第49話 クリュテの英雄
小さなクリュテにとってそれは壁だった。
大人の背中が逃げ道を塞ぐように立ちはだかり、それが少しづつ―――砂時計の砂が時を刻みながら満ちて行く様に少しづつ近づいて来くる様子は悲鳴を上げる事も出来ないほど恐ろしかった。
目に映る蠢く壁までの距離がそのまま自分の命の長さなのだ。
否応なしに意識される『死』が身体の自由を奪い、ヘレンと抱き合いながら見つめることしかできなかった。
だがそこにあるのは絶望だけではない。
途切れることなく聞こえてくる音が―――それは人が殴られる音や怨嗟の声や誰かが地面に倒れる音であって普段であればそれ自体が恐怖の対象となる筈だが―――今は暗闇で聞こえた父親の声の様にそれに縋る以外には安心は得られないと思う程頼もしく耳に響いていた。
「名前も知らないけど、あのお兄ちゃんがまだ頑張っているんだ。」
ヘレンと交代で板を運んだクリュテは踊る様に相手を倒している姿を間近で見ている。
止まることなく動き続けるその人は振り返る事はなかったけれど、クリュテが行くたびに「ありがとう」とか「足元に気を付けてね」とか声を掛けてくれた。
それがあまりに嬉しかったのでこんな場合ではあっても順番が来るのが待ち遠しくさえ思っていた。
それに普段は言い合いをする事の多いパルスとダナエやそれをニヤニヤと眺めるラットが文句も言わずにお兄さんの指示に従って動くのはみんなの心が一つになった様に思えてとてもうれしかった。
それが何処で狂ったのかは幼いクリュテに分かる筈もなかったが、路地の出口近くまで押し返した群衆は、今は目の前まで迫っている。
それでも『あのお兄さんが頑張っている』と思えばいく分かは恐ろしさも紛れる気がした。
クリュテが見つめる先で不意に壁が割れて小さな塊が飛び出してきた。
跳ねる様に地面を転がったそれが器用に手足を伸ばして勢いを殺すと、追い詰められたミャオの様に四つん這いで前を睨む。
手にも足にも背中にも身体のいたる所に炎を灯している姿を見てクリュテの心が冬の地面の様に冷えて行く。
炎を身に纏った姿は押し寄せる人々と同じだったからだ。
けれど身体のあちらこちらに炎を灯しながらも他の人たちの様に澱んだ気配はなく、むしろ強い意志を秘めた瞳は明星の様に輝きを増しているのを見て強張った身体からそっと力を抜いた。
それまで背中を向けていた人たちが一斉に向きを変えるのと同時にユウキは地面を蹴って跳び出した。
殴り、蹴り、肘を打ち、掴んで投げ、時に肩から体を当て、時には頭を棍棒の様に振って相手を吹き飛ばした。
とは言え、一方的に相手を叩き伏せている訳ではない。
ユウキが誰かを殴っている間に別の方向―――それも複数の方向からユウキに対して手が伸びてくる。
一人を倒す間に傷は増えてゆくと言うのにユウキの動きに衰える様子はない。
影の射した中にあって、遠目からでもはっきり分かる程ユウキの胸元は青白く光り、赤黒い煤けた炎に囲まれながらそこだけが清浄な泉の様に輝いていた。
この時、ユウキの胸で輝く治癒の魔導具は実に5系統のセレーマが注がれていた。
炎で集約しきれないセレーマの為にそこまでしなくては動き続けられなくなっていた。
どうにかして前に進もうと奮闘するユウキが不意に動きを止めた。
目の前には冴えない男。
一瞬視線を交えた様に見えたが、男が殴り掛かって来たので直ぐに応酬が再開される。
その男、ダンダールはやはり強かった。
人一倍顔を歪めながらも時折、明らかな歓喜の表情が浮かぶと急に速さが増し、苦悶の表情が
その上ダンダールに手間取れば周りを囲む人たちは増えてゆく。
殴られる回数が増えて治癒の魔導具に更にもう1系統のロジックサーキットを回し、周囲を観る余裕がなくなって更に殴られる回数が増えた。
そしてあまりの手数の多さに思わず身を庇って動きが止まると後は一方的に殴られ、蹴られることになる。
小さな身体は殴られる度に
クリュテの頬を始めて涙が伝い落ちた。
「だれか・・・誰か助けてよ。あのお兄さんが死んじゃうよ。パルス・・・ダナエ・・・起きてよー。ラット何とかしてよー。」
気を失っている二人が小さな声にこたえる事はなく、ラットは血の気の引いた青白い顔で壁にもたれ掛っている。
「あれをどうにかする事なんて僕たちには無理だよ。」
「だって・・・だって・・・」
「もう見ている事しかできないんだよ。それよりもっと壁に近づいて。完全に決着がつけばあの人たちの気が済んで帰るかもしれないから出来るだけ離れているんだ。」
「そんな・・・ダメだよ。そんなのは嫌だよ。」
それは至極まともな判断だが幼いクリュテには受け入れる事はできなかった。
抱き合っていたヘレンを放すと反対に一歩前に出て力の限り声を上げた。
「頑張って・・・お兄さん、頑張れ!・・・お兄さん頑張れ!」
いつしかヘレンも横に並び、二人でユウキに声援を送っている。
「止めるんだ!声を出したらあれがこっちに向かって来るかもしれないじゃないか。今は自分たちが助かる事だけを考えるんだ。」
駆け寄ったラットが二人の腕を掴んで強く引き寄せた。
ラットにしてみれば親切だが名前も知らない人の生死よりも身近な仲間の事を優先したいのは当たり前だ。
それに本当にできる事など何もない以上、感情に任せて声を上げる事に意味はない。
しかしだからと言って誰もがそんな風に割り切れるものではない。
「「嫌!放して。」」
思いの外強く振り払われてラットはよろけて壁に手をついた。
着いたはずだった。
「えっ」
それまで壁だった所は『ガコン』と音を立てて後ろに開き、寄る辺を失くしたラットが尻餅を着くと
そこには
鬼が居た。
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