おてんば魔女と僕
瀬戸安人
プロローグ──リトル・ウィッチ
スコットランドの九月。
年間の気温差が少なく、夏でも涼しく冬でも暖かいスコットランドは過ごしやすい気候の国だ。一度も行った事のない母の故郷の島国は、今頃はもっと熱いのだろうか。ハルはふとそんな事を思った。
ハル・コネリーは生粋のスコットランド人の父と日本人の母の間に生まれた。ハルに東洋の黒い目と髪を受け継がせた母はよく笑う人で、夫と息子とこの国の風土を愛した人だったが、雨の多さにだけはしきりに不平を零していた。もしかしたら、息子に『
その母がガンで死んだ後、ハルは十三才まで過ごしたグラスゴーを離れ、ハイランドのインヴァネスから電車で二時間以上かかる田舎の小さな村で暮らす父方の叔母の元で世話になる事になった。仕事で家を空ける事が多い父が息子を一人きりにしておく事を心配して、妹に預ける事にしたのだ。
ヴィクトリア調の建物が建ち並ぶ大都市グラスゴーの見慣れた街並みとは違うが、荒々しい渓谷と岩山、森と荒野と無数の湖が広がるハイランドの風景は美しく、小さな入り江のあるこの村の、毛の長いハイランド牛がふらふら歩き回り、海の波間からアザラシが顔を出す光景も見慣れたものになりつつあった。
昼の光の下で見る景色だけでなく、夜の風景も好きだった。鮮やかな緑が月明かりを浴びてほのかに輝く色が美しいと思った。
だから、ハルはしばしば夜に家を抜け出しては散歩をする。夜の森の木々のざわめきが、涼やかな息吹の薫りが、心を安らぎで包み込むようで魅せられる。叔母に心配をかけては悪いとは思うのだが、つい、夜の澄んだ空気に惹かれて外へと足が向かうのだ。
その夜もハルは森へ向かった。
静謐な空気を吸い込むと、土と草木の匂いが体の中に満ちていく。都会の街並みの中では味わえない感覚で、それが驚くほどしっくり感じられた。どうやら、にぎやかな都会よりも、牧歌的な空気の方がハルの性には合っているようだ。
クィルグラス──ゲール語で『緑の森』を意味する名前をこの村につけた人々は、きっとこの風景の美しさを愛していたのだろう。
夜の森は静かで美しく、そして、神秘的で、おとぎ話に出て来るような妖精や幽霊に出くわしてもおかしくないとさえ思えた。
──しかし、まさか魔女に出会うとは思いも寄らなかった。
頭上の葉ずれの音に顔を上げれば、視界いっぱいに広がったのは真っ白な二本の脚とドロワーズだった。
「ぶべ!」
顔面の上に飛び込んできたドロワーズにのしかかられて、ハルは地面に押し潰された。幸い地面は柔らかい土だったので、倒れた衝撃は大事に至るほどではなかったが、顔の上に乗っかったドロワーズの方は一大事だ。ふんわりふくらんだたっぷりのフリルに口をふさがれて息が詰まる。
「~~~っ! ~~~っ!」
必死にもがくと不意にのしかかる重さがなくなった。
「あいたたたたた~」
自分の物ではない声、言葉の内容に反してちっとも痛そうではない声は、甘い響きの女の子のものだった。
まるでハロウィンの仮装だった。
つばの広いとんがり帽子とだぶだぶのローブとマントを身に着けた少女はハルよりも一つ二つ年下くらいだろう。人参色の癖っ毛を黒いリボンでゆるめに束ね、ソバカスの浮いた肌は白くきめ細かなのが暗い中でさえよくわかる。大きな緑色の目は目尻がやや上がり気味で、いかにも小生意気な風に見えた。かわいらしい少女なのは間違いない。が、同時に油断のならないじゃじゃ馬の雰囲気も感じさせる。
ハルの上に降ってきた少女は地面に尻餅をついて不機嫌そうに眉間に皺を寄せていたが、ハルの視線に気付くと、したたかそうな笑みをにやりと浮かべた。
「ねえ、どこをそんなにじーっと見てるの?」
意地悪そうに笑う少女の言葉に、ハルは我に返って慌てて目を逸らした。少女のローブの裾は腰までめくれ上がり、白い脚と白いドロワーズが丸見えになっていた。
「ご、ごめん……!」
自分が押し潰された被害者である事も忘れて、ハルは咄嗟に謝った。少女の方はそんなハルの様子を見て、更に口の端を吊り上げた。
「あら? 会話が成立してないわよ。別に謝ってなんて言ってないじゃない。私は『どこを見てるの?』って聞いたのに、その質問には答えてくれないの?」
「え、いや……」
「教えて。どこを見てたの?」
「えと、その、ごめん……。だって、め、めくれちゃってたから……」
「ふぅん。めくれた所を見てたんだ」
体を起こして裾を直した少女がハルににじり寄る。
──かわいい子猫かと思ったら、虎の子供が牙を光らせて舌なめずりしていた。
そんな思いがよぎって背筋に冷や汗が伝った。
「私のパンツをじろじろ見てたの?」
「あ……、うん……、その……」
笑いながらじわじわと詰め寄る少女の迫力に押されて、ハルはつい頷いた。
「やーらしっ」
「ち……、違うよっ!」
慌てて真っ赤になるハルに、少女はくすくす笑い声を上げた。
「うふふ。いいわ、許したげる」
少女の緑色の瞳に星明かりが落ちてキラキラ輝いていた。
「私の股の下に潜り込んで、パンツに顔を突っ込んでやらしい事を考えてたのも許したげるわ」
「君がいきなり僕の上に降ってきたんじゃないか!」
「言い訳なんてカッコ悪いわよ」
「な……」
ハルの反発も、少女に不敵に言い捨てられてしぼんでしまった。
少女は帽子の埃を払ってかぶり直す。大きなつばの陰になっていないと額の広さが目立ったが、生え際の形は綺麗だった。
「それで、大丈夫?」
「え?」
少女の問いの意味はわからず、ハルは思わず聞き返した。
「怪我とかしてない? 見た感じ、平気そうだけど」
「え? ああ、うん」
少女が差し出す手があまりに自然で、つられてその手を取っていた。細くて小さな指はハルのそれに比べるとひどく華奢で、ふれた瞬間どきりとした。
「そう? よかった」
ハルの手を取って引き起こした少女は安堵したように笑った。さっきまでの人を食ったような笑顔ではなく、純粋に穏やかな笑顔で、そのギャップにまた不意を突かれた。
「でも、ちょっとだらしないよね。普通、こういうのって逆でしょ? 女の子に引っ張り起こされたんじゃ、ちょっとカッコつかないね」
そう思ったのも束の間、少女はまたにやりと肉食獣めいた笑みを浮かべた。
「……それより、何だって上から降ってきたのさ。木登り……?」
言いながら、ハルは自分でも違和感を覚えて言葉尻を濁した。
確かにハルの頭上には木々の重なり合いが見えているが、人一人を支えられるような枝が張り出した箇所は見あたらない。この少女はどこから落ちてきたのだろうか。
「うん。ドジって足を踏み外しちゃって」
と、少女はばつが悪そうに鼻の頭をかいた。
「難しいのよ、空を歩くのって」
とんでもない事をさらりと言った。
「箒で飛ぶ方が簡単で速いんだけど、お尻が痛くなっちゃうのよね」
そう言って、少女は袖口から鉛筆ほどの小さな棒切れを取り出すと、ふっと息を吹きかけた。途端、棒切れは少女の手の中で、背丈ほどもある箒に形を変えた。
「ねえ、あなた、名前は?」
「ハル……、ハル・コネリー」
「ふぅん。私はね、シーダー・キーン!」
そう名乗った少女は、横に倒して宙に浮かせた箒にちょこんと横座りで腰をかけた。
「ハル、ここで見た事は内緒よ。でないと……、ひどいわよ」
にかっと笑った少女を乗せた箒がふわりと上昇する。
「じゃあね、ハル」
箒は空へと舞い上がり、ハルの頭上から星明かりに輝く緑色の瞳が見下ろす。
「ちゃんと内緒にしてるんなら、私のパンツ思い出してやらしい事してもいいわよ」
「し、しないよ!」
ハルの叫び声にくすくす笑いを返して、小さな魔女は遙か上空へ飛んでいき、すぐに視界から消えてしまった。
後に残されたハルは、今の出来事が夢かうつつかと途惑いながら、呆然と立ちつくすより他になかった。
こうして、ハル・コネリーは愛らしくも憎たらしい小さな魔女シーダー・キーンと出会ったのだった
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