6.ハロウィン(2)
十月三十一日。万聖節前夜。
すなわち、ハロウィン。
古くはケルトの祭祀である『サウィン』を起源とする、豊穣と新年の祝い。
この日は現世と異界の境界が近付く日。
祖先の霊が現世を訪れるだけでなく、薄くなった境界を乗り越えた妖精や幽霊があふれかえる夜。
家々には魔除けの飾り付け。
子供達は妖精や幽霊の仮装で練り歩き、居並ぶ家のドアを片っ端から叩いて叫ぶのだ。
『
もっとも、祭が形骸化した今となっては、わいわい騒いで盛り上がるだけのイベントであり、子供達の仮装も定番の魔女や幽霊ばかりでなく、ゲームやコミックスのキャラクターだったりもするし、単なる仮装パーティーの様相を呈している感もある。
「うん! ハル、かわいいっ! すっごくかわいい! モードもそう思うでしょ?」
「え、ええ。そうね……」
校舎前に集合し、結局、逃れようもなくゴシックロリータの美少女に変身させられたハルの傍らで、デヒティンがしきりに歓声を上げ、隣でモードもほのかに頬を染めて頷いた。
デヒティンの衣装は前日にも言っていた通り、ルーシーの仕立てたオランダの民族衣装。イアンの言ではないが、牧歌的な雰囲気の衣装なので、確かに丸っこい顔立ちにボリュームのある胸とぽっちゃりした二の腕の方が良く似合う。デヒティンにはもってこいの衣装だ。
モードの方は、これもまたルーシーの仕立てで、デュマの小説にでも出て来そうな十八世紀フランスの銃士姿だ。青羅紗のカサック外套と羽根飾りの付いた大きな帽子に、剣帯と飾り物の剣まで吊って、華やかで凛とした男装の麗人ぶりが実に良く似合っている。さしずめ、三銃士のアラミスといった雰囲気で、周りの女の子達からもきゃあきゃあ黄色い声が上がっていた。
「ねえ! ハルとモードで並んでみて。ほら、素敵~。お姫様とナイトみたい!」
「……誰か、助けて……」
珍しくテンションの高いデヒティンが大喜びで盛り上がる中、お姫様のハルはがっくりとうなだれて、隣に並べられたモードが真っ赤になってガチガチに固まっている事にすら気付く余裕はなかった。
「はぁい! みんな、おはよう! ハル……ぅ、う!」
濃紺の三角帽子にローブとマントの魔女スタイルでその場にやって来たシーダーが、ハルの姿を見るなり目を見開いた。
「え? えっ? えっ? えええええええっ!」
シーダーの絶叫が響き渡った。
「きゃああああああああっ!」
悲鳴のような叫び声を上げ、シーダーはくるりと踵を返すと猛烈な勢いで走り去って行った。その場の一同がぽかんとして見送ってから、いくばくもしない間に、再び全力のダッシュでこちらに向かって来るシーダーの姿が視界に入って来た。
「すごい! すごいわ、ハル!」
土煙を立てんばかりの勢いで駆け込んで来たシーダーは、どうやら、これを取りに戻ったと思しきデジタルカメラをハルに向けた。
「何? 何なの? かわいいっ! かわいすぎるわ! もうっ、最高! 素敵! かわいいわ、ハル!」
シーダーは興奮に頬を紅潮させながら、ハルの周りを巡っていろいろな角度からシャッターを切りまくった。
「ほら! ハル、こっち向いて! 視線をこっちにちょうだい! もっとかわいいポーズしてみて! あ、いいわ、その恥ずかしそうな表情! すっごいかわいい!」
「ちょ、ちょっと、シーダー……」
シーダーのあまりの狂態に、さすがに引いたモードが制止するように声をかけたが、
「画像データ、後でコピーしてあげる」
「……っ!」
シーダーが耳元でぼそっとささやくと、モードは一瞬、硬直し、それから、ぐっと拳を握って力強く頷いた。
「……もう、好きにして……」
崩れ落ちるハルの目に少し涙がにじんだ。
§
色鮮やかに飾り付けられた村の通りのそこかしこに人があふれ、陽気な笑い声や叫び声が響き渡る。
戦利品の菓子を手に走り回る子供達。道端で酒杯を酌み交わす大人達。年に一度の祭に、皆が浮かれ騒ぎを満喫していた。
そんな中を連れ立って歩く四人のかわいらしい少女達の姿が目を引いた。
「あれ? あの子、誰?」
「ああ、ほら、コネリー先生の所の……」
「女の子だっけ? 甥っ子だって言ってなかった?」
周囲の声がハルの胸に次々と突き刺さった。
「男の子のはずだけど……、これは似合うね」
「かわいいわねえ」
「これはこれでありじゃないかと」
「全然オッケーでしょ」
「あれなら十分いける」
「むしろ、ごちそうさまです」
「ねえ! 変な発言が混ざってない? ねえってば!」
悲鳴を上げて逃げ出そうとするハルを、両脇からシーダーとデヒティンががっちり捕まえて離さなかった。
「うふふ。ハルってば大人気ね」
「そうそう。すっごくかわいいんだから、堂々としてたらいいのに~」
ゴシックロリータのハルに、魔女衣装のシーダーとオランダ娘のデヒティンが両側からぴったりくっついて、ひとかたまりのような格好になっている後ろで、男装の女銃士のモードがやや憮然とした顔をしていた。
「ううう……」
二人にぎゅっとしがみつかれ、ハルは赤くなって呻き声を洩らした。肉付きの良いデヒティンの豊かな弾力と、華奢なようで意外にボリュームのあるシーダーの柔らかな感触を押し当てられて、更に女の子の甘い香りが鼻腔をくすぐって、何だか頭がぼんやりしてきた。
「デヒティン」
と、モードが間に割り込んでデヒティンを引きはがし、代わってハルの腕を取った。
「うん?」
「あなたはあまりくっつかないの。特定の人がいるのなら、他の人とベタベタするものじゃないわ」
「えっ? あ、そうか~。ハルも男の子だもんね。すっかり女の子みたいな気になっちゃってたよ~」
「……デヒティン、ひどいよ……」
ハルはがっくりと肩を落とした。
ちなみに、スリムなモードのデヒティンとはうって変わって硬い感触だとか、シーダーの含みのありそうな視線とモードの視線が頭上で火花を散らしている事だとかは、本能的に突っ込まない方がいい気がして黙っておく事にした。
「ハルっ!」
突然、大声で名前を呼ばれ、ハルは弾かれたように顔を上げた。
「……フィオナ叔母さん!」
息を切らせて目の前に現れたのは、中学校の教師を務め、ハルの面倒を見てくれている叔母のフィオナだった。柔らかな茶色の髪を乱し、プラスチックフレームの眼鏡の奥でヘイゼルグリーンのたれ目に真剣な光を宿している様子は、いつものおっとりした雰囲気とはがらりと印象が変わって迫力さえ感じさせ、ハルは思わず気圧されて息を呑んだ。
「いい? ハル、私はあなたの味方よ!」
「………………はい?」
「いいの! 何も言わなくてもわかっているから」
フィオナは首を振ってハルの言葉を遮った。
「正直に言うとショックはあるわ。でも、それがあなたの本当の姿なら、私は理解できるつもりよ。今までずっと本当の自分を隠してきたのなら、きっと辛かったでしょうね……」
「あの、フィオナ叔母さん?」
周りの声も聞かず、フィオナが滔々と続けた。
「学生の頃の友達にも一人いたの。男の体に女の心を持っていて、随分と苦しんでいたけれど、今では立派な女として生きているわ」
「違うよおおおおっ!」
ハルの悲痛な叫び声が響いた。
§
フィオナの誤解を解くために小一時間を要し、ハルは全身に多くのしかかる疲労感でぐったりしていた。
「何だか、すっごく疲れたよ……」
「ふふ。大変だったわね。コネリー先生って、結構、思い込みが激しい所があるものね」
人目の多い道を外れ、木陰のベンチで一息吐くハルの隣で、シーダーがくすくす笑い声を洩らした。
「笑い事じゃないよ。僕だって、好きでこんな格好してる訳じゃないのに……」
そう言いながらも、膝をぴったりと閉じて、座る姿勢がすっかり女の子になってしまっているハルの様子がおかしくて、シーダーは頬がゆるむのを抑えられなかった。
「まあ、いいじゃない。特別衣装のハル、すっごくかわいいもの」
「うう……」
シーダーにからかわれて、またハルが肩を落とした。
「ねえ、そう言えば、ハルから私の衣装の感想を聞いてないわ。どう?」
そう言って、シーダーは衣装を見せびらかすように両腕を広げた。
濃紺色のローブにマントと三角帽子の魔女スタイル。よく似合っていてかわいらしいが、特にひねりもなく、ハルもシーダーのその格好は何度も目にしているので、目新しい感もない。
「似合うけど、よく着てる服だよね?」
と、思った通りの事を口にすると、シーダーはつんと顔を反らして、含みのある笑みを浮かべて見せた。
「そんな事はないわ。ちゃあんとハロウィン仕様の特別製なのよ」
「そうなの?」
シーダーに言われて、ハルはもう一度シーダーの衣装を眺めてみるが、特に変わった所は見当たらない。
「どこが特別なのか見てみたい?」
「え、うん」
ずいと顔を近付けるシーダーにどきりとしながら、ハルはこくりと頷いた。「見てみたい?」と言ってはいるが、その実は「見せてあげるから見なさい」という意味なのだろうと、何となく察しがついたので、素直に首を縦に振った。
「いいわ。じゃあ、こっちに来て」
そう言って、シーダーはハルの手を取って立ち上がらせると、周りから隠れるように大きな木の陰へ引っ張り込んだ。
「うふふ。ハルだから見せてあげるのよ。はい!」
シーダーは不意に背を向けると、ローブの裾をめくり上げた。
「わあ!」
突き出した尻がハルの目に入る。鮮やかなオレンジ色のドロワーズには、黒の三角とジグザグでシンプルに描かれた顔の模様のバックプリント。ハロウィンの飾りの定番、カボチャに顔を刻んだジャック・オ・ランタンだ。
「ね? 下着がハロウィン仕様なの。かわいいでしょ?」
「わ、わかったから、しまってよ!」
「あら、もっとじっくり見ていいのよ。ハルにだけ見せてあげるんだから、ね?」
真っ赤になってうろたえるハルに、シーダーもほんのり頬を染めながら、小悪魔めいた笑みを浮かべた。
「冗談みたいな下着だけど、生地もとってもいいのよ。柔らかくて、肌触りも良くって。ねえ、さわってみる?」
「し、シーダー、ちょっと、そんな……」
ほとんどパニックのハルはしどろもどろになって、それでも、それでも、シーダーのドロワーズとそこから伸びる真っ白な足から目を逸らす事ができず、心臓の音が体中に鳴り響いて、頭がくらくらした。
「うふふ。ハル、私のお尻を見て何を考えてるの? やーらしっ」
「ち、違うよ……、僕は、そんな……」
シーダーの挑発に、ハルはもう何が何だかわからなくなって、顔を言わず全身から火を噴きそうだった。
「なっ! な、何をしてるの、あなた達はっ!」
怒鳴り声が響いた。
飲み物を仕入れに行ったモードとデヒティンが戻って来て、両手に持ったソーダの瓶を握り潰さんばかりに力を込めたモードがわなわなと全身を震わせ、デヒティンも顔を赤くしている。
「シーダーっ! あなた、何を……っ!」
眉を吊り上げて詰め寄るモードに、シーダーはわざとらしくうつむいてしなを作り、上目遣いで恥ずかしそうな仕種をして見せた。
「……だって、ハルが私の特別な所を見たい、って言うんだもの」
「~~~~~~っ!」
「私だって恥ずかしいけど、ハルにだったら見せてもいいから、特別な所」
「ち、違うよ……!」
わざと誤解を招くような言い方をするシーダーを止めようとハルが割り込んだが、その瞬間、固まっていたモードがくたっと崩れ落ちた。
「ええっ! モード、大丈夫? しっかりして!」
卒倒したモードにデヒティンが慌てて駆け寄った。
「ちょっとやりすぎちゃったかな?」
シーダーが少しばつが悪そうに呟いた。
§
すっかり日も暮れて小さな子供達の姿が路上から少なくなっていく代わりに、酔っ払って騒ぐ大人達が勢いを増していく。
村で一件のパブ『フラットストーン』には、ギネスのジョッキを酌み交わす酔漢があふれていた。
パブの一人息子であるイアン・スチュワートは小さな頃から店の手伝いをしていたので、酔っ払いの喧噪など慣れたものだった。混み合う店内をすいすいと行き来しては、酒や料理を運び、空いた食器を下げては洗い場へ放り込み、頃合いを見計らって手早く皿洗いも片付ける。
「イアン、そこ終わったら上がっていいぞ。デヒティンにも上がるように言ってくれ」
「あいよ」
厨房からの父の声に答え、イアンは皿洗いを終えて手を拭いながらホールに顔を出した。
「デヒティン、もう上がれよ」
「はぁい」
ハロウィン用の仮装のままで給仕役をこなしていたデヒティンが明るい声で答えた。見た目の印象よりもテキパキと動き回って、何の物怖じもせずしっかりとした仕事をして見せる、なかなかの看板娘ぶりだ。
「悪いな。夕方からずっとだったから疲れたろ?」
「う~んと、ちょっとだけ。でも、平気だよ」
店の奥へ引っ込みながら、デヒティンはにこりと笑って見せた。
「でも、お店の方、いいの?」
「ああ。さっき、イトコが手伝いに来たから交代」
まだまだ酔っ払い達の夜は長く、店の繁盛も続いているが、子供達には少々遅い時間だ。別の人手が確保できた事もあって、イアン達はお役御免と相成った。
「先にリビング行ってろよ」
「うん」
促されるまま今のソファーに腰を下ろしたデヒティンに、キッチンへ寄って来たイアンがミルクで割ったライビーナのグラスを手渡した。
「お疲れさん」
「うん。ありがと」
何を言わなくても、当たり前のようにデヒティンの好物を出して来てくれる辺り、気心が知れているなとあらためて思った。
「何だよ? にやにやして」
「えへへ~。何でもない」
隣でコーラの瓶を傾けていたイアンが怪訝そうな顔をすると、デヒティンは首をふるふる横に振った。
「イアンって、二人きりの時だけ優しいんだよね」
皆の前だとイアンはデヒティンをからかう事も多いし、デヒティンもそれにやり返す。しかし、二人きりの時のイアンは気遣いを見せてて優しくしてくれる。
「いつもそうだといいのにな~」
「そういうのを見せびらかすのは好きじゃないんだよ」
イアンが少し照れたようにむくれた。
「そういや、モードがぶっ倒れたんだって? 平気なのか?」
「うん。ちょっと興奮しすぎただけみたいだから。さっき、モードのお父さんが教えに来てくれたけど、もう、すっかり大丈夫だって言ってたよ~。でも、お母さんが心配しちゃって、ベッドから抜け出さないように見張ってるんだって」
ベッドに押し込められて気丈なモードがふくれている姿を思うと、デヒティンは気の毒に思いながらも少しおかしさも感じてしまった。
「モードはカタいからなあ。その分、爆発するとデカいわな」
「うん。真面目ですごくいいんだけど、もうちょっと、力を抜いてもいいと思うかな」
イアンがにへっと笑ったのにつられて、デヒティンも小さく笑みを零した。
「ポチャ子(チャビー)はもうちょっとシャキっとしてもいいと思うぜ」
「あ~、また『ポチャ子』って言うし~」
デヒティンが頬をふくらませた。
「いいじゃん」
と、イアンはデヒティンの頭にぽんと手を乗せた。
「ちょっとむにっとしてんのが、お前のかわいいとこだしさ。俺は好きだよ」
「……え、そう? なら、うん……」
言われてデヒティンの頬が赤く染まった。
「でも、みんなの前でそういう言い方されるのは、やっぱり嫌だな」
「ああ、言わない言わない」
「うん。なら、いいよ」
と言いつつも、どうせまた懲りずに『ポチャ子』呼ばわりされるのだろうとはわかっていたが、すっかり慣れてしまっているので、本気で責めようとも思わなかった。
「ねえ」
「何?」
「私達、一応、もう……恋人同士だよね?」
「ああ、そうだな」
「うん。それじゃあね、少しは、恋人らしい事とか、したいな……」
「そっか」
さらっと答えると、イアンはデヒティンを抱き寄せた。そして、ぎゅっと抱き締めながらキスをした。
唇にふれるだけのキスを何秒間か。
それから、唇を離すと、デヒティンの頭を胸に押し当てるようにして抱き締めた。
「これでいいか?」
「……うん」
少しコーラの匂いがしたキスの余韻にひたって、力の抜けた体を預けながら、デヒティンは押し当てた頬に伝わるイアンの鼓動を感じていた。
「ねえ……」
と、顔を上げようとすると、デヒティンはイアンに頭を押さえられた。
「まだ、顔上げんな」
「えっ?」
「……いや、俺、多分、すっげー赤い顔してっから、見られんの嫌だわ」
「うん、わかった。じゃあ、こうしてるね」
デヒティンは顔を上げるのをやめて、もう一度、イアンの胸にもたれた。
「ねえ、私達が最初にキスしたのって、いつだか覚えてる?」
「んー、二つだか三つだかの頃だろ? 俺が寝てるのに、お前がキスしてたっ、って聞いたけど」
「え~、違うよ~。逆だもん。私が寝てたら、イアンがキスしたんだって、ママが言ってたよ」
「そうだったか? 俺が聞いた話と逆だなぁ。
──でも、ま、どっちでも良くね?」
「うん、そうだね」
そう言って、どちらからともなく、くすりと笑い声を洩らした。
§
夜の森にはひんやりした静かな空気が落ちて、洩れ聞こえる村のお祭り騒ぎもやけに遠く感じる。
「ちょっと涼しくなってきたけど、気持ちいいね」
シーダーがふわりと微笑んで言った。はしゃぎすぎて火照った体に冷たい夜風が心地好い。
「うん、そうだね」
ハルも答えて頷いた。
ハロウィンの仮装のままで、ハルはシーダーに誘われるまま喧噪を離れて村はずれの森まで散歩に来たが、静謐な空気と草木の香りが体中に染み込んでくるようで清々しかった。
「お祭りのにぎやかなのもいいけど、こういう時にそこから離れて静かな所にいるっていうのも不思議な感じ」
シーダーが裾をひるがえしてくるりと回って見せ、その無邪気な笑顔にハルはどきりとする。
──僕は、シーダーが好きなのかな?
昨日のイアンの言葉を思い出して、いつもよりもシーダーの事を意識してしまう。
キラキラ輝く大きな緑色の瞳。生え際の形が綺麗な広い額。うっすらとソバカスの浮いたきめ細かい白い肌。鮮やかな人参色の髪。
「んー?」
シーダーの声ではっと我に返った。
「ハルの視線が熱いな。見とれちゃった?」
「えっ? いや……」
その通りとも言えず、ハルは言葉を濁した。
「やーらしっ」
「そ、そんなんじゃないよ……」
おどけてからかうシーダーと、素直に赤くなるハルのいつものやり取り。しかし、そんな風にからかう時のシーダーの悪戯っ子のような表情を、ハルはとてもかわいらしいと感じていた。
「ハロウィンはね」
不意にシーダーが声のトーンを柔らかく落とした。
「現世と異界の境目が薄くなる夜。だから、幽霊や妖精がたくさんやって来るのよ」
そう言って、シーダーはハルの頬をはさみ込むように両手を添えた。
「目を閉じて。素敵なものが見られるように、おまじないをしてあげるから」
言われるままにハルが目を閉じると、シーダーは両方の目蓋に一度ずつ、そっと唇でふれて小さな魔法をかけた。
柔らかな唇と吐息の感触に、ハルの胸が大きく鳴った。
「目、開けてみて」
「うん」
ハルは目蓋に残る唇の感触にどぎまぎしながら目を開いた。
「わっ……!」
驚愕の声が口をついた。
光があふれていた。
無数の仄白い小さな光の粒が木々の合間を縫うように飛び交っている。
「すごい……」
ゆらゆら揺らめく光の群れは、まるでホタルの乱舞のよう。夜の森を満たす彩りの中、きらめき瞬く光に目を奪われ、息を呑んだ。
「これは……、何?」
問うハルに、シーダーは少し切なげな顔をして見せた。
「これはね、人の魂の成れの果てなの」
ショッキングなシーダーの言葉に、ハルはどきりとした。
「前に『
「うん」
地獄の石炭に火を灯し、あてもなく永遠にさまよい続ける亡霊。シーダーと共にその亡霊に出会った出来事はハルもよく覚えている。
「あそこまで物騒なのじゃないけど。でも、この光も行く先をなくした人達の魂よ。ずっとずっと、この世にしがみついてさまよううちに、どこへ行くのかも、自分が誰なのかも忘れちゃって、もう幽霊ですらない、ただの小さな光になっちゃった魂の残り火。それでも、こんな特別な夜には、人恋しくて、人のいる場所へ寄って来るのね……」
シーダーが差し伸べた掌に光の粒が一つ舞い降りて、ゆっくりと静かに瞬いた後、ふわりと飛び立った。
「寂しいね……」
「そう言うと思ったわ」
ハルが呟きを洩らすと、シーダーがにこりと笑った。
「そういう優しい事を言うハルがステキなのよね。かわいいわ」
シーダーがぐっと顔を近付ける愛らしい仕種に、ハルが照れて頬を赤らめると、それを見たシーダーがまた微笑んだ。
「ねえ、ハル。もし、いなくなっちゃった大事な人が戻って来たら、幽霊になっていても、幽霊だとしても、ハルは会いたいと思う?」
シーダーにしては珍しく、歯切れの悪い言葉を洩らした。
「えっと……」
ハルの脳裏に死んだ母が浮かんだ。
遠い東の島国から来た母は、優しく、厳しく、美しい人だった。その母が死んでから、まだほんの数ヶ月。寂しく思わないと言えば嘘になる。
「会いたいな」
会えるものなら、また会いたい。そして、見て欲しい、今の自分を。
母を失ってしまったけれど、元気でやっている事を知って欲しい。叔母のフィオナがしっかり面倒を見てくれている。引っ越した先のこの村でも友人に恵まれた。イアン、モード、デヒティン、それに、シーダー。皆に支えてくれている。
──母さん、僕は大丈夫だから、心配しないで。
そう伝える事ができたなら。
「シーダーは……いるの? 会いたい人」
問われたシーダーは、答えずに少し寂しそうに笑った。
次の瞬間、不意に視界が暗転した。
§
一瞬、真っ暗になった視界が再び開けた後、ハルの目の前には同じ夜の森の風景が広がっていたが、二つだけ違う箇所があった。
一つは、夜空を漂っていた光──人の魂の成れの果てだという光の群れが消えている事。
そして、もう一つ。シーダーの姿がどこにも見当たらなかった。
「……シーダー?」
恐る恐るささやく声に答えるものはなく、ただ、わずかにそよぐ風と葉ずれの音が聞こえるばかり。
シーダーの悪戯だろうか。小さなおてんば魔女見習いが、ハルをからかうために魔法で姿を隠して、慌てる姿をこっそり覗いている、などというのは、実にありそうな事態だが、どうにも胸がざわついて不安ばかりが大きくなる。
今、そこにいたはずのシーダーがいない。その事にたまらなく心をかき乱される。
「シーダー?」
感覚がふわふわしてひどく頼りなく、落ち着かない。あるべきものが、かけがえのない大切なものがなくなってしまったような、どうしようもない喪失感。
シーダーがいない。そう思うと、胸がえぐり取られたかのように痛んだ。
──ふと、背後に気配を感じた。
「シーダー!」
「ひゃうん!」
とっさに大声で名を叫んで振り返ると、まったく違う声が上がった。
こっそりと近付こうとしていた、と言わんばかりの姿勢で固まっていたのは、ハルよりも三つくらいは年上と思しき華奢な少女だった。仮装用らしい黒マントに身を包み、カボチャを模したかぶり物は顔が出るようになっているので、オレンジ色の頭巾をかぶっているような風体だ。真っ赤なお下げ髪に、ソバカスの浮いた白い肌、大きな眼鏡の奥で瞳をおどおどさせている。ハルはどこかで見たような風貌に感じた。
「え、ええっと、その……」
見た目の印象通りのおどおどしたか細い声が洩れた。
「かっ、カボチャ大王だぞー」
「………………」
「食べちゃうぞー。がおー」
「………………」
空気が冷たいのは夜の冷え込みのせいばかりではない。気まずい沈黙が二人に重くのしかかる。
「だから嫌だって言ったのに、だから嫌だって言ったのに……」
自称・カボチャ大王はその場にしゃがみ込んでさめざめと涙を流した。
「ああっ、えっと、その、泣かないで下さい」
ハルはつられて一緒にしゃがみ込んだ。
「うう……。恥ずかしい……」
「大丈夫ですよ。僕なんて、昨日と今日で人生最大の恥ずかしさを味わってますから……」
落ち込むカボチャ大王をなだめようとしながら、ハルは自分がどんな格好をしているかあらためて思い出し、心が折れそうになるのを何とかこらえた。
ぶふぁあっ、とふくらませた紙袋が潰れたような音の不意に響いた方へ目を向ければ、そこには新たな人影があった。
今度はベルベットの帽子からたっぷりした赤毛をあふれさせる女海賊だった。
膝まで届くほどのブーツに、ゆったりしたドレスシャツとベストにジャケットの海賊船の船長風の衣装で包んだ肉感的な体をくの字に曲げ、腹を抱えて笑う赤毛の女は、カボチャ大王よりも更に一つか二つ年上くらいだろう。雰囲気や体格はかなり違うが、顔立ちには似通った所が見受けられるので、姉妹か親戚かも知れない。
「ふ、ふふ、あはは、駄目、おかしくて我慢できない。いくら何でも、『食べちゃうぞ、がおー』はないでしょ、く、ふふ」
「やれって言ったくせに……。お姉ちゃんの馬鹿ぁ……」
笑いすぎて涙をにじませる女海賊と、小さく丸まっていじけるカボチャ大王を前にして、ハルは呆気に取られるばかりだった。
どうやら姉妹らしい二人を見るうちに、ふと気が付いた。
この二人はシーダーに似ているのだ、と。
「そうだ、シーダー……!」
ハルは弾かれたように立ち上がり、シーダーの姿を求めて辺りへ視線を走らせた。
「シーダーなら心配要らないわよ、ハル・コネリーくん」
「……え?」
シーダー似の女海賊がハルに向かって微笑んだ。どこか人を食った雰囲気があって、二人のうちなら、こちらの方がよりシーダーに似ているように感じた。
「私達だけで君に会う間、ちょっと外してもらっただけだから。どのくらいで抜けて来るかな?」
「『
女海賊の問いに、カボチャ大王がまだ少し鼻をぐずぐず鳴らしながらも、立ち上がって答えた。
「あの……」
この二人はシーダーとはどういう関係なのか、シーダーはどうしてしまったのか、何故、ハルの事を知っているのか、色々と浮かび上がる疑問を口にするより前に、女海賊はぐいっと顔を間近に近付けてハルを覗き込んだ。
「妬けちゃうくらいの美少女ぶりね……。本当に男の子なの?」
「ええ……」
シーダーがもう少し大きくなったら、こんな感じになるのだろうか。そんな風に思える美貌がくっつくほど近くに迫って、ハルはどぎまぎしながら頷いた。
「シーダーの好みっぽいね」
カボチャ大王が口を挟んだ。
「あの子、いじめたくなっちゃうようなかわいいタイプが好きだものね」
「優しそうで、いい子だと思うな」
「シーダーはおてんばだから、尻に敷かれるわよ」
好き勝手にハルを品定めしている風な二人を前に、ハルは途惑いを隠せなかった。
「ねえ、ハル」
と、女海賊が言ったその声音は、ずっと穏やかなものだった。
「シーダーをよろしくね」
そう言って、二人は揃って微笑んだ。
「あの子、おてんばで手が掛かるけど、本当は強がりで寂しがり屋で、とても優しくていい子よ。あの子がわがままを言ったり、悪戯をしたりするのは、好きな相手に甘えてるって事なの。だから、大変かも知れないけれど、傍にいてあげてね」
「え……」
ハルは少し面食らいながらも、
「……はい」
自然に頷いていた。それを見て、二人も満足そうに頷いた。
「あの……」
「てやあああああああああっ!」
ハルが口にしかけた言葉は、高らかな叫び声にかき消された。
「えっ? もう?」
「早かったわね。あらら、もう『
右手に杖、左手に光る糸を手にして、虚空から生じたかのように飛び込んで来たシーダーの姿を目にして、二人が言った。
「ハルっ! 無事なの!? どこの誰の仕業か知らないけれど、ハルに何かあったらただじゃ済まさないんだから……、えっ?」
勇ましいシーダーの叫び声は、その場にいる二人を目にした瞬間、しぼんで消えた。
「……え? バーチ……、ローワン……?」
シーダーの手から杖が滑り落ち、左手の光が消えた。驚愕に見開いた目は、瞬きすら忘れて仮装の二人組を凝視する。
シーダーの呟いた名前が、ハルの記憶に引っかかった。バーチとローワン。キーン家の三姉妹の上二人。若くして亡くなったというシーダーの姉達の名だ。
「久し振りね、シーダー」
女海賊の扮装をした長女、バーチ・キーンがささやく隣で、カボチャ大王の次女、ローワン・キーンも静かに微笑む。
「せっかくのハロウィンだから会いに来たわ。それと、あなたのボーイフレンドのチェックにね」
「あ……」
両手で口元を覆ったシーダーの目に涙の粒が浮かんだ。
死んでしまった姉が、二度と会えないはずの姉が、幽霊になってではあるが、今夜、年に一度だけの特別なハロウィンの夜、会いに来てくれた。
「バーチ……! ローワン……!」
抑えられずにシーダーの涙があふれた。
§
シーダー達を残し、ハルは黙ってその場を離れた。折角の姉妹の再会に水を差したくはなかった。
一人、夜の森で梢を見上げて耳を澄ます。
夜空の藍色、草の深緑、色付いた木の葉の赤や黄、樹皮や大地の優しい茶色。
風のささやき、枝葉のざわめき、虫達の鳴き声。
美しい夜の森の中、ハルは冷たく澄んだ空気を大きく吸い込んだ。清々しい草木の香りが肺を満たし、体中に染み込んでいく。
「シーダー、良かったね」
そっと呟いた。
もう会えないはずの姉と再び会う事ができたシーダーを、素直に良かったと思う気持ちもあり、うらやましく思う気持ちもあった。
自分もあんな風にして、いつか母と再び会う事ができるだろうか。そう思うと、少し鼻の奥がツンとした。
「ハル」
聞き慣れた声が名前を呼ぶ。
振り返れば、かわいらしいがおてんばな赤毛の魔女見習いの姿がある。
「シーダー」
その名前を呟くと、何故かいつもよりも少しどきりとした。
「もういいの?」
「うん」
頷いたシーダーは、すっとハルの隣に並んで腕を絡めた。
ぴったりと寄り添うシーダーの体温を感じて、ハルの頬が熱くなる。
「良かったね、お姉さんに会えて」
「うん」
こくりと頷くシーダーの幸せそうな顔を見ていると、ハルの方まで気持ちが満たされていくような気がした。
「ハル、大好きよ」
「……え」
シーダーは言った次の瞬間、はっとして顔を上げた。
「あっ! 違う、今のはなし!」
かあっと顔中を真っ赤に染めたシーダーが声を震わせた。
「最初の『好き』はハルに先に言わせるんだもの! 今のはなしよ! なしだから! いい?」
「え、う、うん……」
詰め寄るシーダーに気圧されて、ハルは思わず首を縦に振った。
「そう。だったらいいわ」
まだ動揺が治まらず、声に震えを残したまま、シーダーは恥ずかしさを誤魔化すように目を逸らした。
「ハル、早く私に『好き』って言ってね。言い出せなくてウジウジしてるハルも、かわいくて、かわいくて、すっごくかわいいけれど、やっぱり、ハルに『好き』って言って欲しいわ」
絡めた腕にぎゅっと力を込めて、シーダーは更に体をくっつける。答える言葉に窮してハルが途惑ううちに、シーダーの方が再び口を開いた。
「でも、今日の所はそんなに急かさないでおいてあげる」
「そ、そう……?」
「うん。困ってるハルはすっごくかわいいけれど、今日は困らせないでおいてあげたい気分だから」
そう言って、シーダーはハルの肩に頭を預けた。
甘く清々しいシーダーの香りがハルの鼻腔をくすぐって、胸の高鳴りが激しさを増した。
「ハルの心臓、すごくドキドキしてるのが聞こえる」
シーダーはそれだけ言うと口をつぐんだ。
そして、ハルの腕にも押し当てられたシーダーの胸から熱い鼓動が感じられていた。
それ以上は何も言わず、二人は森を抜け、村へと戻る道を歩いて行った。
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