第4話 壊れた心 2
その夜、ゴーザは酒杯を手に遅くまで眠れずにいた。
朝、ユウキが言った言葉が深く突き刺さってジクジクと胸の奥を焼いていたからだ。
妹が生まれてからユウキは両親の愛情を失しなった。
素っ気ないどころか「それまで注いだ愛情を返せ!」と言う様に酷い扱いをして、近寄らせることさえ許していない。
もちろんゴーザやエリスが注意しなかった訳ではない。
しかし、その度に「如何にユウキには関心がないか」を本人の目の前で力説されては、子供の心情を考えて嗜める事も出来なくなっていった。
ゴーザとエリスで面倒を見ようとしたこともあったのだが今度はユウキがそれを拒んだ。
その頃はゴーザとアラドーネは言い合いが絶えなかったので”祖父母の世話になる事”は決定的に親との決別になると考えたのかもしれない。
結局、ゴーザとエリスにできたのは、ユウキがアラドーネ達と顔を合わせない様にする事と、戦い方を教えて一人でも生きられる様にする事だけだった。
全てはコルドランに現れた”名も知らない神”の予言から始まっている。
そして、迂闊にもその事を娘夫婦に漏らしてしまった自分から・・・
空になった杯にゴーザの妻エリスが琥珀色の酒を注ぎ、つつましく少し離れた席に座る。
長年連れ添っているエリスには夫が何を考え、何を悩んでいるのかもちろん知っている。
考えを話せば少しは楽になれるのに、夫は救われる事を望んでいない。
だから、どんなに辛くても自分は夫の傍に居ようと決めていた。
重苦しい夜は長く、ゴーザ夫妻にとって決して望ましいとは言えなかったがこの夜に限っては幸いした。
鋭敏化したゴーザの感覚が幽かな異変を感じとったのだ。
ほんのわずかな濃い神素の匂い・・・
コルドラン程ではないが世界中に神素は普通にある。
地形や条件によって濃淡に差はできるので、多少濃い神素が流れて来たとしても”遠くで魚が跳ねた”位の事で、特に意識する様なものではない。
だが、神について考えていたからだろうか、ゴーザには”魚を驚かせた水面下の状況”が神界の干渉にしか思えなかった。
一流の探索者ほど直感を大事にする。
論理と直感は例えれば”筆で描く絵”と”エッチングで刷られた絵”の様に全く別の仕組みが働いているものであり、そこに違いはあっても優劣はない。
その事を彼らこそ良く分かっているからだ。
今、ゴーザの頭に浮かんだモノを説明できる言葉はない。
だが、それでいい。
ゴーザは愛刀を手に駆け出した。
そこに微塵も迷いはない。
「エリス!全員起こせ。」
命じられたエリスにとって、今が深夜である事も、夫が何の説明もしない事も、
「きゃーーーーーーー!」
大きく息を吸い込むと、よくぞここまでと思える大声で悲鳴を上げる。
この声を聞いて惰眠をむさぼり続ける様な者はフェンネル邸に一人もいない。
そこかしこでガタガタと召使たちが起き出し、灯りをつける者、屋敷中の部屋を開けて異常を探し回る者、主人の安否を確認する為駆け付ける者と、予め決まっていたかの様に動き出した。
部屋を飛び出したゴーザは神素の濃い方へ進み、ユウキの部屋のドアを蹴り開けた。
そこには、腹にナイフを刺されて倒れているユウキと背中を向けている着飾った女の姿、馬乗りになった女の手が今にもユウキに届こうとしていた。
「きさまー!」
怒声と共に一息に間合いに入ると、袈裟懸けに女を切り付ける。
「斬った!」
と思ったが伝わった感触は人のものではない。
水で出来た人形を斬った様な、妙に重みはあるがサラサラと刃が抜けていく不思議な感触をしており、何のダメージも与えた様子はなかった。
この時になって部屋の神素濃度がそれこそコルドラン並みに高くなっている事に気づく。
この感じは40年以上昔に神に対峙した時と似ている。
だが、先ずはユウキから引き離さなければ。
斬撃に手ごたえは薄いがゼロではない。
現に刃が抜けた所は直ぐには元に戻ら断面が戻らずウネウネと蠢いている。
ならば人の形が取れ無くなるまで斬るだけのことだ。
一瞬でそこまで考えて振り下ろした刀を逆に斬り上げるべく棟をかえした時・・・
「・・・オ・ト・ウ・サ・ン・・・・」
聞きなれた声に動きが止まる。
ゆっくりと振り向いた顔は先ほどの妖艶な様子は欠片もない、まるで童女のような笑顔をした自分の娘。
「アラドーネ・・・」
思わず呼びかけると、アラドーネの姿をしたモノはスーっと霧の様に消えていった。
直ぐに施した治療の甲斐あってユウキは一命を取り留めた。
しかしショックの為か高熱を出して3日間うなされ続けた。
あの夜、アラドーネとカイル夫妻はユウキの所には現れなかった。
エリスの悲鳴で目覚めると即座にリューイの傍らに向かい、そこで状況の確認や家人への指示を出していたらしい。
カイルが的確に対応したことで騒動は速やかに落ち着いて行き、迅速にユウキの治療が手配されることになった。
アラドーネにはユウキを襲った記憶はない。
念のため斬り付けた所を確認したが、何ら異常は見られなかったのでゴーザの本心は誰にも話される事はなかった。
『あれには神が関わっている。』
神素を纏って現れ、神素を引き連れて消える様子はコルドランで出会った神とそっくりではないか。
だが、同時にゴーザには確信があった。
実体ではなかったがあれは間違いなく娘アラドーネだったと。
ユウキは夢を見ていた。
小さな頃の事、お父さんとお母さんがいつも側にいて笑っていた頃の夢。
毎日が楽しかった。
旅行に行ったこともあった。
お父さんが剣を教えてくれた。
褒めてもらうのが嬉しくて訓練の時間が待ち遠しかった。
お母さんはいつも笑っていた。
「大好きだよ」と言って、いつも・・・いつも・・・いつも・・・
サラサラサラ
小さな綻びが広がって行く。
サラサラサラ
思い出が徐々に・・・徐々に・・・片隅から砂山の様に崩れて行く
子供が生まれて最初に求めるのは母親の愛情だ。
母親に愛されて生きる意味を見出し、
母親の笑顔を見て自分のしたい事を知って行く。
母親の喜怒哀楽を感じて世界をおぼろげながら理解し、
母親の心をまねて原初の精神世界を作っていく。
『お母さんが僕を殺そうとした。』
これ以上の拒絶があるだろうか。
ユウキは殺されかける事で全てを拒絶され、
そして自分の生きる意味を失った。
その結果
砂時計の砂が穴に引き込まれていく様に、ユウキの精神はサラサラと崩れては暗い穴に落ちていった。
深く、暗い心の穴
ユウキの意識には10に分かれた世界がある。
今、その内の一つが暗い穴の中に崩れ落ちて行った。
やがてあの穴が広がって全てを飲み込んでしまう・・・何の根拠もないがそれが真実だと分かる。
『・・・だけど、それでいい』
穴の底はとても静かで何も苦しまなくていい、そんな風に思えた。
熱にうなされながら安らかな死を望んでいたが、皮肉にも自身の能力、フェンネルの血がユウキの精神を守る事になる。
マルチ・ロジック・サーキットによって幾つもの区切られた精神構造を持っていたユウキは、一つの系統が壊れてもそこで一旦歯止めがかかる事になり、なし崩し的に全てが崩壊することがなかった。
それでも、精神にこれ程のダメージを負っていたら、様々な障害や後遺症でまともな暮らしなどとてもできなかっただろう。
だがここでも幸いなことに、10系統ある内の一つがダメになっても他で十分にカバーすることができるので特に支障が出る事はなかった。
しかし放っておけば崩壊は再度進み始め、やがて区切りさえ超えて全てが飲み込まれていただろう。
何しろ、ユウキ自身には『救われたい』と言う欲求が無いのだから持ち直す道理がなかった。
この状況を変えたのはまだ幼い妹の励ましだった。
リューイはアラドーネの目を盗んではユウキの病室を訪れ
「おにいちゃん、がんばって。おにいちゃん、がんばって・・・」と手を握って言い続けた。
無垢の愛情、それがユウキに生きる根拠を与え、広がる心の穴を押しとどめる事になった。
やがて熱も下がり順調にユウキは回復していった。
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