2.ムア

 フィオナ・コネリーはインヴァネスの大学を卒業後、故郷の村で中学校の国語教師になった。今年で二十七才になるのだが、いまだに大人の威厳には縁遠く、それどころか、少女のようなかわいらしさが抜けきらない。

 柔らかな茶色の髪。大人しめのデザインのプラスチックフレームの奥には、たれ気味のヘイゼルグリーンの瞳。いかにも穏和そうな雰囲気で、おっとりした印象を与えるが、実際、のんびりしていてせかせかするのは苦手だ。兄の家があるグラスゴーのような都会のにぎやかさよりも、静かな田舎の方がほっとする。

 そんな呑気な性格のせいで、恋愛にもひどく奥手だ。最後に付き合った学生時代の恋人がフィオナをふってレザージャケットがよく似合うブロンド娘と一緒にロンドンへ行ってしまった後は、別に前の相手に何の未練がある訳でもないのだが、新しい恋人もできないまま今に至っている。決してフィオナが不器量だとか性格に難があるだとかいう事はないのだが、兎にも角にものんびりしているのだ。

 呑気でお人好しなフィオナなので、特に悩みもせずに兄の息子を預かる事を引き受けたのだが、いざ、年頃の男の子一人の面倒を見るとなると、色々と気を遣う事も多かった。

 何年も教師をやっているので、子供の世話を焼くのもなれたつもりでいたのだが、教師として面倒を見るのと、母親代わりとして面倒を見るのとでは、まるっきり別物なのだ。

 はあ、と溜め息が一つ洩らしながら、フィオナは鍋の中身を焦がさないように火加減を調節しながら丁寧にかき回した。

 鍋の中では砂糖と一緒に煮詰めた小豆が甘い匂いを立ち上らせていた。日本生まれの義姉はフィオナにも故郷の料理を色々と教えてくれたが、中でも『餡子』という赤い豆で作るジャムはお気に入りの一つで、時折、こうして手間をかけている。

 昨晩、甥のハルが夜中に家を抜け出した。ハルが夜に散歩をするのはよくある事で、特に問題を起こした事もなかったのだが、昨夜は友人達と幽霊探しの探検に出かけていたとの事だ。

 仲の良い友人ができるのは大歓迎だし、子供らしい探検ごっこも元気があって良いだろう。しかし、昨夜の行き先の辺りは深い沼もあり、暗い夜中にうろつくには少し危ない。万一の事でもあればと心配になってしまう。

「心配しすぎかしら?」

 再び溜め息が洩れた。子育ての経験もないまま、急に十三才の子供ができたフィオナには、何かと気苦労が多かった。

 ──玄関で呼び鈴が鳴った。

「は~い」

 鍋の火を止めたフィオナが玄関に向かうと、扉の前には赤毛の少女の姿があった。

「こんにちは、コネリー先生」

「あら、シーダー」

 シーダー・キーンは十二才という年齢の割には、ぐっと大人びた所のある少女だ。歳の離れた姉がいた影響で少しませているのかも知れない。

 人参色の癖毛は太陽の下では燃えるように輝き、大きな緑色の瞳は宝石のようだ。白い肌に浮いたソバカスはきめの細かさの証し。背はまだ低いが、スタイルは将来有望そうな片鱗が見受けられる。シーダー・キーンは美しい少女だ。ストライプのブラウスとフリルで飾られた黒のジャンパースカートを重ねた服装もシックでかわいらしく、フィオナは自分の着古したコットンスカートとカーディガンの部屋着姿が少し恥ずかしく思えた。

「いい匂い。ビーンジャムですね」

 キッチンから漂う煮詰めた小豆と砂糖の香りに、シーダーが鼻をスンスン鳴らした。

「ええ。よく知ってるわね」

「バーチの大好物だったの。日本からの留学生の友達に教わったのにハマっちゃって、何にでもつけて食べてたんですよ」

 既に鬼籍の人になってしまった姉の名前を出してくすりと笑うシーダーの顔は、少し寂しそうにも見えた。

「そう……。出来上がったら持っていく?」

「いいんですか? ありがとうございます。私も好きなんです」

 礼儀正しくしながらも、甘い物に惹かれてふわっと笑う表情は、まだまだ子供っぽさを感じさせた。

「ああ、そう。ビーンジャムをせびりに来たんじゃなくて。ハル、います?」

「ハル? ええ。ハル~、降りてきて~」

 程なくしてフィオナに呼ばれたハルがパーカーとジーンズのラフな格好で二階の自室から降りてきて玄関に姿を見せた。

「フィオナ叔母さん、何か……、シーダー?」

 ハルの表情に驚きと、微かな緊張が走った。

「はぁい、ハル。コネリー先生、少しハルと話がしたいの。借りていってもいいですか?」

「ええ、もちろん……」

 フィオナは少し途惑いながら頷くと、「ビーンジャムは後でいただきに寄りますね」と言って、ハルを外へ連れ出していくシーダーの背を見送った。

「シーダー・キーンと……、いつの間に仲良くなったのかしら?」

 ハルは叔母の目から見ても、なかなか悪くない線を行っていると思う。まだ子供っぽいかわいらしさの方が目立つが、東洋の血が混ざったエキゾチックな風貌は魅力的で、もう何年かすればハンサムになるだろう。グラスゴー育ちなので都会で自然に磨かれたセンスもあるし、あのくらいの年頃の少年にありがちな乱暴ながさつさとも縁遠く、穏和で優しいものだから女の子達からの受けも良い。

 クラスにもハルを意識していると思しき女の子が何人かいる事にはフィオナも気付いていた。例えば、モード・コリンズもその一人のようだ。真面目な優等生のモードが昨夜のような探検ごっこに同行するなど考えられないのだが、きっと、ハルを気にかけての事だったのだろう。

「ガールフレンドができるのはいいけれど……」

 相手がシーダー・キーンでは、大人しいハルは尻に敷かれる事は間違いあるまい。否。相手がモード・コリンズであっても同じだろう。今の大人しいハルに、女の子をリードするような気の利いた真似ができるとは到底思えなかった。

「それよりも……、ハルはまだ十三なんだし……、進みすぎても困るわ……。深い仲なんかになっちゃったら、そんなの、いくら何でも早すぎるわよね……」

 勝手に妄想を加速させてハラハラするフィオナは、いつしかエプロンの端を握り締めて、家の中を落ち着かなそうにおろおろ歩き回っていた。

 こうして、フィオナの心配事がまた一つ増えたのだった。


§


 シーダーに連れられるまま、村の外へと足を向けると、目の前には遙か遠くまで続く荒野ムアが広がっていた。

「綺麗でしょ?」

 と、シーダーがにこりと笑った。

 ムア一面に生い茂る秋咲きのエリカヒースがピンク色の花を咲かせていた。満開はすぎてしまったようだが、荒涼とした風景を彩る花の絨毯は、シーダーの言うように確かに美しかった。

 シーダーはヒースの茂みの合間にちょこんと腰を下ろす。

 ピンク色の花に包まれて、シーダーのオレンジ色の髪が風に揺れた。

「何、ぼうっとしてるの? こっちに座って」

「あ、うん」

 ハルは促されるまま、シーダーの隣に腰を下ろした。

「ふふっ」

 目線の高さを合わせたシーダーがまた笑った。屈託のない笑顔にハルは胸の奥がざわつくのを感じた。

「えっと、それで、何か用?」

「あら? 用があるのはハルの方じゃないの?」

 シーダーが悪戯っぽい仕種で小首を傾げた。

「私に聞きたい事が色々とあるんじゃないかな、って思って」

「えっと……」

 咄嗟に答えられず言葉に詰まった。

 シーダーに初めて出会ったのが前の土曜の晩、二回目が昨夜、そして、今、こうして会っているのが三回目。呆気に取られるような事ばかりで、何を言えばいいのか急には考えの整理がつかなかった。

「じゃあ、私から話そっか?」

 ハルがまごまごしていると、シーダーから切り出した。

「最初に言った通り、私、魔女よ。まあ、まだ見習いだけど」

「ええと、モードは君が『村の賢女』の家系だって言ってたけど」

「それも正解。でも、本物の『魔女』でもあるのよ」

 そう言って、シーダーは二十センチほどの短い杖を取り出して見せた。

「キーン家は正真正銘の魔女の家系よ。代々、キーン家の女は魔女の才能を持って生まれてくるわ。そして、キーン家の伝統では、女にはみんな木の名前を付けて、自分の名前と同じ木でできた杖を使うのよ。だから、私のこの杖は杉材シーダー製なの。姉さんはバーチ七竈ローワン、ママはウィロウ、おばあちゃんはエルムよ」

「でも……」

「自分の目で見て、自分の身で体験して、それでも信じられない?」

「いや……」

「私の事、信じられる?」

「……うん」

 ハルは途惑いながらも、シーダーに自信満々な笑顔を向けられて、流されるように頷いた。

「えっと、その杖は、やっぱり魔法をかけるのに使うの?」

「うん。そうよ」

「この前と、昨夜のあの格好は?」

「あれだって、ただのコスプレじゃないのよ。魔力を集めて効果を高める特別製で、ちゃあんと意味があるの。

 それと、この前のドロワーズは寒かったから、たまたまだからね。普段はもっと大人っぽくて格好いい下着はいてるんだから。今日だってすごくかわいいのはいてるのよ。見る?」

「み、見ないよ!」

 シーダーがスカートの裾に手をかけたので、ハルは慌てて目を逸らした。

「えっと、魔女って、どうやってなるものなの?」

「まずは生まれつきの才能。魔女になる素質がないと駄目なの。私の家みたいに、魔女の血筋に生まれて、代々みんな魔女って感じかな。それで、専門の学校で勉強するのよ。中には独学だったり、お師匠様にマンツーマンで教わったり、特別なコミュニティで勉強したりする場合もあるけど、ほとんどは学校で習うわね」

「それじゃあ、もしかして、シーダーが通ってる学校っていうのも?」

「お察しの通り、ヒミツの魔法学校。残念ながらホグワーツじゃないし、クラスメイトにハリー・ポッターもいないけどね。

 ねえ、私、ハリーにはジニー・ウィーズリーよりもルーナ・ラヴグッドの方が似合うと思うんだけど、どうかな?」

「どうって言われても……」

 ハルは返事に困って肩をすくめた。

 ハルの問いにシーダーは淀みなく次々と答えていく。にわかには信じがたい事ばかりだが、シーダーの堂々とした態度でテンポ良く話す言葉は不思議と水を飲むように飲み下せた。シーダーの魔法を実際に目にしていたのでなければ、そうはいかなかっただろうが。

「ふふっ」

 シーダーは笑い声を零すと、ごろりとその場で横になった。

「ハルも。ごろんてしてみて」

 言われるまま、ハルも茂みに身を横たえると、咲き誇るヒースの香りが鼻腔をくすぐった。

「ヒースの匂いでいっぱいよね。落ち着かない?」

「……うん」

 答える言葉とは裏腹に、ハルは落ち着くどころかドキドキしていた。ヒースの花に埋もれて、自身も荒野に溶け込むようにして穏やかに微笑むシーダーは本当に愛らしく、まるでヒースの妖精のようだった。

 ──ただし、妖精というものは、得てして人間に厄介な悪戯をしかけては困らせるものでもあるが。

「ヒースって好き。ムアいっぱいに広がるのがとってもかわいいの。でも、ヒースの花言葉は嫌い。『孤独な想い』って言うの。そんなの、寂しくって嫌だわ」

 すねたように言うシーダーの表情が少しだけ曇った。

「私だったら、好きな人とはいつも気持ちでつながっていたいな。いつでもは一緒にいられなくても、遠くに離れていても、気持ちを近くに感じていられたら、そんな風なのに憧れるわね」

 かと思えば、次の瞬間には意味ありげに微笑んで見せた。言葉や表情や仕種をくるくる変えて、幼い無邪気な少女のようにも、ぐっと大人っぽい雰囲気にも見えるシーダーに翻弄されて、ハルは途惑うばかりだった。

「えっと、その、シーダーは……、シーダーが魔女っていう事は、やっぱり秘密なのかな?」

 ハルは動揺を誤魔化すように話を変えた。

「うん、そうよ。本物の魔女だなんてばれたら大騒ぎでしょ」

「じゃあ……、どうして僕に話したの?」

「そうねえ。ハルは信じられると思ったから。ハルに話してもいいと思ったから。ハルには私をちゃんと知っておいて欲しいって思ったから」

「……どういう事?」

 シーダーの言わんとする所が今一つよくわからず、ハルは首を傾げた。

「だって、ハルだって未来のお嫁さんの事は知っておきたいでしょ?」

「は?」

「ハルは私の旦那様になるんだもの」

「え……、えええっ!?」

 シーダーの衝撃的な発言に、ハルは飛び起きて叫び声を上げた。

「ちょ、ちょっと、待ってよ! 何! 何で? どういう事? 何でそうなるの?」

「やん。あたふたしてるハル、かわいい」

 ハルが慌てふためく様を、シーダーは寝転がったまま生温かく見つめた。

「だって……、その、からかわないでよ」

「からかってなんかいないわ。私、初めて会って一目でわかったもの。将来、この人と結婚するんだ、って」

 にこにこと笑っているが、シーダーの艶やかな瞳の色は真剣だった。

「ハルは私とじゃ嫌?」

「え……?」

「私の事、どう思う? 好き? 嫌い?」

「そ、そんなの、わかんないよ。シーダーとは会ったばっかりだし……」

「私にはわかるよ。ハルは私を好きになる」

 シーダーはきっぱりと断言した。

「キーン家の女はね、未来が見えるの。って言っても、力の強さも人によって全然違うけど。おばあちゃんは結構先まで見えたけど、すごく曖昧にしかわからなかった。バーチはかなり正確だけど、せいぜいわかるのは二、三秒先まで。ママとローワンは全然見えない。私は時間も精度もバラバラだし、コントロールもできない。すぐ後の事だったり、何年も先の事だったり。ぴったり当たったり、すごく曖昧でよくわかんなかったり。それも、見ようと思っても見られないの。急にふっと飛び込んでくるのよね」

 シーダーは自分も体を起こすと、ハルにぐっと顔を近付けた。

「ハルと初めて会った時、見えたわ」

「えっと……、何が?」

「知りたい? うふふ。ハル、すっごくかわいかった。あんなに夢中になって私に──」

 照れ臭そうに頬を赤らめたシーダーはハルの首に腕を回して、更に顔を近付けた。

「未来のハルが私に何て言ったか知りたい?」

 迫るシーダーの幼いながらも匂い立つ色香に、ハルの顔が真っ赤に染まった。

「嫌。教えてあげない」

 少し意地悪い声音で言うシーダーだが、反して表情はゆるんでしまっていた。

「一生懸命考えておいてね。プロポーズの言葉なんだから!」

 そう言って、シーダーはハルを地面に引き倒し、二人は再びヒースの薫る荒野に転がった。

「ハル! 私を見て! 私を知って! 早く私をちゃんと好きになって! 私、すごく楽しみにしてるの!」

 ヒースの花が咲き乱れる中、シーダーの満面の笑みがひときわ鮮やかに咲き誇った。

「私を好きになったら、ちゃんと『好き』って言うのよ。最初の『好き』はハルから言うの。私から先には言ってあげないからね」

 声を弾ませるシーダーは瞳をキラキラ輝かせた。

 初めて会った時は星明かりを落として輝いていた。今は太陽の光を受けて輝いている。夜の静かな光の中でも、昼の燦々たる光の中でも、大きな緑色の宝石は眩いほどに美しくきらめいていた。

「恋愛って、先に相手に『好き』って言わせた方が勝ちだと思わない? 私は負けたくないもの。ハルを負かせて、私が勝つわ」

「そんな事言われても……」

 一方的に言い放つシーダーに呆気に取られ、ハルは溜め息を吐いた。

「シーダー?」

 横を向いて寝転がったシーダーはいつの間にか目を閉じていた。耳を澄ませばすうすうという息の音が聞こえる。

「寝てるの?」

 問うても答える声はない。ただ寝息が聞こえるばかり。

「……変わった子だな」

 ぼそりと呟いて、視線はシーダーの寝顔に吸い寄せられた。

 鮮やかな人参色の髪は燃え上がるよう。ピンク色の唇は愛らしくふくらんで、どきりとするような色香を感じさせるが、柔らかな頬の輪郭はまだ幼さを残す。真っ白で広い額は生え際のラインが美しく整っていて、本当にかわいらしい。

 ハルは知らず知らずシーダーの額へ向けて指を伸ばしていた。その肌と髪との境目にふれてみたくて、ゆっくりと指を近付ける──。

 ぱちりとシーダーの目が開いた。

 じっと見つめる大きな緑色の瞳に、ハルは息を呑んで硬直する。

「眠ってる女の子に何をしようとしてるの? やーらしっ」

「……寝たふり、してた?」

 固まったまま呟くハルに、シーダーはにやりと笑みを浮かべて見せた。

「こういう時って、普通はキスじゃない? 何でおでこなの?」

「いや……、その……」

「そういう趣味? おでこ、好きなの?」

「別に、そんなつもりじゃ……」

「そう? じゃあ、どんなつもりだったの?」

「え、えっと……」

 しどろもどろのハルが真っ赤になるのを見て、シーダーはぷっと小さく吹き出した。

「いいよ」

「えっ?」

「おでこ。さわっていいよ」

「え……、うん」

 シーダーの誘いに流されるまま、ハルはおずおずと指先で額にふれた。

「どう?」

「すべすべだ……」

「うふふ」

 頬を染めたシーダーが悪童めいた笑みを浮かべた。

「一撫で一ポンドね」

「えええっ!?」

 シーダーの軽口に引っかかったハルが慌てて手を引っ込めて固まった。

「冗談よ。やっぱり、ハルってかわいい」

「また、そうやって人をからかうし……」

 笑ったシーダーがまた目を閉じた。

「また寝たふり? もう引っかからないよ」

 ハルは横に転がってシーダーに背中を向けた。そうしていれば、またシーダーのからかうような笑い声が聞こえるのではないかと思ったが、聞こえるのは規則的で小さな呼吸音と、ヒースの葉が風にそよぐ音だけだった。

 もしかしたら、本当に寝てしまったのかも知れない。しかし、振り返ってそれを確かめて、やっぱりまた狸寝入りで笑われるのも癪なので、意地になって背を向け続けた。

 そして、いつしかハルも目蓋を閉ざしていた。


 いい匂いがした。

 ヒースの花の香りと、それだけでなく、何か別の匂い。

 すうっとするように清らかで、それでいて、甘くまとわりついてくすぐったいような、不思議な匂い。とても、とても、いい匂いだった。

 頬にふれる柔らかい感触。温かくて、少し湿っぽくて、ふんわりした優しい感触。

 目の前にはシーダーの顔。睫毛の本数も数えられそうなほど近くに迫る顔は、照れ臭そうに頬を色づかせて、少し伏せた潤んだ瞳でハルを見つめる。

 シーダーにキスされたのだ。そう気付いて、胸が激しく高鳴った。

 声も出せずに固まるうちに、シーダーの顔がいったん離れて視界から消える。途端、胸を締め上げるような寂寥感がハルを呑み込んだ。

 が、すぐにシーダーの顔が目の前に現れて、ほっと安堵が胸に落ちた。

 再びシーダーの顔が間近に迫り──、

 あんぐりと大きく口を開けて、信じられないほど長く伸ばした舌で、ハルの顔をべろりとなめた。

「うひゃああああっ! 臭いっ!」

 悲鳴を上げて飛び起きたハルの目の前に、毛の長い牛の鼻面が迫っていた。

「うわああああっ! な、な、何? 何!?」

 パニックに陥ったハルの隣から、大笑いの声が聞こえた。見れば、腹を抱えたシーダーがハルを指して転げ回っていた。

「ちょ、すっごい悲鳴、おっかしい、ふふ、あはは!」

 涙をにじませて笑い転げるシーダー。ハルの正面では、長い毛が特徴のハイランド牛がぶもうと低い鳴き声を響かせた。

「ふふ、驚いた? その子も、ハルが気に入ったみたいよ。く、ふふ」

 笑いがおさまらないシーダーがひいひい言いながら涙を拭った。どうやら、このハイランド牛に顔をなめられたらしい。

「マッケンジーさんのとこの牛ね。すぐにふらふら村の外まで出歩いてっちゃうのよ。後で連れて帰ってあげなきゃ」

 件の牛はのそのそとハルの傍から離れ、呑気に野草をもしゃもしゃ噛みちぎっていた。

「ハルは牛にも好かれるのね。はい、顔出して」

 シーダーは薄緑色のハンカチを取り出して、牛の涎でべとべとになったハルの顔を丁寧に拭ってくれた。

(あ……)

 風に揺れるシーダーの髪が薫った。

(同じ……、匂いだ……)

 すうっとして、それでいて甘い香り。思い至ればそれはシーダーの香りだった。昨夜も沼で、今日も荒野で何度も嗅いだ香り。

 夢で見た最後のべろりは牛のせいだとしても、その前に嗅いだ香りは、記憶が生んだ幻覚か、それとも、本当にシーダーの香りだったのか。だとしたら、その後の頬の感触は──。

「はい。もういいかな?」

 そんな事を考えているうちに、シーダーはハルの顔を綺麗に拭き終えた。ハルは汚れたハンカチを預かろうとしたのだが、そうする間もなくシーダーは自分のポケットに押し込んでしまった。

「そろそろ、帰ろっか?」

「……そうだね」

 ハルはにこりと笑うシーダーに促されるまま立ち上がり、服の埃を払った。

「ほら、あなたもいらっしゃい」

 シーダーの声に、ハイランド牛がぶもうと答えて鳴いた。

 荒野を渡る風がヒースを揺らし、香りを乗せて流れていく。

 シーダーは風に吹かれる髪を片手で押さえ、もう一方の手で牛の頭を撫でていた。

 九月の最後の週末がこうして過ぎていく。

 

 まだ自覚はないけれど──、

 生意気でおてんばで不思議な赤毛の女の子に──、

 ハル・コネリーは恋をしたのかも知れない。

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