第六章 ミクシア祭の夜は燃える⑦

 ジャックは、隣にいるレイラの熱を感じていた。

 

 レイラは掬った炎を、口に流し込み、嚥下する。手首に垂れた炎を啄ばむように舐めとった後、ジャックに言った。


「私が、百一人目の女の子になってあげましょうか」


 レイラは頑なに、手首から目を逸らさない。

 逸らしたが最後、絶対にジャックの表情を窺ってしまうのを、自覚しているようだった。

 小さな声だった。

 

 路地の奥では、八本ヘカトン腕人ケイルの男二人が喧嘩を始めたらしく、腕の多さを活かした火炎瓶投擲合戦に異様な盛り上がりを見せているようだった。

 ジャックとレイラの周囲では、どこか見えないところで起こっている騒ぎの音が、波が打ち寄せるように、膨らんで、萎んでを繰り返している。

 

 だがレイラの声は、一文字も欠くことなく、ジャックの耳に届いた。

 先程までレイラの手の平が置かれていた太ももの辺りが、更に熱を持つ。

 今ここで彼女を抱きよせても、きっと構わないのだろう。

 

 ジャックは酷く動揺した。

 

 あのレイラ・ジンハウスがガールフレンドになるかもしれないなどと、数週間前までは、考えもしなかった。

 

 だが勿論今のジャックは、レイラ「なんて」とは思えなかった。

 寧ろ、とっさにジャックの頭を占めたのは、レイラがガールフレンドになってくれたなら、どれほど幸せだろうか、という空想だった。

 

 彼女は、ジャックと一緒の授業をとってくれるだろうか。

 自分は孤独で、彼女は素行不良だ。

 お互いを更生させられたらいい。

 リンダとレイラは、牛頭鬼を殴り倒した後あたりから、飛ぶときには人目を忍んだ場所で発着を行っている。

 姉妹の着陸を迎える権利を与えられたなら、レイラが地上に降りた後のエスコートは毎日、請け負ってもいい。

 そうするとリンダが寂しくなってしまうかもしれないが、ジョニーが今夜、上手くやってくれたなら、問題は一気に解決だ。

 明日からの人生は、昨日までよりずっと良くなるだろう。

 いや、幸せを明日まで待つなんて、何も悠長に構えなくともいいのだ。

 

 ジャックは、生唾を飲む。

 

 行儀の悪い飲み方をしたせいで、レイラのドレスの胸元には、蜜が小さな染みを作っていた。

 しかしその染みを、小さな、と形容できるのは、レイラの体つきならではである。

 姉妹は、その暴虐きわまるエピソードの数々から、街で見かけてもなるべく視界に入れないようにする男達ばかりだが、姉妹と親しくなった今、ジャックはニューアリアの男たちを心底憐れんだ。

 ドレスの胸元を押し上げる膨らみは、姉妹と同世代の少女に通常求められる大きさから遥かに逸脱し、視界に入れるだけで、目の奥で柔らかさと熱がはじけるような、それなのだ。

 これが他の女子達だったなら、胸元の染みは多少なり、大げさに見えていたことだろう。

 

 もしかしたら、今夜にでも自分のものに。

 

 なんて素晴らしいのだろう!

 

 そう、片翼の歪さにさえ目をつむれば、彼女は最高の……。


「…………」

 

 ジャックは、夢から覚めざるを得なかった。


 彼女が片翼だから、興奮が萎えたわけではない。

 彼女の為を思うなら絶対に無視してはならない部分から目を逸らしてしまったことが、酷く情けなかったのだ。

 それも、下卑た欲求故に。

 途端、ジャックはレイラに感じている気持ちの全てが私利私欲から成立していることを、突き付けられた。

 皮肉にも、レイラがジャックに味わわせた「ロズへの思慕に対する痛恨の一撃」に、その感覚は酷似していた。

 

 レイラは自分に、ボーイフレンドとしてのどんなメリットを求めているのだろう。

 自分がその観点において、空想の中で何も慮っていなかったこと自体が、「私利私欲」とやらの証明ではないのか。

 自分はただ、明日もこうして彼女と会話ができる確証と、性的な見返りを本能として求めただけ。

 そして多分、心の底では、荒くれのレイラが自分を大切にしてくれるならば、下らない連中からも、自分を守ってくれるのではないかなどと、情けないことも考えている。

 

 けれどレイラの方はもっと、何か大きなものを求めているのではないか。

 ジャックが、何もかも投げ打ってレイラを優先することを、望んでいるのではないか。

 根拠は無い。

 あくまでジャックがレイラの中に、勝手に想像したものだ。

 ただ、そちらの方がしっくりきた。

 自分と違って芯のありそうな「レイラの中にあるもの」が、今「ジャックの中にあるもの」と釣り合うとは思えなかった。

 釣り合っては、ならなかった。

 

 そして、うじうじと悩んでいる間に砂時計の砂は落ち切ってしまった。


「優しいのに、気を持たせて……」

 

 レイラが、小さく呟く。

 

 ジャックは、ごめん、と言いそうになる口を鞭打って堪えた。

 

 自分が何を考えているのか、分からなかった。

 

 自分の気持ちを裁定し、レイラに寄りかかることに勝手な罪悪感を覚えたけれど。

 世の男女は、どのようにして一緒になるのだろう。

 高尚さと、低劣さと。

 そのどちらを動機にして、より多くの恋が生まれるのだろうか。

 レイラは、何をジャックに望んでいたのだろう。

 自分は、レイラの気持ちの丈に翳して、合格だったのか、それとも不合格だったのか。

 それとも、自分の気持ちを、そういった裁定にかざすこと自体が、そもそもの間違いだったのか。


 分からなかった。


 百一人目。どうしてそんな優しい言葉を、彼女はジャックに与えたのか。

 明日も一緒にいたかっただけ? 

 受け入れてくれる異性が欲しかっただけ? 

 僕は君の、盾ぐらいには使えそうだっただろうか。

 寂しくて、手放せなかっただけで……ただ、加減が分からなくて、思わず強く、握りしめてしまっただけなのか。

 

 君の気持ちが、僕の気持ちを鏡映しにしただけのものでは無かったなら。

 

 僕は今夜、強い人と決めつけていた君の、何を傷つけたと言うのだろう。

 

 かつて幻想の中にいたロズ以上に、レイラの事を想えただろうか。

 不毛にして残酷な比較だった。

 

 それでも最後には、それしか残らなかった。

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