第2話 海神の炎

 この海の向こうには、ヒトの支配する広大な陸がある。


「ご存知でしょう、若?」


 女が小首を傾げると、光射さぬ深海の髪が頬に張りつく。水際に立ち、遠くを睨んでいた男は研ぎ澄まされた鋼のごとき視線で、女を切りつけた。


「よく知っているとも、ぬしが猿の倅めに懸想しておることはな」


 女は水面から頭だけを出して、ふふ、と吐息を零し、池の縁石に青白い両の腕を置く。


「わたくしは、こうして殿や若のサカナでおりますれど」


 男の眼が、浅黒い肌から浮き上がってぬらぬらと輝く。

 焦点を結ばぬ女のふたつの青水晶が、男の額の中央で交差する。


「この心までたなごころにあるとは、思われませぬよう」


 互いを見上げ、見下ろす眼差しは交わることなく、秘めた泥濘をかき回すのみ。やがて睨み合いに飽いたか、女は飛沫をあげて池に消えた。

 その妖艶な白い肌が、銀の尾鰭が水に消える刹那、置き土産とばかりにひときわ大きな飛沫をたてる。頭から水をかぶった男は、海とつながった池の塩辛い水を唾とともに吐き出した。




 ごつごつした岩山ばかりが剣山のごとくに聳え立つ、名もなき島。その住人こそ、内海最強の水軍を有する鬼であった。

 島の周囲では潮が激しく渦を巻き、うねり、ぶつかりあっている。凪いだように平らな水面ばかりの穏やかな内海にあって、この一所だけが猛る潮と峻険な岩山に囲われ、要塞のごとき威容を晒していた。

 鬼たちの祖先がどのようにして生まれ、島にて増えたのか、文字を持たぬ鬼たちは口伝に頼るしかない。岩山に穿った洞穴の一つで寝起きする語り部の老爺は、濁った両目で宙を見据えて諳んじる。


「この島はかつて、カミが悪しきものを封じた際の要石なのじゃ。地の底に封じたもろもろが地上を荒らさぬよう、カミは渦巻く海、険しき山をお創りになった。そしてわしら鬼という門番を置き、ヒトにあらざる能力を与えた。何人たりとも封印に触れることは叶わぬように」


 若は封印の守人なのですぞと、老爺は小言を連ねる。父王の守る封印を、いつか若が継いで守られるのですぞ、と。幼き頃から繰り返し、何度も何度も聞かされた話だ。

 しかし、カミが、悪しきものが、封印がと言われても、彼はそのどれをも目にしたことがなく、ヒトと密に接したことがないために、ヒトにあらざる能力と言われたところで理解が及ばぬ。己の身こそが基準であった。

 鬼たちは皆、海の底の泥をこねて形作ったような灰褐色の肌と、固い墨色の髪を持っていた。尖った耳は遠くの微かな音を聞き分け、引き締まった体躯は頑健にして頑強。海の孤島、険しき岩の島で暮らすべく創られたと言われても納得がゆく。

 一方、島の近海に暮らす人魚たちはおしなべて肌が真珠のように白く、腹からしなやかに伸びる魚の尾は銀粉をはたいたような輝きを放つ。濃い色合いの長い髪は海藻のよう、瞳がなくどこを見ているか定かではない眼差しには、時に寒気さえ覚える。

 あやつらは、声と眼差しで惑わしよるのだ、と父王は言う。

 人魚は鬼に服従を誓っているが、戯れにこの池を訪れては彼に意味ありげな囁きを残して去る彼女、人魚の姫だけは、それを不満に思っているらしい。敵であるはずのヒトども、その大将の倅に懸想して、いつかは陸に上がって暮らすのだと息巻いている。

 ヒトどもと、陸で。

 内海の向こう、大陸の支配者を名乗るヒトどもときたら、吠え声は犬も逃げ出すほどにかしましく、ごてごてと身を飾る様には鳥たちが失笑を禁じ得ぬと聞く。

 人魚の姫ともあろう者が野蛮で破廉恥、猿と大差ないヒトに懸想するとは何事か! あの姫には陸を踏みしめる二本の脚もなければ、紡ぐ言葉にはことごとく呪いが宿り、まともな睦言のひとつも口にできぬときている。強欲でそのくせ脆弱、耳元を飛び回る蚊と大差ないヒトと暮らせる道理がなかった。

 愚かな。彼は嘆息する。

 剛強無双の鬼と、水中を自在に泳ぐ人魚。鬼の水軍が無敗、最強を誇るのは、人魚の力添えあってこそだ。支配と服従の関係にあるとはいえ、鬼と人魚は内海の住処の平穏を守るために同盟しているに過ぎぬ。そもそも住む場が違うのだ、鬼は人魚を虐げぬし、その逆も然りだ。

 人魚たちは魚や貝や海藻、それに珍しい貝や珊瑚を鬼のもとへ届け、時に鬼の無聊を慰めんと、歌や舞を披露する。鬼は人魚の住処を守り、あるいは彼女らの求めに応じて真珠や珊瑚を削り、螺鈿を施し、細工物をこしらえてやる。

 考えの浅い女ではない。だのに、陸へ上がりたいなどとぬかす。内海の平穏を捨て、鬼の敵になると言う。


「……ちっ!」


 何度唾を吐いても、塩の味は舌の先に残り続けた。




 かんかんかん、忙しく鐘が鳴る。

 鬼たちは胸当てと鉢金を身に着け、小ぶりの盾とめいめいの得物を手に、舟に乗り込み、咆哮をあげた。茫洋とした目つきの人魚が舟を守り、士気を高める勇ましい唄を歌う。斥候の役目を仰せつかった者はすでに沖合へと泳ぎだしているはずだった。

 鐘は迎撃の合図だった。ヒトの水軍が攻めてくる。

 先の小競り合いで得たヒトの捕虜が言うには、この島にはとんでもない宝が眠っているのだそうだ。そして、鬼がその恩恵を不当に独占しており、ヒトはその宝を手にせんと、激しい潮流と鬼の水軍に立ち向かってきたというわけである。

 開いた口が塞がらぬとはこのことだ。宝とは、とんだ言いがかりだ。ヒトが鬼を疎んじたか、或いは悪しきものを封じたという鬼たちの伝説を曲解し、宝を独占していると思い込んでいるのだろう。

 説得などするだけ無駄であり、来るならば迎え撃つのみ。父王の決断は簡潔ゆえに揺るがない。

 こうしてヒトの舟がやって来るのも幾度目か。鬼はほとんど損害も出さずに勝利を続けているというのに、懲りない。それほどまでに鬼が憎いか。宝とやらが欲しいか。まったく、救いがたい愚かさだ。

 ――では、その猿に懸想しているあの女は?

 考えるほどに苛立ちが募る。

 彼は港へ向かうのを躊躇い、池のほとりに佇んでいた。あの女は来る、そんな予感があったからかもしれない。

 果たして、人魚の姫は来た。ひたと彼の顔を見据える。


「若、わたくしは参りますわ。お止めになりませぬよう」

「……なぜ、それを言いに来た」


 女は笑った。ころころと、珠を転がすように。


「あなた様が、ここに居られたからですわ」


 身を翻す女を、彼は引き止める。腰の小太刀を鞘ごと、帯から引き抜いた。


「餞別だ。猿が見てくれ通りのけだものだったなら、遠慮なく斬れ」


 わたくしには、必要ありませんわ。言いながらも女は珊瑚のごとく細い腕を伸ばし、小太刀を取った。


「ご存知でしょう、若? わたくしの声が、眼差しが、如何な呪いを宿すかを」

「ああ、知っておるさ」


 知っているとも――誰よりも。

 女は喉で笑い、水底に消えた。




 戦には難なく勝利した。けれど人魚の姫が消えたことで、鬼と人魚の関係は一時不安定なものとなった。

 戦場の混乱は誰にも把握しきれぬものであったし、姫が何事か思い詰めていたのは人魚たちの間でも知られていたことだったから、誤って潮に流されたか、考えたくないことではあるが、ヒトに連れ去られたのであろうと誰もが考えるようになった。それほど、姫の失踪は突然で、何の痕跡もなかった。

 猿に懸想していることは、誰にも知られていなかったらしい。彼は崖の上から釣糸を垂らし、物思いに耽る。

 島の周囲は潮の流れが激しいせいか、釣果は思わしくないことが多い。いっそ海に飛び込んで、銛だの網だのを用いた方が確実である。しかし、物思いに耽るには釣糸を垂らすのが一番だ。

 陽は西に傾き、海は夕焼けと夜の色に塗り分けられている。

 人魚の姫は無事にヒトの港に着いただろうか。ヒトに受け入れられただろうか。力強く水中を進む尾は、頭の芯を痺れさせるような青い眼差しは、心を蝕む呪いの言葉は、どうなってしまったのだろうか。

 猿の倅と人魚の姫が仲睦まじく暮らしている様を思い描くことは、逆立ちをしてもできそうになかった。

 思い出されるのは、池から半身を覗かせて彼に滔々と語る女の姿だ。大将の倅がどれほどの男ぶりであるか。彼の妻となる幸福。陸に広がる、黄金の都。

 頬を染め、恍惚に身を浸しつつ語る様からは、女の懸想が一時の気の迷いでないことが伺えた。戦のたび、彼女は猿の倅めを見つめていたのだろう。尻尾を巻いて逃げ帰る船団の航跡を追ったのだろう。

 お止めになりませぬよう。艶然と笑う女の姿が遠ざかり、ぼやけ、消える。

 猿ごときに人魚を幸福にできるものか、と彼は苦いものを飲み込む。小太刀をくれてやったせいでいやに軽い腰が空白を訴え、落ち着かない。

 おれは、女の幸いを望んでいるのか?

 それとも、悲しみに暮れて海に戻る女を罵倒し、指さして哄笑したいのか。

 彼には、わからなかった。

 もしかして、ひょっとすると、万に一つくらいは、猿の倅との暮らしがこの内海でのものよりも素晴らしいということもありうるかもしれない。そうなればおれは女を笑顔で送り出すのか。金、銀、珊瑚、真珠、螺鈿の細工を山と船に積んで、水面を覆い尽くすほどの花を、紙吹雪を撒くのか。


「そんなわけあるか!」


 おくるみの中であどけなく笑う赤子、珊瑚の腕で赤子を抱く女、妻子を守るように隙なく立つ猿の倅。

 そんなことが、あっていいはずがない。あろうはずがない。馬鹿げている!

 彼は鼻息荒く釣竿を引き上げ、海に向かった。港の裏側、島の裾野が浅瀬のように広がる一帯では、海の幸がわんさと獲れるのだ。釣竿を帯に挟むように背負い、代わりに小型の銛を引き抜く。苛立ちをぶつけるようにたちまち三尾の鯵を仕留め、腰に吊るす。次は貝か、それとももっと大きな魚を狙うか。一瞬思案した彼の視界の隅が、きらりと光った。

 波の反射ではない。何事かと身体を強張らせる彼の目に飛び込んできたのは、芥子色の布地だった。女のようだ。ヒトが身投げでもしたのかと唇を曲げ、その次の呼吸で彼は波を蹴って走り出していた。

 深海の色の長い髪。真珠の肌。夕焼けの海のごとき朱の袴こそ見覚えのない品だったが、光を弾いた小太刀の鞘は見紛うはずもない、彼のものだった。

 人魚の姫。

 海の支配者たる彼女が身体を投げ出し、波に翻弄されている。気を失っているのは明らかだった。


「おい! おい! 目を開けろ!」


 ずぶ濡れのくせに軽い痩躯を抱えて島に上がり、冷え切った頬を叩く。どのような秘術を用いたか、袴からは魚の尾ではなく、二本の脚がにょきりと覗いていた。

 揺さぶり、叩き、目を覚ませと怒鳴りつける。幾度か繰り返すと、女は身体を波打たせて水を吐き、薄く目を開けた。その眼は青い色こそしていたが瞳を有しており、彼に焦点を結んだ。

 背が粟立つ。


「……若」

「おう、そうだ。気をしっかり持て。どうした。何があった。何が欲しい? 水か、それとも火か、食い物か」


 彼の矢継ぎ早な問いかけに、女は喘ぐように笑った。


「若は、変わりませぬな。……わたくしは、こんなにも変わってしまいましたのに」

「それは目のことか、脚のことか。そんなことは些細な違いにすぎぬ。どこも痛まぬか。つろうないか」


 些細。女は繰り返し、目を細める。あまりに自嘲の色が濃い。


「わたくしは、すべてを投げ出しました。海を泳ぐ尾も、幻惑の眼差しも呪いの声も」


 あえかな声で、女は語った。


「わたくしはかの男の元に迎えられ、妻となりました。夜ごと彼はわたくしをおとない、わたくしの望みは叶ったように思われました……されど」


 女は涙を流し、脚を指し、両の手で顔を覆った。


「これではもう、わたくしが愛されたとは申せませぬ」

「人魚ではないお主を、猿の倅は望んだということか」

「左様にございます。そして……宝の在り処まで案内せよと」


 それみたことかと、賢しらな優越を感じることはなかった。ただこの女への哀れみが、胸を満たした。


「尾や目や呪いの声はもう、戻らぬのか」

「戻りませぬ。ヒトでもなく、人魚でもないものとして生きねばならぬのです」


 そうか。己の声があまりに平坦であることに驚きつつ、彼は女を肩に担いだ。


「案ずるな。ぬしの帰還を疎んじるものは、ここにはおるまい。安らかに暮らせ」

「……若、わたくしは」


 女の声にかぶさるように、かんかんかんと鐘が敵襲を知らせる。彼は女を乾いた岩場に横たえ、水筒と干した昆布をそばに置いた。女の腰から小太刀を取り上げ、己が腰に差す。


「ここで休んでおれ。ぬしの無念は、おれが晴らす」

「いいえ、若」


 女は彼の脚にとりすがり、連れて行ってくれとせがむ。美しいかんばせを歪ませ、呪詛を吐く。


「ころしてやりたいのです。奪ってやりたいのです……!」

「たんと海水を飲んだのだろう、今は休め。それに……以前のようには動けぬであろうが」


 いいえ! 女の声は絹を裂くがごとくに高まった。


「尾がなくともこの脚が、呪いの力がなくともこの想いがございます。わたくしもお連れください。どうか、どうか、わたくしに……!」


 彼は女を見つめた。

 女は彼を見つめた。

 視線が絡み、彼は再び女を抱き上げる。


「では、共に参れ。ただし、おれから離れることは許さぬ」


 風のように走り、島を駆け抜け、慌ただしく出撃の用意をする舟に乗り込んだ。


「思うままにいたせ、人魚の姫よ」

「有難う存じます、若」


 女の青い眼ははるか海の向こうに焦点を結び、炎を迸らせていた。



 出航を知らせる法螺貝が鳴り、ゆるゆると船が動き出す。

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