第五章 Beast field②

 意識を取り戻した店主のハーピーは、また気を失いそうになった。

姉妹が店を滅茶苦茶にした上、ギガースが、売り物を乱れ撃ちしているのだ。

看板娘の為に奮闘していたはずのギガースの少年は、今や完全に、戦うためだけに戦っていた。

 

 ギガースの少年が、石を手に取った。

 何の変哲もない、路肩に落ちていた、小さく砕けた石畳の欠片である。

 振り回されるデッキブラシや、膂力に任せた木箱の投擲を見せつけられた後で、その小石に、注目したり、特別な意味を見出すものは、野次馬や、少年の仲間の中にも居はしなかった。

 少年自身ですら、己の感情に気付かずにいたのだろう。

 だが、それは確かに、エスカレートした害意に歯止めが効かなくなっている証だったのだ。

 

 リンダとレイラだけが、そのことに気づいていた。

 

 デッキブラシを持つ二人の手に、汗がにじむ。

 透明な血のように、熱い汗が。

 リンダが、デッキブラシを少年に向かって投擲する為に大きく体を逸らし、そして


 それは、空から降ってきた。


「んあああっ! 痛いっ! あああああっ!」


 激しい衝突音、テーブルの脚がきしむ音。

 

 姉妹から、少し離れた場所にあるテーブルの上に、着地した者がいた。

 

 テーブルの上で、誰かがうずくまり、体を抱えていた。


 それを見たリンダとレイラは咄嗟に、『死にかけの虫』と心の中で形容した。

 その人物の、痛みに呻き身体を抱えている様子だけが原因では無かった。腕が、顔が、まくれ上がったシャツから覗く肌が、緑色をしていたからだ。

 

 ジャック・バステッドだった。

 

 ギガース達も、大勢の野次馬も、誰しもが一人残らず、ジャックに注目していた。

 リンダとレイラも同様だった。

 動くものといえば、地面の上で、赤、白、褐色の炎が、徐々に境界を曖昧にしながら、背の低い陽炎を揺らめかせるのみだ。

 

 隣の店の二階の窓が開いていた。

 そこから、燃え立つ敷地の中のテーブル目がけて、ダイブしたのだ。

 それがオークにとって、どれほどの蛮勇を必要とする行為だったか、片羽とはいえハーピーの端くれである姉妹の知るところではない。

 その程度の度胸に、群衆と同じように目を見張る姉妹ではない。

 ただ、リンダもレイラも、先ほど広場でジャックに食ってかかられた時のことを忘れていなかった。

 勿論二人は、ジャックが腰抜けであるという認識を、改めていたわけではない。

 しかし姉妹は、どんな腰抜けでも何年かに一日は奮い立つということを知っていて、自己嫌悪にとりつかれた人間が、その一日に全てをベットする気持ちも理解していた。

 

 真に警戒すべき人間とは『未来の無い人間』でなく、『今しかない人間』。

 その二つは、同じようで全く違う。

 リンダが先んじて、ジャックに声をかける。


「喧嘩だって、パフォーマンスだろ?」

 

 まさか反則はとらないよな、と。

 

 ジャックが姉妹の暴挙を制止しにきたことは、疑いようがない。

 問題は、その為にジャックがどういう行動を起こすか、だった。

『頼むからこんなことは止めてくれ』と諸手を上げて懇願するのが関の山だろうが―――などと、リンダとレイラは揃って、高をくくりながら観察する。

 

 ジャックは、忙しなく周囲を見渡していた。

 自分に注目している全ての人間と目を合わさなくてすむ視線の置きどころを、探しているかに見えた。たっぷり三秒はかけて探した後、背を震わせながら、ため息をついた。

 オークはゆっくり、腰を抑えながら立ち上がった。

 襟元を改め、申し訳なさそうな顔で、ゆっくり息を吸い込んで、そして。

 姉妹は、これまで一度も聞いたことが無い類の、喧嘩口上を耳にすることになるのだった。



『酷い場所だ

 

 獣の眼光 牙の震え

 

 舌は無意味で シンプルにはなりたくない』


 ジャックが発したのは、今この燃え盛る串焼き屋において何の文脈にも即さない内容の、意味の分からない叫びだった。

 

 呆気に取られた、というよりは、すでに殆ど呆れながら、リンダとレイラは眉をひそめる。

 姉妹は、ジャックの行動を理解出来なかったが、落下の際、テーブルに頭でもぶつけてイカレたのだろうとも思わなかった。

 ジャックの目は、少し離れた所からでもはっきり分かる程、爛々としていた。 

 戦地に降り立った心と体を、何とか理性的に保とうと努力しているのが、見てとれた。

 

 ジャックの放った口上は、何とも調子が独特なものだった。

 少なくとも、通常の口語ではない。しかし、呂律が回っていないのとも違うように思えた。

 

 独特な節回しと、声の高低。

 

 ジャックの声が、ジンハウス姉妹だけでなく、ギガースの少年達、さらにはその周囲にいた野次馬達の注意まで惹き付けている。

 

 誰しもが、動きを止めていた。

 

 ジャックの声の通りの良さに姉妹は、単純に驚いていた。

 

 この場に相応しい、相手を怯ませるための暴力的怒声では無い。

 声は、ひび割れる一歩手前の美しさを維持しながら、家々の壁を反射し、姉妹の心の、他人からは触れられぬはずの場所に、入り込み続けていた。

 教養のない姉妹にとっては、全く未知の感覚だった。

 すれ違いざまに、頭を優しくなでられた気分だった。

 野次馬の中にまぎれ


「歌……か?」


 誰かが、恐る恐る、口にした。

 

 姉妹は、まさか、と笑い飛ばそうとした。

 人生において、芸術に触れる機会の無かった姉妹でさえ、流石にジャックの叫びが、全く既存の歌の体裁を為していなかったということだけは、判断できていた。

 加えて、歌う、という行為自体が、ニューアリアにおいてどのような立ち位置にあるのか、ジャック・バステッド……日常的に差別というものを実感しているはずのオークという種族が、知らないはずもないのだ。

 

 しかし当のオークはというと、安心したように頷いていた。

 姉妹は息を飲んだ。ジャックの態度はまるで、自分の声を歌だと理解してもらえたことに、とりあえず安堵しているかのようだった。


 やめておけよ。

 リンダが内心で発したそんな忠告は、ともすれば、自分達に喧嘩を売る者たちに対するそれより、ずっとシビアな意味を含んでいた。

 姉妹の見詰める中、ジャックは一息に肺を満たす。


『鉄の匂いだ

 

 街灯の下 光の檻


 切れてもいない口の中』


 あの妙な、ツギハギ帽の男の入れ知恵だ。

 リンダはそう結論付けた。そうでなくては、さすがにオークが、こんな珍妙な形の大胆不敵を見せるとも思えない。

 

 歌。

 ジャックが何をしているのかだけは、はっきりとした。

 しかし、意図は変わらず不明のままだ。

 この場で、特大の恥を晒して何を為すつもりなのか、ということだけが判然とせず、フリダズ・スキュワーに異様な迫力だけが充満しようとしていた。

 

 その時。

 燃え盛る串焼き屋の敷地内に、姉妹とジャックに続く、四人目の人間が現れた。


「どぅあっ……ああっ、痛えっ畜生!」

 

 姉妹たちから見て、今度は、ジャックの降ってきたのとは、逆の方向からだった。


 高城ティキジオだか高城トゥックジョーだかと呼ばれていたあの男だった。少し前のジャックと同じようにテーブルの上で蹲り、腰を抑えている。

 高城の頭上、隣の建物の窓から、例の継ぎ接ぎ帽が、心配そうに身体をくねらせ、炎の海を見守っている。

 リンダとレイラの立つテーブルが、ジャックと男の立つそれぞれのテーブルに挟みこまれると言う構図になった。


『やれることは 一つ』


 援軍の登場に勇気づけられたジャックの歌声に、堂々としたニュアンスが含まれ始める。その歌に助け起こされるように、テーブルの上で、高城が立ち上がった。リンダたちからブラシをおみまいされた時と同じで、まるで痛みなど感じていない表情をしていた。

 チームでありながら、ジャックも、高城が何をしでかすかに興味津々のようだった。


 高城は、足首を柔軟に使い、爪先、かかと、足の平でテーブルを叩き、打ち鳴らし始める。

 ジャックが、邪魔をしては悪いと思ったのか歌を止めると、高城が誘うように、ジャックに向けた人差し指を曲げて見せる。

 それでは遠慮なくと、ジャックが肩をすくめながら、炎の海の向こうのギャラリー達に向き直る。


『逃げろ 逃げるしかない

 

 勝利も敗北も こんな世界にありはしない』


 歌と、靴音のデュエット。

 聞いたことも無かった。

 歌に合わせて、手で拍子をとるくらいなら、この場にいる誰でも経験はあるはずだった。

 しかし、歌に絡みつき激しく連続する小気味良い踵のリズムに、その場にいた誰もが、己の身体を振り返ることとなった。

 姉妹をはじめ、二足を持つ者は特に、己の手足の動作の延長線上に、高城のパフォーマンスを置くことをためらった。この他種族都市においてなお、高城の足の動きは、モンスターじみていた。


 ここに来てやっと高城たちの思惑が、はっきりと姉妹にも明らかになった。

 

 姉妹は、喧嘩を見せ物にしようとした。


 ジャックと高城は、その仲裁を、パフォーマンスに選んだのだ。

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