第二十一章 運命のデビューステージ④
男がいた。
アメリカ。
マイノリティの集まったゲットーで、黒人の子どもが踊るのを、遠くから眺めていた。
その子どもに興味をひかれたのは、男にとって、自然なことだった。
男は普段から、同世代や年上の人間達よりも、子どもに対して共感を覚えることの方が多かった。
自分が行動に洒落っ気を出すと、何故かそのうち悪ふざけになり、収録は止まって、スタジオ中がポップコーンまみれになっていたりする。
自分はそれを、なによりも愉快に想いながら、真ん中に立ち尽くしているのだ。
子どもという存在に対し、自分に纏わるありとあらゆるものを、重ねてしまう。
失われたものについて。
幼少期、男はよく、父から暴力を振るわれていた。
だが同時に、チャンスをくれたのもまた、父だった。
ほんの小さな子どものころから、ステージに立って歌い続ける運命だったのだ。
男の子ども時代は、極めて複雑な形で、失われてしまった。
だから、子どもを目に入れると、自然と憧憬を抱かずにはいられない。
誰だって、かつては子どもだったはずだ。
小さな体に可能性のたっぷり詰まった存在だったはずだ。
溌剌とした時代を過ごし、大人になるはずなのに。
自分の幼少期は、欠落している。
それが自分にとっての何かを、決定づけようとしている。
男はまだ若かったが、ありとあらゆる富豪に出会ってきた。
イギリス女王と目を合わせたことだってある。
人から見て、他に二つとない人生を歩んできたにも拘わらず、子どもなんてありふれた存在が、自分にとって唯一未体験の神秘であることに、何の意味があるのだろう。
踊る黒人の少年がステップを踏むたびに、土埃が舞った。
都市計画から置き去りにされた、日当たりの悪い街道からは、うっすらと黴の匂いがしていたが、少年がダンスをやめることはなかった。
少年の影と、自分の過去。
鏡映しだ。
同一の対象を正確に映し出しながらも、全てが真逆の像を、結んでいた。
過去の記憶は、自分という「一人の人間」を、踊る少年は「世界」を象徴しているように思えた。
五歳の時、学校のステージでサウンド・オブ・ミュージックをやった時から、ステージは男にとって、何より安全な場所だった。
その安全地帯から、全てを見通せる気がしていた。
しかし本当に重要なのは、ステージから別のステージに移る間に、目に映るものなのではないか。
本を読むのでもなく、通りに溢れるゴシップを耳に入れるのでもない。
間近で見る事が、肝心なのではないか。
富豪達の人となりも、女王の姿も、この二つの目で見た瞬間に、それまでの印象は全て無意味だったと、気付けたではないか。
空を見上げる。
頭の中で、呪文のように繰り返される。
自分という存在が常人から離れていく実感が、最近では日ごとに濃くなる。
さびしくないと言えば、嘘になる。
しかし、流れに逆らう気も無い。
普通の人生を送れなかった者が、人から普通と思われないことに異論はない。
勿論、普通の人のように扱われることに、快感が無いとは言わないけれども。
問題は、自身の異常を踏まえたうえで、何を為していくかだ。
視線を、踊る少年に戻す。
見ること。
飢えと貧しさ。
これも、頭の中で思い描くのとは違っていて、富や栄光よりもずっと、男の意識を釘づけにするものだった。
子どもから学ばなければならない多くの事が、大人にだってあると思う。
そうすればきっと、人生の意味が一秒前より、僅かにくっきりと思い描けるようになる。
男は、ゲットーを去った。
一朝一夕に浮かび上がってくる決意などありはしない。
だが、決意の原石というのは、もともと、誰の心の中にでもあるものではないか。
皆、その力に気がつかないだけで。
生きていくうちに、状態を変え、胸の内で結晶化される、掛け替えのない宝石のようなもの。
磨くためには、自分の目で物事を見て、判断し、行動を起こさなければならない。
誰しもが、やらないようなことを、自分だけはするべきなのだ。
何が、正しいのか。
それとも世界の方か。
いつか、全てが分かる日まで。
男は、少年のダンスを思い出しながら、大通りに出て行った。
そういえば今度、レコード会社の記念コンサートがあるだとかないだとか、話に上っていたのを思い出す。
あの少年のダンスを参考にするのも、悪くないかもしれない。
似たステップは知っていたが、自分の腕なら、新しい名前を付け世に送り出すことも、出来るはずだ。
そうだ、技の名は
… … …
『ムーン・ウォーク』
俺のいた世界じゃダンサー以外だってこの技を知らないやつはいない、かますにはこれ以上ないと、ジョニーは太鼓判を押していた。
それを聞いたペッパーは、胸を躍らせて教えを乞うたものの、練習は苦難を極めた。
謳い文句が正しかったことは、ジョニーが手本を見せてくれた瞬間に、理解した。
前へ歩いているはずのジョニーが後退していく様に、他の五人はものの見事、かまされて、ひっくりかえってしまった。
魔術的な種や仕掛けが疑い尽くされた後、披露されたジョニーの解説は、シンプルだった。
まず、左足に体重を預けたまま、右足の踵をあげ、爪先を立たせる。
右足の爪先へ徐々に体重を移しつつ、踵を下げていく。
歯磨き粉のチューブから絞り出されるみたいな感覚(この比喩だけは、皆に伝わらなかった)で、右の踵を下げた分だけ、左足を後ろにスライドさせる。
ここまでが一連の流れ。
あとは、右足と左足で、交互に同じ動きを繰り返して行えばいい……で、終わることが出来たのは、ペッパー以外の面子だけだった。
八本の脚。
ペッパーに求められたのは、ジョニーの技巧の、さらにその先だった。
生物学的に、ジョニーや他のメンバーでは達成することが不可能な領域を、ペッパーは期待されていた。
脚を絡ませ転んで、何度も腹を打った。
リンダとレイラに起こされるたび、自分には不可能なのではないかと、諦めそうになった。
ジョニーのムーン・ウォークは、芸術的だった。
人の筋肉の動きの中に、ここまで他者を錯覚させることができる要素があるのかと感嘆したが、同じ神秘を自分の中に求められると、もう、駄目になってしまいそうだった。
そんな時、決まってジャックはペッパーに言ったものだった。
『大丈夫さ。成功すれば、これまでで一番脚が綺麗に見えるよ』―――。
そして、今。
サン・ファルシア、予選ステージ。
練習の成果を見せる時だ。
失敗するわけには、いかなかった。
失敗するわけも、無かった。
ペッパーの、蜘蛛の半身。
垂直に立った、八本のつま先。
どんなに不安でも、足元は見ない。
顔を客席に向け、クールに挑発する。
観客が素直に、ペッパーを気持ち悪いと思えたのは、この時が最後だったろう。
ギターソロが始まり、曲がのたうつ。
音が捻じれ、空気が歪むステージの上を、
まずはジョニーを手本に、右の四本脚と、左の四本脚の爪先立ちを、交互に入れ替える。
前進しているはずの男の身体が、後ろに流れていく。
上手から下手へ突風でも吹かせているのかと、観客達は疑うしかなかっただろうが、その可能性は、舞台右袖で涼しい顔をしている他の四人が潰してしまう。
ペッパーの動きは、全く原理の分からない異空間を、突如として、ステージ上に出現させたも同然だった。
ジョニーがかつて見せた技巧、それを超える神秘が、自分の動きに含まれていることを願いつつ、ペッパーは第二段階に突入する。
教わったのは、前へ歩くように見せつつ、後ろに下がることだけでは無い。
応用して、左右へ踏み出ること。
滑るようにその場で一回転して見せること。
アラクニドとしての、最大の特長が生きる。
八本の脚。
つまり、二手二足系四人分の脚。
右の第一脚、左の第三脚は下手へ去ろうともがく様子を見せつつ、何故か反対側、ジャック達のいる方向へと身体を動かして行く。
右の第四脚、左の第一脚は、延々とその場で細かく、痙攣する様な足踏みを続けている。
右の第三脚、左の第四脚は、他の脚達よりペースの速い動きで、背後の時計塔へ突っ込んでいこうとしているにも拘わらず、上手へ向かうペッパーの進路に、何の影響も与えていない。
そして最後、余った両側の第二脚は、わざとらしく膝を大きく上げて、ジャック達の元へ大げさな一歩一歩を踏み出し、「普通に歩いているだけですが何か」と、主張していた。
なぜあの蜘蛛人間は八つ裂きにならないで済んでいるのだと、時計塔広場中から驚嘆の声があがる。
これが、真骨頂。
ペッパー・フランクのムーン・ウォーク。
多重力月面歩行とでも呼ぶべき蜘蛛の奇跡を、ペッパーは披露し尽くした。
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