第十二章 アクセル・ロズ⑥
オークとエルフの密談なら、やはり森がふさわしいと思った。
『二人きりになれる場所に、連れて行ってよ』
路地で、ロズは言った。
誤解するなと言う方が無理な台詞。
慌てふためき始めたジャックに対し、ロズは一喝。
『あんたと二人でいるところ、人に見られたくないっつってんの!』
ニューアリア三大森林地帯の一つ、シュラウトの森の前で、ジャックは外周馬車から降りた。
ケンタウロスの運転手が四輪を立ち漕ぎして、馬車を牽引し、去っていく。
ロズは同乗していなかった。
路地から出て、歩いて繁華街から遠ざかる間も、二人連れだって仲良くとはいかなかったのだから、当然だった。
ロズは、誰からもジャックとの関係を悟られないと安心できる距離……つまり遥か後方から、ジャックを尾行するという方法を取っていた。
どれほど広義をとっても、あれを同行とは言うまい。
挙句、ジャックの方から三度も彼女を見失う羽目になり、ここまで来るのに、えらく時間がかかってしまった。
夕暮れにはまだ時間がある。
恐らく彼女は、次の馬車で降りてくるだろう。
そして、降車をジャックが出迎えようとすれば彼女は降りてこず、そのまま次の駅に向かってしまうのだろう。
来るのはかなり久しぶりだったが、シュラウトの高木達の迫力は相変わらずだった。
遠目から見れば、葉と樹皮で出来た城壁にしか見えず、こうして間近で見上げていると、森がゆっくりと馬車道に倒れてきているかのような錯覚を覚え、思わず足が震えた。
ジャックが、森の入口の脇にある巨木に影をひそめ、じっと待っていると、次の馬車から、ロズが降りてきた。
馬車が去った後、森の中から手を振って合図を送る。
ロズはジャックの傍の、森と馬車道の境界まではやってきたが、森へは入らず、そっぽを向いて佇んでいた。
エルフの彼女が、森の中を歩きたくないなんて、だだをこねるはずもない。
街とは違い、人目などあるわけもないのに、相変わらず、ジャックとは距離を置いて歩きたいらしかった。
ジャックが森の奥へと歩を進めると、案の定彼女も、その後を追ってきた。
木々が行く手を阻んだが、ジャックにもロズにも苦にはならない。
土を裾に巻き上げないで歩く方法は、学ぶまでもなく、森の民の血に記憶されている。
お互いを見失うこともない。エルフの目はただ美しいだけでなく、弓兵の気質を宿している。
体重の軽いジャックの足跡を、ロズは決して見逃さないだろう。
快調に歩を進める二人の前に、目的地がその姿を現す。
巨大な切り株だった。
森の端を転々として暮らしていたジャック一家がシュラウトに住んでいた頃、ここはジャックの遊び場だった。
ジャックは、一瞬だけロズのことを忘れ、純粋に懐かしさに酔った。
子どものころ、この切り株の上に家を建てたいと夢見ていた。
切り株の縁に、ジャックは腰掛ける。
遠くから、ロズが立ったままで、こちらを見ていた。
流石に、ここにきてこの距離を大声で会話するわけもないだろうと、ジャックが自分の隣を手で勧める。
ロズがようやく近づいてくる。
「上着」
寒くなってきたのだろうかと思い、ジャックは、羽織っていた薄手のニット・トップスを彼女に差し出した。
ロズは、ジャックからデッキブラシ一本分を開けた場所に、それを敷いて腰掛けた。
「あんたのこと、汚いって言ったの、本心じゃないから」
和解の前座としてはあんまりな悪ふざけと、彼女の悲しげなトーンに、ジャックはくらくらした。
しかし、ロズの言葉の意味を理解するやいなや、上着はジャックの中で、彼女の照れ隠しの代償に名誉の戦死を遂げたことになった。
「やっぱ今の無し。半分くらい、本心なんだ。やっぱり」
ロズの表情には、まだ迷いがあった。
「この森で、あんたと私、会ったことがあるよね。すごく、小さかった頃に」
パパの別荘が近くにあるんだと、ロズは言った。
「やっぱり、君だったんだ」
答えるジャックの喉は、熱に震えていた。
この森で。
ジャックはまだ、六歳だった。
どこへ行くにも母親に手を引かれていなければならない年齢であるにも拘らず、あの日、一人で森の探検に出た。
そして、豪雨に見舞われた。
背の高い木々の葉が、細かい雨を大粒にまとめ上げ、森の中に降り注がせていた。
ジャックは、木の洞に逃げ込んだ。
そこで、同い年くらいの、エルフの少女に出会ったのだった。
ジャックは、その体験を神秘だと思い続けていた。
年を経て、エルフがどんな人種であるかを学んでも、体験も知識も、思い出の中から純心を取り去ることは出来なかった。
そして、かつてと全く同じ神秘が今再び、目の前に現れた。
神秘は、ジャックの上着に腰を乗せ、長い足をゆっくりと、組みなおしている。
「私は、最初から気付いてたよ。ニューアリアでオークの子供は、あんただけだから。……あんたとはずっと話してみたかった。でもそれと同じくらい、話したくなかった」
「え、どっち?」
「話さなきゃいけないって気持ちだけが、本当。……ああでも、何から話そっか」
ジャックはジンハウス姉妹から、女子が男には理解できない、会話に対する独自の方法論をそれぞれ持っていることを教えられていたが、ロズのそれはまた、異質だった。
内面を横暴に溢れさせることに慣れたロズとの『会話』に、ジャックは何とか共通言語を見つけ出さねばならないと思った。
だが意外にも、ジャックからその努力する必要は、無かった。
ロズが問うた。
「自分が、幻想に包まれて生きてるって思うことない?」
心臓が跳ねる。
幻想、という言葉は、キーワードだった。
一方的に想うことすら、関係の一部であると認めるなら、ジャックにとって、これまでのロズとの関係は、その一言に凝縮されている。
「私は、もうずっとそう。あんたと森で会った、子どもの時から」
胸が、更に高鳴った。
ジャックが幻想と呼ぶものは即ち、相手に対するありのままの姿を主体、枝にして、それを覆うように結晶させた、自分にとって都合の良い、印象の樹氷のことだ。
同じように、彼女の幻想の主体が、ジャック・バステッドだったとしたら?
注釈なしで、二人の間にあるものを『関係』と呼べることになるのだ。
「あの時のこと、あんた、どれくらい覚えてる?」
ジャックは、努めて冷静に答えた。
裸にされたこと。
雨の中に放置されたこと。
助かりたければ歌を歌えと言われたこと。
そして。
「……僕は、歌えなかった」
結末。
覚えている、はっきりとした事実はそれだけだった。
あの日、身体を打つ雨の痛みに揺られながら、ジャックは最後まで、勇気を出すことが出来なかったのだ。
「その後のことは?」
「よく覚えてない。目が覚めると、家のベッドだった。母さんからは、重たい風邪で寝込んでいたのよってだけ」
ジャックはロズに、失われた洞での記憶について訊ねてみようかと思った。
だが、聞けなかった。
ロズの表情を見たのだ。
辛い記憶だから思い出さない方がいいと気遣ってくれているのだったら、まだ問い質せた。
しかし、美しい顔に浮かんでいたのは、懺悔の前の躊躇いだった。
「私ずっと、あの時あんたを殺したって思ってた」
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