第5章 陰謀 (3)愛の芽生え

 医学舎の裏側に設けられている薬園からは、太日川(江戸川)の流れを見下ろすことができる。船着き場からはたくさんの荷が陸揚げされ、また陸からも船へ積み込まれていく。

 粉っぽい青空の下では黄金の収穫期が終わり、木葉は初めて医学舎の食堂で新米というものを口にした。

「今年の米は格別に旨いね」

と、日下部刀利が唸ったのも無理はないほど、美味しい米だった。

 木葉は手入れを終えた薬園から曹司に戻ると一人で経を開いた。

(今日も自習かぁ……。勝は一体何をしてるのかしら。もうすぐ最終試験らしいけど、勉強してる感じじゃなさそうだし、何してるか全然教えてくれないなんて、変よね)

 いつもの仏頂面に加えてどことなく深刻さが勝の表情に加わった気がするが、木葉にはその理由を知る由はない。

 薬園に足しげく赴き、自分の足で野山で薬草を採取して薬を作ることを繰り返して、最近ではだいぶ薬草のことがわかるようになった。わかるようになると、もっと知りたくなり、木葉は自習と言われた日は書棚にある経や巻物に読み耽って過ごすのだった。

(ちょっと様子を見てこようかな。ご飯食べてないかもしれないし)

 日下部博士がいれば勝はだいたい二人で食事をしているが、今日は博士は不在だ。木葉は適当な経を一冊掴み、宿舎の勝の曹司の引戸を叩いた。

「……はい」

 随分時間が経ってから応答が聞こえ、木葉は引戸に顔を寄せて名乗った。が、反応はない。再び戸を叩くと、「質問があるなら後で!」とやや不機嫌な声で返された。

 そこで木葉は戸の前に座り込み、持ってきた経をぱらぱらめくりながら勝を待った。

 そして五枚目を読み終えたところで、戸が開いた。

「……何でお前そこにいるの」

「あっ、ご飯食べてるかなと思って様子を見にきたんだけど」

 宿舎の曹司で密かに毒薬の書物を読んでいた勝は、突然木葉の声を戸越しに聞いて集中力を切らしてしまった。

 しょっちゅう自習を言い渡すと、木葉はその度に不安そうな瞳を勝に向ける。勉学のことが不安なのか、勝の動向を気にしているのか、いまいちわからない。しかしその瞳は勝の心を常に揺さぶり続けた。

 ――あたしには、あなたが必要なの。

 あの言葉が真実であってほしい、と勝は願った。これほど手間をかけ世話をしてきたのだから、そう言われて当然ではないか。

 集中力が切れたところで曹司を出ようとしたら、木葉が座り込んでいた。あまり曹司の中を見られたくなかったので、勝は素早く廊下に出て戸を閉めた。

 謀反のために毒薬を作っているなどと口が裂けてもこの女には言えない。冷静に考えてみると、木葉はただの面倒な指導対象どころか、大領家が従わない高向大足の庇護下にある敵なのだ。

(たとえ僕たちの行動が正義だと言っても、この女は否定するだろうな)

 そう考えると永遠に平行線を進むしかない自分と木葉がこうして対面していること、いや、そもそも出会ったことが滑稽に感じられた。

「木葉、僕のことは気にするなよ。……明日は講義をしよう。脈診の概要と理論だね」

 驚くべきことに、勝は穏やかに微笑んでいる。木葉は何度か瞬きをして、掌を勝の額に当てた。

「あ……。笑った。ね、熱があるんじゃないの? 何してるのか知らないけど、引きこもりっぱなしで体おかしくなっちゃったんじゃ……」

「そんなことあるもんか」

 ひんやりとした小さな掌が額に触れるや否や、勝は身を横に捩って避けてしまう。

 そのまま食堂に向かおうとすると木葉もついてくる。まるでカルガモの子供のようだ。

「一人にしてほしいんだけど。お前、自習止めて、家に帰るなり、あの牧子のところに行くなり好きにしなよ」

 なるべく冷静に、目を合わせないようにして言うと、木葉は「えっ、いいの?」と自然に嬉しそうな声を上げる。そして、勝はやっぱり言うんじゃなかったと後悔した。

 しかし、木葉は既に解放された気分で満たされていた。

「じゃあ、お許しをいただいたので外出してきまーす」

 僕を気にして宿舎までやってきたんじゃなかったのかよ、という心の突っ込みは木葉には届かない。

 橡色の衣に包まれた後ろ姿は、綾苅という男の元へ向かおうとする娘の軽やかさと艶かしさを同時に見せていた。


 教導曹司に戻って経を机に置くと、木葉は早足で医学舎を出ていった。まず向かったのは自宅だ。

 居間に筵を敷いて、その上で枳美と真秦が竹かごを編もうとしているところだった。

「姉さん、お帰り! 戻ってくるなんて医学生とケンカでもしたの?」

「今日は外出していいって。なんかよくわからないけど、あいつ途中で機嫌が良くなったみたい」

「良かった、姉さんが楽しそうで」

「楽しい、のかな。そうね、新しいことを知って、使えるようになると楽しいわ。それが人助けになるんだもの」

 姉の瞳はいつになく輝いていると枳美は嬉しくもあり、羨ましくもあった。枳美には何かをなし遂げたいという目標はなかった。

「そういえば、ここに来るとき阿弥太とすれ違ったけど、珍しいわね」

「あ、最近はずっと阿弥太が送り迎えしてくれてて……」

 ほんのり顔を赤らめて枳美ははにかみながら答えた。真秦もにっこり笑ってうんうんと首肯しているところを見ると、どうやら二人は良い感じらしい。

「そういえば、姉さんは綾苅とはどうなってるの?」

 さて、自分の話となると木葉は途端にしどろもどろになってしまう。ああ、まあねなどと答えになっていない答えで濁す。

「あの女たらしの綾苅が姉さんに夢中になるなんてね。ねぇ、一緒になるの?」

 妹の最後の言葉に心の臓が止まるかと思った。綾苅を好きか嫌いかで言えば、好きなのだが、一緒になるところまで一気にひと飛びするかというと、それは違う気がする。

 けれども、女医生の勉強が一通り終わった後にはちゃんと綾苅に正面から向き合おうと思っている。今の状態は中途半端で、綾苅の好意に甘えているばかりなのはわかっていた。彼が背の君なのかと訊かれれば、首肯できる自信はない。

「あたしたち、そういう仲じゃないのよ。もちろん綾苅のことは、好きよ。でも一緒になるとかまでは……」

「そうなの?」

 妹は少しがっかりしたように見えた。いつまでも未亡人でいる必要はないのに、と思っているのだろうなということは木葉も感づいている。

 龍麻呂が畑仕事から戻ったところで、木葉は自宅を後にしてもう一つの家を訪れることにした。

「ねぇ、いる?」

 戸口から声をかけたが返答はなく、初めから待つつもりでいた木葉は中へ入った。

(ここがあたしの家になることはあるのかしら)

 一人で住むには広すぎて、ほとんど生活臭のない空間はどこか現実味のない寂しいものだった。

 手持無沙汰な気がしたので、木葉は竈に火を入れると医学舎の厨から持ち出した米と粟を土器で炊き始めた。炊くと言っても水を大めにしているのでお粥ができあがる。その間に裏庭に生えていた青菜を適当に摘み取って塩で揉んでおく。外はもう晩秋の気配が漂い、火がなければ寒々しい。

 竈の炎が橙色に光って揺らめき、土器からは白い湯気が広がる。ようやく誰もいなかった家に暖かさが出始めた。適当なところで塩で味付けした青菜をお粥の中に入れてゆっくりとかき混ぜていると、家の主が戻った音がした。

「お帰りなさい、綾苅! 勝手に上がっちゃった。お粥できてるわよ」

 自宅に入った綾苅は、その空間が暖かく、そして求めている女人が微笑んでいることに一瞬だけ思考が停止し、持っていた手荷物をその場に放り出してすぐに木葉へ駆け寄った。両手いっぱいに抱き締めたことは言うまでもない。

「来てくれたのか、木葉」

「うん。今日は外出していいって言われたから」

 牧はそろそろ冬支度で重労働が多かったのだが、もはや疲れなど消えてしまった。木葉がいてくれさえすれば。

「はい、どうぞ。医学舎からお米もらってきたの。あたしは医学舎の給食で食べたんだけど、綾苅にも食べさせてあげたいなと思って」

 愛していると言ってもらえなくても、その気遣いだけで綾苅は満たされた。お粥はとても美味しかったけれども、その理由は新米を使ったからというだけではなさそうだ。空腹だったことと、木葉が来て嬉しかったことが混ざって、綾苅は三杯もお粥をかき込んでしまった。

 木葉はすっかり日が暮れても帰らなかった。月明かりもないし、今日はもう夜勉強する必要がないからここにいさせてと言う。

 炉の両脇のつかず離れずの場所にそれぞれ筵を敷いて横になり、最近の出来事を互いに話し合う。綾苅は愛馬アンラムがいかに賢いか、牧の馬たちが可愛いかを面白おかしく話し、木葉は医学の知識の中から馬の健康にも良さそうな薬を教えた。

「すごいな、木葉は。もういっぱしの女医じゃないか」

「そう思う? でもね、まだ脈診を習ってないからかなり不完全なんだ。そういえば、最近、大足さんから指示されてる調査はどうなったの?」

「ああ、木葉には何も伝わってないんだね」

 綾苅は入江の手児奈の亡霊の話から、松ノ里の大森と浜梨谷であったことを長々と語って聞かせた。医学舎に籠りっぱなしの木葉にとっては全部初耳だ。

「大領家がそんな大胆な計画をしていたなんて信じられない。許せないわ」

 仰向けになり、暗い天井を見つめながら木葉が憤った。大足は、平城宮におわす主上は大変聡明な美しい女人だと言っていた。それを支える人々も有能で尊敬に値する、とも。それにも関わらず、皇太子を呪って、主上に反旗を翻そうとすることが木葉には理解できなかった。

「今のところ、確認できたのは大領の息子と少領の息子、それに国府の小目だけだ。他にも加担者はいるはずだし、どのみち大領本人が関わっていたかどうかを突き止めないと。それに、佐流たちにはこちらの動きがバレてる」

「しばらくは活動できないわね。それに、命を狙われるかも」

「ああ、そうだな。でも、今の時点で俺たちの誰かが消されたらものすごく怪しいだろ? だからその心配はあまりないよ」

「そうね。……もしかして、勝も謀反の計画に参加してるのかしら。あいつ、大領の甥でしょう? そういえば最近、ずっと曹司に引き籠って、何してるのかわからないの。怪しいわね」

 木葉は一人でぶつぶつと喋っていたが、ふいに片手に温もりを感じた。綾苅が思わず手を伸ばして手を握ってきたのだった。

「医生が関与してるかはそのうちわかるだろ。今は、あいつのことは話さないでくれよ」

「うん、そうね」

 少しの沈黙の後、綾苅が身じろぎして木葉の方を向いた気配がした。

「なぁ、木葉。俺はいつまでも待ってるよ。どんなことがあっても、俺はお前の味方だし、あらゆることから守ってみせる」

「でも、あたしの態度は――」

「いや、いいんだ。最初から拒否されたらどうしようかと思ってた。だから、今のままでいいよ。俺が望んでお前を抱き締めたり、口づけをしたりしてるだけ」

 ごめんね、という言葉はうまく出てこなかった。その代りに、木葉は静かに涙を流している。こんなに優しく愛してくれているのに、あたしも綾苅が好きよ、背の君と呼ぶわとは言えないのだ。なぜ言えないのか、木葉は自分でもよくわからなくなっていた。

 空いている方の手で、綾苅からもらった石英の首飾りをそっと触る。ひんやりとした硬い感触が少し火照った指先に心地よかった。

「何があっても、俺は木葉を裏切らない」

 きっと龍麻呂や光藍あたりからは女たらしが何を言うと馬鹿にされるかもしれないが、綾苅は本気だった。

 流行り病で家族を失ってから、孤独に生きてきた。ただ灰色の世界を生きているだけの日々。世話をする馬よりも惨めな境遇に置かれたこともあった。生きていることを実感したくて、手当たり次第に女を求めてきた。

 けれども、今は木葉がいる。

 牧子の仕事がそれなりに面白いと思えるのも、単なる馬好きなだけでなく、木葉が懸命に女医になろうと努力をしているからだ。愛する人が目標に向かって走っている時、自分も一緒に走らなければ置いていかれてしまうではないか。

「あたし、勉強が辛くなったら綾苅にもらった首飾りを眺めることにしてるの。光に反射して、とってもきれいで、嫌なことを吹き飛ばしてくれるみたい」

「うん」

 綾苅はそっと握っていた木葉の手を、指を絡めるようにしてより強く握った。

 離さない。木葉の勉強が進んで、心が定まるまでは絶対に待つ。だから木葉は絶対に離さない。国守にも医生にも渡してなるものか。

 綾苅は握った手の未来がすぐそこに来ていると信じて疑わなかった。


 柔らかな朝日がこれほど清々しく輝いていると感じたのはどれくらいぶりだろう。綾苅の家で目覚めた時、木葉は一晩中握られていた手を見て微笑んだ。連日の牧での労働で疲れているらしく、綾苅は木葉が手を離して起き上がっても気が付かずに寝続けていた。

 医学舎では既に一限目の講義が始まっており、日下部博士が医生たちに何か経を説明している声が廊下に漏れ聞こえている。

 木葉が自分の教導曹司に戻ると、窓際に勝が寝転がっていた。

「朝帰りか。いい度胸だね」

 勝は無表情なままぼそっとつぶやき、反動をつけて起き上がると机に向かって『脈経』を開いた。それが朝の講義開始の合図だとわかると、木葉も大人しく勝の前に座る。本当は、外泊禁止なんて言われてないからこちらの勝手だと文句の一言でも言ってやろうかと思ったところだが、その言葉は飲みこんだ。

「『脈経』は魏王朝に仕えた王叔和によって書かれた脈診の書だ。こいつは太医令と言って、国で最高の医人の地位に就いて、軍と共に行動して流行り病の治療に従事したらしい。魏王朝が滅亡して晋王朝に代わると、王叔和は退官。それからこうした医学の書を編纂し始めたんだ」

 この経には脈診の手段や脈の分類、臨床の意義などが書かれており、しかも過去の医書が収録されていてほぼ完璧な書物なのだ。

 初めて医学の概論に接した頃、木葉は魏王朝などと言われてもそれが何か知らず、人の名前だと勘違いしていた。令に定められた通りに女医の学習を口頭のみで行う方法であったら、必要最低限の処置と薬草の知識を詰め込むだけで終わっていただろう。

 しかし、一般の医生と同様に学んできた木葉は、今では大陸の歴史も医学の発展の様子も知ることになった。

「ねぇねぇ、勝は誰か目標にしている先人はいるの?」

 木葉の話が突然飛ぶのはよくあることで、まず脈診とは何かを説明しようとした勝はこの質問に遮られてしまった。以前の勝なら即座に怒りを顕わにして強引に講義に戻ろうとしていたが、今では諦めて木葉の話に付き合う。

「……また脱線か。別に、特にいないかな。強いて言えば、日下部博士だけど」

 正直言ってこれまで目標とする医人が誰かなど考えたことはなかった。他人から訊かれたこともなかったし、ただ目の前にいる医博士に追いつきたいと努力するのが精一杯だったからだ。

「あたしの尊敬するの医人は孫思襞そんしばくよ」

「お前らしいな。でも、孫思襞のことなんて僕は教えなかったよ」

「もちろん。経の復習に飽きた時に医学舎の書庫に行って、医人伝の巻物を読んだりしてたの」

 木葉が挙げた医人は『備急千金要方』と呼ばれる三十巻から成る医学の百科事典のような書物を編纂し、婦人科と小児科の項目をまず並べたことに特徴があった。

「彼は女人と子供への視点をちゃんと持っていたわ。一般内科よりも大切だって考えてたの。あの本がどうして『千金要方』って名付けられたか知ってる?」

「ああ、知ってるよ。人命は千金よりも尊く、医人の方をもって助けることは徳の高いこと、からだろ」

「そうよ。孫真人はね、自分も病がちだったし、周りにいた農民が皆貧しくて治療を受けられないのを見て、十八の時から医人を志したんですって。皇帝に仕えることはなく、ずっと民の健康のために働いた人なの」

 医人伝の巻物の中に孫思襞を見つけた時、木葉の胸は高鳴った。

 官吏としての医人ではない、民のための医人が大陸に、しかもそれほど遠い昔ではない時代に存在し、たくさんの書物を残している。書物を残せるまではいかなくとも、このような医人の女人版が日の本の国に一人くらいいてもいいではないか。

 木葉の熱っぽい主張を、勝は黙って聞いていた。まさか賤民の女と大陸の高名な医人の話をすることになるとは、初めて木葉に出会った時には思いもしなかった。

 木葉の学習意欲と吸収の速さには驚かされる。形式的な暗記が得意かと言えば、それは勝にしてみれば不満が大きかったが、とにかくあれもこれも知ろうという意気込みは勝を凌駕していた。そもそも国守が木葉にまず文字を学ばせたのが功を奏しているのだろう。

華佗かだはどう思う? 開腹手術を行って、神医と呼ばれてるだろ?」

 勝は試しに伝説的な医人に言及してみた。王叔和と同じく魏王曹操に仕えた華佗は麻酔薬を調合し、外科手術を実施したという記録が伝わる。それゆえ、神医なのだ。しかし、木葉は華佗にはあまり興味を示さなかった。

「華佗は確かにすごいと思うわ。でも、結局彼は魏王の元での名声を求めたじゃない。それが原因で拷問の末に命を落としてしまって…… 理想とは言えないわね」

 事情を全く知らない木葉は何気なくそう答えたが、それが勝には自分の未来を言い当てられてしまったようで、ふいに木葉から視線を逸らした。華佗とは異なるが、名声を得たいと思い、その上、今は謀反の計画に足を踏み入れてしまった勝の心はとてつもなく暗澹としていた。

 主上を退位させ、皇太子を廃し、あの藤原不比等を亡き者にすることが本当に可能なのか。

 謀反を行うための必要な兵力は揃うかもしれない。でも、その後反撃されないくらい圧倒的な軍事力を保持しているかと言えば、そうではなかった。そして、万が一、目的が達成されたとして、葛飾郡の大領家は今までと同じでいられるのか。

 勝が黙っているので、長い雑談をしたせいで機嫌を損ねたと思った木葉は「ごめんなさい、しゃべり過ぎちゃった」と謝った。

「いや……。まぁ、じゃあ、脈診とは何か説明するよ」

 木葉も真面目な顔に戻ったところで、曹司の戸を叩く音がした。不思議に思って勝が戸を開けると、国守の家人である佐久太が立っていた。

「やあ、久しぶりだね。ちょっと、国守様が木葉と大事な話をしたいとおっしゃって。君の他の家族もそれぞれ召されているよ」

「え、何かしら?」

 講義の続きは後日よろしくお願いしますと佐久太は言い残し、木葉を連れて行ってしまった。

 運命は突然に変わる、ということを実感する時がすぐそこに迫っていた。


 国府の正殿に入ると、龍麻呂が左奥に座っている。木葉はちょうど国守の目の前の場所に腰を下し、枳美と真秦が来るのを待った。そうこうしているうちに、大足が介と史生を数名引き連れてやってきた。

「気を楽にしなさい。悪い話をするわけじゃないから」

 大足は微笑んだ。久しぶりに見る国守の顔に、木葉は安心感を覚えた。この人は命の恩人。あたしの人生をやり直させてくれたかけがえのない人――。

 国守が龍麻呂に日々の労働の労いの言葉を掛けていると、妹たちも到着した。そして大足は木葉たちの運命をひっくり返す指示を発したのだった。

「突然呼び出して申し訳ないね。でも、朗報なんだ」

「朗報?」

「そう、ここにその指示がある。読み上げよう。……下総国葛飾郡大領家の木葉、龍麻呂、枳美、そして真秦を良民とし、大領家から解放し、以て孔王部あなほべ姓を授ける」

 誰一人として即座にその内容を理解した者はいなかった。言葉の話せない真秦はともかく、大人の三人も黙り込んでしまい妙な空気が正殿の間を支配した。

「嬉しくないのかい? この理由は、木葉の女医への熱意と活動が特別に主上の心を動かしたからだよ。もちろん、龍麻呂や枳美の国府への貢献も、真秦の信心もお認めになってのことだ」

「い、いきなりですか!?」

 お礼を述べる前に木葉は動揺して訊いてしまった。あんなに苦しかった賤民の身分から解放されるという実感が湧かない。解放してもらえる理由はとても嬉しいことだけれど、今までの生活が今日を境に何もかも変わってしまうことへの耐性が生まれるのだろうか。

「賤民を止めるのは早い方がいいと思うんだが」

「でも大領が――」

「この命は主上直々のものだよ。大領に拒否することはできないし、その代わりに相応の銅銭を支払った。もう大領のいいなりになる必要はない」

 ここで大足は端に控えていた史生たちに目くばせをし、史生たちが龍麻呂から順番に衣を目の前に置いていった。黄色がかった萌黄色の麻の上衣だ。

「もうその橡色の衣は着なくていいんだよ。良民として立派に生きてほしい」

 木葉は見慣れない美しい色の衣をそっと取り上げ、両手で広げた。滲みや泥の汚れが一つもついていない新しい布を持つのは初めてかもしれない。もっともこの衣も手仕事や畑仕事をしているうちにだんだん汚れてしまうのだろうが、始まり方が違う。

 木葉は一人の男を思い浮かべた。同じ橡色の衣を着た、木葉を愛してくれている若者のことを――。

 綾苅は何と思うだろう。賤民と良民はどんなに愛し合っていても一緒になることはできない。もしこの先、木葉が綾苅を背の君と思う日が来たとしても、孔王部姓を名乗るようになれば賤民の男が良民の女を妻にすることは到底できない。それどころか律違反として罰せられてしまう。

 もうちょっと待って、と国守に言おうとして上げた視線の先には大足の微笑みがあった。

 賤民の身分を解放されることはそうあることではない。裏ではきっと国守が中央に木葉の女医生としての活動と努力を伝え、解放するに相応しいことを口添えしてくれたに違いない。それなのに、自分の都合を持ち出していいはずがなかった。

「ありがとうございます、国守様。主上に目をかけていただけるなんてこれほど嬉しいことはありません」

 姉として木葉は兄弟姉妹を代表して礼を述べ、四人揃って深々と頭を下げた。

 国守が退出すると、四人はそれぞれの想いを抱えながら衣を着替えた。新しい人生と共に、もう二度と戻ることができない思い出や関係を振り切らなければならない。

 枳美は静かに涙を流した。新しい美しい色の衣の袖に早速、染みが広がっていく。

「もう、阿弥太と親しくするわけにはいかないのね」

 阿弥太から何か言われたわけではないし、情を通じたわけでもなかった。けれども、必ず毎日、阿弥太は枳美を送り迎えし、つかず離れず傍で見守ってきた。それがどういう意味か理解できない枳美ではない。

 綾苅と阿弥太が木葉と枳美に深い愛情を抱いていることまでは、国守ですら把握していなかった。大足は綾苅が木葉に遊びで手を出そうとしているのだと思っていたし、大人しい阿弥太が枳美への想いを秘めていることも、四六時中、顔を合わせているわけではないので知らなくて当然だった。

 たとえ知っていたとしても、主上自らの解放の指示を、まだ恋の段階でしかない若者たちの事情で断るなど到底無理な相談なのだ。

「姉さん、阿弥太がなぜ官戸なのか知ってる?」

 ふいに枳美が木葉に問い掛けた。妹の大きな瞳を縁どる睫毛に雫が溜まっている。

「そういえば、知らないわ」

「阿弥太のお父さんはどこかの寺の家人だったんだけど、その主人の若い親族と恋仲になってしまったの。それで生れたのが阿弥太。両親も親子も引き離されて、阿弥太はその時から官戸の身分よ」

 それはつまり、もし阿弥太が良民となった枳美を妻にと望み、子供が生まれたとしても、阿弥太の両親と同じ悲劇が生まれるだけだった。

 賤民からの解放は子供の頃から、心の底から望んでいたことだった。良民だって楽な人生を送れるわけではない。様々な制約はあるし、支配されているのは同じ。それでも、明白に不自由を強いられ、誰かの支配を受け続けなければならない賤民とは大きく違う。

(あたしは誰も恨むことはできない。最高の贈り物を与えられたのに、賤民の地位を返してなんて言えるわけないじゃない)

 二人の男を想うと胸がつぶれそうな気持ちになった。まだ何も返事をしていない。愛をもらった代償が、身分の壁だなんて――。

 呆然としている姉と妹の横で、龍麻呂は全く違う未来を捉え始めていた。身分という抗えない障害に既にぶつかっていた龍麻呂は、自分が良民に解放されたことで、若与理への思慕を甦らせた。ずっと胸の奥底に封印していた熱い気持ちが再び体中を駆け巡る。

 もしかしたら、もしかしたら。

 ただの良民と豪族の娘という違いはあれど、絶望的な隔たりは消滅したのだ。若与理を堂々と手に入れる可能性は無ではなくなった。

(国守様、ありがとう。今日ほど希望を持てた日はないよ)

 ただ、喜んでばかりもいられない。姉と妹の心中が自分とは真逆であることを察した龍麻呂は口元の緩みが現れないように細心の注意を払った。

 新しい孔王部家の中で何も変わらないのが真秦だった。まだ恋をするには幼かったし、大好きな仏像はどんな身分の者にも安らぎと光を与えてくれる。ただ、二人の姉の何かが絶たれてしまったらしいことは感じることができた。

 賤民からの解放という事件は、医学舎にも変化を与えることになった。


 昼過ぎに、固くなりかけた黄な粉餅を一つまみして腹を満たし、教導曹司に入ろうとした勝はすぐに戸を閉め、そして再び開けるという謎の行動をしてしまった。

 それというのも、曹司に見慣れない女人が座っていたからだ。だが、よくよくこちらを不思議そうに見上げる顔を見ると、それが自分の指導対象であることに気付き、思考が一時的に止まった。

「な、なにその格好!? いくらお前でもふざけ過ぎじゃないの」

 非難めいた口調になったのは、木葉が美しい色の衣を纏い、髪をきれいに結い上げていたからだった。えーっと、確かこいつは家女で、さっきまで黒い衣だったよな。しかも髪も後ろで雑に一括りにしてただけだったような……。

「ふざけてないわ、失礼ね。これは主上からいただいたのよ。今日からあたしは孔王部木葉っていうの」

 今の言葉を高速で処理すると、ようやく何が起きたのか理解できた。早朝の講義の途中で佐久太が木葉を連れ出して、そして戻ったら身分が変わっていた。それも、まともな良民の女として。

「家女から解放されたってこと、なのか?」

「ええ。もうあんたと同じ身分なんだから、アホ賤民とか言わないでよね」

「……絶対、言いそうだ。アホには変わらないだろ」

 ひどい言い分に応戦してもよかったが、木葉は代わりに「ありがとう」と伝えた。勝が怪訝な顔をする。

「あたしと家族の身分が解放されたのは、あんたのお蔭って言っても嘘じゃないわ」

「僕のお蔭?」

 思えば勝が鬼のように厳しく指導し、無理やりにでも知識を詰め込ませたことが、木葉の急激な成長に繋がったのだし、嫌々ながらでも臨床に付き合ってくれたことが里の人々の健康向上という結果を出せたのだ。勝という有能な医生なくして、主上の木葉への高評価はなし得なかった。

「そういうことだから、きっと主上は勝のことも良い医生だと思われたはずよ。いつか平城宮で働きたいのよね。勝なら無理な話じゃないと思うわ」

 思い切り笑顔を向ける木葉を、勝は直視できなかった。

(僕はもしかしたら僕を間接的にでも評価してくださった主上に対して反旗を翻そうとしている。ただこのまま計画に加担しなくても、中央に乗り込む機会は訪れるのかもしれない……)

 そしてもちろん木葉は勝の負っている役目を知らない。

 この時、更に勝はある奇妙な感情に気付いてしまった。木葉が賤民から良民になったということは、あの牧子とはどうやっても妹背の仲になることができない。そう思った時、ああ良かったという大きな安堵を覚えると共に、勝ったという喜びが湧いてきたのだった。

 目の前でいそいそと経を開き、墨を磨り始めた木葉を見つめながら、勝は自問自答した。なぜ安心したのか。勝ったとはどういうことか――。

「なぁ、あの牧子とは…… その、一緒になる約束はしてたのか?」

 きっと将来を誓った仲で、良民になった喜びの後ろには勝には見せないだけで絶望を抱えているに違いない。ところが、木葉の答えは意外なものだった。硯に視線を落として俯きながら木葉は言う。

「……そんなわけ、ないじゃない。あたしはまず勉強に集中しなきゃいけないのよ。綾苅とは…… 何もなかったの。何も」

 本当はそれほどそっけなく言い表して済ますことはできない関係だったけれども、木葉は深く考えるのを拒否して勝の質問に答えた。ただ、何もなかったと。

 綾苅との関係は始まってもいなかったのだと思うことにした。そうでなければ、苦しくて苦しくて前に進めそうになかったから。ただ、苦しさが、綾苅を愛していた故のものなのか、結果として綾苅を裏切ることになってしまったことへの罪悪感から来るものなのか、わからなかった。

 思いがけない木葉の告白を聞いて、勝は優越感に浸った。初めから木葉の心はずっと医学だけにあったんじゃないか。苦労して関わってきた女を、医学以外のことに夢中にさせたくなかった。しかし、もうその心配は去ったのだ。

 勝は将軍が凱旋したような気分で、講義を始めた。

 脈診の概要を説明するのはいつになく楽だった。四、五日はかかるのではないかと予想していたが、木葉が自習をしていたために二日で概要と理論の講義を終わらせることができた。

「脈象を感じ取ることで病だとか陽と陰の均衡状態がわかるってことは理解したけど、実際に脈を診てみないとどういう感じかわからないわ」

 難なく今日の小試を合格した木葉が言った。

「そうだね。といっても、ここだと適当な患者がいないな」

「別にあたしや勝の脈でいいじゃない」

「まぁ、そうか。じゃあ、まずは自分の平脈の様子を覚えておくことにしよう」

 始めに指導的立場にある勝が木葉の脈の状態を正確に把握し、それから木葉に自分で診断させるという順番にすることにした。

 勝はいつも仲間の医生や臨床で患者の脈診を行うように、木葉の手首に自分の指先を置いた。目をつぶり、指先に感覚を集中させて木葉の体の具合を注意深く探る。速さも力強さも健康そのものだった。しかし、勝の体を鋭い刺激が駆け巡り、言い知れぬ不安が湧いて出てきたことは予想外だった。

 視線を少し上げると、こちらを向いた木葉と目が合い、勝は触れてはいけないものを触れてしまっていたかのように木葉の手首から自分の手を外した。

 この時に自己の中で生じた衝撃的な変化を自覚した勝は、それを打ち消すように冷静さを装って今度は木葉に自分自身で脈診を行うよう指示をする。

「僕がさっきやったのを真似して三本の指を寸、関、尺にそれぞれ当てて」

「こう?」

「いや、もうちょっと指の間隔を離す」

 やはり頭で理解するのと実際にやってみるのとでは勝手が違う。経に描かれている図を覗き込んでいるものの、木葉はなかなか正しい位置に指を置くことができず、勝は思わず手を伸ばして木葉の指をつまんで僅かにずらした。

 その時、触れた指先から再びびりっと痺れる何かが流れたような気がした。ほんの一瞬だけ時が止まる。

 ――抱き締めたい。

 それが木葉の指先に触れた時の感想だった。そして、離したとたんに自分の体の一部が喪失したような不思議な感覚に襲われる。

 突然、勝は失ってはいけないものが目の前に存在しているのだと悟った。真剣な顔つきで、勝の指導を聞き入れている木葉はただただ美しく、手に入れるにはあまりにも高貴に思えた。

 呆然としているうちに、気付いたら木葉が勝の片腕を取り、さきほど自分にやっていたのと同じように勝の脈を計り始めている。勝は驚いたが腕をひっこめるきっかけを失い、とくとくと流れる己の脈の速さを静寂のうちに突き付けられた。

「ちょっと脈が速いんじゃない? それともこれがあんたの普通なの?」

 木葉の言葉で限界が訪れた。

「……急に具合が悪くなった。今日はこれから自習してもらえないかな」

 病とは別のところから発生した動悸と動揺に耐えきれなくなり、勝は木葉から視線を逸らして気取られないように言った。

「えっ、誰か呼んで来ようか? ていうか、ここで横になれば? そういえば顔も火照ってるみたいだし」

 木葉は勝の言葉を素直に受けて、急いで机周辺に散らばっている経や木簡を脇に寄せ始める。

「いい。宿坊に僕の曹司があるから」

「でも……!」

 立ち上がった勝に付き添おうとする木葉を振り払って、勝は宿坊へ急ぎ足で戻った。

(医人の不養生なのかしら)

 多少の心配を残しつつ、木葉は座り直して静かに経の頁を繰った。


 こんなはずじゃなかった。

 勝は自分の曹司に戻るなり、敷物に仰向けに横になった。木葉に気持ちがバレてしまっただろうか。

 いつの間にか木葉を腹立たしい指導対象ではなく、愛おしい女として見るようになってしまった。一生懸命に勝の講義に耳を傾け、厳しい課題も勝の一方的な嫌味にも耐え、未だたどたどしい筆さばきで覚書きを綴り、経を読むために前に流れてくる前髪を掻き上げて耳の裏側に挟む姿を毎日見てきた。

 教導曹司の戸を開けると、必ず先に木葉が座っていた。勝はそのことに安心し、木葉がこの時間だけは誰のものでもなく、自分の教えた通りに動くことに甘美な快感を覚えるようになっていた。

 しかし、脈診を教える段階になるとその甘美な快感を感じるだけでは収まらず、実行に移してしまいたくなる欲望が首をもたげてきた。

 あの時、木葉の脈を取るためにその手首に自分の指を添えると、木葉の生きている証が指先を伝わって感じられる。誘惑に駆られて視線を木葉の方へ向けると、息を殺してじっと脈診を観察している木葉のくちびるがすぐ目の前にあり、勝を慌てさせた。

 このまま木葉の腕を引いて抱き締めたい。そしてその体を隅々まで知り尽くしたい。そんな衝動が勝の全身を駆け巡り、理性が家出をする前に勝は木葉の腕から手を離したのだった。

 あまり眠れた気がしなかったが、朝早く、勝は国守の元を訪れた。

 大足は久しぶりの勝の姿に驚いたようだが、時間を割いてくれた。

「こんな早い時間に申し訳ありません、国守様」

「いや、今日は午後から動けば良いから時間はいくらでもあるよ。それで、どうかしたのかい?」

 勝は大きく息を吸い込み、ゆっくり吐き出してから苦しい心情を吐露していった。

「女医生の脈診を僕ではない誰かに代わってほしいのです」

「ほう。君がそういうのであれば、何か理由があるのだろうね」

 大足が尋ねたが、勝は理由には言及せずにさきほどの言葉を繰り返した。

「これ以上、あの女医生に教えることはできません。僕の勝手な我儘とは十分承知しています。ですが、もう無理なのです。例えば日下部博士などにお願いできないでしょうか。腕前は当然僕よりも優れていらっしゃるし……」

「しかし、君の技術も博士のお墨付きなんだよ」

 大足はそう言いながら、勝が脈診教授を拒否した本当の理由を素早く探った。

 自信家の勝が自分の技術のまずさを理由に教授を辞退することはまず考えられない。そして、二人の間に決定的に修復不可能なほどの断絶が生じたかと言えばそれも該当しない。直接面と向かって話す機会はほとんどなかったが、大足は勝と木葉が多くの時間を共に行動し、よく薬園や食堂を並んで出入りしている姿を遠目に見かけており、医博士からも最近では信頼関係が生まれているように見えますという報告を受けていたからだ。

 となると、自信家だが生真面目な勝が一方的に木葉を拒否する理由は限られてくる。

「……勝君、私の憶測が間違っていたら申し訳ないが、あの娘に情を感じるならなおさら自分の手でしっかりと導いてやるというわけにはいかないのかな?」

 国守に心のうちを見透かされ、しかも正論で返されてしまった勝は顔を真っ赤にして俯いた。それでも勝は木葉の前に踏み止まる勇気がなかった。

「おっしゃる通りです。でも僕にはそんな資格はありません。あなたに依頼されて初めて賤民を診察した時、僕はあの女人を言葉で傷つけてしまいました。それからずっと僕は彼女にひどい言葉で罵り、彼女も怒りました。木葉は僕を憎んでいます。憎悪の対象でしかありません」

 口に出すと余計に惨めに思える。どうしてあんなひどい態度を取り続けてしまったのだろう。それなのに、愛情を感じ始め、あまつさえ彼女の全てが欲しいなどと……。

 勝は木葉に触れた時のぞくっとする感覚から目を逸らせなかった。気付かないふりをしようと思えばできたのに、その感情の深淵を余すところなく覗き込まなければ後には絶望しか残らないという奇妙な追い討ちがもう一人の自分から仕掛けられてしまったのだ。

 なぜそんな苦く、そして切ない気分になるのか、その理由は疑うべくもなかった。

 しかも、本当は初めて木葉に会った時、あの燃えるような瞳で射抜かれた時にも同じ感覚を味わっていたことを、勝は自分自身に対して素直に認めた。けれどあの時は、瞬間的に全力で恋という感情を封印し、だからこそ子供みたいに木葉を罵倒してしまったのだ。

 困惑している若者を見て大足は青いなと、眩しさすら感じた。大足の青春とはまた違う形で、この若者は戦うべきものを目の前にしている。

「勝君、もし女医生が君を憎く思っていたら長期間に渡って君から指導を受け続けただろうか。まぁ、君をそれ以上どう思っているかはわからないけれどね」

 確かに勝の厳しい指導に辟易してぐったりしている様子を始めの頃は何度も見かけたことはあるが、医学の勉強をしている木葉は実に生き生きしている。当初は散々、勝の悪口をあけすけに言っていたらしいが、最近ではそんな話は聞かない。

 大足は前に進むことを躊躇っている若者を、ひとつけしかけてやろうという意地の悪い気持ちを持ってこう言った。

「もう木葉は賤民ではない。良民として解放されたんだ。しかも、未亡人というだけで今は夫はいない。そして、君はまだ正式な妻は娶っていないね」

「……はい」

「じゃあ何も障害はないじゃないか」

 大足の発言はまさに稲妻だった。要するに、結婚したって問題はないと宣言されたようなもので、さすがにそこまで考えていなかった勝の心臓は大きく飛び跳ねた。先走った結論ではあるが、大足の言うことは何から何まで正しい。

「ですがあり得ません、そんなこと! 木葉と僕は医学の伝授という間柄でしか繋がっていないんです。たとえ木葉が僕をもうそれほど忌避していなかったとしても、だからこそ僕はこれ以上彼女に何かして嫌われるようなことにはなりたくないんです」

 意気地なし、ということは自分が一番よくわかっている。愛する女に嫌われたくなくて逃げているだけなのだ。

 既に身分違いという障害で強制的に木葉を奪われた綾苅が、もしかしたら命がけで木葉を取り戻そうとするかもしれない状況であっても、彼女を口説くなどとてもじゃないができない。

 それに、自分には刑部結という娘が首を長くして待っているではないか。きっと謀反が成功したら、佐伯が仲人となって婚礼を挙げることになるだろう。皆がそれを望んでいるに違いないし、勝にとっても自然な生き方であることは確かだ。

 木葉が必要としているのは勝自身ではなくて、勝の持っている医学の知識だけなのだ。それを勘違いして、己が求められていると信じてはいけない。

「あの娘の気持ちを確かめることもしないで、引き下がるのか」

「お願いします。明日からは日下部博士に脈診の教授を頼んでください」

 もう一度、勝は深々と頭を下げた。彼女を傷つけたくないという気持ちと、彼女を失いたくないという恐れの結果だ。

「そうか。君は本当に優秀だし残念だけど、そこまで言うのなら仕方がない」

 大足は心底残念がって、そして同時にやれやれとため息をついた。この知的で真っ直ぐな若者にはまだ一つ乗り越えるべき壁が必要なようだった。

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