7.リャナンシー
十一月。
深まった秋も過ぎ行きて、冬の冷たい風に枯れ葉が舞い散る頃。
ハイランドの田舎の風景なればこそか、辺りを見渡せば、森の木々や荒野の移り変わりにも、冬の色合いをより強く感じる。
大都市のグラスゴーから引っ越して来た十三才のハル・コネリーにとって、インヴァネスから列車で二時間のこの美しい小さな村クィルグラスで過ごす最初の冬がやって来ていた。
スコットランド人の父と日本人の母の間に生まれたハルは、東洋系の黒髪とエキゾチックな容貌を受け継いでいるが、小柄で童顔なせいで、まだまだかわいらしい印象の方が先に立ってしまう。
ただし、女の子のような綺麗な顔立ちで、物腰も穏やかで柔らかく、都会育ちのせいで立ち居振る舞いや雰囲気も、やんちゃな田舎の少年達とは一線を画した所もあって、同じ年頃の女の子達からは人気のある方だった。
母の病死によって、仕事で家を空けがちな父の元ではなく、この村に住む叔母の世話になる事となったハルだが、田舎の牧歌的な空気は都会のそれよりもずっと性に合っているようだった。叔母のフィオナは何かとハルを気遣ってよく面倒を見てくれるし、良い友人とも巡り会う事ができて、新しい環境でのハルの暮らしは充実したものになっていた。
土曜の午後、村の外の荒野を散歩して目に入る風景は、秋咲きのヒースも盛りを過ぎて寂しくなってしまったが、その寂寥感も風情があって美しいものに感じられた。
「ねえ、ハルは何か変わった事に気が付かない?」
隣を歩く少女が問いかける。
ハルよりも一つ年下のシーダー・キーンは見事な赤毛と大きな緑色の瞳ときめの細かい肌を持つかわいらしい少女だ。広い額は生え際のラインが整っており、鮮やかな人参色の髪と白い肌とのコントラストが美しい。少しつり上がり気味の目は、勝ち気でおてんばそうな印象を与え──事実、かなりのおてんばだが──、それがまた彼女の魅力でもあった。
今日のシーダーはお気に入りのジャンパースカートとブラウスの上に、寒さが強くなってきているせいで、ケープを一枚羽織っていた。ハルもゆったりしたバルキーセーターを着ており、小柄な体が大きめのセーターに埋もれるような姿がかわいらしい。
「何か、って?」
シーダーの問いに、ハルは小首を傾げて聞き返した。
「ちょっとね、あんまり良くないものがうろついてる気配がするのよ。多分、
と、シーダーは眉間に皺を寄せた。
シーダー・キーンは魔女だ。正確には魔女見習いだ。
キーン家は代々魔女の家系なのだと言う。
魔女と言っても、薬草などの知識を活かし、古来より民間医療に携わってきた、いわゆる『村の賢女』と呼ばれる存在──というのは表向き。その実、本物の魔術に通じ、箒に乗って杖を振る正真正銘の魔女でもあった。
シーダーが通う学校も、村の外の全寮制私立学校という事になっているが、実際の所は魔女になるための秘密の魔法学校らしく、目下、その学校で勉強中という事だ。
当然、それは公然にはできない事であり、秘密を知る者は限られている。ハルはその数少ない一人だ。
「そうなの……?」
森と荒野と海岸に囲まれた田舎には、都会からは失われた妖精と民話の風景が今も息づいている。
この村にやって来てから、ほんの数ヶ月の間にハルは何度も妖精や幽霊と出会い、そして、小さな魔女見習いにも出会った。
「不安そうな顔をしているわね」
シーダーがからかうように言った。
「でも、心配しないでいいわ。ハルに悪さをするような奴は私が絶対に許さないもの。みんな追っ払ってあげるわ」
そう言って、シーダーはポケットから革紐を通した平たい石を取り出して、ハルの首にかけた。
「これは?」
すべすべした板状の丸い石の中心にはドーナツのように穴があいており、そこに革紐を通していた。
「変な石でしょ? これはね、自然に穴があいた石。長い間、水滴がずうっと落ち続けて、少しずつ削られて、とうとう穴が貫通した物なの。すごく珍しいのよ」
シーダーは少し得意げに言った。
「妖精避けのお守りなの。ハルにあげるわ」
「……いいの?」
「もちろん。ハルにあげるつもりで持ってきたんだもの」
シーダーが少し艶っぽい視線を向けた。
「本当は私がずうっと一緒についていてあげたいんだけど。私だと思って、肌身離さず大事にしてね」
「えっ……」
すり寄るようにするシーダーの態度に、ハルは思わず頬を赤らめた。
「何、赤くなってるの? やーらしっ」
そう言ってからかうシーダーも、ほのかに頬を染めて嬉しそうな笑みが零れていた。
§
「こんにちは」
平日の夕方。
緯度の高いこの国では、冬は三時を過ぎればもう太陽が沈んでいき、辺りはすっかり夜の風景になっていた。
村の外の
いつの間にこんなに近くにいたのか気付かないまま、隣に並んで屈み込む若く美しい女の姿があった。
年齢ははっきりとはわからないが、二十才を超えているようには見えない。金褐色の髪と雪のような肌、薔薇色の頬に深いスミレ色の瞳。淡い緑色のロングワンピースに濃いベルベットのクロークは、時代遅れを通り越して骨董品のようなデザインだが、女のどこか浮世離れした雰囲気にはよく似合っていた。
「あの……」
「お散歩かしら?」
「ええ……」
ハルは気圧されたように頷いた。
森や荒野を巡るのは、ハルのお気に入りの散歩コースだ。日々、移り変わっていく美しい風景を目にするのが、この村に引っ越してきてからの大きな楽しみの一つだった。
「あなた、名前は?」
「あ、はい。ハル・コネリーです。あの、あなたは……?」
問われるままに答えたハルに問い返されて、女は考え込むように小首を傾げ、しばらく間を置いてから、
「ホーソン」
と、答えた。
少なくとも、村の住人ではない。ハルの胸の内に警戒心が湧き上がる。
「そんなに怖がらないで。私、怖い?」
「あ、いえ」
小首を傾げたホーソンの茶目っ気のある笑顔につられて、ハルは首を横に振った。
「うふふ。よかった」
頬を綻ばせて隣に腰を下ろすホーソンからは、名前の通り、季節外れの
「この辺りは綺麗ね」
ホーソンはぐるりと周りを見渡して言った。
「荒野は美しいわね。いつでもその時それぞれの美しさがあるの。
冬の訪れた荒野に咲く花はなく、ただ、冷たい風に揺さぶられる下生えばかりが広がるのみだが、ハルはその風景を決して醜いとは思わなかった。
「ええ」
と、ハルは頷いた。
「ふふ。少し寂しい景色だけどね」
ホーソンはそう付け加えて微笑んで見せ、つられてハルの頬もゆるんだ。
「でも、やっぱり春の荒野の方が綺麗よね」
同意を求めるようにホーソンが視線を向けると、ハルは困ったように少し肩をすくめた。
「えっと、僕は八月の末に引っ越して来たので、この辺りの春の景色は見た事がないんです」
「そうなの? それはもったいないわ」
ホーソンは芝居がかって大仰に驚きの声を上げて見せたが、そんな仕種にまた愛嬌があった。
「春の荒野はそれはそれは美しいものよ。松雪草が雪間に花をつけて、小川の岸に
どこか夢見るような瞳で朗らかに笑顔を綻ばせるホーソンは、色香の中にも童女のような無邪気さを感じさせる。しかし、無邪気なだけでなく、力強さのようなものも感じる。それは、ショーケースに飾られる精緻な宝石細工の輝きではなく、吹き荒ぶ風の中で凛と咲き誇る野生の花の美しさだ。
荒野の美しさを楽しそうに語るホーソンの姿を見ているうちに、ハルの警戒心も薄れて話に引き込まれていた。
ホーソンは色々な季節の荒野や森や海辺の話を聞かせてくれて、その美しい風景がハルの目の前にも浮かぶようだった。
「十一月の季節は一番つまらない、なんて言うけれど、そんな事はないわ。毎日、毎日、季節は変わって、一日だって同じ風景はなくて、毎日にそれぞれの美しさがあるの。それに気付かないのはもったいない事よ」
「ええ、きっと、そうですね」
昨日よりも今日の蕾はふくらんでいるかも知れない。今日の花は明日はしおれるかも知れない。葉の色づきも枝の姿も、ほんのわずかではあっても、毎日、移り変わっていくものだろう。
そんな小さな変化を美しいと語るホーソンを、ハルは好ましく感じた。
「ハル」
不意にホーソンがハルを覗き込むようにして、柔らかい笑みを浮かべた。
「ハルもそんな風に感じられるのね。枯れ枝の広がる荒野を見ても、そこに美しさを見いだせるのでしょう? それはとても素敵な事だわ。ハルは芸術家の魂を持っているのね」
「いえ、そんな……。僕はそういうのは全然できないですよ……」
飛躍した話に、ハルは途惑って言葉を詰まらせた。
「いいえ。あなたの繊細な感性は、とても優れた才能よ。自分の感じるものを何かの形で表現してみたらいいわ。詩でも絵でも音楽でも、何か試してみたら、きっと素敵なものが生まれてくるはずよ」
「そう……でしょうか?」
熱っぽく語るホーソンの勢いに圧されながらも、褒められているような話には、ハルも悪い気はしなかった。
「でも、僕はそんな、芸術とかそういうのは、ちっともわからないですよ。絵とか楽器とか、全然やった事ないですし」
「大丈夫よ。きっと、できるわ。道具を使う事に自信がなければ、心に感じるものを言葉にするだけでもいいの」
尻込みするハルに、ホーソンはぐっと身を乗り出して顔を近付けた。ほとんど息もかからんばかりに迫るホーソンの美貌にどきりとさせられて、思わずかあっと頬が熱くなった。
「──私がついているわ」
山査子の香りがする吐息が耳を撫でた。吐息だけではない。髪から、襟元から、山査子の良い香りが立ち上って、ハルの鼻腔をくすぐるほどに、意識がぼやけていくような気がした。
「私があなたの才能を伸ばしてあげるわ。詩でも絵画でも音楽でも、あなたの望む方法で思いを伝えられるようにしてあげる。とびきりの霊感をあげるわ。だから──」
甘くささやくホーソンの唇が耳朶にふれた。
「私を愛して」
甘くとろける蜜のような言葉が耳の奥へ流れ込んだ。
「才能と霊感をあなたにあげるわ。だから、あなたの愛と命を私にちょうだい」
ホーソンの言葉が、山査子の香りが、ハルの心と体を包み込んで捕らえていく。意識にかかる靄が強くなり、身じろぎをしようという思いさえ鈍っていく。ただ、ホーソンの言葉と香りだけしか感じられなくなっていった。
「愛しい愛しいあなた、どうか私のものになって。そうしてくれたなら、私もあなたのものになるわ。あなたの命が尽きるまで、あなたに尽くして愛してあげる。私のすべてがあなたのものよ。ねえ、いいでしょう?」
「──うん」
ホーソンの指が、頷きかけたハルの胸元をまさぐるように伸びて、そこにふれた途端、絡みつくような空気に鋭い衝撃が走った。
「──ひっ!」
短く悲鳴を上げたホーソンは指を引っ込めると同時に、ハルの体をはねのけた。
「わっ! ……え?」
突き飛ばされて荒野に転がったハルが体を起こして振り返ると、そこに緑衣の美女の姿は見当たらなかった。
「え……、何……?」
辺りを見回せども、ホーソンの姿は影も形もなかった。ただ、それが夢や幻ではない事を示すように、ホーソンが座っていた辺りの草には、確かに誰かが座っていたへこみが残っており、この季節には咲くはずもない山査子の香りが微かに漂っていた。
「いったい……」
途惑い首を傾げるハルは、無意識に首に提げた穴のあいた石──シーダーのくれたお守りを握り締めていた。
§
その週末。
風の強い日だった。暗い灰色の空の下、吹き荒ぶ冷たい風は枯れ枝と草とをなぶるように揺さぶりかき乱し、亡霊が咽び泣くような声を荒野に渡らせる。
そんな風の中、一人の小さな魔女が湿った草を踏み締めてたたずんでいた。
濃紺のローブと三角帽子の出で立ちで胸を張り、凛々しく引き締めた表情は、猛獣すらたじろがせそうなほどの気迫を放っていた。
静かにたたずんでいるようでいて、シーダー・キーンは激怒していた。彼女の人生において、これほどの怒りを感じたのは初めてであり、怒りというものはあまりにも度が過ぎると却って冷静になる事もあるのだと新たな発見をした。
「隠れても無駄。I can see thou!」
シーダーの目には、普通の人間の目には映らないものが見えており、眼前には背を丸めて怯える緑衣の女の姿があった。
「リャナンシー、男をたぶらかす性悪妖精。キーン家の女が守る土地で悪さを働こうだなんて、まったく、ふざけた了見だわ」
シーダーが沸々と怒りをたぎらせて吐き捨てる言葉に、リャナンシー──ハルの前ではホーソンと名乗った妖精が、びくりと身を震わせた。
「でも、そんな事より、よりにもよって私のハルに手を出そうだなんて、とんでもない真似をしでかしてくれたじゃない」
凄惨な笑みがシーダーの口元を歪める。とても十二才の少女とは思えない迫力は、殺気が目に見えるかと思うほどだった。
ひっ、とかすれるような息を吐いたリャナンシーは、踵を返して一目散に逃げ出そうとするが、シーダーは落ち着き払って手にした短い杖を一振りした。
「Chain of Jack in Iron!」
地面を突き破って飛び出した鉄鎖がリャナンシーの足に絡みつき、荒野に引き倒して縛りつけた。リャナンシーは悲鳴を上げて身をよじり、足に絡みつく戒めを解こうと手を伸ばして、鉄鎖にふれてまた悲鳴を上げた。
「こたえるでしょう? あんた達の大嫌いな冷たい鉄だもんね」
妖精は鉄を嫌う。そう言い伝えにあるように、鉄という金属は多くの妖精にとって忌避する物質だ。その鉄の鎖を巻き付けられたリャナンシーの足は、白い肌が火ぶくれのように爛れていた。
「ふふん。それじゃあ、もっとたっぷりご馳走してあげよっか? Manticore's tail!」
シーダーの杖が空中に描いた軌跡に沿って無数の鈍い光が生じる。光は指ほどもある太い鉄針に姿を変えて宙に留まり、術者の合図一つで射ち出される瞬間を待ち受ける、その数は優に数十本。
リャナンシーの顔が絶望に青褪めた。冷たい鉄の針、一本でも刺されれば重傷だ。それを数十も突き刺されれば命はあるまい。
命乞いをしようと口を開きかけたリャナンシーを、シーダーの冷たい瞳が射すくめた。
「手を出した相手が悪かったわね。ううん、悪かった、なんてものじゃないわ。最悪よ。後悔し尽せないくらい後悔しなさい。Take that, you cutty sark!」
シーダーが掲げた杖を降り下ろす。
鉄針がなす
──そして、静寂。
地面には、リャナンシーの姿を縁取るように、綺麗にその体を避けて鉄針が打ち込まれ、その中心では泥まみれのリャナンシーが縮こまって震えていた。
「たっぷり怖い思いした?」
言いながらシーダーが杖をもう一振りすると、リャナンシーの足に絡みついていた鎖が、陽射しを浴びた薄氷が溶けるように消えた。
「誓いなさい! 古き神々の名にかけて、王と女王の名にかけて! キーンの魔女の血が絶えない限り、キーンの魔女が守る地には決して足を踏み入れない、キーンの魔女が守る地に住む者には決して手を出さない、って!」
戒めを解かれたリャナンシーは、ガクガク震えながら誓うとの答えを口にした。
「いいわ。さあ! 早く行っちゃいなさい! でないと、私の気が変わって、今度は本当にハリネズミみたいにしてあげるわよ!」
シーダーの怒鳴り声に飛び上がったリャナンシーは、大慌てでその姿を消した。
妖精は一度口にした約束は決して破らない。この村にシーダーやその母や祖母、将来はその娘や孫がいる限り、あのリャナンシーが再びこの地に現れる事はないだろう。
「まったく、もうっ! リャナンシーがハルに手を出すだなんて、油断も隙もないわね! モード・コリンズの百倍も危ないわ!」
ふう、と大きく息を吐き出したシーダーは、肩を怒らせて頬をふくらませた。
「さぁて、泥棒猫の方は片付いたから、今度は──」
にやり、とシーダーの頬が不敵に歪んだ。
「他の女なんかにデレデレしたハルにお仕置きをしてあげなくちゃいけないわね!」
先ほどまでの不機嫌ぶりもどこへやら。荒野を渡る冷たい風も、灰色の空を覆う雲も、吹き飛ばすような満面の笑みを花開かせるシーダーは、ハルへのお仕置きの計画を頭の中で練り始めていた。
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