の時代の始まりだった。

アストレア自身はこの混乱の中、『新たな調和の神』として生まれている。

世界の劇変によって、以前の調和の神は全ての天秤を破壊されて苦しみながら消滅していた。

もし、このまま全ての調和が崩れてしまえばアストレアも同じ運命を辿るの事になるのだ。

到底受け入れられるものではなかった。


「もちろん多くの命が消える事態は私も望むものではありません。」


「では、」

「ですが、例えその様な事になっても必要であればやむを得ないでしょう。」

「な、何故なのですか。」

「大邪神たるプロムを解き放つ訳にはいかないからです。それは調和の崩壊などでは済まないのですから。」

「私はどうなるのですか。」

顔色を変えたアストレアの問い掛けに対して、返って来たのは悲しげな微笑み。

その意味するものを間違え様もない。


「よ、用事を思い出しましたので、これで失礼します。」


踵を返したアストレアが引き止められる事はなかった。


『拙い、拙い、拙い。このままでは前任者と同じ運命を辿る事になってしまう。この件に関してエフィメート様の助力が得られない以上自分で動くしかない。」


守護12神が1柱、調和のアストレアは急ぎ顕現すべく準備を始めた。




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