第四章 片翼のハーピー、リンダとレイラ

第四章 片翼のハーピー、リンダとレイラ①

 本当に、何が起こるか分からない。


 目を開けると、そこにロズが立っていた。


「……」


 口笛の音がする。

 きっと高城だった。ギロチンの落ちてくる音に似ていた。現実に聞いたことは勿論なかったが、死が直前まで迫った時に聞こえる音など、区別して考える必要もないはずだった。

 

 空いた口が塞がらなかった。

 ジャックは、気障なセリフから急転直下、間抜け顔を晒すことしかできなかった。

 

 何度瞬きしても、ロズは消えてくれなかった。周囲を見渡す。

 三段腹ケットシ―の走り去る後ろ姿が、遠くに見えた。

 どうやらジャックが目を閉じ言葉を溜めている間に、ジャックの前から尻尾を巻いて逃げだしてしまったらしい。

 その後、ジャックがナンパの口火を切ったタイミングで偶然、ロズが目の前を通りがかったが故のこの状況、ということだろう。

 

 ナンパ。

 そうだ、自分はロズに、何と言った?


『毛深い女』『何人子供を生んだら』『耳だけは』『だらしない身体』『だせえ下着』。

 

 ジャックは、周囲に人だかりが出来ていないのを確認する。

 当然だった。

 野次馬になる度胸があるやつなんて、いるわけなかった。

 ナンパ口上を耳にした者も、しなかった者も、ロズにこの場に居合わせたと記憶されないよう小さくなって、歩みを早めていた。

 縮こまった背中たちが、口をそろえて言っている。『あいつは、想像できる範囲で最低の目に合うに違いない』。

 

 ロズは、首を傾げる。

 長い耳が、水平から傾く。

 その仕草の意図を読み取ろうとしたジャックの頭に、天変地異だとか凶兆だとか、そういった言葉が浮かんでは消えた。

 

 ロズは、相変わらず美しかった。

 

 君に声をかけたわけじゃないんだ。

 これは間違いなんだ。大丈夫、君の首から下に毛が生えてるなんて言っても誰も信じないし、君と祭りの日にホテルに行くのはシュリセしかいなくて、

 

 だから、今朝みたいにもう、僕を傷つけないで。

 

 どこまで言っていいのか、ジャックには分からなかった。

 

 ロズが、口を開きかけた。

 頼む欠伸であってくれと、ジャックは願をかける。

 ロズは言葉を発しなかった。

 しばしジャックとロズは、口を開けたまま向かい合って、立ち尽くしていた。ジャックはロズの目と目の間を見ていたが、ロズはジャックを見ていなかった。

 ジャックの後方を見詰め、目を見開いている。

 

 ジャックが振り返る。

 広場は、特別変わったこともないように思えた。

 強いて挙げるなら、ジャックに笑顔を送りながら見えない敵に向かって拳を振り回している高城だけだった。エールを送っているつもりだとは、信じたくない。

 ジャックが再びロズに向き直ろうとした、その時だった。


「あ、あははっ! は、腹痛い! あーはははっ!」


「ふ、ふふっ! くすっ! わ、笑っちゃまずいわよ、ね、姉さん。んふ、ふふふっ! あははっ!」

 

 広場に笑い声が響く。

 遠慮のないボリュームにも関わらず、ジャックは声の出所を、咄嗟に把握できなかった。


「何だお前ら!」


 一早く事態を察したのは、高城だった。


「あぶねーから降りてこい! そんなとこで何してる!」

 

 高城が、空に向かって叫んでいた。ジャックもつられて、視線を上げる。

 

 はるか高みにある時計塔の文字盤。

 地面と水平に伸びる長針の上に立つ、二つのシルエットがあった。

 片方は、太陽を指して垂直に伸びる短針に背を預け立っている。

 もう片方は、長針の先端に跨り、こちらを見下ろしていた。

 二人揃って長柄の得物を手にしている。


「時間を進めてるのよ」


「昼休み終わりまで罰掃除なんて、やってらんねーから、なっ」


 長針に跨った方が、腰を揺らす。長い髪が、風とグラインドの影響を受けて、のたくった。

 しなる気配も見せていなかった長針は、一旦彼女の重さに競り負けると、潔く、がくんと、一分だけ時を進めた。時計塔の内側で、骨が折れるようなきしむ音がしたのを、ジャックは聞き漏らさなかった。

 

 広場から、人影がまばらになりつつあった。

 時計塔の上の彼女たちの存在は、通り雨の前触れの雨雲さながらに、群衆の危機意識を刺激していた。

 ロズも、現れた時と同じように、急に目の前から消失している。

 まったく、よく人の消える日だった。


「でも、ちょっと惜しかったな」


「そうね、姉さん。もう少し待ってれば、街で一番ダサい男のナンパの結末を、見てられたわ」

 

 広場は今や、ずいぶんすっきりとしたステージだった。

 スポットライトの役割は、時計塔の彼女達だ。

 それが誰を照らしているのか、広場を去る前に確認しておこうとする野次馬が、広場の出口、街路の入り口に吹き溜まっている。

 ジャックは、彼女たちが罵声を浴びせている相手が自分であることを野次馬に気取られまいと、反応しないよう努めていたが、ここで主役を際立たせる名脇役の登場だった。


「どうなったか、だと!?」

 

 高城がコートの裾を翻し、彼女たちに張り上げた。


「ふざけんな! てめーらのせいで、弟子のデビュー戦が台無しだ! こいつの二週間後を返しやがれ!」

 

 高城は、あのまま行けばジャックがロズを口説き落として見せたであろうことを、欠片も疑っていないようだ。

 高城の態度に勇気づけられたわけでは無かったが、ジャックのとった行動は、この場から一人逃げ出すことでも、蹲って頭を抱えることでもなかった。

 ジャックは高城に駆け寄り、肩を掴んで訴える。


「まずいよ! ジンハウス姉妹だ!」

 

 町一番の荒くれ者の名前だった。

 だが、高城は動こうとしない。

 怒っているようだった。

 頭のフランケンも、ジッパーから、蒸気を漏れ出させている。

 姉妹のうち、短針に寄り掛かった方が、高城に言った。


「悪いけど、彼に声をかけられてついてく娘なんていないわよ? 紳士じゃないもの」


「何言ってんだ! 飯食ったばかりだし、きっと毎日、シャワーも浴びてる! 服だって……今朝まではきっと清潔だった。……顔も、それほど悪くは……あー……」

 

 高城は、ジャックの顔を見て、悩んだ挙句に、頷いた。

 ジャックの長所を見出すことに成功したわけではなかった。

 その目尻に、恐怖の涙を溜めたしわが出来ているのを見てとったのだった。


「笑え、ほら、笑え!」

 

 ケットシ―、もといロズに声をかけた時の勇気の欠片が、まだ残っていたことが幸いした。

 またその一件のせいで、元もと受け身体質の身体に、高城の指示に従う為の回路が、出来上がっていた。

 おかげでジャックは、姉妹との衝突が避けられないことが分かってなお、臆さず、高城の足を引っ張らないという覚悟だけは済ませることが出来た。

 

 ジャックは言われた通り、唇をひん剥き笑顔をつくる。

 息をするたびに笛の音が鳴る始末だったが、これでも気持ち的には中指を突き立てているのだった。


「これ以上の紳士がどこにいる!」

 

 高城に称えられる。

 時計塔の上からは、案の定、爆笑が返ってきた。

 それを受けた高城が、少し自信なさげな猫背になった気がしたので、ジャックも、顔を元に戻した。

 高城が叫ぶ。


「畜生―! 降りてきやがれ!」

 

 ジャックは、息を飲んだ。

 

 高城は、その挑発の返事が、どれほどの速さで帰って来るのか、知らなかったに違いないのだ。

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