第十八章 少年は燃える剣を

第十八章 少年は燃える剣を①

 雷の音が聞こえる。

 

 自らを取り巻く黒雲は、棺のようだった。

 触感のある漆黒の空気に包まれ、身動きも取れず、自分の名前さえ思い出すことが出来ない。

 

 自らの姿さえ、乱雑な思考が、気まぐれに変化させていく。

 一瞬前までは、全身を鱗に覆われていたような。もしくは、もうずいぶん長いこと、獅子の身体で横たわり続けていたかのような気分でもある。脈拍や体温も、一時たりとも一定であってはくれない。

 

 これまで見かけた、あらゆる人間の姿へと、形を変えて行く。

 

 しかし、その中に本当の自分はいなかった。

 

 それでも、良かった。

 永遠に安定しなければ、誰も自分を罰することは出来ない。

 指を差された次の瞬間に、変化し、逃げ続ければいい。

 

 ひと際大きな雷鳴に、思わず、身をすくめる。

 

 恐怖に耐えるやり方を、随分遠い昔に、誰かから教わったことがある。

 黒雲の一部が、熱を持つ。

 その場所が、自分の喉であることを、本能的に理解する。

 続いて、歯、舌、唇が、空の離れた位置に、断片的に浮かんでくる。

 

 このままではだめだと、長い眠りの果てに、初めて身体をよじり、焦る。

 自分がこうあるべきだと言う輪郭に、実像が収まっていく。


『頭の後ろから突き抜けて行くくらいに!』

 

 懐かしい男の声が聞こえる。

 最初に習った発声の基本が、改めて叩きこまれる。

 だが、闇と轟音の中で、己の声色さえも、流転し続ける。


『突き抜けて行くくらいに』


 哀しいかな。

 槍の穂先で、雲を裂くことはできないのだ。

 

 自分という存在を何一つ理解できないまま、この広く狭い場所で眠り続けることに耐えられなくなる。

 

 途端、己を囲む世界は、あっという間に開けた。

 

 ジャック・バステッドは、目を醒ました。




 誰に指示されずとも、長い昏睡に陥っていた人間は、まず自分の名前から思い出そうとするという話を聞いたことがあった。

 その点、ジャックは思い出すまでもなく、自然に自分の名を口にすることが出来た。

 ただ、どうにもしっくりとこなかった。

 自身を示すはずの名が、まるで自分の一部ではないかの様な不安に陥った。まるで自分の歴史とは、独立して存在しているかのような。

 自分で自分に死を与えた記憶も、そうするにいたった苦痛も、どこか他人事めいて、ジャックの頭の中を漂っていた。

 

 右手を見詰める。

 見慣れた緑色の肌に、点滴の針が二本、刺さっていた。

 チューブの先にあるガラス瓶の中で、赤黒いドライフルーツのようなものが、焦げた匂いを放っていた。

 

 見慣れぬ部屋のベッドの上だった。

 何日寝かされていたのかは知らないが、頬に触れるまでもなく、痩せこけたことが分かる。

 

 ジャックは点滴の針を引き抜き、上体を起こした。

 筋肉と関節が悲鳴を上げる。のり付けから剥がされるような音と感触が、身体の内側に響く。

 

 部屋の中に、ジャック以外の人間はいなかった。

 ジャックは、ベッドから床へと足を下ろす。

 床は、ところどころ黒ずんではいたものの、その上からさらに、顔が映るほど磨き抜かれていた。


 ここは病院なのだ。

 自分の着ている病人着の白は、ずっと目に入っていたものの、ようやくジャックは自分の今いる場所に現実味を感じ始めていた。

 

 窓の外を眺める。

 自然光より僅かに柔らかな、地下街の天蓋石が演出する朝焼けの色があった。

 それに安らぐ事もなく、急かされることもなく、病室のドアを抜け廊下を歩いていく。

 

 誰もいない。医者とさえすれ違わない。

 無意識に徘徊を開始した自分が、何を求めているのかは明白だった。

 

 自分がどのようにしてこの場に運ばれてきたのかということを、誰かに尋ねない限り、ここが死後の世界なのではという考えが、頭から離れてくれそうもないのだった。

 

 ―――確実に、死んだとばかり、思っていたのに。


 外来診療の部屋に出た。

 簡素な机の上に、湯気を見つけた。

 濁茶の入ったカップに、ジャックは近づいていく。

 喉はからからに乾いていたが、何か飲みたい気分ではなかった。

 ジャックが引き寄せられたのは、暖をとりたいという本能のせいだった。

 

 カップの下に、新聞が敷かれていた。

 恐らく、急患でも発生したのだろう。

 朝の一時をほっぽり出して後始末もせずに駆けつけに行った。医者の事情は、恐らくそんなところだ。

 

 ジャックは、新聞を手に取る。

 今日の朝刊のはずだった。

 日付だけでも、確認しておこうと思った。

 時間と空間から乖離されている感覚を、少しだけでも解消しておきたかったのだった。

 

 ジャックは、愕然とした。

 

 自分は、恐らく重症患者だったに違いない。

 医者が帰ってきたら、立って歩いているジャックを見て、「神か龍の御技だ」と腰を抜かすかもしれない。

 だがもし、医者の言う通りだとして、大いなる存在は何故、ジャックをこのような日に蘇らせたのか。

 

 玄関を見やった。

 外からは、誰かが建物の前を通りかかる声も足音もしてはいなかった。

 夜が明けたばかりとはいえ、働き者なら家から出ていなければならない時間のはずなのに。

 

 それもそのはず。

 今日は、サン・ファルシア祭の初日だった。

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