第十二章 アクセル・ロズ⑦

「私ずっと、あの時あんたを殺したって思ってた」

 

 殺した。


 ジャックが眩暈を起こしたのは、言葉の強さだけが原因では無かった。

 死や暴力といった、誰もがロズとは無縁であると信じているはずの人間の汚れが、彼女の裏側にも平等に張り付いていることを、一気に悟らされたからだった。

 太陽の傍に暗闇があるのだとすれば、それはこの世で最も深いものであるに違いないだろう。


「十三歳までね。あんたが私より一年遅れで、研究塔に出入りを始めるまで、そう思ってたの」

 

 引きずられ、引き込まれていく。


『殺した』。

 

 万人が等しく使用可能な、究極の悪意の代名詞。

 

 それをロズが口にしたという、現実。


「私に洞から放りだされた後、あんた、すぐにぶっ倒れたの。急いでまた、洞の中に運び込んだ。酷い風邪だった。あんたの身体は凄く冷たくて、なのに張り付いた雨粒は熱くて……すごく、不気味な感触だった。私は、パニックになった。どうして私がこんな目に、って。で、そこからが、ん……」

 

 ジャックの中で断片的に記憶が、映像となり蘇っていく。

 

 辛そうに言い淀むロズに、何を言えばよかったのだろうか。

『無理して話さなくてもいい』?

『何が何でも聞きたい』?


 だがきっと、『聞かなければならない』が全てだったのだろう。


「その時、改めて気付いたの。『この子、肌が緑色だわ!』って。あんたを見捨てて逃げ出す理由を、私は見つけたの。見つけ、ちゃったの。ずっと、パパに言われてた。『滅多にないとは思うが、緑色の肌の人間を見ても、絶対に話しかけるな。もっとも、決して近づけさせないが』。その言葉を思い出した時、私はさ」

 

 やはり、ジャックの上着を、彼女は羽織っておくべきだったかもしれない。

 彼女の肩が、凍えたように一瞬痙攣するのを、ジャックは見逃さなかった。


「凄く、自然に……この子は別に、死んでも大丈夫なんだって思った。思っちゃったんだよ。パパの言葉を思い出すまでは、うなされるあんたを見守り続けてた。目を離した瞬間、取り返しのつかないことになる気がして……でもね、パパの言葉がよぎった瞬間に、変わらず苦しみ続けてるあんたの命が、ふっ、て、軽くなるのが分かったの。……その感覚が、恐かった。私は七歳だったけど、人生を取りまくものの全てを、あの時理解したんだ。周りの大人達から与えられてきた私を褒める言葉や、豪華な暮らしが、私の中で、誰かの命の価値を無くさせようとしてるって。…………あんたをずっと看てあげなかったこと、今でも悔んでる。でも、あの時の私は、自分の内側にあるものに取り乱して、その場から逃げることしかできなかった……」

 

 何と言うことだろう。

 

 記憶の欠落していたジャックは、シュラウトでの思い出を呑気にも、ロズに纏わる幻想の起点にしていた。

 

 かたや、全てを覚えていたロズは、過去に苛まれ続けていた。


「苦しんでるあんたを置いて逃げて、雨の中、走ってたら、パパの部下の人に見つけてもらえた。私は、洞に高熱のあんたを残してることを、言えなかった。助けたかったよ。でも、もしパパが平気であんたを身捨てたら? そんなパパ見たくないって、結局、私には、そっちの方が不安だったんだ」

 

 父親に対する愛を汚すかもしれないリスクを、幼かったロズは負えなかった。

 結果、ジャックを見捨てたという罪悪感を、彼女はこの歳まで消化出来ずにいた。


「森での事件の後、私は、端から見れば何にも変わんない暮らしを続けてた。けど心の中は、前と全然違ってた。私を教育する人間が、二人に増えてたの。一人は、パパ。もう一人は、あんた。日に何度かね、どうしようもなく、ちらつくの。木の洞の中で苦しんでた、あんたの影が。二人の先生は私の心を割って、全く違う二人の人間に育て上げた」

 

 ロズが、急に立ちあがった。

 ジャックの上着を踏みつけている。


「ロズ・マロースピアーズは完璧な、シャンディーノの後継者! もしかしたら十年かからないかも。ステラボウルズ芸術院はいつの日か、ロザリータ芸術院って呼ばれることになる! 作法は叩きこまれた! 付き合うべき種族と、取り合ってやる価値の無い種族は、はっきり自分の中で分けること! ワタシにとって、侮蔑と嫌悪は、癖になるまで教え込まれたマナー! 自分じゃどうしても、礼儀正しくしてしまうわ!」

 

 しなる葉にさえ反響を強いる力強さ。


「でも待って、こんな声も聞こえるの。『耳の長い魂があるかしら。緑色の魂があるかしら。魂はどれも、同じ形じゃないかしら』!」

 

 ロズがくるりと、ターンを決める。

 二つの自分が入れ替わる様を表現しているのだと、分かった。

 ロズの足元が、波打っている。

 ニット・トップスは踏まれたまま、彼女の演出に味方していた。


「愚か。どうして人は、ワタシに色んな事を教えちゃったのかしら。もし街のみんなが、生まれたままの気持ちで生きて行けたなら、少しは色んなことがマシになる気がするのに。ワタシの心の一部には、まだ残ってる。あんたを、助けたいと思えた時のままの自分が、ずっと」

 

 即興劇は、これで終わりだった。

 

 ロズは緩慢な動作で座りこむと、ぼろぼろになったジャックの上着を、その胸に抱いた。


「気持ちが二つある癖に、両立できないんだ。結局、どっちも現実っぽさがないの。だから二つとも、私の幻想。私はステラボウルズの、本当の仲間にはなれないんだと思う。あんたを見捨てた時に喰らった、呪い。そして私は、あんたを助けることも出来ない。見捨て続けるしかできない。何不自由ない今を、幸せだと思ってるから」

 

 ロズ・マロースピアーズは、ジャックの抜け殻を抱いて、縮こまっている。


「弱い生き物だね。私」

 

 街中を虜にする絶世の美女。

 熱狂を請け負うステラボウルズのリードボーカル。

 歩くニューアリアの至宝は、心の中に、打ちひしがれるしかないもう一人の自分を、ずっと飼っていたのだ。

 

 ジャックの中に、混沌が渦巻いた。

 

 彼女に対する哀れみ。

 何の資格があって自分ごときが彼女に同情できるのだという卑下。

 それでも彼女より、自分の方が辛い人生を送ってきたはずだという被害者意識。

 何と言おうが、自分の存在が彼女の人生に苦しみを与えたのだという、加害者意識。

 

 そしてそれらすべてより高次な、渦巻きの行方を決定づける感情。


「……君の在り方は、すごいと思う」

 

 ジャックはロズに、雨の中を歩かせたくは無かった。


「君以外のエルフだったら、例え君と同じ経験をしたって、何年も迷い続けたりしないと思う。正面から見つめるより、見下せるなら見下した方が、気持ちよく生きられるって思ってる連中だから。話を聞いて、思った。僕に言わせれば、君ほど優しくて、誇り高い人はいない」

 

 最初から、全ては報われていたのだ。

 

 ロズは、ジャックの信じていた通りの女性だった。

 

 表面は平等を謳いながら、ジャックを蹴り飛ばして行くこの腐った街で、今この瞬間、彼女だけが真実だった。


「君が、僕を見捨てたことなんて、一度もない。僕は、君がいたから、ここまで生きてこられたんだ。だから」

 

 君が震えるなら、僕が何度でも上着を編みなおす。


「今までずっと……僕を傷つけないでくれて、ありがとう」


 こんなにも清らかな礼を言う機会を与えてくれた森に、神に、龍に。

 たった今、己を取り巻いている全てに、ジャックは感謝を捧げた。


「不思議。まともに話すのも初めてなのに、それでもずっと、私達の心の中には、お互いがいたんだね」


 救いは反響する。


「私……後悔してないよ。あんたがずっと、心の中にいたこと」

 

 彼女の目から、一筋の涙がこぼれた。

 

 ジャックの右手が、痙攣のような動きを見せる。

 ロズの指先がそっと触れてきて、震えを宥めた。

 ロズがジャックの右手首に、親指と人差し指で手錠を作る。


 緑色の指先が、彼女の頬に導かれていく。

 

 ロズの涙は熱く、肌は冷たかった。

 

 緑と白のコントラストは、もう見えなかった。

 反発を誘発する差異に代わり、指と頬の下で、お互いを激しく引き付けあう性質が、濃さを増していった。

 

 あらゆる美醜の存在しない世界に、ずっと想い続けていた少女と二人きり。

 

 ジャックは一切の動きを止め、完璧な世界を傷つける恐れのある行為や気取りの全てを、身体から追い出すことに努めた。

 

 こうしているうちに、何者かが自分達を閉じ込めてくれることを願った。

 

 深い深い、森の中へ。

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