第5章 陰謀 (2)正しき二人の大王

 子供たちの反応は様々だった。まずい、と声をあげて顔をしかめるのが一般的だが、好んで苦い薬湯を欲しがる子供の方がどうかしているだろう。

「毎日ちゃんと飲むのよ。それから、必ず朝は外に出て、日の光を受けてね。この家はすごく暗くて、陽の気を取り入れないと偏ってしまうから」

 木葉は子供たち全員に生薬を処方した薬を配り、さらにあることを試みた。それは乾燥させた大量の薄荷はっかを家の中で焚くということだった。

 それだけでも清涼感ある香りが漂うのに、焚いているのだから家中がすっとする空気で満たされた。

「こんな使い方見たことないよ」

「ふふ、あたしもうまくいくかわからなかったの」

 木葉は家の中が澱んでいて、邪気が入りやすくやっているのではと考えた。それに、多くの子供たちが咳をしている。薄荷は共に緩和する効果があるので、この方法を思い付いたのだ。もちろん最初から携行していたわけではなく、健脚の龍麻呂が一度国衙に戻って薄荷を一袋持ってきた。

「悪かったわね、龍麻呂」

「いいよ、姉貴。こんなことくらいしか役に立てないからさ」

「そうね、郡司の子弟はか弱くて、ひとっ走りなんて頼めないもの」

 木葉は笑いながらちらりと勝に視線を送ったが、勝はいつものように怒ることなく、「ああ、僕は役に立たないからね」とぼそっと顔を背けて言っただけだった。

 それから木葉と勝は時々、龍麻呂や真秦を連れて同じ里に通った。孤児だけでなく、老人や妊婦も診察したし、実際に木葉が妊婦の出産に立ち会う場面もあった。女医は本来、産科と婦人科を中心に担当するため、字が読める木葉は空き時間に独学でそれらも学ぶようにしていた。勝はこの点では知識がほとんどなく、逆に木葉が教えるという珍現象も起きるようになった。

 里での臨床で、木葉は勝の優秀な技術を目の当たりにし、本当にこの人は平城に行ってもっと高い技術を習得すべき人材なのだということを思い知った。それはまだ木葉が習得していない脈診である。

 脈診は読んで字のごとく、指先で患者の腕の脈拍の速さや強さ、動きを触れて身体の状態を推測する方法だ。

「どうしてそれで体のことがわかるの?」

「僕は繊細だからね、誰かと違って」

「そういう問題?!」

 膨れっ面をしてみたものの、やはり勝の技術は見習うべきものがある。的確に身体の状態を当て、それに相応しい治療を示す。とは言うものの、見ているだけで理解できるものではない。

「まぁ、まずは概論を『脈経』できっちり学んでからだね」

「うわー、また概論! あたしそういうの苦手だもん……」

「基礎がなってないと、絶対失敗するよ。お前は注意散漫だしさ。そうそう、脈診は集中力が必要だからね、特に修行が必要」

 相変わらず勝は仏頂面で手厳しいが、噛み付くような心底見下してくる口調ではなくなったことは木葉にもわかる。

 通い続けた結果、高戸里の孤児たちはほとんど咳をしなくなり、肌の色や髪の艶も良く、虚弱体質がすっかり改善された。日の光をたくさん浴びるようにと言ったことは正しかったと木葉は信じている。陽の気を多く取り込むことで、陰の気との釣り合いが取れたのだ。

「棗と蓬と生姜は後で届けさせます。栽培したら、近隣の里にも分けてあげてください。もちろん栽培の方法も一緒に」

「ありがとうございます。皆が元気になって畑仕事に力が入ります」

 識字能力のあるこの里長は医生たちの行動を詳細に木簡に記録していた。何かの役に立つかもしれないという純粋な動機からだ。そして、これが木葉たちの運命を変えてしまうことになるとは、里長でさえも予期しないことであった。

 十分すぎる臨床経験を積んだ木葉と勝は満足感に浸りながら帰路についた。

 ところが――。

 里を出てしばらく歩くと林の中を通り抜けなければならない。どうということのない林だが、ごく小さな悪魔が潜み、意図せずに勝の頭上から舞い降りるという事件が発生した。

「痛っ」

 呻き声を上げて、勝はその場に立ち止まった。どうしたのかと木葉が歩み寄ると、勝は左の鎖骨辺りを押さえている。

「どうしたの? ちょっと見せて」

 木葉に言われる前に衣の首回りの留め紐を外していた勝は左肩の部分をずらして肌を露出させた。その時にいかにも不吉な真っ赤な色をした虫が衣から飛び出し、嫌な羽音を立てて林の中へ消えていった。

「やだ! あの虫に噛まれたんじゃない? ここ、紫色になってる!」

 木葉が指差した肩の下には円い紫の斑点ができていた。さっきから痺れと痛みを感じ、勝は顔をしかめた。毒虫にやられたのは間違いない。

「そういうの放置したらいけないのよ」

 そのまま再び衣を肩にかけて何事もなく歩き出そうとした勝を引き留め、木葉はまた勝の衣を引き下ろした。

 そして、木葉は勝の両肩に手を掛けて安定した態勢をとると、顔を肩に近付けて毒虫に噛まれた部分に口を押し付けた。

 ぎょっとして身を引こうとする間もなく、木葉は噛まれた部分を強く吸って、顔を離すとふっと口の中から何かを吹き出した。

 ああ、毒を吸い出しているのか――。それがわかると、強張らせていた勝の上半身がほぐれた。

 木葉はその動作を数回繰り返し、携帯していた竹筒の水を傷口に少しかけた。自分も水で口内を漱ぐ。そして布を適当に引き裂くと、肩から脇にかけてぐるぐると巻いて、端を結んだ。

 処置の最中も終わってからも木葉は真剣で、既に女医の顔をしていた。毒を吸うということは、自分の口にも毒が入るということで、危険が伴うにも関わらず木葉に躊躇いはなかった。

「とりあえず、これで大丈夫だと思うけど、医学舎に戻ったら傷口に薬を塗らないとね」

「……ありがとう」

 木葉は礼を言われたのが意外だと思ったのか一瞬驚いた顔をして、それから微笑んだ。

 女医生は何事もなかったように歩き出したが、勝は左肩に何度も押し付けられた木葉の柔らかいくちびるの感触を思い出して動揺していた。

 さらに、ただの牧子である綾苅はこの生意気で温かいくちびるを思いのままにできるのだということに気付くと、勝は突然絶望感に襲われた。未だ木葉が拒否しているために綾苅は木葉を知らないままなのだが、勝には二人の事情を汲み取る術はなく、木葉が名実ともに綾苅のいもとなっているのだと思い込んでいる。

 勝はようやく気づいてしまった。賤民だろうが良民だろうが木葉は確かに女だった。


「まったく、大した子ね!」

 大足から次々と渡される木簡に目を通しながら朱流は感嘆の声を上げた。例の高戸里の里長から提出された木簡だ。

 大足も珍しくあからさまに笑みを浮かべて、朱流の反応を楽しんでいる。

「突っ走る性格の女人だとは思っていたけど、ここまで積極的に動くとはね。優秀な医生を指導につけて正解だったよ」

「ああ、大私部医人の息子さんね。ちょっと高慢なとこがあるって聞いてるけど」

「彼は彼なりに上を目指すことを義務的に思ってああいう態度をとってるんだよ。父親が欲のない医人だからそれが物足りないのだろうね」

 綾苅が聞いたら大いに異議を挟みそうな好意的な評価を下している大足は、時々見かける勝と木葉が良い師弟関係に育っていると見ていた。

 確かに最近までは激しく口論をしたり、その前は一度木葉が脱走したりしており、自分の人選に不安を覚えたことも何度かあったのだが。

「朱流、君は国府に女医を置くことをどう思う?」

 大足は今更だけどと付け足して、恋人に尋ねた。歌舞だけでなく文字の読み書きもできる遊行女婦は、時に重要な御意見番となる。それで大足は私邸に朱流を招いてくつろぎつつ、国府の統治についてとりとめなく話し合うのだ。

「あたしは賛成よ。医人は国衙だけを診察の範囲にしてるけど、そこで働く女人の病のことを医人がよくわかってるわけではないし、それに、木葉ちゃんは国衙よりも里を対象に考えてるでしょう?」

 大足は頷き、木葉の考えがいかに詔に合致しているかを朱流に語った。こういう時の大足は国守というよりも、理想を追求する青年官吏の顔になる。

 亡き妻の鈴も、遊行女婦の朱流も、時々見せる大足のそういう顔に惹かれたのだ。

「霊亀元年……去年の十月の詔は本当に素晴らしいと思ったよ。国家が栄えるためには民を富ませなければならない。民を富ませるには男は耕作し、女は機織りをする。私はこの詔に主上の理想を感じた。おそらく主上だけでなく、石上左大臣、藤原右大臣、それにきっと式部卿殿のお考えも含まれていると思うよ」

 前下総国守の時代、民を富ませることができなかった。それは全国的な問題でもあり、湿地での稲作ばかりに目を向け、畑での麦や粟の栽培を怠っていたからだ。詔では長らく安定した食糧供給を担ってきた畑作を改めて促すようにと示されていた。

 大足は着任してから麦や粟の栽培を見直すよう指示しており、それは今年の収穫に効果を現したのだ。

「安定した食糧供給と医療が揃えば心強いことこの上ないからね。井上駅の東側は湿地帯で、灌漑設備も徐々に作る必要があるし、やることは山積みだな」

「ねぇ、木葉ちゃんのこと、平城宮に伝えたらどうかしら? 国府にも女医が必要だってことを太政官の人たちに知ってほしいし、他国にも広まればいいと思うわ」

「まさに私も同じことを考えていたよ。これから宮内卿に書状を送ろうと思ってた」

 国守は国内で起きた様々な出来事を中央に報告する義務があるのだが、今回の話は一つの試みであったので、まずはかつての上司である安倍広庭に知らせることにした。中央での女医の管轄は中務省だが、長官の大伴旅人は広庭と漢詩仲間なので、話が伝わる可能性が高い。

 ――かくして下総国で女医を志す賤民の娘の話は、平城宮の中枢に届くことになったのだ。


 秋の穏やかな風に乗って上品な香の薫りが運ばれ、そこに間違いなく高貴な女人が存在していることを示した。氷高という凛とした名を持っているが、誰もその名を口にすることはない。なぜなら彼女はこの国の唯一の統治者であり、神の子孫だからだ。

「とても面白い試みを始めたのね、下総国は」

 氷高は興味深そうに臣下からの報告を聞いていた。この女帝から直接召されたのは、従弟である式部卿と中務卿そして宮内卿の三名だ。私的に呼び出したので少人数である。

「下総国守が併せて送付してきた木簡によれば、この家女は国府の医生と共に里へ出向き、里人特に子供らの健康状態を改善させたとのこと。他にも妊婦や老人へ適切な薬を施し、新しい薬草の利用方法などを発案しているようです」

 中央で女医を管理する内薬司を監督する立場の中務卿大伴旅人は立派な口髭を捻りながら、木簡に目を通し、女帝に伝えた。

「その家女とやら、立派ではありませんか。下総国守は中納言、摂津大夫であった高向麻呂の次男でしたね。税を取り立てるだけでなく、民の恤救にも着手するとは官吏として本来あるべき姿を実行しているのですね」

「はい、下総国守は以前、私の配下におりましたが律令に通じているだけでなく、それをいかに主上の御心に適うよう運用していくか、心を砕く男でございます。決して恣意的に律令を振りかざしたり、ことさらに民を追い詰めることはしませぬよ」

 広庭はかつての部下を褒められて微笑みながら、補足をした。そして、この人事を最終的に確定させたのが式部卿、つまり生真面目な皇族官僚である長屋王だった。

「太上天皇の御代から今に至るまで、律令による統治を強化することのできる人材が必要だと思い、そういう人物を各国に赴任させていきました。残念ながら全てうまくいったわけではありませんが、高向大足のような人物はまさに適任でしょう。確か彼と私は年が同じくらい。期待しているのです」

「まだ赴任して数か月。あと数年がんばってもらわねばなりません。適切な時期に高向大足に加禄をなさい」

 その場にいた皆が女帝の指示に頷く。期待していること示すためには少しばかりでも褒賞することが効果的だ。そして、氷高は「女医生についてですけれど」と、先ほどから考えていたことを臣下に諮った。

「木葉とやらは代々賤民の家柄なのでしょう? 女医と言えども、やっていることは男の医人と同じ。それでは特に賤民にしておく理由はないわ。親が謀反人などではないのだし、良民に解放して、そのまま女医を続けさせては如何かしら。特別な働きをした賤民を家族ごと解放する例は過去にも多くあります」

「はっ、左様でございます。しかし、家女ということは所有者がおるゆえ――」

「それは誰なの?」

「下総国葛飾郡大領です。突然、家人や家女を家族ごと解放されるとなると不満を抱くに違いありません」

「では別の賤民を大領に渡すか、解放に足るだけの銅銭を払いなさい。木葉の家族全員分ですよ。国の女医制度の導入については、よく右大臣と検討するように」

 この私的な会合はこれで終わり、賤民の解放と女医制度については正式に太政官の検討事項となったのだった。


 月見でもしようぜ、と従兄の徳麻呂から誘われた勝は、今日は夕刻から自習にすると木葉に言い残して大領家に足を運んだ。大領家はそこそこ豪勢な造りで、小さいが人工池もあり、それが正面に臨める離れが今夜の宴会の場所だった。

「また久しぶりになってしまったね、徳麻呂、古忍。今日はうまい酒が欲しいな」

「そう思って用意しておいたぜ」

 徳麻呂の声が合図となって、離れに入ってきたのは勝の恋人である刑部結と家女数人だった。結は酒を、家女は肴を掲げており、胃袋を刺激する良い匂いを漂わせていた。

「結も来たのか。またしばらく会えずに悪いな」

「いえ、あなたが大切な勉学に励んでいるのは私もよく知っていますもの。でも今夜はずっとお傍に控えさせてもらいますからね」

 長い間放置されていて少しくらい拗ねても良いのに、結はいつでも辛抱強く待っててくれている。今日だって優しく微笑んで隣に寄り添い、絶妙な間合いで酌をしてくれる。

(これがあのアホ賤民だったら怒り狂ってるだろうな…… きっと何か投げつけてくるに違いないし)

 ふとそんなことを考えて、勝はなぜ今、木葉の反応などを想像してしまったのかという不可解な思考に衝撃を受けた。慌てて今の記憶を強制的に消し去ると、勝はひと息で酒を飲みほした。

「おい、下がっていいぞ」

 古忍が給仕していた家女たちを下がらせた。結も席を外そうと腰を浮かせたが、徳麻呂がそのままでいろと手で制止する。

「酔いがひどくなる前にお前に言っておくことがある。先日の宴席で言いそびれた話があったの、覚えてるか?」

「ああ、そう言えば。大領家が何か重要なことを担ってるとか何とか、その話だよね」

 勝が思い出すと、古忍は渡り廊下や外に人のいないことを確かめて徳麻呂にそう伝えた。

「いいか、今から言う話は親族と関係者以外には他言無用だ」

 わかった、と返答し、ただならぬ雰囲気に勝は唾を飲み込んだ。

「実は俺たちは大量の武器を地下で生産している。武器だけじゃない、白や紫の絹の袍や銅銭もだ。浜梨谷に坑道を作って半地下形式で鉄の生産をしたり、松ヶ里の大森に結界を張って工房をいくつも建てたりしてな」

「どういうことだ? 武器なんか大量に保有するのは禁じられてるはずだよ。国守からの注文、じゃないよね?」

「まさか! 極秘だよ」

 ますますわけがわからない。医学一筋の勝にも武器の保有が律令違反であり、白の袍は天皇のみが着用を許されるものだということはわかる。

「……国守でないとすれば、主上からの直接の依頼? 蝦夷に戦でも仕掛ける気なのか」

「後半は当たらずも遠からずだが、依頼主が違う。皇太后様からの命だ」

 前代の皇后が? 一体それはどの皇太后を指すのだろうかと勝は首を捻った。前代の豊國成姫とよくになりひめ天皇(元明天皇)は今は太上天皇として健在だが、自ら即位したので皇太后とは称されない。その前の治天の君は、豊祖父とよおじ天皇(文武天皇)で現在の皇太子の父でもある。そして、その皇后は――

「ちょっと待った。豊祖父天皇の最上位の妃は夫人ぶにんの藤原宮子様だけど、皇后位ではないから皇太后と呼ぶわけには……」

「そう、ではないよ、俺たちの皇太后様は」

 あろうことか徳麻呂は先の天皇の妃を呼び捨てにし、不敵な笑みを浮かべた。

 夫人の宮子は皇太子を出産した後、心を患ってずっと引きこもり、夫人としての役目を果たせない状態となってしまった。それでも、敬称を省いて良いわけではない。

 しかし、皇太后とはどういうことかと考えて、勝はある一つの可能性に思い至った。そう、それは確かに存在していたけれど、今では誰の記憶からも消え去っている幻の高貴な女人……。

紀皇后きのこうごうだよ、勝。もう覚えている人はそう多くはないが、平城京の北部に御子と共にいらっしゃるんだ!」

「その紀皇后がどうして大私部家と他田おさだ家に武器や絹織物の生産をお命じになられたんだ?」

 とうとう勝は長らく隠されてきた大私部家の裏の役割を知ることになった。天皇家の血筋にまつわる極秘計画はこうだ。

 現在の天皇は豊祖父天皇の姉であり、皇太子は豊祖父天皇と藤原宮子の長男、首皇子おびとのみこである。これは周知の事実で誰も疑ってはいない。

 しかし、この立太子を不当だと信じている集団が存在した。

 それが豊祖父天皇の皇后であった紀皇女とその息子、瑞葉皇子みずはのみこ、そして彼らを支持する臣下たちである。本来ならば夫人の位よりも皇后の位の方が高く、紀皇后の存在は別格のはずだ。しかし、皇后と瑞葉皇子の存在はないものとして扱われており、今ではその名を口にする者はいなかった。

 というのも、紀皇女は立后され皇子を出産したものの、藤原不比等によって事実上、廃后に追いやられたからだ。

「紀皇后と宮子がそれぞれ皇子を生んだのはほとんど同時期で、そうすると自然と皇后様が母の皇子が皇太子となってしまう。だから、不比等は右大臣に就任した後すぐに皇后様を異常ありとして軟禁状態に置いたんだ。もちろん皇后様は御体に異常はないし、明晰でいらっしゃる」

「太上天皇は何もおっしゃらなかったのか? 臣下が皇后を事実上お役目御免にするなんて……」

「紀皇后には何も政治的な後ろ楯はない。ご兄弟の舎人親王や新田部親王がいらっしゃるものの、ほとんど影響力は見込めない。太上天皇と右大臣はそんな基盤の脆い御子でなく、右大臣その人の娘が生んだ子を皇太子に選んだんだ」

 さして酒の量が多いわけでもないのに、勝の鼓動は速まっている。間違いなく、大私部家も他田家も表舞台から消された紀皇后を擁護し、それ以上の行動を思い描いているようだった。

「前下総国守は皇后宮亮こうごうぐうのすけを務めて以来、私的にもお仕えするようになったらしい。佐伯様が下総国へ赴任してからすぐに皇后は右大臣に就任した不比等によって軟禁されたことがわかった」

 古忍は手元にあった水をあおると続けた。

「要するにだ、勝。本来ならば尊い血筋の紀皇太后のお生みになった御子こそが次期天皇に就かなければならない。臣下の一人にすぎない藤原の娘があたかも皇后のような扱いを受けて、挙句の果てにその子が皇太子などと断じて許すわけにはいかないぞ」

 ここまで話が進んで、勝はやっと確信が持てた。葛飾郡司は紀皇太后とその御子のために佐伯百足の命に従って、謀反の準備を進めてきたのだと。

「……つまり、谷や森で密かに作らせているものは、正しい皇太子を即位させるためなんだね」

「ああ、そうだよ。とても名誉な話じゃないか。皇太后は首皇子の廃太子を望んでおられる。それから、主上を退位させ、不比等一族を暗殺する。そして瑞葉皇子が即位して、正しい皇統に戻されるというわけさ」

 なんという途方もない計画だろうと、勝は眩暈を感じた。視線を結に向けたが、彼女は予め話を聞いて知っていたのか、動揺を見せていない。自分が医学舎に入り浸っていた間に、大領家と少領家は大きな渦に巻き込まれていたのだ。

「僕の父は何て?」

 今まで親から何も聞かされていなかった勝は置き去りにされたような悔しい気持ちになったが、実は勝の父親も謀反計画は関知していなかったらしい。

「お前の親父さん、お人好しだろ。あんまり政治的な話は疎いし、医学一筋だから相談したところで戦力にならんぜ。秘密を知る人物は少ない方が安心だから敢えて教えなかったんだ」

「まぁ、それで正解だったと思うよ。で、僕には打ち明けたってことは何か期待されてるってこと?」

「だってお前は頭キレるし、うっかり秘密を漏らすような奴じゃねぇだろ」

 徳麻呂の素直な感想を聞いて、勝は苦笑した。別に否定するものでもないし、佐伯の力添えで中央進出の道を用意してもらえるという美味しい話を当てにした身で、今さら自分は面倒なことに巻き込まれるのは御免蒙るなどと言えた義理はない。

「俺らの兄弟や妹は随分、佐伯様に世話をしてもらって、その恩に報いるって事情もある。佐伯様は平城で着々と準備を進めているし、紀皇太后の御兄弟である二人の親王もこの計画を黙認されてるんだ」

 だから心配はいらない、と徳麻呂は言った。しかし、警戒しなければならないことがある。

「高向大足が賤民を使って色々嗅ぎまわってるだろ。あいつは前国守の不適当な国府運営を調査しているようだけど、それは全部、この計画に結びついてしまう。でも批判される筋合いはない。不当な血を作り出した右大臣やそれを黙認してきたここ数代の主上たちこそが批判されるべきだろ?」

「佐伯様が下総国でやってきたことは、紀皇太后のためだ。正義を取り戻すには、あれくらいのことをしなければできない。母は違えど同じ浄御原きよみはら天皇(天武天皇)の血を引く豊祖父天皇と紀皇后の御子こそが正統な治天の君なのだからな!」

 そう力説する徳麻呂と古忍の瞳は、勝が見たことのないような熱っぽさを秘めており、心の底から紀皇太后と瑞葉皇子の正統性を信じていることがわかる。

 下総国葛飾郡の役割は主に大量の武器を生産することで、平城京に戻った佐伯の準備を支援するというものだ。佐伯氏は元来、武人の家柄なので手筈を整えるのにそれほど苦労しないだろうし、配下には多くの腕利きの男たちがいる。

「なぁ、大嬢。君はこの計画に同意したのか?」

 万が一、謀反が失敗に終わればその一族の運命は共に悲惨なものとなる。勝の問いかけに、従順な恋人は穏やかに、けれどもはっきりと答えた。

「計画は父上が指揮しています。勝さんが大私部家と異なる道を歩むとは、私は思わないわ。だから私も安心して父上と背の君と同じ未来を見ることができると信じています」

「……その通りだよ。僕も大私部の一員だからね」

 勝は苦笑しつつも、謀反に加担するという意思を受け入れていた。徳麻呂たちの主張は確かに正しいと思う。瑞葉皇子という最も高貴な血筋を受け継ぐ男子を差し置いて、新興の藤原氏が天皇家を掌の上で転がそうとしているなど、冷静に考えてみれば狂っているではないか。

 話が終盤を迎え、古忍は勝に新しい酒を注いで渡した。

「そうそう、勝には重大な役割があるんだよ」

「僕にできること?」

「たぶん、お前にしかできない」

 もったいぶってなかなか教えてくれなかったが、とうとう徳麻呂は勝のすべきことを告げた。

 ――毒を作ってほしい。検知できないやつを。え、決まってるじゃないか。藤原不比等とその息子たちを消すためだよ。

 その夜、徳麻呂からの依頼が頭の中で何度も再生された。くっと一文字に口元を結んだ結の不安げな表情も瞼にちらついてなかなか消えてはくれない。

 誰にも相談できない。孤独な葛藤と戦い……。

 臣下の中での事実上の最高権力者を葬り去るという恐ろしい任務が勝に課されてしまったのであった。


 今年の田畑の収穫は前年よりも増加し、国守の命により適正な租の率に戻されたため飢えと貧困に苦しむ人々は大幅に減ったらしい。

 天候が安定していたというのも下総国に味方したと言える。

「さてと…… 我らが国守様のために頑張るか」

 そんなわけで以前よりも少しは増えた食事量に満たされ、菊野牧での仕事が板についてきた綾苅が景気付けに言うと、真熊が「おうよ」と応える。真熊自身、ますます弩手としての技量に磨きをかけ、葛飾郡いや下総国において一、二を争う名手に成長していた。そんな男が仲間内にいるのだから大森への侵入も恐れることはない。

「真秦、仏像は持った?」

 龍麻呂の問い掛けに、真秦はにっこり笑顔で小型の仏像を天に向けて掲げる。

「じゃあ、光藍。護符はあるよね?」

「もちろん」

 本当は朱流がいればさらに心強いのだが、それは国守が許してくれないだろう。

 綾苅が明かりを掲げ、真熊を先頭にして龍麻呂、真秦、阿弥太、光藍と続いて牧の柵の向こう側にある鬱蒼と繁った森へと入る。

「牧と繋がる小川がどこに向かうのかがわかるといいんだけどなぁ」

「倒れた馬はどうなったの?」

「回復したよ、しばらくは軍馬として使えないけど」

 同じような現象が起きていた浜梨谷の調査は光藍と龍麻呂が続けていたが、特に目ぼしい成果はない。

 偽手児奈の件は、少なからず大足に衝撃を与えたらしく、他にも居場所がわからなくなっている良民や賤民がいないか即座に調べるよう国内に指示をした。

 そして入江の洞窟に隠されていた、大領家に関わるとおぼしき財産と贋金と呪具は一通りの確認が済むと、再び元の位置に戻された。

 特に呪具は大足以下を震撼させた。

 人形ひとがたに墨書された「首」という文字は身体の一部ではなく、現在の皇太子である首皇子の名ではないかと大足は推測した。人形には通常名前を記すものだし、周りに隠された物と照らし合わせるとそれほど突拍子もない考えとは言えないだろうというのが、大足の言い分だ。

 そして、隠し場所に蠢いていたたくさんの気色の悪い虫はおそらく蠱毒こどくという呪詛に使われるものが、逃げ出したか繁殖してしまったかということではないか。

 どちらにせよ、この下総国府のお膝元で由々しき事態が進行していることに違いはない。

「すっげぇ、気持ち悪かったぜ、あの虫! こう、足元から上に這いずってくるんじゃないかって感じした」

 強者の真熊も虫は遠慮したいようだ。

「後で調べたら蛙ととかげもいたんだよね……」

「うへぇ、そんなのでどうやって皇太子を呪うんだよ」

 再び国守と共に洞窟に行って隠し場所を改めた阿弥太はげんなりし、綾苅は素早く動く虫やぬらぬらと這う爬虫類を想像して肩を竦めた。

「蠱毒と言って、様々な虫などを壺に入れて互いに食わせ合うんです。そうして長い月日を経て生き残った最後の一匹を用いて、呪詛を行う…… ただし、どのようにするかは私も知りませんし知りたくもないですね」

 光藍はさらっと言ってのけたが、相当食欲が失せる内容ではある。

「皇太子を呪うってことは、気に食わないからだよね。そうすると、その蠱毒を行おうとした犯人にとっては別に皇太子に相応しい人物がいる……?」

「なるほど、さすが阿弥太。その可能性はあるな」

 大森に侵入するとあって密かに弓矢と懐刀を携行し、仲間の中で唯一意気込んでいる真熊が唸った。しかし、では誰が誰を新しい皇太子あるいは帝に据えようとしているのかまでは検討が付かない。少なくとも、大領家が何らかの形で関与しているらしいという推測ができるだけ。

 綾苅は明かりを掲げて時々地面の濡れ具合を確認している。牧から大森のどこかに水脈が繋がっているのだ。

「おっと」

 龍麻呂は前の二人が急に立ち止まり、わずかに前のめりになった。

「見ろよ、ここで行き止まりだ」

 明かりにぼんやりと照らされたのは、苔むした岩や土の壁だった。

「地面の濡れはここで止まってるな」

 真熊が壁付近にしゃがみこんで地面を触りながら確認すると、いや、とそれを否定する言葉が発せられた。少し離れた場所から光藍が闇の向こう側を指差している。

「この壁、というか斜面づたいにまだ湿った土が続いていますよ、ほら」

 綾苅が明かりを光藍の指差す方に向けて地面をよく見ると、確かに黒光りしている。綾苅から明かりを受け取った光藍は慎重に前へ進み、後から残りの仲間が続く。

 ところが、光藍はある地点で立ち止まり、無言で瞑想し始めた。

「おおい、光藍、どうしたんだ?」

 覗き込むように声を掛けた真熊を慌てて龍麻呂が引っぱる。

 ――ダメだよ、今、光藍は何かを察しようとして集中してるんだよ。

 ――マジか。何かあるのかな?

 小声で会話が交わされた。皆が息を潜めるように待っていると、光藍が振り返って言った。

「この先に池のような水の塊があるようです。でも、ひどく濁っていて足を浸して渡るのは止めた方がいい」

「すごいね、そんなことまでわかるの?」

 鍛冶職人として目を酷使している阿弥太にはほぼ闇では何も見えない。光藍は、少しばかりの修行の賜物かもしれません、と控え目に答えた。

「仕方ない。引き返すか」

 今回もさして収穫がなかった。

 一行は落胆して元の道を戻り、再び行き止まりの壁にたどり着いた。

 そこから牧の方面を目指したのだが、途中で真秦の姿が見えないことに龍麻呂が気付いた。

「真秦! どこだよ?」

 すうっと血の気が引くのがわかった。真秦は以前この森に入って、妖しげな術にかけられてしまったことがある。

 今度は森の神に拐かされたのだろうか。手を繋いでおけば良かった。しっかりしている子とは言え、まだ十の子供じゃないか。

 鼓動が速くなり、息を吸うのも苦しくなってきた。弟を失ったら二人の姉妹にどう償えば……。

「しっかりしろよ、龍麻呂。ただ遅れてるだけかもしれないし、迷子になっただけかもしれない」

「ああ、そうだね」

 綾苅に励まされて、龍麻呂は落ち着きを取り戻した。また行き止まりの壁の空間まで引き返す。

 そして奇妙な足跡を見つけることになったのだった。

 壁の周りの水分を含んで弛くなった地面には真秦とおぼしき小さめの足跡がくっきり残されている。しかし、その足跡はどういうわけか爪先を壁側にしてそこで終わっていた。引き返した足跡は見当たらない。実に奇妙なのだ。

「……もしかして、斜面を登った?」

「それはないだろ。手足をかける場所もないし、そういう跡もない」

「とすると、考えられるのは壁の中に入った、ということでしょうね」

 その方があり得ないじゃないか、と龍麻呂は否定しようとしてあることに思い至った。この森はただの森ではないのだ。修行者たちが棲みついて怪しげな術を操っている。その術を跳ね返したり解除したりできるのは、仏像を持っている真秦と護符を懐に忍ばせ自らも結界を張ったりちょっとした術ならば使える光藍である。

 何かの拍子に不思議な力が発生して真秦が壁の内側へ……という現象も考えられなくはない。

「私の見立てではこの壁は何者かによって作り出されているのだと思います」

「てことはこの向こうに秘密が隠されているんだな」

 光藍が頷くと誰かが生唾を飲み込む音がした。光藍は護符を手に、呪文を唱え始めた。

 ―― オン・ビロハキシャ・ナウギャヂ・ハタエイ・ソワカ。 オン・ビロハキシャ・ナウギャヂ・ハタエイ・ソワカ……

 重厚に張り巡らされた壁を全て消滅させるほどの力は持ち合わせていなくとも、穴を開けるくらいはできそうだ。

「破!」

 気合いの声と共に空間がたわみ、霧が晴れるように目の前の壁が薄くなっていく。そして、大人が一人くぐれるくらいの穴が開くとそこにこちらを見上げる真秦の姿が現れた。

「真秦! 無事か?!」

 龍麻呂に駆け寄った真秦は兄にしっかりと抱き付いた。とりあえず、何か術にかけられているということはなさそうだ。

 真秦は龍麻呂の腕を引っ張り、穴の中へ連れて行こうとする。その指差す方を屈んで見てみると、人の影が往き来しているのが確認できた。

「行こう。あそこに人が何人もいる」

 驚くべきことに、壁の内側は木の生い茂った不気味な森ではなく、かなり開けた空間が存在し、頭上には青空がはっきりと見えていた。

 木立の間に身を寄せて様子を窺うと、掘っ立て小屋が三軒、せわしなく移動している人間が三十人くらい。誰も会話をしていない。むしろ目が虚ろで自分の意思で動いていないように思えた。

 この空間で最も変わったことと言えば、半地下の空洞が作られていて、煌々と赤く光る炉が設置されていることだった。

「鍛冶場だったんだね。それも刀や剣や鎧が作られてる……」

 鍛冶職人の阿弥太が全体を見回して言った。今や武器の生産を密かに行われていることがわかり、次に確かめるべきは誰が関与しているのかということだ。

「見知らぬ顔ばかりですね。もしかしたら操られてこの鍛冶作業に従事させられているのかもしれない。ほら、皆、目が虚ろでしょう?」

「言われてみれば…… 術を解くことは?」

「できなくはないかもしれませんが、異変に気付かれる可能性がありますよ」

 ということで、ひとまずは静観するにとどめ、しばらく人の出入りを観察することにした。

 淡々と鍛冶作業が続けられていたが、ある時、中心部に立っている小屋の中から一人の男が出てきた。

「あっ、あいつ外に出ていこうとしてるんじゃないか? 修行者っぽいよ」

「よし、つけようぜ」

 視力の良い綾苅と真熊は素早く動いた。その男は白装束でいかにも修行をしている雰囲気を醸し出しているが、頭巾を被っていて顔は見えない。

 修行者は近くの作業員に声をかけて何かを告げると綾苅たちが来た道を歩き、あの穴の方へ向かった。

「ヤバいんじゃないの? 穴を開けたことがバレる!」

 龍麻呂がかすれた声を上げるとその場に一気に緊張感が走ったが、一人冷静な光藍は大丈夫ですと告げた。術を破って穴を開けたものの今頃は閉じてしまっているだろうということだ。

「残念ながら私の力はそれほど強くありません。今も自分たちの周りに結界を張って外から見えにくくしていますが、その力で精一杯なんです」

 光藍は伏し目がちに言った。

 真間山での修行は完全に独自のものだったし、世を捨てた身でありながら、心のどこかに束の間愛して呆気なく失ってしまった百合への未練を抱えていた。最低限の形通りの術は使えるようになっても、それ以上の何かを感得するまでには至らなかった。

「まぁ、かえって良かったってことだね、あの修行者に気付かれる心配はないんだから」

「だな。後を追うか?」

「そうしましょう」

 修行者は行き止まりに辿り着くと、手にしていた杖で壁を叩いた。するとその周囲の壁がぐにゃりと歪んで通り道が現れ、修行者は中に吸い込まれていった。

 同じように龍麻呂たちも壁をくぐり抜け、また菊野牧まで戻ってひたすら修行者の後ろ姿を追跡した。

 追跡でわかったのは、修行者が向かったのは浜梨谷で、そこも大森と同様に結界が張られていたということだった。

「やっぱりここも怪しかったね」

 龍麻呂は枳美と散歩に来た時に見つけたおびただしい数の魚の死骸を思い出した。

 しかし、ここの結界は大森よりも強く、光藍の護符と真秦の仏像だけでは破ることができず立ち往生している。結界が強いのは谷の方が人が容易に入ることができるからだろうか。

「修行者が消えちゃったよ」

「国守に言って朱流さんを貸してもらった方が早いんじゃねぇの?」

「そうだけど、今から戻っても遅くなるし、国守はあんまり朱流さんを巻き込みたくないんじゃないかなぁ」

 それが大足の男としての感情なのか、国守としての判断なのかは龍麻呂にはわからなかった。とにかく、浜梨谷も何か違法な臭いが濃厚な場所であることは確認できた。

「一旦、国府に戻った方がいいな」

 視界が開けてさほど必要としなくなった明かりを持っている綾苅が言った。

 ところが。

 引き返して歩いていたところに前方からあの修行者が壺を抱えてやってくるではないか。しかも、修行者の後方にはよく知った男二人が並んでいる。

「あいつら、仲間だったんだ……!」

 相変わらず修行者は頭巾を被っていて誰だか判別できないが、二人の男は下総国府少目大伴佐流と葛飾郡少領の息子他田古忍であった。古忍は壺の代わりに麻の袋を抱えている。

 その時間は自分が息をしているのかよくわからないくらいに永遠に続くかと思われた。鼓動が聞こえないかどうか無用な心配で、龍麻呂は拳を握りしめていた。

 佐流と古忍は間に修行者を挟みながらゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。どういうわけか時々、佐流の体から鋭い光のようなものがちらついて眩しく感じる。

 光藍の結界が効力を奏したのか、修行者たちは侵入者に気が付かずに若者たちの横を通り過ぎて行ってしまった。

 完全に姿が見えなくなってから、真熊が大きな溜め息を吐いた。

「あー、危なかったな!」

「どうする? あいつらがいないうちに、もっと奥に入れるか調べる?」

 阿弥太が綾苅に訊いたが、答える前に光藍が静かに告げた。

「引き上げましょう。彼らはこちらに気付いています」

「えっ」

「気付いていないふりをしていただけです。佐流は明らかに私の目を見ながら歩いていましたよ。一瞬、結界が破られるかと思いましたが敢えて無視したようです」

 こちらの存在が知られてしまった。大失態であり、今後は今までのような調査ができなくなるどころか妨害や反撃も考えられる。自分たちの事実上の主人である高向大足に相当な不利をもたらしてしまったことは完全に失敗だ。

「まずは国守に報告だな」

 綾苅が言うと、光藍はおもむろに腰を屈めて地面から何かを拾い上げた。指先で摘まんだのは一枚の葉である。

「それ、ムラサキの葉じゃないか」

「ええ、古忍の麻袋からこぼれ落ちたものです」

 薬か染料か、その使い道は不明だが何かの証拠にはなるだろう。

 この日の夜、一行は揃って大足の私邸に赴いて全ての出来事を報告した。

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