あめつちをまもるもの
凪野基
第1話 あめつちをまもるもの
――星の砂を小瓶にひとつ、光の粉をひとさじ、龍のひげを一本。
それは、天をなだめ、水を呼び、地を治めるまじない。
龍ってなに?
尋ねた少年に、書庫番の老爺はあごひげの奥から答えました。
――星の砂を小瓶にひとつ、光の粉をひとさじ、龍のひげを一本。
そんなのおとぎ話さ、とみなが言いました。
そうかな、と彼は思いました。
それが単なるおとぎ話であれば、とうに砂や歴史に埋もれているはずです。今に伝えられているからには、何らかの意味があるのでしょう。
それに、彼だってもう大きいのです。真偽定かではない口伝に、こんなにも心揺さぶられるはずがありません。
かつて、世界には空と海という、ふたつの青がありました。どちらも、それはそれは美しいものであったと、古い資料がうたいます。
その美しい青が失われたのは、天に輝く星のひとつが落ちてきたためです。
星が落ちた衝撃は、大地に大穴を穿ち、陸地じゅうの砂を巻き上げるほどのものでした。
海と空は、舞い上がった砂の向こうに隠されました。砂嵐を越え、見渡す限り続く砂漠を越えたところに。衣服を汚し、目や肌を傷つける砂埃の層を抜けた、はるかな高みに。
晴れることのない砂埃と、果てのない砂の海は青を塗りこめ、太陽を遠ざけ、人々から文明を、文化を、健康を、色素を奪いました。
防寒用の分厚い外套、防塵ゴーグルとマスク。それらなしでは生きられず、かといって希望を手放すこともできず、人々は冷たい砂嵐と厚い砂埃に翻弄されながら細々と生きているのでした。
最近は埃がひどいわ、とお母さんがため息をつきながら、ちいさな妹の背を撫でました。言いつけを破って、外でマスクを外したのだそうです。涙に濡れる赤い眼、咳き込むたびに震える細い手足の痛々しさに、彼は顔をしかめました。肺に入った砂礫がもたらす苦しみは、彼もよく知っているからです。
大人たちだって、子どもだったころに一度は、こっそりとマスクやゴーグルを外したことがあるに違いありません。そして砂を吸い込んでは激しく咳き、涙を流して家へ駆け戻るや、お父さんやお母さんにこっぴどく叱られたことでしょう。みな、そうして砂の恐ろしさを身をもって知るのです。
彼もそんなひとりでしたが、彼は他の誰よりも身体が強いようで、十の年にはマスクやゴーグルを外していても目や肺が傷つくことはなく、泣いたり咳をすることもなくなりました。彼はすぐにそのことに気づきましたが、お父さんにもお母さんにも打ち明けずにいました。どうしてか、言ってはいけないような気がしたからです。
けれど、砂がなければ誰も泣かず、咳き込むこともなく、砂に呼吸をふさがれることも、砂混じりの血を吐いて死んでゆくこともないのです。彼のように、ざらつく口の中をうがいで流すだけで済むのです。
砂よりも強い身体は、彼にひとつの決心を促しました。星の落ちた場所へ、青を奪ったもののところへ行かねばならない、と。
彼は旅に出ました。力あることばひとつ、胸に携えて。
――星の砂を小瓶にひとつ、光の粉をひとさじ、龍のひげを一本。
落ちてきた星は、さまざまに研究されました。長い年月をかけ、砂に埋もれずに残ったあらゆる手段でもって調べつくされました。
けれど、調べても星の来歴が明らかになるばかりで、空と海を取り戻す方法も、砂嵐や砂埃を取り除く方法もわからず、画期的な方法が見つかっても、莫大なお金が必要だったり、失われた科学技術が必要だったり、とても実行できるものではありませんでした。昔に比べて環境は厳しく、物資は乏しく、人々は生きてゆくので精一杯だったからです。
彼は星を見つめました。砂に霞む星はひっそりと静まり、見渡す限りどこにも人の姿は見えませんでした。星を調べたところで益はないと、調査も研究もとうに打ち切られているのですから、当然かもしれません。半ば砂に埋もれた研究施設がたたずむばかりの光景に、この世の果てを訪ねたような心細さを覚えました。
夜の色の星は、遠目には岩のように見えましたが、近づいて触れてみると金属の冷たさと滑らかさがてのひらにじんわりと沁みてゆきます。卵みたいだ、と彼は思いました。
周囲を巡るうち、星が不自然に抉れているところにたどり着きました。研究のために爆破されたのでしょうか。
あたりに降り積もった砂を注意深く除け、ようやく見つけた星の欠片をガラス瓶に入れた、そのときでした。
――星の砂を小瓶にひとつ、光の粉をひとさじ、龍のひげを一本。
歌うような少女の声に、彼は飛び上がりました。まさか他に人がいるなんて!
高鳴る心臓をなだめながら振り返ると、そこにいたのはまばゆく輝く蝶、いえ、よく見れば蝶ではなく、翅の生えた小人でした。そんな生き物を見たのは初めてで、彼は言葉を失います。
光る小人は宙でとんぼを切り、ガラス瓶に飛び込みました。ガラス瓶は虹を閉じ込めたランプさながらに、七色にきらめきます。
龍はまだいないわよ、と光が明滅するのにあわせて声がしました。
まだ、いない。彼は呟きました。それはつまり、いつかは龍が現れるということなのでしょうか。いつかとは、いつなのでしょう?
小人は翅をびりびりと震わせました。鈍いわね、と甲高い声はどうやら、怒っているようです。
ふいに、小人が瓶を飛び出しました。彼の手をたくみにすり抜け、彼女は彼のゴーグルとマスクを外してしまいます。冷たく乾いた砂のにおいが、鼻と喉にまとわりつきました。
小人はガラス瓶に戻り、瓶を額に当てて目を閉じるように、と続けざまに命じました。
彼はすっかり気おされて、ふぞろいの白い髪が風に舞うのにも構わず、砂が傷つけえぬ赤い目を閉じ、ガラス瓶を額に押し当てました。星に触れたときと同じ冷たさと滑らかさに、わけもなく安堵を覚えました。
少女が、言いました。高らかに。
「はじめにあったのは、ことばでした。そして、ひかりがうまれました」
閉じたまぶたの奥に閃光が走り、世界が反転しました。
それは、空でした。
それは、雲でした。
それは、海でした。
失われた青、透明なひかりが、そこにはありました。
蒼く白く、きらきらときらめきながら広がるそれは、見たこともないほどのたくさんの水。
水はどこからともなくこんこんと湧き、彼のくるぶしを、膝を腿を腰を胸を濡らし、ひたひたと、世界に満ちてゆきました。
目を開けても見えるものがぼんやりと歪んでいたので、彼は自分が泣いていることに気づきました。
頬を伝った水が唇に触れ、その塩の味を感じました。
覚えている? あの広い海を。高い空を。瓶の中で小人が歌い、彼は左手に残った手袋を外し、身体を開いて砂埃にけぶる太陽を見上げます。
「思い出したよ」
やがて砂埃が陰り、砂の混じった灰色の雨がひとしずく、彼の頬を打ちました。
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