第十八章 少年は燃える剣を②
外からは、誰かが建物の前を通りかかる声も足音もしてはいなかった。
夜が明けたばかりとはいえ、働き者なら家から出ていなければならない時間のはずなのに。
それもそのはず。
今日は、サン・ファルシア祭の初日だった。
地下街に暮らしているような人間なら大抵は、日ごろの稼ぎ場に顔を出すより、会場設置や観光客相手の商売の下ごしらえなどに首を突っ込んだ方が、利口に決まっているのだ。
無音の地下街。
しかし地上は今頃、太陽が昇るのを早める程の熱狂に満たされているのだろう。昨日の内から宿屋には、たらふく客が詰め込まれているに違いない。
重さを増した地上が、ジャックしかいない地下街の天蓋を落としてしまえば良いと思った。
なぜなら、そんなことでも起こらない限り、どうしても考えずにはいられないに決まっていた。
仲間の事。
今、この場にいない彼らが、どこにいるのかということ。
情けない、期待だった。
現実に反していることが確定していてなお、それでも夢想せずにはいられなかった。
ベッドから目を醒ますと、そこには父と母、そして、フランケンズ・ディストの仲間達。
彼らは最初、今日が何日であるかということを、必死に隠そうとする。
しかし、うっかりリンダ辺りが口を滑らせてしまう。
サン・ファルシアに出場するという皆の目標を台無しにしたことを、ジャックは青ざめながら必死に詫びる。
ジョニーが言う。
『気にするな。歌なんて、いつだって、何処でだって歌える。お前が死ななくて、本当に良かった』。
温かい空気の中で、皆が涙を浮かべながら頷く―――。
吐きそうだった。
どうして自分の空想はここまで、エゴに満ちているのか。
仲間達のことを信頼できなかったから、自分を殺してしまったというのに、生き返ったら生き返ったで、彼らの優しさに期待してしまうとは。
だが逆に、この場に彼らが居てくれること以外に、蘇る意味があっただろうか。
フランケンズ・ディストに見捨てられるくらいなら、消えてしまった方がマシだと思ったから、手首にナイフを突き立てたのに。
こうして孤独を噛みしめる為だけに、なぜ、生き返らなければならなかったのか。
ジャックの手の中で、新聞が握りつぶされる。
そしてジャックは、感情の昂ぶりさえ、運命に支配されていたことを知った。
手の中から、二面と三面の見出しが、偶然、はみ出していた。
大判の文字が躍り示す内容に、ジャックは驚愕した。
サン・ファルシア特集の記された一面を乱暴に剥いだ後、机に新聞を広げ、齧りつく。
『偽りの異界生まれ』『その脅威に関する有識者の意見』『繰り返されていた蛮行』『ニューアリアの闇に消えたその罪の数々』
よく知る人物についての記事だった。
だが、同一人物とはまるで思えなかった。
そこに書かれているのが、ただの同名の卑劣漢である証拠を、文字を舐めるようにしてジャックは探した。若しくは、性質の悪いジョーク記事であることを願ったが、『ニューアリア・タイムズ』がこれまで、そのような企画を打ち出したことなど無かったことに気付き、愕然とした。
何かの間違いだ。
もし、街の住人全てがこれを真に受けているのだとしたら、とんでもない事態に、ジョニーは巻き込まれていると言うことになる。
『有識者』として、シュリセ・シールズも、コメントを寄せていた。
いかに人気があるとは言え、一介のパフォーマーでしかないシュリセが何の見識を有しているのかは定かでは無かったが、かなりのページが割かれていた。
長い記事の最後は、社説で締めくくられていた。
『かの者は神官たちの手に寄り、今月十八日、アウロモール、キャザロ・サーヴァン診療所にて、エルヴェリンから存在を抹消された。魔の者に有無を言わせず対処したことは英断であるが、その罪の殆どが、市民の満足のいく形で償われなかった事だけには、憤りを覚えざるを得ない』
ジャックは玄関へと向かった。
足を引きずっていたのは、病み上がりであることとは何の関係もありはしなかった。
裸足のまま外に出る。
ドアに張られたプレートと、向かい合う。
ジャックは診療所のドアから、段々と歩いて、遠ざかっていく。
地下街の、クリーム色の地面の上を、足がほとんど独りでに動いて、ジャックの身体を連れさってしまう。
過疎地域まで辿り着いた。
過疎地域は、貧困層の集まる地下街の中にあってなお打ち捨てられ、ひと際荒廃した一帯だった。
並んでいる家々の全ては石造りだったが、なぜか例外無く、表面には赤錆を纏わせていた。
ここばかりは、地面もクリーム色一色でなく、赤茶が斑に散っていた。皮膚病の赤ん坊の肌みたいな色合いだと思った瞬間、自分に対する皮肉になっていることに、ジャックは気付いた。
ジャックは、とうとう人っ子一人とも擦れ違わないままに、過疎地域の中心部に向かって、歩みを進めて行く。
そこには螺旋階段があった。
アウロモールのあちこちに存在する、地表と行き来するための階段の一つだ。
過疎地域における唯一の、金属で作られた構造物。
こいつのせいで、特殊な赤錆が地表から降りて来たのだと言われている。
手すりには、赤い氷柱が並んで垂れている。
尖ったカサブタみたいだった。
一本ずつ数えて行くうちに、ジャックは視界が高所へ移っていることに気付いた。
無意識の内に、螺旋階段を上っていた。
素足の裏に、ざらつきがまとわりつく。
遥か眼下、階段の入口に、危険・立ち入り禁止の看板が見えた。
ジャックはほくそ笑んだ。
あらゆる他者からの制約が、今のジャックには機能していなかった。伝説の、透明人間にでもなった気分だった。
地下街の天井の穴に、赤錆階段は吸い込まれて行く。
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