第6章 それぞれの運命 (1)国守危うし

 川魚の燻製を少し炙ったものを酒のつまみとして、国守高向大足くにのかみたかむくのおおたり国介忌部小路くにのすけいんべのこみちは向かい合って座っている。木葉が見れば、眉間に皺を寄せて考え事をしている大足さんも素敵だわなどと言いそうだが、二人の下総国の幹部は胃が痛くなるほどの責務を抱えていた。

 腕組みをしていた手をほどいて、大足は床に置かれた一通の紙を取り上げた。

「中務卿には感謝してもしきれないな。もちろん、我が師匠の宮内卿にもだが」

 その紙には中務卿の印が押してあり、正式な公文書だということが一目でわかる。下総国府の正倉を開けることを許可するという文書だった。

 国守は国守であることを示す印と正倉などのやく、つまり鍵を管理するのだが、実は正倉を勝手に開けて保管されている租を使用してはいけないという決まりがあり、使用する場合は中央の中務卿の許可を得なければならなかった。

「今回はどうやっても不動倉から租を出さなければ予算が足りませんでしたからね。佐伯殿の時代に、主要な橋や道や津の修繕が行われていなかったのは驚きです。いや、今さら驚くことではないのかもしれません」

「下総国の民は本当に不幸だった。これほど大掛かりな不正が行われるのも珍しいものだよ」

 大足は国政を行うにあたって、無から様々なことを調査することにした。元々、国守就任が決まった時にはそう考えていたが、光藍がもたらした国内のお粗末な行政管理の報告を知って、余計に一から始める必要があると確信したのだった。

 公共財の修繕が行われていないにも関わらず予算が消化されていたり、不要な増税が適用されていたり、はたまた民が理由なく消えてしまっていたり、前国守の管理が疑問でないなどと誰が言えようか。

 資金が民の生活基盤の安定や福祉に一切使用されず、どこかに消えてしまったという事実はそれだけで由々しき事態である。大足は光藍の調査報告を元に、今までの国府の帳簿と照らし合わせて詳細な記録を作り、それを密かに宮内卿安倍広庭に送付した。同時に、真間の入江の洞窟で発見された隠し財産や人形、松ノ里の大森の奥深くに設置されていた謎の鍛冶場のことも報告するのを忘れなかった。

「ただ、入江の件では大領の息子徳麻呂が関与して、大森では少目の佐流や少領の息子らが目撃されたということですが、だからといってそれは状況証拠に過ぎません。大領の石麻呂が直接関わっているのかまでは断定できませんし、佐伯殿とどういう繋がりがあるのかも……」

「そうだなぁ。そこが問題だよ。安倍殿には佐伯殿の動向を見てもらうよう頼んだのだが、特に自宅を出ることなく過ごしているらしい。老体と言えば老体だからね」

 大足は徳利を逆さにして数的しか酒が出てこなかったことに溜息をついて、誰かいるかと呼んだ。今日は佐久太を休ませ、自由時間を与えているのだ。

「はい、いかがされましたか?」

 戸が開いて顔を覗かせたのは遊行女婦の月紗だった。なんだ宴でもないのに遊行女婦がいたのかと小路が笑うと、月紗は少し頬を膨らませて言った。

「あら、遊行女婦にも雑用がございますのよ。歌舞の練習だけなら、楽なのですけど」

「それはすまぬ。何でもいいから厨から酒を追加で持ってきてもらえないか。もう厨女も帰っているだろうから適当でかまわんよ」

「はい、少々お待ちください」

 三人の遊行女婦の中で一番物腰が柔らかい月紗はいつも通り、優美な微笑みを見せる。月紗が正殿を離れると、国介は話を再開した。

 天皇家に対する良からぬ計画を佐伯氏が担っているかどうかをはっきりさせたいところだ。

「先ほどの話ですが、佐伯殿自身は動かないかもしれません。しかし、佐伯氏は大伴氏に並んで武門の誉れ高く、多くの一族がいますよ。百足ももたりうじの長者ですから、親族に密かに指示を出してあれこれ準備をしている可能性もあります」

「ああ、その通りだ。実は俺の長兄が右兵衛率をやっていた時、左兵衛率は佐伯垂麻呂さえきのたりまろという男だった。兄によれば、佐伯はなかなか結束が強い一族らしいし、やはり武人としての腕は確かなようだよ」

「では水面下で軍備を整えているということも考えられなくはありませんなぁ」

 直接的な証拠を押さえない限り、中央に報告しても適切な対応を取ってはくれない。前国守の不正経理と、大領家による謎の行動が結びついているのかどうか。まだ大足と小路には確たることは言えなかった。

 だから国司が今できることは、民の生活環境を改善するために租を使うことなのだ。

「中務卿の許可も得たことだし、早速明日、正倉を解放することにしよう。全て開ける必要はないな。まずは西側の二棟から。足りなかったら順番に開けていけば良い」

「はい。作業に携わった者たちへの支払いが随分後回しになってしまいましたから、早いにこしたことはありませんね。とりあえず作業に従事させる使部は二十名ほど手配しておきます」

 小路が言い終わると、ちょうど良い頃合いで月紗が盆に徳利を二本乗せて再び姿を現した。

「これでよろしいですか? 帆立の干物もお持ちしましたよ」

「お、気が利くなぁ。さすが国府の遊行女婦じゃないか」

 つまみも欲しいと思っていたところだったので、月紗の気配りが嬉しかった。大足は礼を言い、もう遅い時間だから仕事は切り上げるように注意すると、月紗は素直に頷いた。国守と国介の二人は追加された飲食物で、それからしばらく国政について語り合った。

 同じ時刻、訴訟関係の仕事のため東脇殿で残業をしていた大掾星川正成は曹司の外を人が歩く音に気が付いた。こんな時間に誰だろう。何となく気になって戸の隙間から覗いてみると遊行女婦の月紗ではないか。

「こんな時間にどうしたのですか?」

 女人が夜遅くに一人で出歩くのは危険だと思い、正成は声を掛けた。ところが、月紗は叫ぶことこそしなかったが、非常に驚いた様子でこちらを見返したのだった。

「ああ、大掾様でしたの。驚かせないでくださいませ。少し雑用があって、先ほど国守様たちに酒をお持ちしたところです。もう戻りますわ」

 月紗はふふと微笑んで袖を口元に当てた。

「そうですか。しかし、一人では危ない。宿舎まで送りましょう」

「まぁ、お仕事の邪魔になります。宿舎はすぐそこですから」

 正成の申し出をやんわり断った月紗は軽く会釈をしてその場を立ち去った。しかし、どういうわけかさきほどの驚き方が尋常でなかったことが引っかかり、正成は月紗に勘付かれないように注意して、後方から後をつけることにした。

 遊行女婦の宿舎は国庁を出てすぐ西側の区画にあり、その一帯は国府で働く下級の女人たちのための生活の場だった。ところが、月紗は宿舎に向わず、東へ進路を変えて小走りで進み始めた。

(もしかして逢引きでもするのかな)

 可憐な月紗のことだから、国司の誰かあるいは郡司の誰かと恋仲になっていたとしてもおかしくはない。国府の遊行女婦と言えども恋をする自由くらいはある。

(あ、池守のやつかな、相手は。まだ独り身らしいし、前に宴で大足殿が池守に月紗をつけてやってたしな。それなら心配はないんだが)

 ここまでやってきて、引き返すのも癪だと思った正成はもし逢瀬だったらそれはそれで納得できると勝手に月紗を追い続けた。しかし、月紗が向かった先は逢瀬の相手どころか、どういうわけか大領家であった。

 既に就寝してもよい時刻で、これから遊行女婦を呼んで宴を開くことは考えられない。とすると、個人的に用事があるということか。大領家に恋人がいるのではとも疑ったが、息子の徳麻呂が執着していたのは大海だ。まさか大領自身が月紗を囲っているのだろうか。

 色々考えを巡らせるが、朱流も大海も遊行女婦に対して強引な態度に出る大領家を嫌っているのは明白で、月紗とて仲間の遊行女婦と同じ気持ちのはずだ。

(野暮な詮索かもしれないな。でも、まさか月紗は……)

 しんしんと冷え込む空気に耐えかねて、正成は思考を動かしながら踵を返した。 とりあえずもう自分も帰ろう。今から国庁に戻ったところで国守たちも退出しているだろうし、いい加減床に就かなければ。残してきたのは、徹夜をしてまで取り組まなければならない仕事でもなかった。


 目の前が紅蓮に染まっている。あまりにも強烈な光と熱が大きくうねり、まだ太陽の片鱗すら現れていない早朝に現場に駆け付けた大足を愕然とさせた。

 国庁に付随する正倉四棟が燃えている――。

「国守様、火の回りが速過ぎてこの人数での消火はできません!」

 夜の警備に当たっていた舎人が報告に来たが、大足は一喝した。

「不可能を口にするな。消火させるんだ。私も手伝う」

 言うや否や、大足は正殿裏側の貯水池に向かい、なんとしても延焼をくい止めるよう指示を出した。よりによって燃えているのは今日解放しようとしていた西側のものだ。

「絶対に他の棟に飛び火をさせるなよ!」

 正倉群の周囲には隣接する建物はない。従って、密集している正倉だけが炎の餌食なのだ。

「人をできるだけ集めました」

 国介が報告に来て、わらわらとやってきた人の集団を見ると近隣の民たちだった。寝ぼけ眼で何が起こっているのかよくわかっていないようだが、燃え盛る倉庫群を見て一大事だということを理解したらしい。

 あの中には自分たちが納めた貴重な田租が保管されているのだ。みすみす焼失させてたまるか、という思いが彼らの消火意欲を一気に焚きつけた。

 結局、寄せ集めでも大人数が消火活動に従事したおかげで、正倉は最初に燃えていた四棟のみが全焼あるいは半焼しただけで済んだ。鎮火が確認されたのは、朝日が顔を出してから半刻経った頃のことだった。

「見回りの兵士や舎人たちは一体何をしていたんだ!?」

 国府にとって最も大切な財産を半分近く失ってしまった国司たちの間に衝撃が走り、皆呆然としている中で、国介は怒りを顕わにした。しかしいくら怒ったところで、正倉は元に戻らないし、最初に火災を発見した見回りの舎人は人影など見ていない、あれは神火じんかに違いないとの一点張りだった。

 神の仕業による火災だという噂はあっという間に広がり、下総国は神に祟られているなどと不穏なことを言い出す者もいた。せっかく新しい国守が着任し、今年の収穫はここ数年で最も良いものだったので、民の間の動揺は余計に大きかった。

「これはこれは、国守様、正倉が神火に見舞われたとのこと。全焼とならなかったのは不幸中の幸いですな」

 昼過ぎにのこのこと現れたのは大領の大私部石麻呂おおきさいべのいしまろだった。

「何でも、神火は神の意に反した国政が行われている時に、国守に執政を改めるよう促すために発生するとか。いや、私めが国守様の執政をとやかく言う筋合いはございませんが、神のご意向とあらば、この半年の執政を振り返っていただくのがよろしいかと存じます」

 いかにも神を畏れ、郡司の筆頭として国守のやり方を心配しているのだという面持ちで、石麻呂は進言した。

 この時、既に大領は大足が前国守の不正を調査し、入江の洞窟や大森にその手が及んだことを知っていたが、さりとて逆に追及することはせずに気付いていないふりを決め込むことにしていた。

 若い国守のお手並み拝見という気持ちと、たとえ謀反の計画が国守の知るところとなったとしても、平城京の佐伯百足がうまく立ち回ってくれるはずだという楽観があったためだ。

「大領、常に反省の態度で執政に臨むことは重要ですが、私は神に誓って、下総国の民を苦しめるような行いをしたことはありません。神火という噂はただの噂です」

 この土地を牛耳ってきた老練な豪族の挑発に対して、大足は努めて冷静に返した。本当のところ、神火でなくとも正倉を四棟も焼失させてしまったことは、理由が失火であれ放火であれ、責任は国守に求められるのでそれだけでも大足にとっては痛手だった。

 案の定、石麻呂は「いずれにせよ国守の失態ということですな」と断罪し、大足の前から去って行った。

「不審火の調査は私と史生らで行います。昨晩の警備態勢を確認し、上番していた舎人や兵士に聞き込みを。他に調査すべき点はありますか?」

 この日、正殿に国司が集められ、正倉焼失事件について会議が行われることとなった。予定されていた行事や他の仕事は全て延期だ。少掾の榎井知麻呂が事件の調査に当たることになり、大足は調査事項を指示した。

「不思議に思っていることがある。なぜ初めから燃えていたのが西側の四棟だったのだろう」

「それは…… もし放火であれば、たまたま犯人が西側からやってきたからでは?」

「しかし私が犯人だったとしたら、東側を狙うよ。燃やすことが目的ならば、東側の正倉の方が古いし、少し間隔が狭くなっていて燃えやすいだろうからね」

 そして調べるまでもないことだったが、大足が現場に駆け付けた時、四棟が同時に同じくらいの強さで燃えていた。ということは、偶然の失火ではない。徐々に燃え広がったという感じではなかったのだ。

 要するに、と忌部小路が結論づけた。

「これは明らかに放火で、犯人は西側四棟を初めから全焼させるつもりで火を点けたということだ。しかも、西側の二棟は、中務卿の許可が下りて今日開放する予定だった」

「では、犯人はどういう理由かわかりませんが、開倉を妨害したかったということでしょうか?」

 大目が恐る恐る尋ねると、国守はこう答えた。

「ところが、あの時刻まででこの話を知っていたのは国守である私と国介の二人だけなんだよ」

 すると鼻を鳴らして暗に否定的な意見を伝えた者がいた。少目の大伴佐流だ。佐流は「それならば、国守か国介のどちらかが放火犯、いや、共犯かもしれませんがね」と、背を丸めくぐもった声で言う。

「自分で自分の首を絞めるようなことは、いくらなんでもしないでしょう、大伴殿」

 知麻呂が木簡への記録の手を止めて、やんわりと制した。

 佐流は何か知っているのだろうか。浜梨谷で少領家の他田古忍と謎の修行者と共に目撃されて以来、いや、市場の物価調査を指示して以来、大足は佐流を要注意人物と見なしていた。

 実は佐流が報告してきた物価動向と阿弥太と枳美が見聞きしてきた実情に乖離があり、佐流の言い分では一部の商品に物価上昇がみられるものの、それは輸送の遅れなどによる一時的な現象だということだった。

 しかし、密かに市場に行かせた阿弥太と枳美は、長期的な品薄が原因で物価が高くなっていることを売り手から聞き出しており、偶然にも贋銅銭が大量に作られていたことまで発覚したのだ。

 お互いがお互いを騙し合う。素知らぬ顔をして、普段通りに勤務し、命じたり従ったりしている。

 会議の間ずっと沈黙を保っていた男がいた。星川正成である。

 正成は国守に「ちょっと」と声を掛け、共に中庭の真ん中まで歩いていくと耳打ちをした。

「昨晩、遊行女婦をお呼びになりましたか?」

「朱流のことか? 昨日はずっと介と一緒に正倉の開放について話し合っていたよ。だから彼女とは……」

「いえ、そういうことではなくて。その話し合いの場に月紗を呼ばれましたか?」

「ああ、たまたま酒がなくなったから、人を呼んだら月紗が来てくれたが」

 この話は、月紗本人から聞いたことと相違ない。

「月紗が正殿を退出した後、実は私が女人の一人歩きは危険だから宿舎まで送ろうと申し出たのです。ところが、月紗はその足で大領家に向かいました」

 形の良い大足の眉が片方つり上がった。帰るよう促すと素直に頷いたので、てっきり宿舎に戻ったものだとばかり思っていたが、不可解な行動をとっていたとは。それではまるで――。

「その時は、大領家に誰か背の君でもいるのかと考えましたが、今朝の正倉の事件が起きて、考えを改めました。月紗は給仕にかこつけて高向殿の話を盗み聞きし、それを大領家に報告をしに行ったのでしょう」

 もしそうであれば、月紗は急いで酒を厨から持ってきた後、しばらく曹司の壁際に座って中での会話を聞いていたということだ。そして、話のきりの良いところで、ちょうど厨から戻ってきたように装い、曹司に入ってきたのだ。

 大足はその昔、同じように情報収集を任され自分の持ってきた台帳をやむなく盗んだ遊行女婦がいたことを思い出した。

 越前国府の朝日という女人は国守に命じられ、悪気のないまま台帳を持ち出したのだが、国守の魔の手から逃れるために大足が越中国へ赴く際に共に出奔したという経緯がある。

「月紗のことは私に任せてください。本当に間諜まがいのことをやっていたのか、そうだとしたら自発的にか強制的にか、探ってみます」

「わかった。くれぐれも、月紗を追い詰めて身を危険に晒すことがないように頼むよ」

 それから数日間、警戒心を抱いたのか月紗の姿を見かけることがなかった。結局、正倉周辺をうろついていた怪しい人物なども見つからず、大足が否定しても神火の仕業であったということになってしまった。一通りの事件調査が終わると、大足は民部省へ報告を送ったのだが、四棟もの正倉を失ったとあれば下総国守の責任は重い。

 正成はせめて遊行女婦と大領家の繋がりを炙り出そうと、一つ罠を仕掛けることにした。大目の池守が月紗に好意を寄せていることをちょっと利用させてもらう。

 ある日、曹司に籠っていた月紗は大海から文を受け取った。

「池守様からよ。素敵な模様の文ね!」

「あら、どうしたのかしら」

 月紗は文を開いて読み始めた。そこには、「しばらく顔を見ていないので具合でも悪いのではと心配している。もし良ければ今夜お逢いできないか」と、したためてあった。

(池守様、お優しいのね。少しだけなら、外に出ても構わないかしら)

 月紗の口許が綻んだ。数日前の夜、国守たちの会話を盗み聞きして、大領に伝えるという大仕事をやってのけてから気が休まる時がなかった。

 退出する時に大掾に出くわしたのは予想外で、もしかしたら気付かれてしまったのではないかと恐れた。しかし、あちらから何も言ってこないし、正倉の事件は神火ということになっている。

 遊行女婦だって仕事がない時は、親しい国司と気兼ねなく過ごしたいのだ。

 ――御気遣いありがとうございます。今夜、晩酌のお供でよろしければ御自宅に伺います。

 国庁に勤める官人や雑任たちがぼちぼち退出する頃、月紗は小綺麗に身支度をして大目の屋敷に向かった。

(池守様は従八位で位は低いけど、それでも立派な中央官人よ。朱流さんはすっかり国守様と仲良くなってしまって……。まさか国守様の妾になって平城へ行ってしまうとは思わないけど、私だって中央の殿方に目をかけていただきたいもの)

 おっとりとした見かけの月紗も、しっかりと女心をときめかせているのだった。

 大目の屋敷はそれほど広くはない。国守などと違って仕えている資人もいないので、庭先を歩いていた奴に来訪を告げる。小さな正殿に案内され、しばらく待った。 そして、戸が開くと――。

「だ、大掾様! なぜ……?!」

 にこやかに現れたのは待ち人の安倍池守ではなく星川正成であった。月紗は腰を浮かせて身構える。あの文の筆跡は確かに大目のものだったはず。

「すまないね、池守との逢瀬は僕の質問に答えてから楽しんでもらえるかな」

「池守様とあなた様は示し合わせてこのようなことを……」

「いや、彼は何も知らないよ。君に文を出したらどうかと提案したのは僕だけれどね」

 正成は月紗の前に腰を下ろした。逃げても無駄だよ、と笑いながら遊行女婦を制す。下総国府の三大「目の保養組」に数えられる正成が微笑めば、遊行女婦でさえうっかり靡いてしまいそうだ。

 だが、今の正成の微笑みは薄ら寒く思える。逃げても無駄だよ、という言葉ははったりではないだろう。

 月紗は座り直して背筋を正した。

「単刀直入に訊こう。正倉が焼けた日の前夜、大領家に行ったね? あそこに懇ろになった男がいるわけでもないでしょう。その前に国守と国介の会話を盗み聞きして、大領に伝達したのでは?」

「だからどうだというのですか。私はただ、石麻呂様から国の重要な財政の話を聞いたらすぐに教えてほしいと頼まれただけです。郡にも関係する話ですもの」

 自分のやったことのどこが悪いのかと、月紗は開き直って正成を直視した。確かに月紗の役目はただ大領に明日の予定を伝えただけだ。正直に言うと、正倉が燃えたと聞いて動揺していた。

「では正倉が焼失したこととは関係がないのですね?」

「はい。私が放火したと疑われてはかないません。石麻呂様のこともお疑いのようですけれど、どうして正倉を焼かねばならないのかわかりませんわ」

 そう言う月紗は心底、大領の無実を信じていた。おおかた、月紗は大領の手がついているのだろうな、と正成は推測した。大領と池守を手玉に取るなど、なかなかしたたかな娘だ。

「さてと。僕はこれで引き上げるよ。池守を呼んでくるから。僕との会話は大領に話しても構わない」

 正成は立ち上がり、曹司を出ていこうとした。すると月紗が艶然と言い返す。

「私が大領にお話することは、国の財政のことだけです。大掾様とお会いしたなどと伝えれば、あの方は嫉妬するわ。池守様とのことも秘密ですもの」

 どうも遊行女婦の考えていることはわからないな、と正成は苦笑した。

 それにしても大領のやり方は巧みだった。遊行女婦には特定の情報だけを伝えさせ、その目的は伏せて実行にも関与させない。おまけに、国守は悪いやつであると吹き込むことも特にしていない。

(これでは月紗は、自分が間牒の役目を負わされているとは自覚しないな)

 結局のところ、大領が正倉の放火に関与しているかどうか、確たる証拠を掴むことはできなかった。

 しかし、正倉を焼かねばならなかった理由は以前、真熊らが発見した洞窟内の稲の束が考える材料を与えてくれた。

 翌日、国守が国介と大掾に自分の推測を語った。正殿はいくつもの火鉢が置かれ、見かけによらず寒がりな小路は火鉢を目の前に移動させている。

 もう一年の終わりが近付きつつあり、寒さに弱い子供や老人に体調不良の者が増えているという報告が上がっていた。

「これを見てほしい」

 大足が二人の部下に差し出したのは小さな荷札用の木簡である。「国倉四」という墨書が読める。

「これは?」

「実は先日、真熊が洞窟内に隠されていた稲の束に付けられていたと言って、持ってきたものだ。今まで忘れていたらしい。まぁ、つまり、その稲の束は国府の正倉第四棟に納められていたが、密かに出されて洞窟に持ち込まれたんだろうね」

「正倉を開けられるのは国守だけですよ」

「そう。だから、これは前国守が介在しなければ起こり得ないことだ。しかも、大領の息子が婢を使って人を遠ざけていたことも考えると……」

 その先は言わずとも皆理解した。両者は繋がっている――。

 そして、正倉が焼かれたのは、それが開かれた場合に中身が一部持ち出されていることや、もしかしたら全部なくなっていることが発覚してしまうからだろう。

 これを神火として、神の祟りのせいにしてしまおうという魂胆だったのだ。

「そろそろ、大領に直接対峙しなければならない頃かもしれないな」

「望むところですね」

 主上から預かった下総国と民に正しく向き合わねばならないのは前国守だが、この土地の豪族とてその責任は免れまい。

 ところが、国府の混乱はこれだけでは収まらないことを、大足たちはしばらく後に知る。


 その事実を飲み込んだ時、綾苅はこの世には本当に神も仏も存在しないのだと悟った。

 まさに正倉が焼失した日、野次馬としてのこのこ様子を見に行き、そこで幻想のようなものを見たのだ。

 ――木葉が萌黄色の衣を着てる。

 人違いだろうか。目を見開いて再びその女人の姿を群衆の中に確認する。やはり。愛する女人を見間違えるはずがなかった。

 ただし、その隣には勝の代わりに医博士が並んでいた。木葉は心配そうに正倉の方を見つめていた。

 訳がわからない状態はすぐに解決してしまった。牧への帰り道に、同じく姿の変わった龍麻呂に出くわしたからだ。

「綾苅! 会いたいと思ってたんだよ」

「どうしたんだ、その衣。さっき、木葉の姿も見かけたんだけど……」

「本当はきちんと説明したかったよ。ただ急なことだったし、牧に行っても不在で今まで何も話せなかった。僕らの家族は良民として解放されたんだ。もちろん姉貴もね」

 その時、龍麻呂は心底申し訳ない顔をしていた。同じ仲間なのに自分たちだけが解放されてしまったこと、それなのに報告しないまま偶然道端で明かすことになってしまったこと――。

 自分は絶望したのだろうか。

 あの女人が二度と手に入らない世界に行ってしまったという事実が、先ほど見かけた、すっかり変身してしまった木葉の姿と共に頭の中に根を張ろうとしている。

「解放、されて、良かったな」

 どう足掻いても自力では越えられない一線を突然越えてしまった友人がそこにいる。仲間が解放されて嬉しいではないか。綾苅は声を振り絞るようにして祝福した。

 だが、向こう側に立っているのは自分ではない。いつまでも待つと言って、木葉を知ることなく、綾苅の恋は幕を閉じた。

「いつか、お前も解放されるよ。あの国守のことだから、牧子の働きも見てくれて――」

「慰めはいいよ。俺は一生、牧子なんだ」

 昔からそうだった。救われたこともなく、愛する人たちは奪われるばかり。それが定めなのだ。

 また独りぼっちになるだけだ。いつもと変わらないじゃないか。どうにもできない力によって、運命は残酷に采配される。

「……姉貴のことは諦めるのか?」

 当然だ、今さら何を馬鹿なことを、と言い返そうとして、綾苅は木葉の天女のような安らかな寝顔を思い出した。

 情熱に身を任せて、医学という信じる道をひた進む娘の原動力が、おそらく国守という高位の中央官人だったとしても構わない。高慢な医生からたくさん綾苅の知らない技術や知識を教えられていてもいい。

 木葉が良民でも関係ない。ずっと待っている、俺がそばにいて守ると約束したのではなかったか。

(そうだよ、あいつ、隙だらけで危なっかしいじゃないか。俺の手を離れたら良民だろうが間違いなく悪い男に騙される)

 綾苅は出し抜けに笑いが込み上げてきた。腹から押し出すように笑うと、龍麻呂は絶望した友人の気が触れてしまったのではないかと狼狽した。

「おい、大丈夫か? お前の気持ちは……」

「何が? いや、俺が木葉を諦めるのも愛し続けるのも勝手だよ。俺は木葉と約束した。木葉を守るって気持ちは、身分とは何の関係もないんだぜ」

 友人を見返す綾苅は驚くほど穏やかに微笑んでいた。恋を諦めるのではなく、約束を果たすのだ。

 ――何があっても木葉を守る。

 そう、身分という壁が二人を隔てたとしてもだ。

「龍麻呂、俺のことは気にするな。お前の姉貴は命を懸けるに値する女だよ」

 神の霊験はいらない。仏の加護もおとといきやがれ。

 綾苅にとって、木葉だけが唯一の女神であった。

 綾苅と異なり、阿弥太は同日に枳美が萌木色の衣を纏う身分になったことを本人から告げられた。

 仕事が終わって鍛治工房を出ていつものように枳美を迎えに行こうとすると、工房の出口に枳美が立っていた。この時、枳美は一度橡の賤民の衣に着替えていて、阿弥太には何か変化があったことはわからなかった。

 ただ枳美が微笑まず、それどころか阿弥太と視線を合わせようとしないのが不可解だと思った。

「ね、阿弥太、話したいことがあるの。二人だけで」

「いいよ。入江にでも行く?」

 枳美はそうね、と頷いた。

 何を二人だけで話すというのだろう。楽しい話ではなさそうだ。枳美の声には力がないし、普段帰り道に些細なことでも今日の出来事を話してくれるのに、口を閉ざしたきりだ。

 阿弥太は考えたくはなかったが、悪いことを予測していた。機織工房で嫌なことがあったのか、それともどこか体が不調なのか。家族の問題の相談か。

 しかし、そのどれも的外れな予想で、ずっとずっと悪いものであった。

「寒くない? 今、火を焚くよ」

 朝には霜が下りる季節だ。綿をたくさん詰めた上衣を羽織っても寒さは下からしみてくる。入江の洞窟の一つに入ると阿弥太は要領よく火を起こした。

 洞窟の奥は風もなく、火を焚くと意外と暖かい。

「阿弥太、今日、私はすっかり変わってしまったの。見て」

 枳美は岩に腰掛けた阿弥太の目の前に移った。炎の光が斜め横から枳美の横顔を橙色に照らす。

「おい、何を……?!」

 目の前に佇んだ娘は、なんと着ている黒衣を躊躇いもなく脱いで言った。

「その別の衣を取って、阿弥太」

 一体何が起こったのだろう。

 阿弥太は炎の光に神々しく照らされ、一糸纏わぬ娘の体の凹凸が浮かび上がっているのをぼんやりと見つめ、慌てて言われた通りに岩に掛けられていた衣を手渡す。

「私、今日からこの色のついた衣を着られる身分になったのよ。言ってる意味わかる?」

 枳美は衣を胸元で広げてみせた。

「……わかる。でも、わかりたくない」

「私もそうよ。だけど、これは姉さんの功績が天子様に認めてもらった証なの。もう元には戻れないわ」

「枳美はこの衣を着たいの?」

 阿弥太は恐る恐る枳美に一歩近付いた。焚き火の傍は汗ばむくらいに熱気を帯びている。

「阿弥太に出会っていなければ、喜んで袖を通したでしょうね」

「……残酷だよ、本当に」

 阿弥太は何に対して残酷なのか明かにせず、自嘲気味に笑いを浮かべた。

 この真面目な長身の青年が見せることのないような困惑と絶望の瞳が枳美を見つめている。

 それは枳美とて同じだった。

 はっきりと言われたわけではなかったが、阿弥太が自分を愛していることも、自分も阿弥太に惹かれていることもちゃんと気付いていた。

「残酷なひとだね」

 枳美が掲げていた衣を奪い、阿弥太はそのまま愛する娘のありのままの姿を抱き締めた。

 ほのかに温かい柔らかく弾力のある肢体は確かに存在し、阿弥太の全てだった。誰も恨むことができないのはわかっている。しかし、この世の全てを憎いと思う気持ちも沸き起こっていた。

 強い力の腕にくるまれて、枳美は少し身を捩りながら息が楽にできるように顔を横に向けた。阿弥太の元に行って全てをさらけ出そうと決心した時点でこうなることは予想していたものの、やはり戸惑いは隠せない。 

「枳美、俺と暮らそう」

 阿弥太は枳美の耳元で囁くと、額から順番にくちびるで触れていった。一度見知らぬ男に汚された枳美が恐怖を感じるのではないかと心配したのだが、枳美は動じなかった。

「逃げよう、一緒に」

 あの色のついた衣を砂地の地面に広げて、阿弥太は枳美を横たえた。

 身分を越えた恋に、逃亡――。さすがの国守もこの禁忌を庇うことは不可能だろう。

 許されない、という絶望的な状況が二人の想いに火を点け、互いを求める気持ちを燃やしたのは必然であった。

 かつて父親が犯した罪を、また自分もその道を選んでしまう。かといって、阿弥太は枳美を失ってまで生きる理由はなかった。

 逃げてどうするの、とは枳美は訊かなかった。そんなことは誰にもわからないのだ。枳美の大きな黒々とした瞳からはそっと温かい涙が頬をつたって、体の下に敷かれている衣を濡らす。

「逃げる準備ができるまで、大人しくしてよう。今はまだ冬だから、春が来たらきっとうまくいくよ」

「ええ。こうなる運命だったのね」

 何もせず引き裂かれるならば、逃亡してでも共にありたい……。

 枳美の閉じた瞼の裏に、焚き火の炎がちらちらと揺れていた。


 凍てつく日が続く。

 太日川の流れが凍ることはなかったが、道端の水溜まりに氷が張ることはよくある。

 くしゅん。

 脈診を日下部博士に教わるようになった木葉が経を開こうとしてくしゃみをした。

風邪ふうじゃかな。このところ特に寒いから。熱がなければ葛根湯を処方しようか?」

「あ、そうですね。でも、せっかくだから自分でやってみます」

「それはいい考えだ」

 日下部は熱心な弟子に目を細めた。下総国から中央に出て高度な医学を身に付け、医博士として戻ってきただけあって、本当に博識で指導もわかりやすかった。勝が尊敬する人物だと言うのも納得だ。

「そういえば、博士。里でも前からですけど体調を崩している人たちが増えているみたいなんです。もしよかったら診察に行きませんか?」

「では明日からだね。我々は国府周辺を、その他の郡は手の空いている医人と医生に任せよう」

 熱意のとどまるところを知らない木葉を見て、日下部は自分の若い頃を思い出していた。なぜ医博士の道を目指すようになったのかと言えば、それが一番自分を認めてもらえる手段としては確実だと思ったからだ。そもそも木葉のような、弱者救済のためという動機ではなかった。

 医人の家系でもなければ、豪族出身でもない。日下部刀利が無数の砂粒として埋もれないためには、名乗りを挙げて猛勉強し、医人を目指すことが必要だったのだ。この大和の優男風の顔つきも医人として様々な人を診察する際に役に立った。皆が当たり前のように受け入れてくれるし、女たちに警戒感を与えないというのはある意味得であった。

 この日の講義が終わると、木葉は医博士に勝の様子を尋ねた。脈診の途中で急に体調不良で引き下がって以来、勝が教導曹司に来ることはなく、代わりに医博士直々に指導を受けている。今日から私が教えるよと告げられた時、木葉は驚くと同時に落ち着かない気分を味わった。

 どうして急に指導者が交代したのか。体調不良の間だけの交代かと思っていたらそうではない。日下部は医人になる最終試験を目前に控えているから、そちらに専念させないといけないからと言っていたので、木葉はそう納得した。

 だが、確かに医博士は下総国で最高の指導者であるし、日下部は優しく、他の娘たちに漏れず憧れの対象ともなるべき人物なのだが、何か物足りないのだ。

「勝なら大丈夫だよ。今まで十分に勉強してきたし、国守は勝が女医生をここまで教育したこともご存知だ。三日後に最終試験があるけど、心配いらないよ」

「そうですよね、勝が医人になれなかったらおかしいわ」

 木葉は勝の能力を認めていた。日下部博士も国守もその才能を十分知っていたが、木葉は朝から晩まで勝と共に過ごして、些細な行動や発言を見聞きし、言葉では何と言おうとも根っからの医人なのだということを理解していた。

 曹司が静寂に包まれている。日下部が退出し、木葉は一人になった。そうでなくとも、学んでいても医博士が相手では無駄なおしゃべりもなく、まして互いに激昂しながら口論になることもない。

(なんか調子狂うなぁ)

 あれほど腹立たしく思っていたのに、今では目の前にいないことが不自然に思えて仕方がない。ようやく二人の間に拭いがたい冷たい壁が消えたと思った矢先に、勝は指導から身を引いた。

(ま、最終試験があるんだから、そっちをがんばってもらわないとね)

 それよりも、ずっと心に引っ掛かっているのは綾苅である。

 正倉の火災の時に、その場で綾苅の姿を見掛けた気がしたが、気のせいだったのか。

(よし、今から会いに行こう。家にいなかったら牧ね)

 木葉は厚着をすると、粉雪の舞う寒空の下を出掛けていった。

 在宅でなかったため、菊野牧へ向かう。牧は全面うっすらと白く雪が積もり、数疋の馬が外に出ているだけだった。こんな雪の日は軍団の訓練もなく、馬たちは厩で休息している。

 牧の管理小屋を訪れた木葉はすぐに綾苅を見つけた。綾苅の他は誰もいない。

 きっと綾苅はどこからか木葉や龍麻呂の境遇の変化を聞いているに違いないと予想はしていたが、どういう顔で会えばいいのだろうと困惑していた。

「やあ」

 小屋の隅で何か手作業をしていた綾苅は、前触れなく現れた愛しい女に少し驚いたが、全てを承知の上で微笑んだ。

「聞いたよ、龍麻呂から。嬉しいよ、お前が良民になれて」

 木葉は一瞬にして泣き崩れた。

 どうしてこの人は微笑んで喜んでくれるの。態度を決めなかったあたしや、あたしたちを帝に紹介した大足さんを恨んだり責めたりしていいはずなのに……。

「なんで泣くんだよ。人に見られたら俺が国府の大切な女医生を泣かせたことになるだろ?」

「あたしはもうあんたを愛したくても愛せないんだわ」

「でも、俺はいつまでもお前を想い続けるよ。幸せになることを願ってる。前と何も変わらないだろ? お前が気にすることは何もない」

 ただ一度も綾苅の求愛を受け入れなかったことが、これほど残酷な仕打ちになってしまった。それにも関わらず、綾苅は気にするなと言う。木葉は瞳から流れ続ける涙をなんとか拭って立ち上がった。

「あたしもあんたに幸せになってほしいわ」

 すると綾苅はなぜか吹き出して笑った。

「笑うところじゃないわよ」

「昔のお前を想像すると考えられない言葉だなと思ってさ」

「……そ、そうね。でも真面目に言ってるのよ」

「大丈夫、俺は強い軍馬を飼育するっていうやり甲斐を見つけたからね。お前が女医になる夢を追ってて、俺もそういうのが何かないか考えたんだ。蝦夷の馬は本当に優れてる。だから、いつか俺自身が蝦夷の住む土地に行って馬を仕入れてきたいなんて思ってるよ」

 これがあのかつて惰性と恋の駆け引きだけで生きていた男なのかと疑ってしまうくらい、綾苅ははっきりと告げた。

 木葉も見たことはないけれど、きっと綾苅の頭の中には広大な北方の草原が描かれているのだろう。

「素敵な夢ね。綾苅はちゃんと下総国の役に立ってる」

 そう、龍麻呂も枳美も阿弥太も真熊も光藍も、皆それぞれに下総国の一員だった。

「雪は止んだみたいだけど、暗くなるぞ。もう帰った方がいい」

 木葉は頷いた。明日から里の巡回診察に出掛けると話すと、綾苅は微笑んだ。

「気を付けてな」

 綾苅はもはや木葉の体に触れようとしなかった。女神には触れてはいけないのだ。

 もし抱き締められたら、その後の感情がままならないかもしれないと密かに恐れていた木葉は少しほっとした。

 綾苅がいなくなったわけではないのだ。たとえ律令で身分が隔てられていても、親愛の情がなくなったりはしなかった。


 翌日から木葉と日下部博士は、葛飾郡内の里を巡回し、寒さで弱った人々に薬を与えたり、治療法を指示した。

 日が昇る前の朝早くに出発し、夕暮れにはまた医学舎に戻る。三日目の夜、遅めの食事のために食堂へ行くと勝が先客として床に座っていた。

 しかし、よく見ると瞼を閉じて眠っているようだ。

「勝……? 冷えるわよ、こんなとこに長居したら」

 無理に起こしてしまわないように小声で言うと、勝はゆっくりと頭を上げ、声の主が恋する相手だとわかった瞬間に狼狽した。後ずさろうにも背中は壁とくっついている。

「何慌ててるの。あたし、鬼じゃないわよ」

 だいたい冷静沈着な男が驚いている珍しい様子に、木葉は笑った。

「ちょっと疲れて寝てしまったんだよ。今日、最終試験を受けて、それで……」

 つまり、勝は数年間の勉学の成果を全て出しきって、今は燃え尽きていたのだ。

「お疲れ様。他にも試験受けた医生がいたと思うけど、あたしはやっぱりあんたが筆頭で医人になると思うわ!」

 力説する木葉の瞳は、曹司の四隅に灯された光を反射して輝いていた。

 ――ああ、好きだ。

 この娘に今、想いを告げられたらと思うものの、冗談に思われてしまったり、誰とも交際するつもりはないと断られてしまうのではないかという恐怖が勝る。

「……僕は筆頭医人では終わらないよ」

 いつものように自信を示したが、木葉に見つめられて胸が苦しい。

「中央に行くんでしょ?」

 木葉は余りの粥を器に入れながら尋ねた。

「そのうちね」

「連れていくいもはいるの? ほら、前に女には困ってないって」

「あれは……お前が僕を暴漢だと疑ってたからそう言っただけで……まぁ、妹はいたけど」

「え、そうなの? じゃあ、今は独りなのね」

 過去形になってしまったのは、木葉への気持ちと刑部結への気持ちが両立できないとわかったからだ。結と正式に夫婦になったわけではないので、形式的にも付き合い続ける必要はなかった。医学舎に籠りっぱなしで、しかも木葉と四六時中一緒に過ごしていれば、そちらに情が移るのも当然と言えば当然かもしれない。

 ひたすら待っていてくれた結に申し訳なくて、あれこれと理由を考えたものの、どう考えても下手な言い訳にしかならず、とどのつまり気持ちが冷めてしまったということ以上でも以下でもなかった。

 だから結には特に明示的に別れを告げることはせず、関係を自然消滅という風な形で終わらせることにした。今でも時々、結は歌を贈ってくるが、もう勝は返歌をやっていなかった。

「そう、今は独りだよ。でも、都に連れて行きたいと思う娘はいる」

 それはお前だ、という言葉は胸の中に厳重に押し込められていた。こうやって曖昧に仄めかしても何の意味もないというのに。

「へぇ。あんたでもそんな娘がいるのね。あたし、歌はちっともわからないんだけど、勝はその娘にどういう歌を詠むの?」

 本当に突拍子もないことを言いだすなと勝は呆れた。自分がその娘だとも知らず無邪気に尋ねた木葉は勝の恋の歌を聞いてみたくて、待っている。断ることもできたが、勝は完全に隠すことができない木葉への気持ちを素直に歌に詠んでみることにした。

「咲く花は過ぐる時あれど我が恋ふる心のうちはやむ時もなし。特に説明しなくても意味はわかるだろ、これくらい」

 ぶっきらぼうに答えた勝の歌は、医学以外の教養のない木葉でもすんなりと理解できた。花は衰えがくるけれど、恋する自分の気持ちは衰えることがない、それほど好きだと勝は詠んだのだ。

 木葉は相手の娘が誰であるか興味を引かれたが、根掘り葉掘り聞き出すのは自分の悪い癖だと思って止めておいた。それに、勝の想い人とやらを知ってしまうのがなんとはなしに心がざわつく感じがしたのだ。

「あんたの恋、うまくいくといいわね」

 木葉はそれだけ言うと、勝にも粥をよそった器を渡して、二人は黙々と粥を食べ始めた。冷たくなってしまっているが、夜食にありつけるだけありがたい。

「そうそう、あたし、医博士と一緒に里の診察をしてるの。こういう時期はみんな体調を崩しやすいから」

「そうか。だからお前の姿がなかったのか」

「……あたしを探してたの?」

 しまった、うっかりしたことを言ってしまった。勝は肝が冷えたと思った。これでは木葉の動向を気にしていることがばれてしまうではないか。勝は慌てて言い訳をする。

「あ、それは、お前がまた勉強が嫌になって逃げだしたんじゃないかとか、医博士に迷惑かけてるんじゃないかとか……」

「ひどいわね。もうそんなことをする木葉じゃありません」

 口ごもりながら言う勝に向かって、びしっと返してやると、そっか、そうだよなと勝は素直に頷く。それがおかしくて、木葉はまた笑った。勝もつられて、笑みをこぼした。

(この人も、大領家の企みに加担してるのかしら…… 医人であるお父さんを見かけたことがあるけど、陰謀の片棒を担げるような雰囲気じゃなかったわ)

 勝とこうして打ち解けていくに従って、木葉は勝が大領家の一員であり、陰謀の渦に巻き込まれているかもしれないことを認めたくなくなっていた。もしかして、親しくなってきたと思っているのは自分だけで、勝の方は警戒心を抱かせないように振る舞っているだけなのだろうか。そう考えると、木葉は迂闊に陰謀について口に出せないと思うのであった。

 他方、勝もまた毒薬を作っている事実を何としても木葉には知られてはならないと必死だった。陰謀を打ち明けたら、木葉から好かれるどころか一気に憎悪と軽蔑の対象になってしまう。それが怖い。真実を隠して、どうして愛を得ることができよう。

 それともいっそのこと、毒薬など作るのを止めてしまえばいい。高度な毒薬は製造できないと言えば済む話じゃないか。まさか日下部博士に相談する訳にもいかないし、毒薬を代わりに作ってほしいとも言えない。関係のない医博士をそんなおどろおどろしい計画に巻き込むなど論外だ。

 勝はしばらく毒薬の製造研究を放置することにした。徳麻呂からせっつかれたらどうするか考えよう。

「ああ、食べたら眠くなってきたわ。明日も早くから里に行くの。勝も来てくれたら助かるんだけど。試験の結果がわかるまで空いてるでしょ?」

「いいよ、手伝う」

 本当はしばらく休養するつもりだったが、手持ちぶさただと徳麻呂に絡まれるかもしれないし、結のことも考えなければならない。それよりは、木葉と共に忙しく働いている方がいい。


 勝が里の診察に出るようになって二日目のこと。里に異変が生じた。

 今までは老人や赤ん坊など元々体力の弱い者が、寒さや乾燥で体の調子をおかしくしているという、毎年見られる症状ばかりだった。重症な場合もあるが、温かくして医学舎が用意する薬を飲めば次第に回復する。

 ところが、突然、あちこちの里で全身麻痺、意識不明、嘔吐、呼吸困難などの原因不明の症状を訴える者が出たのだ。

「現状の報告を、医博士」

 国守に呼ばれ国庁正殿に赴いた日下部、そして木葉と勝は早速、国守から報告を求められた。

「重症者が発生したのは葛飾郡、千葉郡、印旛郡そして相馬郡です。七年前の和銅二年の冬にも下総国は疫病が流行りました。同様の疫病かどうかは我々が行って詳しく調べないとわかりません」

「昨日までに巡回した里からも重症者は出てるのか?」

「はい、残念ながら。葛飾郡内では赤ん坊と青年が死亡しました」

 突然の痛ましい出来事に医学舎も騒然とし、医生たちも治療に駆り出されることになった。

 国守はまたも頭を悩ます事態に直面した。疫病は人の力ではどうにもならず、そその猛威が自然に去っていくのを耐えるほかできることはないのだ。

 ありったけの薬を出すよう指示をしたものの、薬が万能ではないこともわかっていた。まして、疫病の発生が神火と同じく国守の失政への天罰だと捉えかねないので、祈祷を始めてもあまり効果は期待できそうになかった。

「もうすぐ正月だってのに、ついてないな」

 ただの巡回診察だと気楽に考えて付き合うことにした勝はぼやいた。

 また粉雪がちらちらと舞う冬空の下、医博士と医生数名、勝と木葉と医人、勝の父親の筆頭医人らが分かれて里に繰り出した。

「あたしたちも疫病にかかってしまうの? 防ぐ方法はないの?」

「ないよ。どこからともなく忍び寄ってきて、大事なものを根こそぎかっさらっていく」

「……ええ、知ってるわ」

 木葉は数年前に失った家族を想った。赤ん坊など急に高熱が出て、それから間もなく息を引き取った。あの時はこうして医人たちが見に来ることもなかった。

「葛飾郡内だと、甲和里と仲村里で発生してる。僕たちが昨日、仲村里に行った時にはそんな重症になりそうな患者はいなかったのに」

 木葉たちは再び仲村里へ足を運び、全ての戸を訪問した。嘔吐や朦朧とした意識に苦しんでいるのは老若男女であって、老人ばかりという訳ではない。医学舎は疱を怖れたがどうやらそれとは違うようだ。皮膚表面への異変はなく、ただ内部の苦しみに苛まれている。

「うちの人は助かるんでしょうか? まだ赤ん坊もいます。死なれては困るんです」

 ある家では夫が病に倒れ、五歳と生後数か月の赤ん坊を育てている妻が泣きながら必死に木葉に縋ってきた。夫は手足の痺れを訴え、呼吸困難に陥っていた。具体的な治療は医人に任せて、木葉は詳しい話を聞いた。

「落ち着いて。症状はいつから?」

「昨日、皆さんが里に来てくださって、帰った後です。まだ暗くなる前にちょっと畑仕事をしてくると言って出ていったんですけど、それから半刻くらいして苦しいって戻ってきて……」

「お子さんやあなたは、具合が悪い感じはしますか?」

「いえ、今のところは。でも、これから里全体に広がるのでしょう?」

「それはわかりません。色んな病がありますから」

 この家の夫が寝ている方を見ると、医人は鍼治療を行っていた。医人に指示されて、気の力を高める薬を妻に渡して、次の家へ移った。

 仲村里の全ての戸を訪問し終わると、木葉たちは医学舎へ戻った。聞き取りからわかったことは、ほぼ全員が直前までは健康だったということで、前から体調不良だった者は老人と子供数名だった。

「皆、それぞれ活動中に病になったってことね。この赤ん坊は離乳食を与えている最中に急激におかしくなって母親に抱かれながら息を引き取った」

「明日もまた病が広がるかもしれないな」

 木葉たちは病の状況を木簡に記載した。

 翌日になると今度は別のさらに東側のいくつかの郡で患者が発生し、とうとう国守は中央へ疫病の知らせを伝達することを余儀なくされた。神火に続いて疫病が出たとなると、国守が神の怒りを買っていると噂されてもおかしくない。

 その後も最初に患者が出た地域からも新たな病人が報告され、真冬の下総国府は凍てつく氷に閉ざされてしまったかのように暗く冷たい空気に包まれた。

「大足さんに何の落ち度もないわよ!」

 庶民だけでなく、国府の官人や雑任までもが国守に問題があるのではないかと囁き始めると木葉は激高して勝に訴えた。木葉にとって絶対的存在である大足が失政を行っているとはとうてい認めがたい。

「神火なんて嘘。大領家の誰かが火を点けたに決まってるんだから! それに、疫病は誰のせいでもないわ」

 この日、木葉と勝はそろって国守に呼び出されていた。医人と医生を全員治療に投入しても死者は出るし、まだ患者が多く苦しんでいる。女医を育てる試みをしているが、全然役に立たないではないか。そういう暗に国守を批判する声も聞かれ、木葉はいたたまれなくなった。自然の脅威には、医人の力は及ばないのだろうか。

「連日ご苦労様。医学舎の皆も疲労が溜まっているだろうね」

 いつも元気を溢れさせている木葉にも疲れが出ているらしいことを見て、大足は心を痛めた。もちろん、病に倒れ命を落とさなければならなかった自国の民を真っ先に哀れんでいることは言うまでもない。

「国守様、あたしたちは全然平気です。一人でも犠牲者を出さないためにあたしたちがいるんだもの。今のところ医人たちは、ちょっと疲れてるけど病にかかった人はいないし、前から薬を蓄えていたから。あと、国府もまだ患者が出てないから、官人たちも手伝ってくれるわ」

「そうか。まぁ、無理は禁物だよ。ところで、今回の流行り病は原因は何かわかるかい? それが知りたくて君たちを呼んだんだよ。医博士は先頭に立って他の郡へ救済に行っているから」

 国守の下問に勝が答えた。

「疱でないことは明らかです。発疹がなく、数日間に渡る体調不良も見られません。吐血した者も今のところないので、肺を冒されたわけでもないと思います」

「噂では荒ぶる神や手児奈の怨霊のせいだとか、私の責任だとか言われているらしいね」

「……それは私には判断できません」

 勝が多少困惑気味に答えると、木葉が補足した。

「医学では悪気や邪気が体内に侵入したり、陰陽が乱れていることが原因だと考えるんです、国守様。だから鍼治療や薬で対処します。祈祷や呪い(まじない)は、きっと効かないわ」

「神官や陰陽師が聞いたら激怒しそうだね。それで、具体的な症状は?」

「嘔吐と呼吸困難、手足の痺れ、五臓六腑が弱くなって死に至ります。今回の特徴は、壮健な男でもたちまち――」

 勝は淡々と答えていったが、最後まで言うことができなかった。あーっという大声が隣から上がり、がくがくと片腕が揺さぶられる。こんなことをするのは木葉しかいない。

「どうしたんだよ、まだ説明し終わってないじゃないか」

「勝、気付かないの?! この流行り病は流行り病じゃないかもしれないわ! 今、あんたそう言ったじゃない!」

「そんなこと言った覚えは…… あ、そういうことか!」

 国守の前での一騒動を、大足はじっと見つめるほかない。そして一呼吸置いた木葉と勝は意外な推測を口にした。

「申し訳ありません。女医生が気付いたのは、今回の病は邪気の仕業でもなく、陰陽の不均衡でもなく、まして国守様の失政でもなく、何らかの毒によるものだということです」

「あちこちで同時に発生したから流行り病だと思い込んでたんです。でもよく考えたらこの患者たちの症状は附子ぶすをそのまま摂取してしまった時ととても似ています」

 中毒症状だと考えられる理由は他にもある。里では何件も発生しているにもかかわらず、国府の官人に異変は見られないし、密接に患者と接触している医人たちも疲労以外に症状は出ていない。つまり、毒を口にした場合のみに起こり得るものなのだ。

「さてと……。これが偶然なのか意図的なのか、治療と平行して調査しないといけないね」

「いくつか可能性が考えられるわ。でも、今は真冬だから附子に似た草木が里に急に繁殖したなんてことはなさそうね」

「最もあり得るのは、水に混じっていた毒を口にしてしまったという場合かと思います」

 大足と木葉は松ノ里の大森と浜梨谷の小川に毒が混じっていたことを思い浮かべた。もしや一連の事件と関係しているのだろうか。もちろん勝は大森と谷の話は知らない。

 夕刻、医博士らが戻ると再び国庁正殿で会合が開かれた。

「……というわけで、あたしたちは流行り病ではなくて毒が原因ではないかと疑っています」

 国守と医博士が現在までわかっている状況を交換し合い、木葉が異常事態の原因について説明すると、日下部は顔をしかめながら聞いていた。

「大したものですね、女医生。私が気づかず、見逃していたことによく気が付きました」

 医博士は少し憔悴しているように見えた。医生への教育が普段課せられた使命だが、国中に広がった病に対して医博士が傍観してよいはずがなく、休みなしに医人たちを率いて里に赴いていたのだから当然だ。

 その上、流行り病ではなく中毒の疑いまで出てきたのだ。新たな対応と調査が求められる。

 勝は尊敬する日下部ですら万能ではないことを改めて知り、苦悩に満ちたその横顔をじっと見つめた。

 もう一度白紙状態から里を調べようということになり、国守は葛飾軍団に動員をかけた。動員といっても、兵士たちに川や井戸などを調べさせるという程度だ。

「ひとまず、葛飾郡内を調べさせよう。規模は三個隊百五十人で。里の者が驚くから武器は携行させないように」

「わかりました」

 大掾が命を受けて正殿を退出した。

 ところが、文書が用意され、軍団本部に届けられると問題が発生した。

「冬季の鍛練で忙しい中、流行り病の里に兵士を派遣して異常確認など、非常識だ」

 国守の印が押された文書を一瞥して、軍団長は鼻であしらった。

「大毅、国守の命令に背くのですか? ここには流行り病ではなく中毒の疑いがあるための調査と書かれています。そうであれば、兵士に自分で管理するもの以外は里で飲食しないよう注意喚起すれば済むのでは?」

 文書をよく読んだ小毅が進言する。

「だが、三個隊もだぞ」

「それなら鍛練を交互に行えば支障は出ません。三個隊ずつ交代制に。いかがですか」

 と代替案を出されて、肯定するような軍団長ではない。国守のやり方が気にくわないのだからどんな命令も撥ね付けねば気が済まないのだ。とは言え、国守が指揮権を有しているのだから従わなければ、それはひいては天皇への反逆となる。

「とにかく軍は動かせないぞ。そんな落とし物探しみたいなことに付き合うほど暇ではないんだ。国守は軍を何だと思ってる」

「わかりました。訓練のため兵の派遣は不可能と伝達します。あくまでも都合の問題だと」

 小毅が国府にそう返信すると、大足はなめられたものだねと呟き、冬季の鍛練は中止すると史生に伝えた。

「軍団長が国守に従わないとは由々しき問題です。すぐに召喚して尋問すべきでは?」

 傍らに控えていた国介が憤って提案したが、国守はやんわりと否定した。

「時間的に余裕があればそれも可能だけれど、それよりも里の調査が先だ。鍛練のせいで兵を出せないなら中止してしまえば良いだけだからね。この前、定例の観閲を行ったが今の時期に鍛練をしなければならないほど練度が悪いとは思わなかったよ」

 結局、兵の派遣を渋る理由がなくなってしまった軍団は国守の命令に従わざるを得ず、三個隊を里に送り出した。そのうち一個隊は俘囚の若者で構成されている。モヌイはその中に含まれていなかったが、蝦夷は都合のいい時だけこうして駆り出されるんだなと冷めた目で軍団の動員を見ていた。

 長時間、冷たい地面を踏みしめているとだんだん指先の感覚が鈍っていく。

偶然、三個隊の一人となった真熊は長めの木の棒で草を分けるようにして「異常」がないかを確認していた。

(国守様の命に従わないなんて、大毅は何考えてるんだ。危うく葛飾軍団が反乱だと思われてしまうとこだったぞ)

 大毅の土師宿禰狛はじのすくねこまが横暴であることは誰もが知っていたが、あの隠された計画に加担しているかどうかは真熊も見当がつかなかった。いつもの気紛れなのか意図して命に背いたのか測りかねる。

「難儀なことになりましたね」

「おわっ、何だお前も来てたのか」

 畑と森の中間に掘られた井戸の中を確認しようと近付いた真熊に声を掛けたのは光藍だった。なぜか片手に小さい壺を握っている。

「毒の可能性があると聞いて僕も調べに来ました。医人たちは医療の視点でしか里人に質問してなかったと思うので、僕は違う質問をしてみたんですよ」

「へぇ。何て訊いたんだ?」

「普段見かけない人物を見かけなかったかとね。そしたら、夜中に頭巾を被った白い衣装の人物を見たという少年がいましたよ。用を足しに起きた時に。ちょうどこの辺をうろついていたそうです」

「……それって、あの修行者ってことか!?」

 光藍はでしょうね、と頷いた。実は光藍は毒の正体に目星をつけていた。

「井戸の底にあるものを全てさらえますか?」

「え、無理だろ。それでどうやって毒があるなんてわかるんだ」

 めんどくさそうに渋った真熊を納得させるために、光藍は証拠を見せることにした。

「ではこの魚を入れてみましょう。死んだらここに確実に毒があることになりますから」

 片手に持っていた小さな壺を井戸の上で傾けると二匹の魚がするりと落ちていった。真熊と共に覗き込んでいると、元気に泳いでいた魚の動きが鈍り、そのうちに白い腹を見せて水面に漂うようになった。

「井戸に毒が入れられたんだな」

 息を飲んだ真熊は他の場所を当たっていた仲間の兵士たちを呼び、まず井戸の水をぎりぎりまで掬い出した。そして縄で作った梯子を井戸にしっかりと固定し、真熊自身が井戸の下へ降りていく。

「気をつけてください!」

 光藍や兵士たちが心配そうに覗きこむ。真熊は水に直接触れないように細心の注意を払いながら、柄杓で底の物を掬っては細かい目の網袋に入れていった。

 再び真熊が地上に戻ると、兵士たちの間から安堵の溜息が漏れた。

「あー、訓練より緊張したぜ。光藍、ほんとにこの中に毒なんかあるのか? 溶けてなくなってるんじゃねぇの?」

 外野の雑音が多少うるさいが、光藍はさして気にせずに網袋の中身を広げた布の上にぶちまけて何かを探した。ただのゴミや落し物らしき手拭いや石ころなどの中に、一つ異質な物体がころりと転がり出てきた。

「これでしょう、毒の正体は」

 布で包んで摘み上げた物体は美しい藍色の鉱石――藍雲玉だった。

「松ノ里で修行者が里人たちに薬を配っていたことがあるんです。その薬の中に、藍雲玉の粉末が含まれていました。それだけで神気がやられてしまうのですが、これくらいの塊であればなおのこと……」

「国守様に見せなきゃ!」

 毒の正体が特定できたことで、他の郡内からもいくつか同じ藍雲玉が発見された。あるものは井戸の中から、あるものは水甕の中から掬い出され、国内を震撼させた流行り病が実は意図的に仕組まれた事件であったことが確定的となった。

 大足は軍団の兵士たちを労うために冬の衣と食糧を分け与えたが、これで騒ぎが収まったわけではなかった。

 結局、この毒で死亡したのは四人、重大な後遺症を負った者が十数人と下総国として少なからぬ痛手を被ってしまった。その上、最終的には従ったとはいえ、軍団長が国守の指示を暗に拒否したという事実は下総国府の不協和音として人々の記憶に刻みつけられることとなった。


 ぴったりと寄り添い、手を重ね合わせていると次第に暖かくなってくる。大足の私邸には今夜も朱流が呼ばれていた。

「あなたに非はないのに、悪い噂だけが流れてしまうなんて、あたし悔しいわ。大領が仕組んだことに決まってる。民から好きなだけ巻き上げられなくなったから、あなたに嫌がらせをしてるのね」

「私も初めはそう考えた。でも、陰謀の断片が見つかった今は単なる嫌がらせや反抗ではなく、もっと悪意のあるものだと思うよ。それに、大領が民から強制的に色々なものを取り上げてきたのも、ただ懐を肥やしたいというだけじゃない。はっきり言うと、おそらく謀反を起こすための資金集めに必要だったからだ」

「なんてこと! それじゃあ、早く平城宮へそのことをお伝えしないと」

「大丈夫、それは内々に中務卿、宮内卿、式部卿の耳に入れてある。でも、まだ大領が直接認めたわけじゃないからおおっぴらにはしてないけどね」

 朱流には大足がちょっと悠長に構えすぎなのではないかと思われた。過去には謀反の疑いとわかればそれだけで捕縛し、処罰した例などいくらでもあるのに。そう言うと、大足は彼らしく否定した。

「証拠がないのに謀反人として処罰はできないよ」

 大足は朱流の柔らかい肩から腕を掌でそっと撫でながらも、亡き妻の佐伯鈴を思い出していた。若い頃、よく鈴とはこうして官人としての悩みを話し、励ましてもらっていたものだ。

 鈴は不正を絶対に許さなかった。それは中央官人として国に派遣された国守の娘という誇りであった。世間知らずな姫もたくさんいるのに、鈴は自分から国守館の外に積極的に出ていき、里の人々と交流をし、些細な他愛ない雑談から有益な情報を見つけては父親に報告していた。

 大足の妻となってからも、よく中央政治の動向に気を配ったり、近所付き合いを厭うことなく活動していた。

(鈴、君も証拠なく処罰することには反対だろう? それは楽で不安はすぐに取り除けるが、証拠もないのに逮捕されることに民が不信感を抱くようになると、そう言っていたね)

 里から藍雲玉が複数見つかり、修行者の姿も目撃されている。そして修行者は、大伴佐流と他田古忍と共に行動していたことも確認されている。

 大私部徳麻呂は手児奈の亡霊の噂を流して、洞穴の財産や呪術道具の存在を隠した。

 誰を取っ掛かりにして証拠を押さえようか。

「もうこちらが警戒していることは、大領たちは知っているのですよね? だったら、乗り込んでしまえばよいではありませんか!」

 大足がしばし思案していると、朱流が大足の上半身に寄りかかりながらきっぱりと言った。

「谷でも大森でも、待ち伏せして取り押さえれば済む話ですわ」

「君は遊行女婦よりも衛門府か何かの官吏に向いてるかもしれないね」

 勇ましい恋人の提言はもっともなことだと、大足は考えた。そうすると、適任は光藍だろうか。呪術も使えるし、普段から情報収集に当たってもらっている。

 ところが、光藍に改めてよく監視するよう指示をしてから大領側に動きはなく、とうとう霊亀二年最後の日が終わった。


 正月、国府は新年の行事で慌ただしい。

 国庁官人らは正式な衣装で正殿前に参集し、一斉に拝賀した。これは国守への挨拶ではなく正殿を平城宮大極殿に模して、天皇へ拝賀するという意味を持っている。その後、国守は配下の官人や郡司らから新年の挨拶を受けることになっていた。

 そして翌日、国守は年末に行った医生たちの最終考査の結果を発表した。

「全員及第とする。また、成績を鑑み、筆頭医人は大私部勝と決定した。諸君は我らが下総国の有能な医人として活躍することを、国府だけでなく民からも期待されていることを忘れずにこれからも精進してほしい」

 国守の言葉が終わると、新しい医人らは笑顔で互いの健闘を称え合った。やっぱり勝には敵わないな、という声もちらほら聞こえる。

 勝が日下部博士に報告に行くと、博士は月日が経つのは早いねとしみじみと言った。

「下総国で働く気はないのかな」

「全く否定するわけではありません。でも今は博士のように中央で更に勉強してきたいです。国守と博士からの推薦をいただければ嬉しいのですが」

 本当は佐伯前国守のつてで典薬寮での勤務が約束されているのだが、勝は正攻法でも道を切り開くことも試みた。

 勝が藤原不比等を暗殺するための毒を作り出さなければ、佐伯が平城京で謀反を実行に移すことはできない。もし毒と引き換えに典薬寮での身分が与えられることになれば、なかなか危険な賭けではあるし、最近ではこの謀反が成功するかどうか懐疑的になっている。

 徳麻呂や叔父はこの計画が正義だと信じているらしいが、勝の判断基準はいつの間にか木葉の思考になっており、きっと木葉なら悪事だと断言するに違いないのだ。

「君は文句なしの医人だから推薦状を書くのはやぶさかではないよ」

「ありがとうございます。早く日下部博士のようになれるように努力します」

 野心を進める第一歩の言質を得られた勝は久しぶりに晴れやかな気持ちで医学舎を後にした。

 自宅に戻ろうと歩いていると、国庁の南門から孔王部一家が揃って出てくるところに鉢合わせた。

「勝! 聞いたわよ、やっぱり筆頭で合格したのね。おめでとう」

 目立つほどの大声を弾ませて木葉が勝に手を降り駆け寄る。勝はその石英の破片が光を受けて輝くような姿に胸を詰まらせ、鼓動が速まるのを感じた。

 今すぐにでも妻にしたい。国守から、木葉が良民となって何の障害もないではないかと図星を指されて以来、勝はこの娘への想いを一層強くし、木葉から愛されるのであれば、それに比べて中央で名を上げるという魅力さえもつまらぬことのように思えるのであった。

「国守に新年の挨拶か?」

「去年、父が亡くなったから喪中なのよ。でも、真秦が新しい仏像を十体も作ったから、国府のお寺に奉納したくて。父だけじゃなくて、毒で亡くなってしまった人たちの供養にもなるでしょ」

 手ぶらで南門から出てきたということは、既に仏像は引き渡したということだろう。

 このところ、真秦は掌に乗る大きさではなく、赤ん坊ほどの高さがある仏像を本格的に彫り始めていた。真秦は相変わらず光藍を慕って、明示的に断られない限り行動を共にすることが多かった。修行者になりたいわけではないようだが、何か不思議な力と雰囲気に幼いなりに心惹かれるものがあるのだった。

「真秦は仏師になりたいみたいよ。あの子、言葉が話せないから集団で何かするのは苦手で、その代わりに一人で集中するのは得意なの」

「そうか。お前と兄弟たちが解放されて本当に良かった」

 最後の方はなんとなく気恥ずかしくなって、小声になってしまった。

「そういえば、医学の勉強はどうなってる?」

「正月の色んな行事が終わったら再開するって。次はいよいよ鍼治療よ」

 この時、木葉と勝は同じようなことを心の中で考えた。

(もう最終試験が終わったんだから、また勝が教えてくれるのかしら。日下部様でもいいけど、なんか勝の方が楽しかった気がするのよね)

(鍼治療も医博士が教えることになるのか。僕が指導を止めた理由が試験のためだったんだから、もうその理由は通じないよな。でも、今さら僕が名乗りを上げるなんて)

 考えていることが一致しているとは知らない二人はその場でしばし見つめ合った。そして、同時に口を開く。

「ねぇ」

「あのさ」

 声が重なり、勝は、いや何でもないとすぐに続きを言うのを止めてしまった。木葉の兄弟たちが姉を待っているのが見える。

「何よ、言いなさいよ。気になるわ」

 木葉は笑って促した。

「お前こそ」

「別にあたしのは大したことじゃないもの」

 勝はただ自分が教えるべきか確認するだけのことが、仙人が住むと言われる蓬莱山にたどり着くことよりも困難に感じられた。

「姉貴! 話が長くなるなら僕たち先に帰るよ!」

 結局、龍麻呂の声で二人の会話に終止符が打たれた。

 一月も半ばになり日常が戻ってきたある日のこと。

 国府の寺に真秦が奉納した仏像やその他の財産を新たに登録したりするために、それらが記載された台帳が国司の間で決裁が行われていた。

 細かい確認は大掾以下がきっちり行い、後は国守自らが承認の印を押すだけだ。

 ところが、大事件が発生した。

「く、国守様! 一大事です!」

 執務室に飛び込んできたのは、大目の安倍池守と数名の雑任だ。この雑任たちは鑰取かぎとりという国府の印や正倉の鍵を管理する非正規の国庁官人であった。

「何があった」

 ただ事ではないなと感じ取った大足は目を通していた書物を脇に置いて尋ねた。

「はい、今朝方、いつものように唐櫃とうひつから国印を取り出そうとしたところ、忽然となくなっていたというのです」

 手短に報告した池守の顔は青ざめている。そして実際に管理を任されていた鑰取たちは更に悲惨な表情でびくびくと怯えていた。

 国印は国守が国守たる証拠であり、天皇から与えられた権限が全てそこに詰まっていると言っても過言ではない。

「厳重に管理し、粗末な扱いが許されないものを、何とお詫びしてよいか」

 可哀想な池守はその場で平伏した。慌てて鑰取たちも土下座をする。

 国印を紛失した――。

 正倉の火災、不審な毒のばら撒き、そして新たに加わった国守の地位を揺るがしかねない事件が大足に立ちはだかった。

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