第二十四章 ジャック・クレイジーエメラルド⑥

『雨に負けない清らかさ 


 炎を退ける灯』


 とうとうジャックは、ステージの最前にまで辿りついた。

 そこは、途切れた撥水ヴェールの境目。

 

 とめどなく雨に打たれながらも手を伸ばせば、濡れて鋭敏になった指先が、冷たい空気、雨の降っていない空間に触れるのが分かった。


 もう一歩、前へ。

 視界が開け、観客達の姿が、一瞬だけはっきりとした。


 何の機能も果たさない舞台を支えんと、照明だけが働いていたことに気がついた。

 スポットライトの明かりが、飛びつくようにジャックに向かってきた。

 荒く濡れた緑の肌が、細かい乱反射を見せる。

 ジャックから見て、観客達はあっという間に、ライトとライトの間に出来た濃い暗闇の中に浮かぶ影法師になり下がった。

 

 光に群がられて。

 雨霧の中においてなお、ジャックの姿は浮き彫りにされた。

 

 最前線に、ライトの獲物がもう一体現れた。

 光源が二手に分かれる。

 ステージの、端と端。


 中央に向け、ジャックが左手を、ロズが右手を差し出しながら歩み寄っていく。


 リードもエスコートも無く。

 ステージのフロントライン上。

 互いを引き寄せ合うように、近づいていく。

 上から下に向かって降りしきる滴を横に柔らかく裂きながら、二人の歌声は広がっていく。

 

 舞台袖で自分が何を恐れていたのか、ジャックには今では、さっぱりわからなかった。

 いつの間にか、バックコーラスもしっかりと、響いている。

 背中に、リンダとレイラ、ペッパーの力を、確かに感じる。


 ついにジャックとロズは、ステージの中心に辿り着いた。

 分かたれたスポットライトの輝きが、再び一つにまとめ上げられる。


『こんなに近くにいるのに

 

 明日もあなたに会えるようにと願って

 

 生まれたままで生きられなくとも

 

 裸足であなたに駆けた日だけ

 

 胸に抱かせて』


 歌が、終わる。

 

 眼球の表面を、絶えず雨粒が流れ落ち、滑っていく。

 睫毛の刺す痛みに視界が滲んでも、逸らすことは出来なかった。

 

 観客は沈黙している。

 合唱の始まる前から降り続けている雨の音さえ、意味を為してはいない。

 存在しない物すら拭い去られ、あらゆる実在は、ことごとく成り立っていなかった。

 

 銀の雨に身体を打たれ続ける。

 己の表皮と、そこから一枚下の肉との距離が、かけ離れて感じられる。

 

 ジャックはロズの手を取った。

 絡む指、緑と白。

 

 つやを無くしたロズの爪、散らばった髪、青い瞳。

 濡れた服が張り付いた腰、芯まで熱の失われた、その細い腿。

 

 誰かが舞台に駆け込み、自分達を引きずり降ろすだろうか。

 それとも、自分達を舞台に残したまま、まだ恥を掻かせてやろうと次の一手を企む誰かが、にやつきながら会場のどこかに、潜んでいるのだろうか。


 どちらでも、かまわなかった。

 雨を凌ぐ連中には、代わりに雷を落としてやればいい。

 

 ロズは、瞳を動かさない。

 ジャックは彼女を、一思いに抱き寄せた。


 濡れた身体をまさぐり、背中に回した左手に力を込める。

 右手を、彼女の頭の後ろに添える。

 うなじは冷たかったが、柔らかな金の髪は、雨を浴びてなお指通り良く、滑らかだった。

 

 唇を、重ねた。

 

 ロズにだけ分かるように丁寧に。

 その他の人間からは、大罪人だと思われたって何一つ構わないと、ジャックは決意した。

 身じろぐ彼女を、わざと大仰におさえつける。


 人を殺して英雄と呼ばれたやつがいる。

 物を盗んで義賊と呼ばれたやつがいる。

 だが、女に無理強いをして、ヒーローになったやつはいない。

 

 百年先まで、語り継がれればいい。

 これで蛮族と呼ばれるなら、本望だ。

 

 腕の中のロズは、これ以上無いほどジャックの意図を正確にくみ取り、見栄え良く身をよじってみせていた。

 

 二人して、人類の遺産とも言える歴史に対し、存分に不敬をはたらいた。

 刹那の遊戯を噛みしめていた。

 過去も未来も、人間だけが頭の中に思い浮かべる空想だと、重ねた唇の間でこき下ろしてみせた。

 物も知性も、心の媒介に過ぎないのだ。

 

 ―――ここで終わりだと言うのなら、このまま終わり続けていくだけだ。

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