第十七章 ペッパー・ビッグジャスティス②
ジョニーは遠くへ行った。
… … …
溶ける夕照の向こうに、愛する人が去っていく。
その後ろ姿を私達が、どこまでも追いかけて行く。
喉を通る熱い呼吸に、血の味が漂っているのを感じる。
幼い裸足が、鋭い草に切り付けられていくが、足首から先が切り落とされたところで、走るのを止められるとは思えなかった。
呼吸を僅かにでも整える余裕があれば、声にならない叫びに変えて、愛する人の向かう地平線の端でも焦がせはしないかと、試しただろう。
瞼は、限界にまで持ちあがったところで、固まっていた。
涙は汗と混じり合い身体を流れ、絶えず迸っていた。
遠ざかっていく、背中。
自分達に向かって、一度で良いから振り返って欲しかった。
そうしてくれたなら、あなたが私達をどれだけ愛していたか、離れ離れになった後も、決して疑いはしないから。
あなただってきっと、私達がどれだけ掛け替えのない存在であったか、いつの日か思い出すことがあるはずだ。
だから、そう、一度だけ、振り返って。
願いは、叶わなかった。
愛する人は、より濃い赤を求めるように、空を翔けて行く。
夕日は不意に、鈍く煌めく光を放ち、愛する人を一瞬だけ、完全な影にした。
私達を置いてまで、何故彼女は、自らを消し去る輝きへと飛び込んでいくのか。
隣を一緒に走っていたはずの少女が、消えた。
転んだのだ。
振り返ると、少女は地面に倒れ込み、足を痙攣させていた。
もう起き上がる気力もなく、天地の区別も付いていないような喘ぎ声をあげながら、愛する人の名を呼んでいた。
その少女は、私でもあった。
私は、いつも二人いた。
私達は同時に、太陽を見上げた。
絶望の空があった。
雲が、残酷な程穏やかに流れながら、地に張りつけられた二人を、優しく嘲笑っていた。
大事な物をこの手にまで引きずり降ろしたいと願うなら、私達は、あの雲が地に風を吹き付けるのを待つしかない生き物なのか。
豪雲を消し去るほどの乱流が、こんなにも、二つの小さな身体の中で暴れ回っているというのに。
自分と同じ姿をした少女と見詰めあうには、覚悟が必要だった。
それは、最初の決心だった。
『飛べるようになろう。そしていつか、追いかけに行こう』
『あの人はきっと、その時私達が迷わないように、一番目立つ
手をつないだ。
お互いの本心は、悲しいくらい分かっていた。
本当は、追いかけたくない。
劇的じゃなくてもいい、謝罪などなくてもいいから、あの人の方から帰ってきて欲しかった。
昨日までの日常の残滓が、脳裏をよぎる。
開くドア。深夜の帰宅。私達は、子どもとは思えないほど、毎日、夜遅くまで起きている。台所の物陰に潜んで、愛する人が帰って来るのを、待ち伏せしていた。隠れる場所なんていつも同じだったのに、彼女はいつも、驚いて見せてくれていた。早く寝なさいとは、一度だって言わなかった。
手触りのある思い出は、もはやこれだけだった。
彼女が、再び帰って来た時。
きっと私達は十年ぶりに、二人揃って泣く事が出来る。
… … …
レイラは、どうか姉に僅かでも食欲を湧かせてくれと、一皿に願いを込め、テーブルの上に置く。
「少しでも食べないと身体に毒よ」
妹の言葉を受け、姉の身体が緩慢に反応する。
リンダは、スティック・スプーンを左手にとった。
手羽の関節だけで握りこめるように作られた、翼種用の食器である。
枝切れ程の長さを持つ柄に、ありふれたスプーンの先端が取り付けられている。
それを五本の指の方で握った瞬間に、リンダは苛立ちを爆発させた。
スプーンを床にたたきつけると、革のひび割れたソファに再び寝転がり、レイラに背を向けた。
テーブルの上では、スパイスを利かせた豆料理が、湯気を立てていた。
ジョニーがいなくなってからというもの、リンダはずっとこの調子だった。
感情の抑制が普段以上にうまくいかず、突発的に当たり散らしたかと思えば、すぐにエネルギーを切らしてしまう。
ここ数日リンダは、ずっと眠り続けているようでもあり、夜もなく起き続けているかのようでもあった。
ソファから滅多に身体を起こさなかった。
しかし、眠りに落ちている間も、鮮明な夢を繰り返し見続けていたのだろう、ひたすらに疲弊していった。
レイラは妹として、姉の症状を正確に把握していた。
特効薬が自分であるということも。
豆料理を下げたレイラが、眠っているリンダの頭を、左の翼でそっと撫でた。
翼の感触を感じながら眠りに落ちれば、姉の頭の中の夢は薄まり、ある程度鮮明ではなくなってくれるはずだった。
姉妹は、お互い、心理的に寄りかかることに抵抗や恩義を感じることは無い。
ギブアンドテイクの天秤は、いつだって安定していた。
レイラが悪夢にうなされた時は、リンダが同じように、頭を撫でるのだった。
そうやって、ずっと二人だけで乗り切ってきた。
小さな頃からの習慣だった。
昔は、自分達がお互いを安心させられることについて、何の疑問も持たなかった。
絆の深い姉妹であることを誇りに思えば、それで済んでいた。
だが、最近になって、とうとう誤魔化し切れなくなっていた。
姉妹の身体は、日に日に大人へと近づいていく。
遺伝子の開化が進むにつれ、姉を、妹を慰めていたものの姿は輪郭をはっきりとさせ始めていた。
明かされた事実に、二人はずっと、何の意見も持たないように努めてきた。
レイラは意を決し、まどろみの中からリンダを引き上げた。
「また、母さんの夢?」
眠っていたはずのリンダが、微かに呻いた。
緩慢に、お行儀悪く、左手で目の端を擦っている。
レイラと共通の癖。
昔から、目が覚めると泣いている事が多かったせいだった。
「最近、思うよ」
リンダが、レイラの羽の柔らかさに頭を擦りつける。
「むしろ、夢に見てねー日なんてあったのかって。見ても忘れてる日は、あったのかもしれねーけど」
レイラは、姉にどうしても聞いておきたいことがあった。
しかし、その質問をするための多大な勇気を、まだ準備できていなかった。
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