第6章 それぞれの運命 (2)人は見かけによらず

 大足は一度瞳を閉じ心を落ち着かせてから、部下に状況を尋ねた。今朝の当番だったという孔王部健あなほべのたけるという雑任がたどたどしく答える。

「……唐櫃とうひつの錠は閉まっていました。鍵は昨晩の引き継ぎで秦弟麻呂はたのおとまろから受け取って肌身離さず管理していました」

「わ、私はちゃんと国印をしまって錠をかけて、それから健に鍵を渡したんです! それは確かです!」

「わかった、わかった。今ここで責任の押し付け合いをしても仕方がないぞ」

 大足がなだめると、ひとまず鑰取かぎとりたちは黙った。印鑰いんやくの管理は二人体制で行われ、主担当が前任者から鍵を受け取ったり、国印をしまったりする時には必ず副担当が立ち会うことになっている。更に、唐櫃が納められている部屋の周囲は守衛が二人で監視している。

 つまり、互いに示しあわせたのでなければ不正はできないし、不審者が曹司に侵入することもできない。

「……どういうことでしょう。念のため守衛と鑰取全員に話を聞きましたが、矛盾した点はありませんでしたし、彼らが図って国印を隠すことに意味を見出だせません」

 国司を集めて行われた緊急会合で、大目は白旗を挙げた。

 重要な決裁には必ず国印が使用されるから、国印がなくなったことで下総国府の重要な案件が全て停止しているという異常事態に、またもや噂が立ち始めた。

 それは今までのどの噂よりも厄介で、危険であった。

 ――国守の高向朝臣大足は業務の遂行を怠っている。これは中央に反抗するためで、主上に密かに反旗を翻そうと考えているからだ。

 ――国印を廃棄したとも言われてるが、やはり謀叛の意図があるのだろう。 

 下総国府の機能がほぼ停止して十日が過ぎた頃、以前から大伴佐流を監視してきた星川正成は佐流が頻繁に大領家に出入りしていることに気付いた。

 佐流にはある疑惑が付きまとっている。浜梨谷での出来事の後、光藍はこう推測し、国守らに報告した。

「私も多少は術を使えます。あくまで護身用、魔除けのものですが…… 谷で佐流たちとすれ違った時、あいつははっきりと私の目を見ました。気配を消す術を施していたにも関わらずです。佐流はおそらく私よりも高度な術を使えるのでしょう」

 その男が大領家と通じている。入江の洞窟に隠されていた人形ひとがたの呪いや蠱毒こどくに関与した可能性は排除できない。

 国印が厳重な管理を潜り抜けて持ち去ることも、佐流ならば朝飯前のことかもしれない。謎の修行者と協力していることも考えられる。

 こうして国守たちが頭を抱えているうちに、思いもよらない事態が起きようとしていた。


 大領家では新たな企みが話し合われていた。

「国印の件はさすがの高向大足も参っているな。佐流よ、お前の才能がこれほどのものとは。何でもほしいものを言ってみるがいい」

「いやいや、お褒めに預かっただけで光栄でございます」

 佐流は恐縮して大領の酌を受けた。

 術を使うのは簡単だった。見張りの兵士の動きを止め、鍵を受け渡している鑰取たちをちょっと操って唐櫃から印を取り出して鍵を掛けさせただけなのだ。

 そして酒が回った赤ら顔の大領は計画がうまく進んでいることに満足してこう言った。

「まぁ、国府の仕事が滞ると我々も困るからな。この辺りで国守に印をお返ししてやろうか」

「ほう。案外、あっさりですな」

「そう思うか? ただでお返し申し上げるつもりはないぞ。なぁ、徳麻呂?」

 大領は薄くにやりと笑い、息子の方を見やった。徳麻呂は佐流にその計画を嬉々として語った。

「条件を付けるんだよ、佐流」

「それはどのような?」

「俺は今、手に入れたい女がいる。その女は素直に俺の妾になることを拒むはずだ。勝の話では、相当じゃじゃ馬娘のようだからな! だから、その女には国印を戻すことと引き換えに、俺の妾になってもらう。国府で初めての女医候補を妾にするんだぜ。いい考えだろ?」

 徳麻呂は以前から木葉に目をつけていた。勝から女医生の話を聞いた時に興味を引かれたのだ。当時は木葉は賤民であったので、どうこうすることはなかったが、今や木葉を堂々と手に入れても問題はなくなった。もちろん、正妻などではなく妾の身分だが。

 じゃじゃ馬娘が自分の意に従うということを想像するだけで楽しいではないか。

「女医候補というと、国守の庇護が強くて妾にすることなど難しいのでは?」

「それが都合がいいんじゃないか。勝によれば、女医生は国守に心酔してるらしい。だから、国守の危機を救えるなら喜んで身を捧げるだろうよ」

「なるほど。うまくいきますよう、お祈りしております」


 ここ数日、勝の姿が見当たらないのは医人になってから早速、他郡の郡司らの健康診断に出向かなければならなかったからだ。

 木葉は医博士から午前中の講義を聞き終わると、その足で自宅に戻った。

 否、戻ろうとして途中で予想外の人物に出くわした。その男は体格が良く、肩に重厚な毛皮を羽織り、木葉の行く手を阻んだ。

「大領の息子が何の用なの。そこ通して」

「ダメだ。大事な話があるんだ」

 徳麻呂は脇に逸れようとした木葉の腕を素早く掴み、自分の隣に立たせた。軍団にいるだけのことはあって、徳麻呂の力は強く木葉の抵抗は全く無力に終わった。

「別にお前を傷つけたりはしない。とりあえず一緒に来てくれよ」

 木葉は目の前に差し出された手を見て、徳麻呂の顔をまじまじと見返した。さっきまでしっかりと掴まれていた腕は今は自由になっている。

「俺が乱暴な男だと思ってるだろ?」

「……」

「ちょっとうちでお茶を飲まないか?」

 全然興味ないわ、とそっけなく答えると、徳麻呂はとんでもない和歌を詠みかけてきた。

我妹子わぎもこに恋いつつあらずは刈りこもの思い乱れて死ぬべきものを」

 突如、死ぬほど恋い慕っているなどと激しい想いをぶつけられて驚愕した木葉はやっとのことで、人違いじゃないの?と言った。しかし、徳麻呂は芳しくない反応は想定内であったので、いかにも残念そうに呟いた。

「俺、お前のことが好きなんだけどな。それに、国印紛失について話したいことがあったんだけど、興味ないか……」

「え、今何て?!」

 木葉は食らいついた。何の間違いか愛を告白されたようだが、そんなことはどうでもよく、国印の行方の方が遥かに大事である。

「あんたが国印を持ってるの?!」

「それは是非うちに来て、ゆっくり菓子でも食べながら話そうぜ」

 どうせ木葉がこの話を聞き捨てることはないだろうという思惑は見事に当たり、木葉は罠だと理解しつつも一歩踏み出してしまった。

「いいわ、久しぶりにこき使われてた家を見に行ってあげる」

 その言葉を聞くと、徳麻呂は持ってきたもう一着の毛皮を木葉の肩に掛けてやった。

 家女として酷使されていた大領家に、客人として上がるのは何か奇妙な心地がした。暖かい静かな曹司に通されて、ふわふわした絨毯に座る。

「好きなだけ菓子を食べてくれ」

 徳麻呂は木葉の目の前に胡座をかいて座り、尊大な態度で木葉に接した。

「あの家女がねぇ。衣を変えただけでどうにかなるもんだな」

「無駄口叩いてないで、国印がどこにあるか教えなさいよ」

「ん、親父が保管してるよ。戻してほしいんだろ?」

「当たり前じゃない! どんだけ大足さんが困ってると思ってるの?!」

「だろうな。俺が直接、元に戻すことはできないんだが、お前が条件を飲んでくれたら返すと親父が言ってたぜ」

 なかなか菓子に手をつけない木葉を見て、徳麻呂はずいと木葉の横に移動し、覆い被さるようにして押し倒した。

「やっぱり乱暴な男じゃない! 離してよ!」

 手足をばたつかせるがびくともしない。徳麻呂はゆっくり獲物を仕留める獣のように木葉の太股を撫で回した。

「条件の話を聞いてくれよ。無理やりお前を手に入れたくはないからな」

「どうすればいいの」

「俺の妾になるんだ、木葉」

「い、嫌よ!」

 ふいに見える景色が変化した。徳麻呂が体を起こして今度は木葉を座りながら抱きかかえたのだ。

 徳麻呂は木葉のおとがいに指を掛け顔を上に向かせて言った。

「国印が戻らなければこのまま高向大足は失脚するぞ。いや、失脚どころか死罪もあり得るな。国印紛失は一部の者しか知らされてない。だから皆、国守に謀叛の意志があると噂してるのはお前も聞いているはずだ」

 死罪という言葉が木葉の肝を冷やした。どうする、木葉。この身を目の前にいる横柄な男に一生捧げることになるが、それで大足の名誉は回復できるのだ。

「あたしがあんたの妾になったら国印が戻る保証はあるのかしら」

「もちろん。悪い噂もぴたりと止めてやるさ」

 ただし、と徳麻呂は警告した。

「お前が逃げ出したり、この話を外に漏らしたら国守の命はないぞ。大丈夫、お前を傷つけたりはしない。言っただろ、俺はお前が好きだから妾にしたいんだ」

 なんという勝手な言い分だろう。木葉は怒りを通り越して呆れていた。しかし、命の恩人であり、人生を与えてくれた大足の窮地を救うには木葉が妾になる他ないようだ。

(大足さんはあたしの恩人よ。この人は下総国に必要だし、平城の都に帰ってからも出世してもらわないといけない人。あたしは女医としてこの地で働ければそれでいいわ)

 木葉は真っ直ぐに徳麻呂を見上げて言い放った。

「あたしも条件を出すわ。医学の勉強を続けさせて。そして、女医になっても自由に働かせて」

「ああ、そんなことか。妾が好きなことをしようが勝手だ。で、認めてやるんだから交渉成立だな?」

 にこりと笑うと徳麻呂は木葉に顔を近付け、その喉元に唇を這わせた。

 不遜なところは勝と同じだが、徳麻呂と勝には決定的に異なる点があった。それは、勝の人を見下す高慢さが知力と医人としての自負ゆえのものである一方、徳麻呂の横柄な言動はただこの地に古くから存在してきた豪族であり、この地位のために絶対的な権力を奮って良いという思い込みから来るものなのだ。

 手に入れられないものはない。徳麻呂はそういう環境で生まれ育ってきた。好奇心を満たしてくれる女には何でも与えて自分の支配下に置いてきた。じゃじゃ馬で名高い木葉が妾として自分のものになる。

「可愛がってやるから安心しろ」

 木葉は徳麻呂の筋肉質な腕の中でもがいた。まさかこの男に抱かれなきゃいけないなんて思ってもみなかった!

 目をつぶって覚悟を決めた時、徳麻呂が木葉の反応を楽しむように言った。

「ああ、そうだ。一応、婚儀を行おう。賤民上がりの女医生を妾にするやつはこの日の本広しと言えども俺だけだからな」

 木葉はふっと体の周りに風を感じた。徳麻呂が木葉から身を離して立ち上がったためだ。

 ひとまず緊張の糸が切れた木葉はその場に崩れた。

「この曹司は自由に使え。必要なものがあれば家女に言いつければいいさ」

「約束はちゃんと守りなさいよ!」

 去る徳麻呂の背中に向けて、木葉は力いっぱい叫んだが、徳麻呂は振り返りもせずに出ていった。

「婚儀は五日後だ。楽しみにしてるよ」


 最初に異常を察知したのは龍麻呂だった。このところ、姉は毎日夕方には自宅に戻ってくるのに今日はどうしたのだろう。夕飯は家で食べると枳美に言っていたから戻るはずなのに。

 以前、枳美が夜中まで帰宅しなかった時の嫌な出来事が頭をよぎり、龍麻呂は迷わず外に飛び出した。枳美と真秦も姉がなかなか戻ってこないことに心配している。

「綾苅! 姉貴こっちに来てない?」

 真っ先に向かったのは綾苅の家だった。もしかしたら、綾苅の元へ行っているのかもしれないと考えたのだが来ていないという。

「今日に限って居残りとか……」

 事情を聞いた綾苅は木葉が医学舎にまだ残ってるのではないかと言った。しかし、以前の勝の指導ならあり得ても、日下部博士が無駄に強制的に居残りをさせるとは考えられない。考えたくはないが、綾苅は木葉が勝と一緒に勉強をしていることも想定した。

「僕もそれは思ったけど、勝は医人になってから他郡の郡司たちの診察で今は葛飾郡にはいないんだよ」

 姉貴がちょっとつまらなそうにしてた、という言葉は飲みこんだ。綾苅が木葉をほとんど崇拝するように愛していることはよく知っている。身分の差がつけられてしまったことで、それはますます神聖で絶対化されていくようだった。

「とりあえず、医学舎に行こう」

 松明を掲げ、霜を踏みしめ二人は医学舎へたどり着いた。当然、灯りは消されていて、いくつかの宿舎からまだ勉強に勤しんでいる医生がいることが知れるだけだ。主要な建物の様子を見ても既に戸締りがなされ、暗く静寂に包まれている。木葉がいる気配はない。

「神隠しかな」

「そうかもしれない。でも、木葉を攫ったのは神じゃないかもしれない」

 今まで色々なことが起こり過ぎた。そして異常事態の発端は全て大領家に繋がっている。通常考えられる居場所がダメならば、木葉の不在が大領家と関わっていることは十分可能性としてある。

 二人はひとまず帰宅し、朝になるのを待った。そして、国庁へ赴いて佐久太に事情を説明した。

「実は医博士からも講義に木葉が来ないという連絡があったばかりなんですよ」

「やっぱり医学舎にはいなかったか」

「国守様はこれから郡司も出席する会議に出ます。そこで大領に話を振ると言ってました。しばらく待ちましょう。君たちは自分の職場へ戻ってください」

 国庁の正殿では佐久太が言った通り、月に一度の郡司を含めた会議が開かれていた。軍団長も出席している。

 春からの農作物の栽培方法について指示をし、二月末までに中央の太政官へ正税帳を届ける使いを誰にするか話し合った後、大足は特定の人物に尋ねるのではなく皆に向かって尋ねた。

「本日の議題は以上。解散してもらっていいのだが、ちょっと気になることがある。女医生が今朝の講義に顔を出していないそうだ。自宅にも知人宅にもいないことはわかっている。何か事件、事故に巻き込まれた可能性があるので何か知っていることがあればすぐに教えてほしい」

「下総国の女医生は主上からもお認めいただいた重要な国府の一員なので、その身柄に何かあっては困るのです」

 国介も木葉がただの小娘ではないということを強調した。

 すると話を黙って聞いていた大領の大私部石麻呂が「これはこれは」と、おかしそうに笑い出した。

「何がおかしいのですか、大領」

「申し訳ございません。あの女医生は我が家、いや、不肖の息子の家におりますよ」

 やはり、と大足は納得すると同時に大領が案外すんなり白状したことに驚いた。だが、衝撃的なのは次の言葉だった。

「息子は女医生を高く評価し、気に入っていまして。妾として迎えたいと本人に妻問いをしたところ、女医生が承諾したのです。婚儀は四日後ですので、準備もありますし、こちらでお預かりしております。事件や事故などと心配されることはありません」

「あの娘が妾になるのを承知した? どういうことです。医学の勉強もまだ続いているのに」

 まさか自分の名誉や命と引き換えに、妾の身分に甘んじることになったとは知らない大足は当然、大領の言葉を鵜呑みにはしなかった。

「医学の勉強は続けさせますよ、もちろん。医博士に通っていただけばよいのです」

「何の相談もなく、婚姻関係を結ぶのは奇妙に思える」

「そうでしょうか、国守様。互いに同意しているのです。何も問題はありません。国守様はあの女医生の実父ではありませんし、とやかく口を出す立場にはないでしょう」

 そうまで言われてしまうと、大足もこれ以上は追及できない。だが、やはり木葉が徳麻呂に好意を寄せることは天地がひっくり返ってもあり得ないし、事情があると考えた方が自然だ。

「その婚儀に私は招待してもらえるのかな?」

「そのつもりでございます」

 大領は深く頭を下げると、堂々と退出した。


「意味がわかりません」

「だから、木葉が徳麻呂の妾になるために大領家で暮らしてると何度言ったら理解するんだい」

 先ほどからこのやりとりを何回も行っている大足は、綾苅と龍麻呂の混乱ぶりにさすがに呆れてきた。気持ちはわからないでもない。実際に、大足だって不可解だと感じているのだから。

「木葉が本当に大領家にいるって証拠はあるんですか? 大領がそう言ってるだけで、木葉はどこにもいないかもしれないし、無事かどうかも――」

「落ち着きなさい、綾苅。おそらく大領の言葉は真実だよ。四日後に婚儀があるらしいが、私も招待された。少なくとも木葉に危害を加える意思はないよ」

 なんとか綾苅の混乱を鎮めると、大足は木葉と連絡を取る方法を考えた。しかし、綾苅が言った通り、徳麻呂の屋敷にいるかどうか定かではないし、外部との接触は厳しく見張られていると思われた。

 龍麻呂が家人時代に親しくしていた家人仲間を捕まえて、内部の様子を訊ねてみたが、そんな女は見ていないし知らないという。

「きっと奥に軟禁されてるんだろうな。よし、当日救出する作戦を立てよう」

「当日というと婚儀の?」

「ああ、少なくとも私はその場に出ることができるからね。それと、朱流を余興のために同行させるつもりだ」

 朱流は歌舞で宴席に華を添えるという名目で連れていくが、呪術が必要になった時に活躍してもらうというのがその実だ。婚儀には国司が皆呼ばれるだろうから、大伴佐流も出席するに違いない。

「俺は乗り込んでいって木葉を助けたい。徳麻呂の横暴をを許しておけるか」

 怒りと焦りを抱いた綾苅は息巻いている。

「……それはそうだけど、乗り込んでいって姉貴にもしものことがあったら?」

 恋は盲目の綾苅と違って、家族である龍麻呂は慎重だった。あの徳麻呂が逆上して木葉に危害を加えない保証はない。

「それもそうだな。確実で穏便な奪還方法を考えないと」

 木葉救出作戦はひとまず持ち帰って考えることになった。

 そして妙案が出ないまま翌日になり、この件を知って激しく動揺することになったもう一人の男がいた。

 他郡への出張から戻った勝は日下部から木葉の不在とその理由を聞かされ、耳を疑うと同時に目の前が暗闇に包まれた気がした。

(徳麻呂が木葉に懸想してたなんて嘘だろ。しかも木葉が妾になることを受け入れた? 親しかった綾苅のことでさえ勉強を理由に断ったって言ってた娘が、簡単に徳麻呂に靡くはずがない)

 その考えは客観的でもあり、勝の希望でもあった。従兄の徳麻呂は多くの娘と交際しているのは知っていたが、どうして木葉なのだろう。自分がそうであるように、彼女の隠された魅力に気づいてしまったというのか。

 勝はざわつく心を抱えながら医学舎を出た。

 自宅に戻ると、勝は門の前に橡色の衣の若者が立っているのを見つけた。

「お前、何か用か?」

 徳麻呂も恋敵といっていいが、真の恋敵である綾苅が勝の帰りを待っていたのだった。

 意外なことに、綾苅は丁寧に礼をして話を聞いてほしいと勝に頼んだ。

「木葉のことだよな」

「そうだよ」

 勝は綾苅の顔が少し白っぽくなっているのを見て、しばらく外で待っていたのだと知り、ついてこいと家の中へ招き入れた。家人に暖かい酒を持ってこさせると、勝は自分と綾苅の坏に注いだ。

「用があるなら医学舎で待ってればよかったのに」

「医学舎じゃ本音は言えないからね」

「で、話は何だよ」

 酒で体を温め落ち着いた綾苅は、床に額づいて訴え始めた。

「頼む! 木葉を一緒に助けてくれ。あんたは木葉をただ上から言われて指導してただけの関係と思ってるかもしれないけど、全く関係ないわけじゃないだろ? それに、大領の甥が何も知らないはずがない。お願いだ! 木葉が大領の息子の妾になるなんて、何か裏があるに違いないんだ! 協力してくれるなら、俺はあんたの雑用でも何でもする」

 綾苅の激情に満ちた訴えが終わると、曹司は再び静寂が訪れた。勝はこの綾苅の言動に少なからず衝撃を受けていた。

 愛が隔てられてしまったにも関わらず、綾苅はなおも木葉を救うことに全力をかけようとしており、不愉快な相手にさえもこうして頭を下げ、服従の意思をも示した。

 それに比べて自分はどうだ。綾苅のように逃げずに木葉に想いを告げていれば、もしかしたら彼女が徳麻呂の支配下に置かれることはなかったかもしれないし、それどころか謀反計画の一翼を担っていることも隠しているではないか。

 綾苅は「大領の甥が何も知らないはずがない」と言っていた。その通りだ。勝は何もかも知っている。

「顔を上げてくれ。僕は…… 僕は今回の徳麻呂の意図については関知していない。僕自身も驚いてるんだ」

 木葉を妻にと望んでいるのは徳麻呂だけではない。勝は木葉を妾などではなく正妻に迎えたいと思っているのだが、今はそれを綾苅に告げる時ではなかった。

 女医生を長く指導した者として木葉奪還の協力をするという姿勢を見せるべきなのだ。勝と木葉を争っているとは思っていない綾苅に余計な動揺を与える必要ははかった。

「けど、あんたは徳麻呂と仲が良いらしいじゃないか。大領が悪事を働いてるのも知ってるだろう?」

 口の中がからからに乾くほど、勝は緊張していた。言えば一族への裏切りになり、言わねば恋への冒涜になる。どちらが後悔するか勝は深呼吸をして考えた。否、考えるまでもなく答えはとうとう口を突いて出てきた。

「……大領は主上に対する謀反計画に加担している。前国守佐伯宿禰百足が持ち掛けた話で、首謀者は紀皇后。まぁ、お前はこの辺の事情はわからないだろうけど」

 ひと息に白状した勝の顔はどことなくすっきりしていた。だが、肝心なことはまだ言っていない。

「やっぱり謀反だったんだな。その証言を国守にも言ってくれ。そしたら大領家を一網打尽にできる」

 ところが、勝は首を横に振った。

「一網打尽にって言うけど、軍団は実質的に叔父の支配下だよ。大毅も徳麻呂も国守には従わない」

「そんな……。あんたはいつから知ってたんだ? あんたの役目は?」

「僕は後から知らされたよ。そして、毒薬を作れと言われた」

「はぁっ?! 医人が人を殺す毒を作ってんのか? そんなやつが木葉に何が教えられる! 実はあんたが里に毒をばらまいたんだろう?」

 激昂した綾苅は勝の胸ぐらを掴み、迫った。場合によっては殴りかねない勢いだ。

「待てよ! 確かに僕は毒を作ろうとしたけど、指定されたような毒は高度過ぎて手付かずなんだよ。それに、毒を作ることには迷いがあって悩んでた……」

「ほんとか? 自分だけ罪を逃れようと考えてるんだろ」

「そう思われてもしかたないね。だけど、木葉を助けたいと思う気持ちはお前と同じだよ。もちろん、国守にも全部話す。この謀反の計画がどれだけ大事か」

 ただ、妾事案の裏がどうなっているのかは、綾苅にも勝にも皆目わからなかった。

 二人はその足で大足の私邸に出向き、勝の告白は大足を唸らせた。

「よく洗いざらい話してくれたね、勝。これは大領家を追い詰める大きな一歩になるよ」

「証拠を、というのであれば私が何も知らない風を装って徳麻呂や叔父から引き出してみせます」

 頷いた大足であったが、やはり謀反計画は信じがたいものだった。今さら実質的に廃后された紀皇后を神輿として担ぎ出すのは無理がある。血統を重んじるならばまさに浄御原きよみはら天皇の血を引く紀皇后と豊祖父とよおじ天皇の嫡男である瑞葉皇子が次期天皇となるべきだろうが、時代は既に新しくなり、形式よりも実がとられるようになった。

「右大臣殿が自分の娘を豊祖父天皇の后に差し出したのは当然のことだし、首皇子には瑞葉皇子よりも遥かにしっかりした後ろ盾があるからね。ただ、夫人は御出産後からずっと表に姿を見せないらしい。それが気がかりだが」

 大足は勝の告白を聞いて、もしかしたら夫人が引き籠ってしまったのは紀皇后のことがあるからではないかと推測した。しかし、あくまでも推測にすぎない。

 理由はどうあれ、紀皇后が企図していることは立派な反逆である。そして、その重要な要となっている佐伯百足とその一族、そして、協力と忠誠を誓っている葛飾郡司らはしかるべき時に捕縛され、処罰されなければならなかった。

「今更だけど、前途洋々の君がこんなことに巻き込まれるなんて残念でならない。なんと言っても君は大領家の一族であるし……」

 国守の言葉に勝は自嘲の笑みを浮かべて返した。

 野心を追求しようとした結果がこれなのだ。真に愛する娘に想いを告げることもなく、一族は謀反の罪を負い、当然自分も縁座で遠流になるだろう。目指した平城京からほど遠い一生を孤独に侘しく終えるのだ。

「……自業自得ですから国守様が気に病まれることではありません。しかし、徳麻呂が木葉を素直に妻問いしただけとは考えられません。脅したのかもしれない」

「それが最もあり得ると思う。最近、国印が紛失したことを考えると、国印を返してほしければ妾になれとでも持ち掛けたのかもしれないね」

「だとしたら、国印は大領家にあるってことか」

 本当はすぐにでも徳麻呂の元へ乗り込んで、事の次第を徳麻呂に問い詰め、愛しい娘を連れ戻すべきだと思ったが、勝は徳麻呂とは何も知らない振りをして今まで通り付き合った方が情報を得られると考えた。

 大足もその方針に賛成だ。

「では私は明日にでも徳麻呂に話を聞いてきます。彼は私に気を許してますから」

 勝は様々なやりきれない感情を秘めながら大足の私邸を後にした。


 従兄は機嫌良く大股で歩いてきた。出張から戻ったから飯でも食おうと誘うとすぐに出てきたのだ。

 歩きながら腕の防具などを外す。

「軍団の訓練はいいの?」

「ああ、今日はもういい」

 徳麻呂の屋敷に上がると、ほどなくして料理が運ばれてきた。

「なぁ、勝。いい知らせがある。明後日、俺の婚儀なんだ。突然だけどお前ももちろん来てくれるよな?」

 勝はへぇ、めでたいねと初めて知ったように驚き喜んでみせた。徳麻呂は嬉しそうだ。本気で木葉を好いているのかもしれない。

「もちろん行くよ」

「相手はあの女医生だぜ。お前が育てた女、横から俺がもらって悪いな」

「別に妹背の関係になるつもりで医学を教えてたわけじゃないよ」

「まぁ、お前は嫌がってたしな。生意気なじゃじゃ馬も俺には従ったよ。可愛いもんだぜ」

 この時、初めて従兄に怒りと嫌悪を感じ、あやうく殴りかかりそうになった。自分でさえまだ触れていない木葉の体を従兄はもう知ってしまったのだろうか。そう考えただけで腹の底でぐつぐつと煮えたぎった感情が現れた。

 その手で木葉を触るなと叫びたかった。しかし、今はぐっとこらえなければならない。努めて冷静を保ち、徳麻呂に話しかける。

「木葉のことはどうして妾に? もしかして家女だった時から気になってたの?」

「いや、お前がさ、生意気な女医生を教えてるって話をしてくれただろ。それでさ」

 自分がこの男に木葉の話をしたばかりに、興味を与えることになってしまったとは、なんと皮肉なことか。しかし、後の祭りだ。

「俺はあの女を気に入っている。でも、もちろん純粋にほしかったからじゃないんだ。政治に疎いお前でも国庁の業務が滞ってるのは知ってるだろ? あれは国印がないからなんだ。そして国印は親父が大伴佐流を使って盗み出したんだよ。木葉は国印と引き換えに俺の妾になる、そういう仕組みさ」

 酒が入って気分を良くした徳麻呂はべらべらとしゃべった。やはり国守の予想通りだ。

 木葉が自分の意思で妾の道を選んだわけではないということがはっきりとわかった以上、徳麻呂に情けは不要だ。なんとしても奪還しなければ。

「そういえば、木葉はどうしてるんだ? 医学の勉強をしたがってたら、僕がみるけど」

 さりげなく提案してみる。

 すると、徳麻呂は苦笑して断ってきた。

「お前ら、本当に医学バカだな。婚儀が間近に迫ってる女が優先させるのは頭の方じゃなくて、体の美しさじゃないか。婚儀が終わったらいくらでも勉強させてやると木葉には言ってある。そしたら、頼むよ」

「……そうか」

 ここで強く押しても、逆に怪しまれるだけだと判断した勝は諦めて酒のつまみを口に運んだ。徳麻呂は軍団の話や木葉以外の最近気に入った女の話をしていたが、勝は適当に相槌をうって、ほとんど内容は記憶に残らなかった。


 婚儀の前日、歌舞を披露するように大足から頼まれた朱流は自室で衣装を選んでいた。お気に入りの木葉が窮地に陥っているとあれば、朱流も気合いを入れざるをえない。

 取り出した衣装を袖に通していると、月紗が来客を告げた。大領家の情報収集屋であることがわかった月紗だが、本人は誰かを害する意図もなく普通に遊行女婦の仕事もしているので、大足は特に咎めることなくそのままにしていた。

「朱流さん、医人の方たちが来てるわよ」

「あら、珍しいわね」

 朱流が満面の笑みで若者たちを出迎えると、その中にいた勝は堅苦しく頭を下げた。遊行女婦ごときに、という気もしたが、こういう華やいだ女人に慣れていないのでぎこちない態度になってしまう。

 一方、綾苅は自然な笑顔でお邪魔しますと曹司に上がった。今日も美しいですねという一言も忘れない。

「早速ですが、うちの姉貴の話は聞いてますよね。それで朱流さんに頼みがあってみんなでおしかけてきました」

 龍麻呂が説明すると、朱流は首肯した。その仕草は、飾り気のない地味な色合いの衣を着ていても艶やかで龍麻呂を感嘆させた。

「婚儀で歌舞を披露するって聞いたんですけど、その時に伎楽面を私たちに貸してほしいんです」

「面を? あなたたちが被るの?」

「はい。もちろん朱流さんも。面を着ければ顔が隠せるから」

 木葉を奪還する方法を仲間うちで考えて、勝がある試みを思い付いた。遊行女婦の朱流が歌舞を披露することに怪しむ者はいないはずだ。その中で、伎楽も取り入れて面を着けた綾苅たちが宴席に登場し、木葉をさらうのだ。

「それはできないことはないけど、それで木葉ちゃんを連れていったら止められてしまうわよ」

「だから、眠り薬を使います。特別な薬を練り込んだ香を焚きながら侵入して、参加者の意識がなくなったところで木葉を連れ去ります」

 面を被る利点は顔を隠すことだけではなく、香の煙をなるべく吸わないようにできることにもあった。

「医人って恐ろしいのね。もし大領家の味方に医人がいたら眠り薬も毒も何でも作れてしまうじゃない」

「まぁ、勝は大領の甥だから朱流さんの言うことは正しかったんだよ。こっち側についてくれたお陰で助かったけど」

 勝はいたたまれずに俯いた。徳麻呂たちは紀皇后と豊祖父天皇の嫡男である瑞葉皇子に正統性を見出だしており、それゆえに今回の謀反を実行しようとしている。

 本来、そうあるべきだったのかもしれない。勝は紀皇后の言い分もそれを支持することも頭から否定はできなかった。

 けれども、右大臣藤原不比等を毒殺し、主上に退位を強要し、年若い皇太子を廃するのはやはり逸脱甚だしいと思う。何の後ろ楯もない紀皇后が今更反撃に出ても無惨な結果に終わる可能性が高いことはわかりそうなものだが。

「とにかく、明日が勝負よ!」

 詳細な段取りを話し合った後、朱流がそう締め括った。


 二月の吉日、春の兆しが野山に見え隠れするようになり、晴れの日に相応しい明るい空が広がっている。

 しかし、木葉にとっては徳麻呂との婚儀は人生の終わりを意味していた。数日間だが、誰とも連絡をとっておらず、話し相手は大領家の家女や徳麻呂くらいしかいない。

「みんな心配してるだろうな……」

 涙が出てきてもよさそうだが、なぜだか客観的に自分を見てしまって、この状況に滑稽さすら覚えた。

 思った以上に正気を保てているのは、きっと大足が助けてくれると信じていたからだ。徳麻呂は婚儀に国守以下の国司たちも招待していると言っていた。

 今朝は慌ただしかった。まず、沐浴をして身を清めてから新しい下着をつけて、そして婚礼用の豪華な衣装に着替えさせられた。

 もしこれを自分の好いた男のために着るのならどんなに幸福であったかと思う。

 妾という妻の中では低い身分にもかかわらず、それなりに遇されるのは木葉が主上のお墨付きの女医生だからだ。

「いいじゃないか、木葉」

 迎えにきた徳麻呂はにやりと笑って、木葉の手をとった。働きづめでぼろぼろだった手は見違えるほど改善され、まともな娘のような柔らかさを取り戻していた。

 木葉は無言で徳麻呂についていった。手を振りほどきたくとも、そうしたら全てが泡となる。

 大領家の正殿はまるで平城京の貴族の邸宅を縮小したかのように派手に飾られていた。妾との婚儀だろうが、大領は豪奢に執り行ってその財力を誇示したいらしい。

「お前にとっても良い話だっただろう、木葉」

 控えの間に入り、徳麻呂と並んで立っている木葉に向かって、大領が声をかけた。

「本来なら女の家に迎えてもらうのが礼儀だが、お前には両親はいない。家女上がりの娘が代々この葛飾を治めてきた大私部家の嫡男にもらわれるなど、破格の待遇だな」

(なにその恩着せがましい言い方! 大口叩けるのも今のうちよ)

 しおらしくしていると見せかけて、木葉は大領の言葉を思い切り無視し、内心で舌を出した。

「媒酌人は国守です。皆、揃っておりますのでそろそろ……」

 徳麻呂は頷いた。大領と奥方が正殿に入った後、徳麻呂と木葉が続く。

(大足さん!)

 木葉は素早く国守の姿を見つけて視線を送った。親族の一員として、勝も列席している。勝は床に視線を落としたまま、こちらを見ようとはしない。

 今まで着たことがない豪華な衣装に身を包み、木葉は動きづらく居心地の悪さを感じた。ゆったりと長い裳は細かいひだが滝のように流れ、背子はいしには幾何学模様の刺繍が施されている。肩からかける領巾ひれも高級な羽のように軽かった。

「では、この時をもって、大私部徳麻呂は孔王部木葉を妻とする。承認していただけるか?」

 大領が言うと席から拍手が起き、国守が進み出て二人に酒を注いだ。これで木葉は徳麻呂の妾として認められた。

 すぐに大量の料理が運ばれ、楽が始まる。

「徳麻呂様、おめでとうございます。女医生を手に入れられるとはさすが」

 宴が始まるとそそくさと佐流が進み出て徳麻呂に挨拶をした。中央官人の方が位が高いし立場的に強いはずなのに、佐流は大私部家の配下の者のようだ。

 料理が半分くらい皆の腹に収まったところで、余興が始まる。

「国守様のお計らいで遊行女婦が歌舞で祝ってくれるそうだ。よろしく頼むぞ」

 徳麻呂が告げると、朱流は微笑んで大陸風の舞を披露した。気をよくした大領から歌を詠みかけられても動じることなく、豊かな言葉で歌を返したのはさすがと言うべきだった。

 そしていよいよ伎楽だ。

「変わった趣向のお祝いをさせていただきます。少しお待ちください」

 朱流は頭を下げて退出すると、勝の手配で屋敷に忍び込んでいた龍麻呂と綾苅に中の様子を伝えた。実は真秦もある任務を与えられて、厨付近に待機している。

 朱流たちが伎楽面を被り、そろりそろりと正殿の広間に入っていくと、客人たちはおおっと声を上げた。楽師らは軽快な曲を奏でて場を盛り上げる。

 伎楽の役柄である呉女、迦楼羅かるら酔胡王すいこおうが面白おかしく動き、宴席の笑いを誘った。これ以上ないほど気が滅入っていた木葉でさえも、滑稽な動作に思わず笑ってしまったほどだ。

 こうして伎楽者たちに気を引き付けられていた人々は、先程から香が焚かれ始めたことにほとんど気付いていない。香は伎楽者たちの腰に下げた竹で作られた入れ物から漂い、ゆっくりゆっくりとその場を眠りへ引きずり込んでいった。

 何となく気持ちよくなってきたところで、突然、女の叫び声が響き渡った。

「火事です、火事です! お逃げください!」

「な、なんだと……!」

 その声に皆が反応し、ざわめきが広がったが、眠り薬のせいで思うように体が動かない。

「煙が……」

 とうとう正殿の内部にも煙が入り込んできた。

(どうしよう! このままじゃみんな煙に巻かれちゃうのに、動けない!)

 木葉は大足と勝の方を見たが、なぜか二人の姿は見当たらなかった。

「ちょっと徳麻呂! こんな時に寝ないでよ!」

 隣で座っていた徳麻呂は、こともあろうにがっくりと首を傾けて眠りこけている。そして、周りを見ても皆、意識が朦朧としているようだった。

 この場で変わらず動いているのが伎楽者たちだ。木葉も体が下に引き込まれるような重さを感じている。

 そして木葉は目の前に影がかかったことに気付き、のろのろと視線を上げた。迦楼羅の面が木葉を見下ろし、手を伸ばしながら方膝をついた。

「木葉、助けに来たよ」

 くぐもった声が聞こえた気がした。

「誰……」

 木葉は状況がわかっていないようだったが、綾苅はかまわずその体を抱き上げた。いつものように威勢よく騒がれては具合が悪い。

 このまま、木葉を連れ去りたいと綾苅は思った。自分のものにしたい。誰にも触れさせたくない。婚礼の衣装を身に纏った木葉は泥から這い上がった家女の片鱗を一切残さず、美しく化粧を施された顔は、綾苅が見たことのないような色気を醸し出していた。

(俺は仙女を助けるんだ。でも、地上の男が仙女を支配できるわけがない。自分のものにしたら最後、仙女は仙女でなくなってしまうに違いない)

 綾苅は瞼を閉じた木葉の顔を見下ろしながら、理性を取り戻すために必死に言い訳を考えた。

 考えながら広間から出て、あらかじめ教えられていた裏口から抜け出す。

 だがこの時、綾苅にとっては決定的な敗北が訪れた。

「……す、ぐ、る?」

 少し身じろぎをした木葉の口から小さくこぼれたその名前は、綾苅のものではなかった。朦朧とした意識の中で、木葉は勝の名を呼んだのだ。そして木葉の視線の先には、不安になって様子を見についてきた勝その人があった。

 だが、その声は勝の耳に入るには小さすぎた。木葉が勝の姿を認めて安心しかけたことなど知る由もない勝は、綾苅の腕に抱きかかえられている木葉を見て悲しげに微笑んだ。奪還できたのだからいいじゃないかと思う反面、やはり助け出したのが綾苅であったことに悔しさを覚えた。

(木葉、今でもあいつを一番信頼しているのか……?)

 勝はそのまま無言で立ち去った。この場に自分の出番はなさそうだ。それよりも正殿に戻ってやらねばならないことがある。国印を探すことだ。

 大領家の屋敷から上手く抜け出した綾苅は、既に深く眠ってしまった木葉を近くの無人の小屋に運び、凍えないように毛皮をかけたりしてから、木葉の手に木簡を握らせた。

 ――神隠悉無。

 文字が読めない綾苅にはこれだけではよくわからないが、木簡を用意した国守によれば、神隠しに遭ったため、何もなかったことに……という意味らしい。朝、目覚めた木葉はちゃんと理解してくれるだろう。

 朝日が昇れば、眠れる仙女は再び女医生として自由を手に入れられるのだ。


 正殿に戻った勝は、徳麻呂も叔父夫婦も客人たちも全てその場で気持ちよさそうに寝ているという奇妙な光景を目の当たりにした。自分で調合した眠り薬がこれほど適切に作用するとはと、いささか恐ろしさを覚えた。もしあのまま毒薬の製造に着手していたら、完璧なものがこの世に生まれていたかもしれない。

「勝君、どうだった?」

 背後から声を掛けたのは国守だった。

「どうと言われても。綾苅はちゃんと木葉を助け出していましたよ」

「良かった。朝になれば木葉だけでなく、この場にいる全員が目を覚まし、何が起きたのか混乱に陥るはずだ。私は居残って、夜通し意識を失っていたことにしなければならない。君は家人たちの混乱を鎮めてほしい。やってくれるね?」

「もちろんです。僕は途中から曹司の外に出ていましたし、家人たちは医人も妖術使いも似たようなものだと思ってるんですよ。不思議な術にかからなかったと言っても、すぐに信じてしまうでしょう。それはそうと、国印を見つけなければ」

 いつも通り冷静沈着な国守に感心した勝は、国守の次の言葉でさらにこの人には適わないと思うことになった。

「その必要はないよ。もう隠し場所がわかったからね」

「えっ、僕がちょっと外に出ていた短時間で?」

 大足は袍の袖の中から木箱を取り出し、開けてみせた。そこには国守の権力の源が黄金の輝きをもって何事もなく収められているではないか。

「真秦が厨の付近で偽の火災を起こして、それに気付いた厨女たちが火事だと叫んだだろう? 煙が正殿まで流れ込んできた時、大領は咄嗟にあそこの祭壇に目を遣ったんだ。火事の時に最も大事なものに気を配ったり守ろうとするのは人の本能だからね」

 薬のせいで意識が揺らいでいた中でも、大領が最重要物を確認しようとしたことはある意味であっぱれである。だが、そのお蔭で祭壇に飾られた鏡の裏に隠された国印を見つけ出すことができた。

「さて。あとは今回の事件を神隠しということにしなければならないね」

「しかし、どうやるのですか?」

「噂には噂で対抗するんだよ。私は謀叛を企んでるだとか噂されたけど、それと同じように大領家が神隠しに遭ったってね」

 既に噂の種がばら蒔かれる用意は整っていた。阿弥太と枳美、そして真熊が翌朝、色々なところで大領家の婚儀中に妾が神隠しに遭った、その場にいた者たちは皆、神の気に触れて意識を失ってしまったらしい、と言って回ることになっている。

 大領家の正殿以外で働き、薬の匂いを嗅いでいない家人家女たちも異常事態に混乱して騒いでいる。

「お前たち、落ち着け。騒ぐとお前たちも神の気に触れることになるぞ」

「ああ、勝様! これは一体どうしたことですか? あの妾さんの姿が見えませんが?」

「神の怒りだよ」

 勝はいかにも恐ろしいことが起きたと言わんばかりに顔をしかめながら、家人たちを前にして言った。

「徳麻呂が女医生を娶ろうとしたことが、どういうわけか神の怒りを引き起こしたに違いない。女医生との婚姻を破棄しなければ、また同じような目に遭うかもしれないぞ……」

「わ、我々はどうしたら……」

「落ち着いて自分の持ち場へ戻れ。夜明けになれば、神の怒りも少しは収まるだろうさ」

 我ながらよくでっち上げを語れたなと苦笑した勝であった。

 果たして翌朝、薬の効果が切れた客人たちは次々と目を覚まし、互いに状況を確認し合っている。大足は途中から本当に眠ってしまったので、小路が肩を揺さぶって起こしてくれるまで壁に寄りかかっていた。

「国守! 我々は酔い潰れていたのでしょうか? いつの間にか朝ですよ!」

「やあ、おはよう……」

 多少間が抜けた挨拶をしたのは訳あってのことだ。実は今回の木葉奪還作戦は国介以下には知らせていない。

 なるべく関係者を限定して、信憑性を持たせようという意図だ。

「ど、どういうことだっ?!」

 その時、雷が落ちたかのような怒号が広間に響き、ざわめきが一瞬にして止まった。大領が怒鳴ったのである。

「女医生がどこにもいないだと?! 逃げたんじゃないだろうな」

 何かに思い当たったらしい大領は、国守と国介の方に顔を向け、疑惑に満ちた視線を投げ掛けた。しかし、大足はともかく小路には何がなんだかさっぱり理解できない。

「国守様、もしや女医生をどこかへお逃がしになられたということは……」

「何を言う、我々もこの場で皆と共に気を失っていたんだ。何が起きたのかわかってないのはこちらも同じ」

 小路が反論すると、徳麻呂が腕組みをしながら国守たちに近付いた。

「あの伎楽師たち、どこに行った? 怪しいな。おい、そこの遊行女婦、あの伎楽師たちは何者だ」

 徳麻呂は大足の横に控えている朱流の腕を乱暴に掴み、無理やり立たせようと引き上げた。それを大足が手で制する。朱流は普段のように、しれっとした表情で徳麻呂の問いに答えた。

「あたしの歌舞仲間ですわ。伎楽師は面を着けて演じることがその心なので、自らの正体を観客に明かすことはありません。それに、伎楽師たちが各地を興行して回ることは、校尉殿もご存知のはず」

「ふん。では、そいつらは今どこに?」

「わかりません。ここでの仕事が終わったので早速次の土地に向かっているのでしょう」

 朱流の言葉を聞いた徳麻呂は片方の眉だけを器用に吊り上げて言った。

「そういうことなら、追いかけよう。褒美を与えていなかったしな」

 本当にしつこい男だこと、と苦々しく思う朱流の心の中まで徳麻呂は見えない。どうせ追いかけても無駄なのだから好きにすればいい。

 ところが、馬を出せと徳麻呂が家人に命じた時、広間に一人の若者が登場した。

「徳麻呂、その必要はないみたいだよ」

「どういうことだ、勝」

 深呼吸をして一歩踏み出した勝は言った。

「これは神隠しなんだと思う。そこにいる遊行女婦の仲間が女医生を拐って何の意味があるんだ。婢でもないのに遠い地で売ることもできない、人質として何かを要求するとでもいうのか…… まぁ、そんなことをしたら、遊行女婦を監督する立場の国守様が困るだろう? ただでさえ、国守様は失政で追い詰められてるんだし」

 最後の台詞はわざと吐き捨てるように言ってみた。

「なるほど、一理あるな。さすが賢い甥っ子だ」

 大領は眉間に皺を寄せて、立派な顎鬚に手をやった。神隠しに遭うという心当たりはないわけではない。修行者たちを使って香取の神郡から人や財産を持ち出させたり、「神火」を発生させたり、神の怒りを買うことをやってきているのだ。

「徳麻呂、このまま女医生を妾にしておくとしたら、また神の怒りに触れて、今度はお前の身に災いが降りかかるかもしれないよ」

「心配症だな」

「けど、大私部家の行く末とただの妾とどっちが大事なんだ。僕たちには課された使命があるじゃないか。あんな小生意気な女よりいい女は葛飾郡にだってたくさんいる」

 必死に勝が訴えると、大足と朱流は顔を見合わせた。これはなかなかの演技だ。

 すると、今まで黙っていた大刀自おおとじ、つまり大領の妻が口を開いた。婚儀ということで、一層ごてごてした装飾品を身につけ、頭の簪が鳥の羽のように広がっている。

 この簪一つ売れば、病弱な子供を助ける薬草が十分買えるな、と勝は思った。

「勝の言う通りです、徳麻呂! うちで使っていた家女上がりの娘をわざわざ妾にするなんて、私は元々反対でしたよ。うちのような伝統ある家の息子が、卑しい女医生と婚姻を結んだから神の怒りが落ちたのです!」

 ああ、めんどくさいことになった、と徳麻呂は顔をしかめた。母親の機嫌を損ねることがどんな結果をもたらすか、長年の付き合いでよくわかっていた。大領もお手上げだと息子に目配せをする。

 そもそも、正倉を焼いたことを「神火」と決めつけた大領が、神隠しなどあるはずがないと神の怒りを否定するわけにはいかず、さらに大刀自がとどめを刺したことで、今回の出来事は国守たちの思惑通りに終結した。

 大領は集まった客人らの前で、息子と女医生の婚姻を破棄すると宣言し、不徳の致すところと謝罪した。これは大領にとって大いなる譲歩だった。たとえ、木葉がいなくなった事件が国守が仕組んだものだったとしても、それを指摘するわけにはいかず、まして国印を盗んだことを公にすることはできなかった。だから、大領がさりげなく祭壇を確認した時、国印も消え去っていたことに気付いたものの、何事もなかったかのように黙るほかなかった。

 そして、大足が密かに持ち帰った国印はまた元の唐櫃に収められ、国衙の業務は通常通り再開し、国守が主上に反旗を翻そうとしているなどという噂はいつの間にかなくなったのだった。


 薄暗がりの中、自然に目を覚ました木葉は自分がなぜ小屋でたくさんの筵に包まれて横たわっていたのか、すぐに理解できなかった。隙間風は冷たいが、毛皮の羽織りものと筵のお蔭で寒さはしのげている。

 起き上がろうとして、自分の手が木簡を握っていることに気付いた。

(何これ? ……あたし、徳麻呂の妾になったんじゃなかった? それで、婚儀の最中に突然眠くなって、伎楽師が目の前に現れて)

 そこまで考えて、木葉は赤面した。ふと、勝を思い出したからだった。どうして勝を思い出して恥ずかしくなったのか、木葉は自分で驚いていた。意識が閉ざされようとしていた時、勝の姿を見かけたような気がした。そして、安心して深い眠りについたのだ。

(馬鹿ね、あたし。あいつは大領家の一員じゃない。勝は指導者以上でも以下でもないのよ)

 勝が全てを白状し、大領家を裏切ったことをまだ知らない木葉は、無性に勝に会いたいという気持ちを消し去ろうとした。

 再び木簡に視線をやると、今度は自分の置かれた状況を踏まえて、そこに書かれた言葉の意味がわかった。木葉は神隠しにあったことになっている。そして、何事もなかったかのように事件は終わるのだ。

 木葉は筵を体からはぎ取って小屋の中に適当に置いた。そして、外に誰もいないことを確認すると、人目につかないようにしながら真っ直ぐに自宅に戻った。

 なぜ自宅に戻ったかというと、そこが一番安全だからだ。神隠しに遭ったのだから、すぐに姿を現しては効果がないと考えた。もし徳麻呂が木葉の行方を捜すとしたら、きっと森や山の中に違いない。まさか、自宅でのうのうと過ごしているとは思わないはずだ。

「姉さん!」

 自宅に帰ると、朝ご飯を用意していた枳美が柄杓を放り出して駆け寄ってきた。姉妹はしばらく無言のまま抱き合った。真秦も一緒になって姉の帰りを喜んだ。

「ごめんね、心配かけて。あたし、神隠しに遭ったことになってるから、何日間かわからないけど、引き籠ることにするわ」

「それがいいわね。本当によかった。徳麻呂の妾だなんてこの世の終わりよ!」

 どうやら木葉と徳麻呂の婚姻関係はその場で破棄されたらしい。大領が神隠しを怖れて、木葉との縁を切ることにしたという。厨長に就任し、朝の仕事を終えて一時帰宅した龍麻呂が教えてくれた。

「あっ、ねぇ、国印はどうなったの? 国印は大領が盗んだのよ。それと引き換えに、徳麻呂の妾になれって言われて……」

「大丈夫。国守様がばっちり国印も取り返したんだよ。だからもう国衙の仕事が滞ることもないし、国守様が仕事を放棄してるなんて不名誉な噂が流れることもないよ」

 大いに安堵した姉を見て、龍麻呂はもう一つ重大な事実を告げることにした。

「勝がね、全部洗いざらい教えてくれたよ」

「何を?」

 勝の名を聞くと鼓動が速まった。不吉な予感がしたのだ。そして木葉の不安は的中していた。

「大領家は前国守と結託して、というより、紀皇太后の思惑に従って謀反を起こそうとしてるんだよ。もちろん勝もその仲間だ。いや、仲間だった。右大臣を暗殺するための毒薬を調合することになってて、結局着手しなかったらしいけど」

「やっぱり、そうだったのね。ずっと隠してたんだ、あの人」

 木葉は寂しげに微笑んだ。そんな悪事を抱えて、何食わぬ顔をして自分に医学を教え続けていた若者はどんな気持ちでいたのだろう。勝は縁座で重い罪に問われてしまう。平城の都でもっと勉強したい、医博士になりたいと言っていた夢もここで潰えるのだ。

「姉貴、あの医人は自分の家を裏切ったんだよ。姉貴を助けるためにね」

 龍麻呂は勝が姉を好いているということに、薄々勘付いていた。初めて出会った日に比べて随分と物腰が柔らかくなり、愛想が良くなったわけではないが、龍麻呂たちを見下すような雰囲気を見せなくなった。そして、何より囚われた木葉のために、今まで生きてきた大私部家との繋がりを断ち切ってしまった。

 木葉の指導を途中で止めてしまったのも、もしかしたらそういう心の変化が生じたからかもしれないな、と龍麻呂は推測している。

「会いたい、勝に」

 木葉はぽつりとつぶやいた。

 伎楽師が――今ではそれが綾苅だと判明した――木葉を抱いて外に連れ出そうとした時、朦朧とした意識の中で、見たと思った姿は本当に勝だったのだ。綾苅がうまく木葉を逃がせるかどうか、心配になって様子を見に来たのだろう。それがわかると、木葉の胸は切ない感謝の念でいっぱいになった。

(あたしは綾苅と勝がいなかったら、今ここでのんびりしていなかったのね。もちろん、大足さんや朱流さんや兄弟のお蔭でもあるんだけど)

 それから七日後、木葉は突然現世に戻されたかのように装って、自宅の外へ足を踏み出した。最初に噂の種をばら撒いていたことが功を奏して、やはり木葉は神隠しに遭い、そのために妾の身分は解消されたということになっていた。

 国庁の正殿に上げてもらい、木葉は久しぶりに国守と対面した。

「申し訳ありません、あたしが勝手に取り引きに応じようとしてしまったばかりに」

「いや、君のせいじゃない。そもそも国印を盗んだ大領側に全責任があるんだからね。無事に戻って何よりだよ」

 大足は心なしかやつれて見えた。立て続けに国守の資質が問われるような重大な事案が発生したのだから当然と言えた。しかし、とりあえずは国印も木葉も戻り、大領家の企みを関係者である勝から聞き出すことができたのだから、一安心だ。今後は、勝に協力をしてもらって確たる証拠を掴む段階に入る。

「大足さんも無理しないで。あなたが下総国守であることは、あたしたちにとって、とても大切なことなの」

「ああ、わかった。ありがとう。ところで、医学の勉強はすぐにでも再開するだろう?」

「もちろん。まだ完全に履修が終わったわけじゃないし、技術を向上させなきゃ」

 大領家に軟禁され、医学の経に触れずに五日間過ごして、改めて木葉は自分には医学を学ぶことが必要だと感じていた。

「木葉、君は医学舎での修業を終えた後、平城宮でさらに学びたいと思わないかい?」

 大足の問いかけは寝耳に水だった。男の国医人は優秀で意欲があるならば、国守が太政官に中央での勤務を申請することができるのだが、まさか自分がその対象になるとは思っていなかった。

「君は女医になるために勉強を始めたけれど、私は医人と同じ科目を学ばせるよう指示した。でも、下総国では本来の女医が担う科目、つまり産科のことだけど、それを適切に教えられる医人はいないんだ。いくら日下部が有能でもね」

 平城宮では女医生たちは典薬寮の医師から指導を受け、試験に合格して女医になると皇族たちの女性の病やお産を担当することになっていた。

「確かに大足さんの言う通りだわ。里の診察をするなら、お産に立ち会うことはたくさんあるでしょうし、それ以外にも最新の経で勉強できるのは平城宮でしかないわね」

 木葉は突然目の前に開かれようとしている平城宮での勉強の道に、心を躍らせた。もしもっと高度な知識と技術とを身につけて、再び下総国に戻ることができたら、どれほど民のために素晴らしいことか。

 そして、木葉は勝もまた中央で勉強したいと意気込んでいたことを思い出した。しかし、勝は謀反に加担した身である。

「あの…… 勝はどうなるの? 彼も典薬寮に行きたいって言ってたけど、もう、無理なのよね?」

 一抹の期待を抱きながら尋ねたのだが、意外にも大足ははっきりと勝の今後については語らなかった。

「君は自分のことだけを考えなさい。勝のことは別問題だよ。大領家の謀反のことはこれから処理しなきゃいけないことだけれど、君が女医生としてどうするかとは関係ない話だ」

 勝の処遇がどうなるかがわからず、すっきりしないままであったが、ともかく木葉は中央で勉強したいという意思を国守に伝え、その日は退出した。


 翌日から日下部博士の元での勉強が再開された。医人の勝は臨床に出ていてそれなりに忙しく、やはり木葉の指導は引き続き医博士が担当することになった。

「少し間が開いてしまったから、初めから復習しようか。『鍼灸甲乙経しんきゅうこうおつきょう』を開いて。この経は現存する最古の鍼灸の医学書で、皇甫謐こうほひつが編集して作成したものだ。この医人は若い時はちっとも勉強しなかったそうだよ。それはともかく、鍼灸も湯薬も外側か内側かという違いだけで、治療の効果は変わらない。もちろん両方試しても構わないんだ」

 鍼灸の治療を行うには、全身に散らばっている多数の経穴を知らなければならず、しばらく木葉はこれを覚えることと格闘した。

「うーん、まずは十二経脈を覚えないと」

 医学舎の廊下を歩きながら、木葉は木簡の表に書かれた経脈の名称をつぶやいた。裏にはその経脈の主要な経穴が記されている。自分で暗記のために作った木簡だった。

「手太陰肺経は、肺に不調がある時に刺激するのよね。この経穴は…… 少商、経渠、尺沢、中府。うん、合ってる。次は手陽明大腸経。これは腸の不具合に効く。商陽、合谷、陽渓、支正――」

「違う、偏歴だよ、陽渓の次は」

 聞き慣れた声にはっと顔を上げると、目の前には勝が立っていた。

「支正が出てくるのは手太陽小腸経だ」

「勝! 急に、びっくりしたわ!」

「僕だって驚いたよ。木簡に集中して前を向いて歩かないから……」

 勝は以前と異なるところがあった。それは、深縹こいはなだ色の衣を着ていることだった。最終試験を通過して医人となり、先日、外従八位下の位階を授けられたのだった。

「ねぇ、全部話は聞いたわよ」

「ああ。別に言い訳する気はない。関与したのは事実だし、僕を含めて大私部の連中が逮捕されるのも時間の問題だから」

 何もかも諦めたと言いたげに、勝は薄く笑った。せっかく医人になって位階を授けられたというのに、夢はとてもとても儚かった。

「あんたは綾苅と一緒にあたしを徳麻呂から助け出そうとしてくれたのよね。ありがとう」

 木葉は笑顔を見せた。勝が負っている罪を帳消しにするくらいの、日の光のような笑顔を。

 もし自分が、初めから木葉がこの笑顔を見せてくれるに値する男だったら、違った道が開かれていたかもしれない。相手が賤民だといって高慢な態度を取り、ひどい言葉も吐いた。医学の本質から目を背け、利己心だけを満たそうとしていた。

 木葉と出会って少しずつ自分の内側が変わっていくのを感じていたが、この意思の強い女人と正面から向き合うには遅すぎたようだ。

 国守のように、曇りのない瞳で木葉を見ていればと悔やんでも今さらどうすることもできない。

 あれから徳麻呂はそれなりに凹んでいるようで、夜、自棄酒に付き合わされることもあったが、もはや勝の従兄に対する感情は冷え切っていた。

 叔父も勝に毒薬はまだかと急かしてくるが、そんな簡単に作ることができたら医人の名が廃れます、何なら日下部博士にでも頼んでみたらどうですかと、皮肉で返していた。

 木葉と医学舎の廊下で別れた後、勝は松ノ里の大森に向かった。まだ桜が咲くには早いが、道端には花韮が咲き、林の中には馬酔木の赤い房が見え隠れしている。

 大森の入口から少し奥に進むと、少領の息子である他田古忍が勝を待っていた。

「勝さんにはまだこの中を見せていませんでしたからね。すごいですよ」

 言われるがままについていくと、さらに奥まった行き止まりには大伴佐流がいた。佐流は軽く二人に会釈をすると、何か呪文のようなものを唱え、ついてきてくださいと言う。しかし、そこは行き止まりだ。

「壁に向かってるけど?」

「気にせずに歩いてください。私の術でこういう壁を作っているだけです」

 半信半疑で壁に向かって歩くと、衝突せずに先に進むことができた。とても奇妙な感覚がした。大森の中や壁の付近はほとんど暗闇だったのだが、壁を抜けると外と変わらない明るい大きな広場があった。

「すごいな」

「でしょう? 武器を作るための鍛冶場、高級織物を作る染色、織物工房、それに銭を作る鋳造所を設けてるんです。織物と銭は正規ではなくて裏の取り引きで高くつきます。まぁ、言ってみれば軍資金のためですね」

 古忍はあたかも自分がこの場所を作り上げたかのように、自慢げに説明をする。そこで、勝は尋ねた。

「人手はどこから持ってきてるんだ?」

「国内の各地からですよ。佐流殿が操ってここに集めました」

 それはつまり、人さらいと同じではないか。

「顔を見せないようにしてるので、里の者からは修行者だと思われているようですが、その方が都合がいいので否定はしません」

 なるほど、修行者の正体はここに強制的に集められた作業員たちだったのか。

 それから、古忍は勝を鍛治場と織物工房に案内をした。作業行程で発生する汚染水はここから流れる小川にそのまま捨てられている。これが原因で、牧の馬が中毒になったり浜梨谷で魚が大量に死亡していたのだ。

 織物工房にはまた一人見かけない人物が、作業員たちの間を歩き回っていた。

「あれは? 官人のようだけど」

 その男は浅縹色の袍をまとっていることから、初位の官人だとわかる。

「紹介します。大蔵省織部司から来ている挑文師あやとりのし錦部連継手にしごりのむらじつぐて殿です」

 古忍が挑文師に近付くと、継手は作業を顔を上げて勝に礼をした。

 なぜ中央の技術官人が下総国にやって来たのかと言えば、元々は今から六年前の和銅四年から諸国に挑文師が派遣され、高級織物の技術を習得させたことが発端だ。

 数名の技術者が全国を回るには時間がかかり、下総国府にはようやく去年の春先に挑文師がやってきたのだった。

 しかし、継手は国府への技術伝達のみならず、私的に前国守佐伯百足の指示に従って、隠し工房での機織りと染色の監督を担当していた。

「ずっとこの大森で生活を?」

 他の国への指導はどうしたのだろうと、勝が疑問に思って尋ねると、継手は否と答えた。

「医人殿は工房のことなど気にされていなかったでしょうから、わからないかと思いますが、私は去年の夏までは国府で働いていましたよ。それから常陸国と武蔵国への指導をして、またここに戻ったんです。この隠し工房の様子をまた見に来てくれと大領に頼まれていましたからね」

「なるほど」

「ついでなので、工房内を見てみますか?」

 古忍が言うと、継手も同意し、勝に説明をしていった。

 工房内は独特な臭いがする。小川沿いの小屋は染色場、その手前が機織り場となっていて、国内から強制的に連行され、操られている人々が作業に従事していた。初めてその光景を見た勝は、不快な気持ちになった。魂がすっぽり抜かれて、肉体という器だけが黙々と手を動かしている様子は奇妙で恐ろしい。

「こいつらは、自分の意思を失ってるのか?」

「はい。大伴佐流殿は相当の使い手です。どこで修行したのかは知りませんが、佐流殿がいなければ、今回の計画はなかなか難しかった」

「そうか。ここに充満してる臭いは……?」

 勝は先ほどから気になる臭いがあった。それは、すっぱいような鉄の臭いである。以前、木葉が妹が暴漢に襲われた時にそういう臭いがしていたと言っていた。

「この臭いは? 機織工房はみんなこういう独特の臭いがするものなのか?」

「いえ、染色媒体が違えば異なりますよ。ここのものは、私が去年の春に下総国にやってきて、平城宮の工房で使われている最新の染色媒体を教えたから、こんな臭いなのです」

「てことは、その前はこの媒体は下総国にはなかった?」

 何かが勝の中で結び付くような気がした。勝の問い掛けに、継手は両手を揉みながら誇らしげに言った。少し小柄な継手に上目遣いで見上げられると、腰の低い市の売り手と話しているようだ。

「はい。今でこそ国府の正式な工房でも使われていますが、初めはこの大森の工房だけが独占していたんです。やはり色艶の出方や落ち着き具合が違いますから、まずは佐伯様の工房にと……」

「なるほど。よくわかったよ」

 腕組みをした勝の独り言は、古忍と継手には、別の意味で受け止められた。文字通り、勝が工房の重要性を理解してくれたのだと思っている。

 ここで作られた品々は、密かに持ち出されて売れるものは売り払い銭に変え、武具は慎重に隠されて海路を西へ進んだ。もちろん難波津の手前で夜陰に紛れて荷揚げするのだ。

 大森の見学が終わると、勝は挑文師から話を聞きたいと言って、継手を自宅に招いた。

 酒と食事を提供して、とりとめのない雑談をし、織物の最新の技術について教えを乞う。こうして警戒心を抱かせないようにして、勝はさりげなく本題に入った。

「ところで、新しい染色媒体のことは皆知ってるのか? 今日みたいに古忍が立ち会ってたとか」

 もし挑文師だけで操られた人々に新しい染色媒体の作り方を教えたのなら、木葉の妹を襲ったのは継手である可能性が極めて高い。なぜなら、この強烈な臭いを漂わせて外に出られるのは継手だけだからだ。

 しかし、他にもこの作業に関わった人物がいれば、犯人は特定しづらくなる。

「ああ、あの日は確か、大領のご子息様が見にこられましたね。本当は前国守がいらっしゃる予定だったのですが、国府の工房の視察で来られなかったのです」

 ああ、やはり徳麻呂が疑わしき人物になるのか。勝は溜め息をついた。長時間の機織り労働の帰りの娘を、暗闇で待ち伏せして無理やり自分のものにしたのが、長年親しく付き合ってきた従兄だったなんて。

 ところが、継手は話を続け、もう一人、その場にいた人物がいたことを告げた。

「徳麻呂様が見にこられたのですが、この臭いを嗅ぐなり、近づきもせずに帰ってしまわれて。その後、すぐに少掾がいらして、作業を見守っておりましたよ」

「少掾だって?!」

 勝は耳を疑った。あの下総国府の三大目の保養組と言われ、物腰の柔らかく現国守にも誠実に仕えている榎井知麻呂が、陰謀に加担していたとは。

「はい、あの方は昔から佐伯様と懇意で、小掾に選ばれたのも佐伯様の推薦があったからと聞いております。そうそう、あの日、ちょっとした事件がありましてね。いや、笑い事なのですが。私が染色媒体の入った桶をその辺に置いた時、ちょうど辺りがぬかるんでいて、うっかり少掾が足を滑らしてしまいましてね。桶に足が掛かって、汁をこぼしてしまったんです。少掾の足元から袍の裾にかけて、びしょ濡れです。焚き火で乾かしたのですが、まぁ、鉄と酢の臭いはとれずにそれはそれはかわいそうでしたよ」

 人は見かけによらない、ということを勝は痛感した。

 誰も知麻呂の存在に注目してなかった。大私部家や大伴佐流のわかりやすい反抗的な態度がいかに目を引き、そのために穏やかで一見真面目な知麻呂の言動に注意を払わなかったのは、やむを得なかったのではないか。

「その災難を被った小掾はその後どうしたんだ?」

「また国庁の方に戻りましたよ。夜もそちらで仕事があると言ってた気がします。国司の皆さんは忙しくてご苦労さまでございますよ」

 少掾はその後、国庁にいたということか。そうなると、機織り工房の様子も確認できるし、頃合いを見計らって枳美の退出を待ち伏せすることも可能だ。

 継手を帰す頃には、勝は知麻呂を枳美の暴行犯であるとほぼ確信するに至っていた。

 木葉によれば、枳美を襲った男は中肉中背で、枳美を好いていると言ったらしい。だが、この挑文師はやはり小柄だし、去年の春の時点で枳美を見知っているはずがなかった。

(少掾は赴任してからそれなりに長い。いつからかはわからないけど、工房で働く枳美を知った後、密かに追い続けていたんだろうな。このままあいつを揺さぶって白状させるべきか。いや、何はともあれ国守に報告するのが先だ)

 また一つ、不愉快な真実に近づけそうだ。

 勝はやりきれない気持ちを払拭しようと庭先に出た。小さな人工池の水辺に堅香子かたかごの花が一つだけ、月明かりに揺れていた。

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