第六章 ミクシア祭の夜は燃える⑥

 レイラは、おもむろに立ち上がると座っていた木箱を抱え、ジャックの対面から左隣へと、移動してきた。

 ジャックは、その動きを彼女なりの「昨日までと明日からの話題」を終わらせる合図だと解釈した。

 その合図は実際、効果覿面で、ジャックをそれ以上感傷に浸らせることなく、また、ジョニーとリンダの方に意識を向けさせることもなかった。

 レイラが自分の隣に移動してきたのが「合図」だとして、その合図から何が始まるのかということに、全身で集中せざるを得なかった。

『僕の声が小さかった?』

『こっちの席からの方が、姉を見張りやすいのかも』『そうでなかったら、彼女は僕に』

 実のところ、会話を始めてからずっと、ジャックにはレイラの仕草全てが意味深に見えていたのだった。

 彼女が、着なれないドレスの胸元を気にする度に、彼女がその長い髪を指先で軽く梳くたび、ジャックは気を持たせられた。

 

 ジャックは、同じくオークである母親以外の異性と、こんなにも長く口をきくのは初めてだった。

 なので、レイラの一挙手一投足は容易くジャックに甘い誤解を与え、思索のスロットを埋め尽くし続けた。

 グラスに継ぎ足され続ける酒のように。

 まあ何のことはない、女性経験の極端な少なさから、余裕が無かっただけの話ではあるが。


 椅子代わりの木箱と木箱は、密着して並べられた。

 レイラが腰をおろせば、ジャックの足とレイラの足は容易く触れ合った。

 レイラがジャックの右側でなく、左側に座ったことについては、重大な意味があった。

 レイラが、ジャックの太ももに手を乗せた。

 左の翼では、同じことはできないだろう。

「意味深」というエリアからすら、彼女は飛びだして来た。

 

 そして、レイラは肩を触れ合わせるように身を傾けてくる。

 ジャックは、夜に纏わるあらゆる覚悟を決めた。

 彼女の髪からは、ミントと蜂蜜の香りがしていた。

 レイラが、ジャックの耳元で口を開く。 


「ロズが好きなの?」

 

 同じ状況で。

 咄嗟に誤魔化せる男が、嘘をつける男が、この世に何人いるだろうか。

 レイラの手の平を乗せられた、太股の筋肉がこわばる。


「気にすることないわ。この街にいる男は、みんな副業でロズが好きなんだから」


 からかわれているだけだ。ジャックは、そう思い込もうとする。

 しかし。


「なんで……」


 つい、言ってしまった。腹を殴られ、呻き声が口から漏れるみたいに。

『なんで』

 つまりは、『なんでわかったの』、だ。

 これでもう、言い訳はできない。

 時計塔の下で姉妹がジャック達に突っかかってきた時、ジャックはロズを口説いていた。

 レイラはあの日、あの一瞬で、姉とジャック、二人の恋心を見抜いていたのだ。


「お願い……誰にも言わないで」


 ジャックはレイラに言った。

 ジャックの恋心を知っていたのは、これまでジャックだけだった。自分の気持ちを誰にも相談しないでいようと思うのは、勿論容易かった。

 

 なのに、レイラに知られてしまった。

 

 ジャックの懇願は、レイラが言いふらしたがり屋に見えるどうか、という問題とは全く関係が無かった。

 誰に対してであっても、念を押さずにはいられない、秘密。

 ジャックの頭に、ジョニーの顔が浮かんだ。

 シュリセはもとより、ジョニーにも、自分の気持ちを知られたくないと言う感情が強く湧き出てきた。

 先程、リンダの一目惚れに対して、自分も捻じれた愛情には覚えがあるからと、内心で譲歩したことを思い出す。

 ジャックは今、捻じれた愛情と捻じれた愛情表現は全く違うものだというのを思い知った。

 自分は、リンダのようにはなれない。

 尊敬するジョニーに、軽蔑されたくはなかった。


「……シュリセのガールフレンドだって、気付いてない訳じゃないでしょう? エルフ事情に詳しくならないわけないもの」

 

 レイラは驚きのあまり、乾燥肉をつまんだ手を硬直させていた。

 ジャックは、自分がまたしても下手を打ってしまったことに、ようやく思い至った。

 

 副業、と彼女が評したように。

 ロズに対する憧れは、ニューアリアの人間にはありふれた感情で、レイラは、全ての男が普遍的に抱えている良性腫瘍をつついて、からかっただけのつもりだったのだ。

 

 レイラの霊感じみた勘の良さは、姉に対してだけだった。

 なのに自分はそれを、勝手に高く見積もって、まんまと何もかも見透かされたような気になってしまった。

 そして、自分のロズに対する好意の形を正確に、自分から伝えてしまった。

 自分の気持ちが、決して副業のそれではないことを。


「望みは……無いわ」

 

 レイラが言った。

 望みは、の後に、「薄い」と続けて、温情をかけてやるべきかどうか逡巡するような間があった。

 醜態を二重にも三重にも晒したジャックはうなだれたが、レイラはそれでも、追い打ちを止めなかった。


「そりゃそうよ。いじめてるやつかいじめられてるやつかを選べって言われたら、誰だって、いじめてるやつの恋人になるわよ。百人いれば百人、みんなそうするわ。女子ってそういうものよ」

 

 レイラは加虐主義者だ。

 ジャックはこの瞬間、はっきりと確信した。

 確信した後に、実際レイラが、そもそも暴力肌であったのを思い出した。

 ジャックは落胆した。

 これだけの時間を一緒に過ごした後に、レイラはいまだ、ジャックを責める言葉を口にすることに躊躇が無いのだ。


「あなたがロズのことを好きなのは、ロズのことを好きにならなければ、生きてこられなかったからでしょう? 最初は自分を助けてくれる人を探していたけれど、いなかったから、心の拠り所が欲しくて、せめて好きな人を作った。ロズはうってつけだった。街一番の美人だし、シュリセにやり返せなくて、惨めさを覚えるだけより、あいつは恋敵だって思えれば、いじめられるのも大恋愛の一要素だって、シフトしてしまえるものね」


「ほんの少しの時間で、随分僕について詳しくなったんだね」


「辛い現実に耐えるため、人は色んなことを考えるわ。でも気がついてる?」


「何に?」


「自分が、性犯罪者、一歩手前だってこと」

 

 ジャックは黙った。

 どのように自分の恋を批評されようが構わないと思っていた。

 自分の歪さなんて、とうに受け入れているつもりだった。

 それが彼女の一言で、まるでこれまで白だと思っていたものが、急に黒くなってしまったかのようだった。


「後何年の間に、ロズにその感情が爆発しないって、保証できる? 自分の身に降りかかったあらゆる不幸を、ロズに清算させようとしないって、誓えるの? 冷静に、あなたがもっとも選んでしまいそうな復讐の手段を、見定めて。そうしないと……オークが棍棒を担いで、エルフが他の種族には分からない言葉で喋ってた頃の、歴史の再現になる」

 

 深く、胸に刺さった。

 ジョニーとは真逆の方向からレイラは、ジャックの幻想にヒビを入れて見せた。

 ジャックはレイラの言葉を、頭の中で反芻する。

 すると、人生に対し、犯罪と言う言葉がより密接にかかわって来るような気がした。

 投獄を経験してなお、ジャックは、自分が能動的に罪を犯すはずがないと、今の今まで信じて来た。

 信じて来たのに。


 ジャックは、にわかに、酷い恐怖に襲われた。


 レイラの言葉を否定したいにも拘わらず、真に受け過ぎている自分を、認めざるを得なかった。

 余りにもの理不尽さに、泣きそうになる。

 なぜ、こうなってしまったのか。

 自分は、法に背かず、勤勉であったはずだ。

 傷つけられるは、まだいい。

 けど、それに耐えた先に待っているのが、本物の恥さらしと化した自分だなどという予測には、とても耐えられない。

 

 野蛮な犯罪者だなんて。

 自分を守るための工夫が、ジャックをその方角へ導いているのだと、レイラは言う。

 胸の中では張り裂けんばかりに、自分は命にかけてもそんなことはしないと叫んでいるのに。

 どうして彼女の言葉に、ここまでの信憑性を感じてしまうのだろう。


『君に何が分かる』と感情的になる権利が自分にあることは分かっていて、それを行使すべきか否か、強い誘惑がジャックを襲った。

 

 しかし結局、出来なかった。

 レイラは、ジャックの腿から手を離すと、目の前の樽に右手を入れ、炎を掬いあげる。

 柄杓だってあるのに行儀が悪い、という感想さえ浮かべる余裕もない。

 

 レイラは掬った炎を、口に流し込み、嚥下する。

 手首に垂れた炎を啄ばむように舐めとった後、手首を見つめたまま、言った。


「私が、百一人目の女の子になってあげましょうか」

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