1.ウィル・オ・ザ・ウィスプ

「シーダー・キーン? ああ、魔女の家の末っ子だろ」

 ハルにその名を問われたイアン・スチュワートは、教室の席に腰を下ろしながら事もなげに答えた。

 この村に来てからできた同い年の友人イアンは、黙ってさえいればブロンドに青い目のハンサムな少年だ。ただ、やんちゃな悪ガキ的な性根がまるで抜けない子供っぽさと、やや軽薄なきらいがあるのだが、快活で気さくな所は大きな美点だ。

「魔女だって?」

「そうとも! キーン家は代々魔女の家系なんだぜ。何だよ、ハル? お前、シーダーなんかにちょっかい出したのか? おっかねえぞ。怒らせたら呪われてカエルにされちまうかもな」

「何を言ってるのよ、馬鹿らしい」

 おどけるイアンの言葉を凛とした声がぴしゃりと遮った。

 隣の席のモード・コリンズは生真面目な少女だ。猫っ毛のブルネットは両サイドを後ろで清楚にまとめ、メタルフレームの眼鏡の奥には薄紫色の瞳が理知的な光がたたえられている。髪の色に比べて随分と薄い目の色の取り合わせが神秘的な雰囲気の魅力を醸し出すのだが、つんと澄まして取りつく島もない冷たい態度のせいで台なしになっているのがもったいない。

「確かにキーン家は『魔女』の家系だけど、いわゆる『村の賢女』というものよ」

「えっと……?」

「何?」

 揃って首を傾げるハルとイアンに、モードは深々と溜め息を吐いた。

「いい? 昔から魔女って言われていた女性達っていうのは、大抵は薬草類を使った民間治療の知識と技術を持っていて、村人のための医師や薬剤師や助産婦の役割を果たしてきた人達なの。それが『賢女』よ。昔の普通の人達からすれば、特別な力を持っているように見えたから『魔女』なんて言われたんでしょうけれど、別に不思議な事じゃないの。立派な職業の人達よ。胡散臭いものみたいに言うのは失礼だわ」

「あーあ、またモード先生のお説教かよ」

「何ですって!」

 イアンがうんざりしたように嫌味を零すものだから、モードがかっとなって眉を吊り上げた。

「うひゃ、おっかね。そうそう、ハル、そんで、シーダー・キーンがどうかしたって?」

 モードの剣幕から逃げるようにイアンが話を戻した。

「えっと、土曜の晩に会ったんだんだけど、知らない子だったから」

「そういえば、週末に帰ってきてたみたいだったけど。そっか、ハルが引っ越してきてからは初めて帰ってきたのね、あの子」

 と、切り替わった話の方にモードが口を挟んだ。

「シーダーはね、全寮制の私立に行ってるの。たまに週末に帰ってくる事はあるけれど、日曜のうちには学校に戻っちゃうから、長い休みでもないと、なかなか会う機会がないのよ。夏の休みにはこっちにいたんだけど、新学期から越してきたハルとは入れ違いになっちゃったのね。

 キーン家の姉妹はみんな頭が良くて、上の二人も同じ私立だったわ。シーダーは一つ年下だけど、私よりずっと勉強のできる子よ」

 優等生のモードが太鼓判を押すのだから、シーダーの学力は相当なものなのだろう。ただ、モードも学力に関してはキーン姉妹に引けを取らない才女なのだが、ほとんどの子供がそうであるように、また、ハルやイアンと同じく、学費無料の公立校に通っている。

「まあ……、ちょっとおてんばだけどね。別に箒に乗って空を飛んだりはしないわよ」

 モードはそう言って苦笑いを付け加えた。

 まさに箒に乗って空を飛ぶのを見たのだけれど、とはハルも言えなかった。

「おてんばなんてもんじゃないだろ、あれは。何だよ、ハルはああいうのが好みな訳? 尻に敷かれるぜ」

「ち、違うよ、そんなんじゃ……」

「そうよ! 何、くだらない事を言ってるのよ!」

 イアンの軽口にハルはどきりとしてうろたえたが、それ以上にモードが激しく怒気をあらわにした。

「な……、何でモードが怒るんだよ」

「何でって……、別に、くだらない事を言ってハルを困らせるからでしょ!」

 気圧されたイアンがたじろぎながらも文句を吐くと、モードは真っ赤になってそっぽを向いた。

「そんな怒るような事かよ……」

 モードが赤くなった理由を読み取れないイアンが肩をすくめたが、それは当のハルも同じだった。

「それよりだ、ハル、面白い噂を聞いたんだけどさ」

 と、イアンがぐっとハルの方に身を乗り出した。

「噂?」

「ああ。北側の森の方でさ、出るんだってよ」

「出る? 何が?」

「幽霊」

 イアンがにんまりと笑って言うと、そっぽを向いたままのモードが「馬鹿らしい」と小さく呟いた。

「ロッドとショーンが見たらしいぜ。丸い光がふわふわ浮いてたんだってさ──」

 胡散臭い噂話を熱心に語るイアンの様子に、モードは冷たい視線をちらりと向けて馬鹿にしたように鼻を鳴らしたが、イアンの方も完全にモードを無視して、ハルに向かって話し続けた。

「──って訳でさ、探しに行ってみようぜ、幽霊」

「いいけど、いつ?」

 イアンの話は確かに胡散臭く当てになりそうにもないが、ハルも子供っぽい探求心をそそられるのは否めなかった。

「それがさ、今週は金曜まではずっと店の手伝いやらされて、夜は抜け出せそうにないんだ。親父の釣り竿を勝手に持ち出して折っちゃったから、もうカンカンでさぁ。参ったよ。土曜には何とか解放してもらえそうだからさ、そこでどうだ?」

「うん。オッケー」

「よし、決まりだ!」

 ハルが快諾すると、イアンはいかにも悪童めいた含み笑いを浮かべた。

「ちょっと! あの辺りの奥には沼が多いから、夜なんかにふらふらしてたら危ないわよ」

 眉根に皺を寄せたモードが鋭く叱声を飛ばした。

「うっさいな。関係ないだろ」

 邪険に振り払うイアンとモードの間に険悪な空気が張り詰めかけた瞬間、ドアを開く音が割って入った。

「おはよう、みんな」

 国語の教師を勤める、ハルの叔母でもあるフィオナ・コネリーの姿が教室に入ってきた事で、イアンとモードの衝突は未遂のまま棚上げとなった。


§


 そして、土曜日の晩。

 村の外れから森へ向かうハルとイアンに加えて、モードまで一緒にくっついてきていた。

「何でモードまでいるんだよ!」

「あなた達だけで放っておいたら危ないからよ」

「うっさいな。邪魔だから帰れよ」

「あら? そんな風に言っていいの? 帰ってもいいけれど、その代わり、スチュワートおじさんとコネリー先生に全部話しちゃうわよ」

「ぐ……」

 モードの冷たい一刺しで、イアンは言葉を詰まらせた。ようやくお仕置きが解けたばかりだというのに、すぐに悪さをしでかしたと知られれば、今度はどれだけ父親に絞られるかわかったものではない。ハルも叔母のフィオナを心配させるのは本意ではない。フィオナはイアンの父のように激しく叱ったりはしないが、子供が問題を起こすと実に悲しそうな顔をする。そんな顔を見るのはハルも苦手だった。

「仕方ないよ。モード、一緒に連れてけば黙っててくれるんだよね?」

「ええ。それで、悪ささえしなければね」

「わかったよ! くっそう!」

 ハルの言葉にモードが頷くと、イアンは渋々承諾して苛立たしげに石ころを蹴飛ばした。


 薄曇りの夜の森は暗く静かで、三人が下生えを踏み締める足音がよく響いた。

 とは言え、他に音がないという事はない。

 風に揺さぶられる葉ずれのざわめき。フクロウの鳴き声。虫の羽音。すぐ近くでカエルの鳴き声が響くと、モードがびくっと身を震わせた。

「何? びびってる?」

 先頭でライトを持つイアンがからかうように言うと、モードはきっと眉を吊り上げた。

「怖くなんてないわよ! ただ……、ちょっと驚いただけよ!」

「ふうん。まあ、いいけどね」

 イアンはモードの反論を流して、にやにや笑いを浮かべた。

「それより、足下に気をつけなさいよね。沼地が近いから地面がぬかるんで危ないわよ。ああ、靴がぐしゃぐしゃ」

 踏み締めると水が染み出す地面は足にまとわりついて靴を泥だらけにしていた。粘つく泥で歩きづらく、ともすればつまずきそうになる。

「それに、霧も出てきて周りもよく見えないし、はぐれて迷ったら大変よ。ハルも気をつけて──、ハル?」

 モードが振り返ると、そこにしんがりを歩いていたはずのハルの姿はなかった。


 気が付けば先を行くイアンとモードの姿を見失っていた。

 ハルが友人達の名前を呼んでも答える声はなく、進むほどに立ち込める霧は深くなり、すぐ目の前も見えないくらい。ぬかるんだ泥に足を取られてよろめく度に、木の幹に頭やら肩やらをゴツゴツぶつけた。

「困ったなぁ……」

 ぶつけた頭をさすりながら一人呟いてはみても、良い方策が浮かぶでもなく、懐中電灯トーチの光もどこか心許ない。途方に暮れて、心細さに溜め息が洩れた。

 ぬかるみに沈む靴が水を吸って靴下まで染み込み、不快感と疲労を募らせていく。進まない足を引きずって歩くうち、ふと、前の方に光が見えた。

「あ……」

 思わず安堵の声が洩れた。

「イアン! モード!」

 はぐれた二人の持つ灯りかも知れない。そう思って声を張り上げるが、答えは返らず、遠くにゆらゆらと光が揺らめくばかり。ハルは光の方へ足を踏み出そうとして──、

「駄目よ」

 と背後からささやく声と共に、手をつかんで引き留められた。

「あれについて行ったら──、死ぬわよ」

 甘い声質ながらも低く絞った真剣な響きと、細くて華奢な指の感触に振り返れば、そこには三角帽子と濃紺のローブ姿の小さな赤毛の魔女の姿があった。

「シーダー……」

「『燠火のウィルウィル・オ・ザ・ウィスプ』がうろついてる辺りをふらふらしてるなんて、命知らずね」

 シーダーは子供を諭すような口振りで言って、わざとらしく肩をすくめた。

「鍛冶屋のウィリアムは口の巧いろくでなしで、死んだ後、死者の行き先を審判する聖者を言いくるめて生き返っちゃったの。でも、生き返ってもやっぱりろくでなしのまんまで悪さばかりしていたもんだから、二回目に死んだ後は天国からも地獄からも受け入れ拒否で行き場がなくなっちゃったのよ。それ以来、ウィリアムは悪魔にもらった地獄の石炭ひとかけを灯りにして、行く当てもなく永遠にさまよい続ける亡霊になっちゃったって訳。それがウィル・オ・ザ・ウィスプ」

 シーダーの手はハルの手を握ったままで、なめらかな肌ざわりと温かさに、ハルは何だか緊張して息苦しさを感じた。

「『愚者の火イグニス・ファトゥス』、『角燈のジャックジャック・オー・ランタン』、『燃える尾のジルジル・バーント・テイル』、そんな風に呼ばれるのは、みんな、行き場をなくしてさまよう魂の成れの果て。あんな寂しい光になって、生きた人間を沼に誘い込んで溺れ死にさせたりするから、絶対について行っちゃ駄目。──聞いてる?」

「えっ? う、うん」

 シーダーが首を傾げて顔を覗き込むと、うわの空だったハルは慌てて頷いた。

「でも、大丈夫。追っ払ってやったから当分は寄りつかないわ。そのうちまた出て来るかもしれないけど。ああやって、煉獄と現世を行ったり来たりして、ずうっとさまよい続けるのよ。永遠に、ね」

 ハルとシーダーの視線の先で、霧にぼやける鬼火が小さくなっていき、やがて、完全に見えなくなった。

「何だか……、ちょっとかわいそうだね」

「……呑気な事を言うのね」

 ぼそりと呟いたハルに、シーダーは呆れたように言ってから、くすりと笑った。

「ふふ。ハルは優しいんだ。かわいい」

「え……」

 シーダーにからかわれて、ハルの頬がかあっと熱くなった。

「さ、迷っちゃったんでしょ? 私が連れてってあげるから。行こっ」

「……うん。あ、イアンとモードがいるはずなんだけど」

「大丈夫。ちゃんと見つけてあげる」

 先に立ったシーダーがすっと足を進める。

「待って。泥がぬかるんで、足が……」

 泥に沈んだ足がもつれてハルがよろめいた。

「危ない。ほら、ちゃんとつかまって」

 シーダーの手がハルの手を握り直して、ぎゅっと力を込めた。

「もう、しょうがないわね。しっかり握っててね」

 シーダーがぐっと手を引っ張ると、ハルの足が泥から抜けて、地面を踏まずにその場に立った。

「えっ……?」

 違和感に足下へ視線を落とせば、ハルの泥まみれの靴は地面すれすれを浮いていた。そして、向かい合うシーダーの靴は泥染み一つないまま、同じく宙に浮いていた。

「靴が汚れなくていいでしょ? ハルのは手遅れだけど」

 悪戯っぽく微笑むシーダーの小憎らしい目つきは十二才の少女とは思えないくらいに艶っぽく、ハルの胸にズキンと大きな振動を響かせた。

「さ。ホントにちゃんとつかんでないと駄目だからね。離したら落っこっちゃうわよ」

 ぐいとシーダーが手を引く勢いのままにハルも足を踏み出すと、地に着かない足が宙を踏んで進んだ。

「わ……」

 思わず感嘆の声が洩れた。

「楽しいでしょ?」

「うん。……すごいね」

 ハルの素直な反応にシーダーが笑みを返した。

「じゃあ、ちょっとサービス。ほら、下見て」

「え? わっ!」

 言われるままに下を見ると、シーダーに手を引かれて歩くままに進むうち、いつの間にか二人は沼の真上に立っていた。水面の上に足を着けずにたたずむ姿は、自分達のものながら驚嘆せざるを得なかった。

「どう?」

「すごい……。すごいね……」

 ただ呆然と感嘆の言葉を繰り返すハルの様子を見て、シーダーは再び瞳に妖しげな輝きを宿らせた。

「この沼って、かなり深いのよね。私達くらいの背じゃ足が届かないくらい」

「うん?」

「しかも、底はドロドロだから、はまったら足なんて抜けなくなっちゃうのよね」

「……えっと?」

「私が手を離したらどうなると思う?」

「……っ!」

 ハルの頬が引きつって凍りついた。

「ねえ、ハルって泳ぎは得意?」

「じょ、冗談だよね?」

「うふふ。どう思う?」

 すうっと目を細めたシーダーの笑顔は、冗談と笑い飛ばすには迫力がありすぎて、ハルはシーダーの手をすがりつくように強く握り締めた。

「そんなに必死にしがみついて、ハル、捨て犬みたいな目をしてるわ。ふふ。かわいい」

「ええっ!?」

 動揺したハルは思わず後ずさりかけて、シーダーの手を離せば沼に落ちる事を思い出し、慌てて姿勢を元に戻そうとしたせいでバランスを崩した。

「わっ、積極的」

「ご、ごめん!」

 何とか踏み留まろうとしたハルは、シーダーに抱きつく格好になっていた。シーダーの首筋からはすうっとするような清々しい香りがした。

 ハルが真っ赤になる一方、シーダーはほんのり頬を染めながらも、まだまだ余裕の様子だった。

「大胆なのも悪い気はしないけど、時と場合は選んだ方がいいんじゃない? それに、女の子の匂いをくんくん嗅ぐなんて変態っぽいわ。やーらしっ」

「えっと……、ごめん、そんなつもりじゃ……」

「また、そんな風にまごまごするんだから。ハルってホントにかわいいわ」

「………………」

 しきりに『かわいい』を連呼されて、ハルは情けないような、照れ臭いような気持ちで口をつぐんだ。

「さあ」

「……うん」

 もう一度、ハルとシーダーは手を握り直して、水面を歩き出した。

 沼を渡り終え、徐々に霧が晴れていくと、行く手に小さく光が見えた。一瞬、先の鬼火を思い出してびくりとしたハルの手を、シーダーが少し強めに握った。

「懐中電灯(トーチ)の光よ。向こうも気付いたみたい」

 言いながらシーダーがすっと手を離すと、ハルの足が柔らかい地面に着いた。足下は湿っぽくはあるが、ぬかるんで沈み込むほどではない。

「ハル! ハル、いるの?」

「おーい! ハル! ハルか!?」

 ハルの持つ灯りを見つけたモードとイアンの叫び声が届いた。

「イアン! モード! こっちだよ!」

 答えてハルも足を速めた。

 駆け寄って互いの姿が見えるようになると、ハルはあまりの惨状に目をむいた。

「イアン……、何、それ……?」

「選りにも選って、ぬかるみの真ん中に飛び込んだのよ。馬鹿みたい」

 イアンの代わりに答えたモードが不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「飛び込んだ訳じゃねえよ! ちょっとつまずいたら、たまたま泥の中でさ……」

 全身を泥まみれにしたイアンは頭から足先まで真っ黒で、辛うじて泥を拭った顔だけが見えているような有様だった。モードも巻き添えを食ったらしく、派手に跳ね上げられた泥飛沫の汚れが服にべったりと染みを作っており、どうやら、不機嫌の原因はこれのようだ。

「ハル、心配したぜ。いつの間にかはぐれていなくなっちゃってたからさ。大丈夫だったか?」

「うん。迷っちゃったんだけど、シーダーに会って──、あれ? シーダー?」

 ハルが振り返ると、今まで一緒にいたはずの小さな魔女の姿はどこにもなかった。

「シーダー・キーンがいたの?」

 首を傾げるモードの眉間で縦皺が深くなった。

「うん……。今までいたんだけど……」

 忽然と姿を消したシーダーとは、結局、その夜の森では再会する事はなかった。

 そして、帰宅したハルを待っていたのは、悲しげにじっと見つめながら切々と訴えるようなフィオナの説教であり、激しく叱られるのではないのが却って胸にこたえた。

 ちなみに、イアンを待っていたのは父の拳骨と夜通し続く説教であり、軽い注意程度のお咎めで解放されたモードとの差は、日頃の素行の違いとしか言い様がなかった。

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