第5章 陰謀 (1)情熱の疾走
九月も中頃になると気候も適切に感じられ、馬たちの食欲も増す。広い牧を駆ける淡い月毛のアンラムのたてがみが秋の風に靡いている。
走ることに満足したのか、アンラムは特に呼び寄せてはいないのに綾苅の方へ歩いて戻ってきた。
「しばらく見ない間に逞しくなったね」
アンラムの鼻筋を撫でていた綾苅の背後から知り合いの声がした。
「ま、俺が大事に育ててるからな! こいつ、本当に上等だよ。あと一年半もしたら軍団に入れられる。教えなくてもちゃんと動いてくれるし、何より元気だ」
「蝦夷が誇る馬なんだから当然だよ。ところで、君は国守に会ったことある?」
「あるよ。話したことも何回もあるし。それが?」
「どんな人かなと……」
「俺はあの国守ならずっと下総国にいてもいいかなと思うね。俺たちのことを見捨てないって。国を富ませて民を養うのが国守の務めとかなんとか言ってたな。前の国守にこっぴどく扱われたからなおさらだよ」
綾苅が力説すると、モヌイはあの人は変わってないんだなぁと呟いた。
「え、何、お前あの国守のこと知ってんの?」
モヌイから越後国での話を全て聞くと、綾苅は月並みながら世間は狭いという感想を抱いた。それに、大足の官人としての根っこを垣間見れたのは興味深かった。蝦夷の長老のところに乗り込んでいくあたりが大足らしかった。
「国守は俘囚里に視察に来ないのかな。俘囚には興味がないかもしれないけどね」
モヌイは少し自嘲気味に言った。もし俘囚の戸籍情報が国守まで上がっていれば、大足はそこにモヌイの名を見つけたはずだ。わずかな期間だが、若い巡察使と幼い蝦夷の子が確かに触れ合い、同じ時間を過ごしたのだ。もうあの時のことは忘れてしまっただろうか。
「そうだ、明後日、牧で二歳馬に焼き印を押すことになってて、国司の立ち会いがあるから国守も来るかもしれない」
「ふーん、わかった」
しかし結局、焼き印を押す日には国守が牧に来ることはなく、またモヌイも顔を見せなかった。大足の代わりに立ち会ったのは少掾の榎井知麻呂だった。そしてこの時、少掾が来たことによって、綾苅はある決断を求められることになるのだった。
十五疋の二歳馬に官の印をつけ、毛の色や特徴を記録していく。それが終わると牧長と少掾が署名をして完成となる。
「君はたいそう馬の世話が得意って聞いてるよ。蝦夷の仔馬も手なづけてるらしいね」
「まぁ、親父もじいさんもこの仕事をしてたからなんとなく」
特にどうということなくそう答えた綾苅に、榎井はくすりと笑った。この若者はあまり頓着しない性格なのだろう。
「牧長がね、君は馬を健康にして怪我を治すのが得意だって言ってた。実は僕は度々牧に来ていてね、君が馬を扱う様子を見ていたんだけど、 君は天性の才があると思うよ」
突然、盛大な誉め言葉が飛び出して綾苅は驚いたが、嬉しくないわけがなかった。
「いやー、才能っていうか経験ですよ」
「惜しいね。君がもし
御牧というのは平城の都近郊にある最上級の馬を育てる牧だが、綾苅には雲の上の話である。
「では引き続き牧をよろしく」
いつもの爽やかな笑みをこちらに向けて榎井は去っていった。
下総国が俘囚の受け入れ地となり、その戸籍が上げられてきた時、大足はその中に一人の見知った名前を見つけた。
――モヌイ。
これはあの蝦夷と和人との混血児なのか、それとも別人か。人懐っこいかわいい顔が脳裏に甦ったが、当然月日が流れて今は立派な青年になっているはずだ。
さらに和人としての名前が与えられ、
大足は何度か俘囚里へ足を運ぼうとしたが、多忙な日が続いていてそれが叶わなかった。そして、たまたま巡察が早く終わった日に部下たちを先に帰らせて、俘囚里へ立ち寄ることにした。
「君は越後の
「……巡察使様ですね。お久しぶりです」
大足が俘囚里の正面の入り口から中に入り、工房群の横を通過すると、俘囚長を乗せた馬を引く青年と目があった。時間が経過していても、その面影でお互いの記憶が交差する。
国守が俘囚里にやって来たということはちょっとした事件となり、俘囚長は大足を歓待しようとした。しかし、非公式で来たのだからと宴は次回正式に訪問した時にお願いすると言って、簡単な面談だけを行った。
「何か困ったことは?」
「特にはございません。我々には少々暑いというくらいです。遠方からの道中は辛いものがありましたが、蝦夷の土地は騒がしくていけません。南下してくる別の蝦夷との争いに巻き込まれるよりは、下総の地に安住した方が気が楽というものです」
蝦夷の中にはこのように和人の支配下に入る代わりに、身の安全と食糧を確保することを選ぶ者も少なくない。
しかし、モヌイはこの集団に従わなければならない身を諦めつつも、和人の支配を受けることには抵抗感を抱いている。越後の小さな訳であった時には、別に和人の支配下にあったわけではないのだ。
「またこうして会えて嬉しいね」
俘囚長との面談後、大足はモヌイと共に里の小さな牧へ向かい、そこで積もる話をした。
「俺はあの時から随分変わってしまったよ、国守様。子供の頃、和人は身近で――父が和人だし――越後国府の人たちが好きだった。もちろん、国守様のこともね。でも今は昔のように素直にはなれないよ」
和銅二年の事件はもちろん大足も知っていたが、モヌイから話を聞くまでキラウコロが首謀者で、その後モヌイが越後を出たことなどは思いもよらなかった。
「国守様は今でも蝦夷とは争わずに住み分けられると思う?」
「そうだね、争わないに越したことはない。私は天皇の官吏だからその命には従うけれど、今の主上のお考えは穏やかなものだよ。敢えてこちらから掃討しに出ていくことにはならないと思うね」
大足は主上を補佐している自分と同い年のある官人を思い浮かべた。その人は思慮深く、影ながら主上にその見識と理想を伝え、主上から信頼されている。自ら高貴な生まれで、主上の妹の配偶者でありながら官人として主上と律令に忠実な人、長屋王だ。
下総国に来る前、民部省勤務だった頃に大足は幾度となく長屋王の話を耳にした。長い間、今も式部卿として重要な役割を務めている長屋王は天武帝の長男高市皇子を父に、天智帝の娘御名部皇女を母に持つ。天皇に一番近い血筋と言っても過言ではないが、本人は至って真面目に式部卿の仕事に向き合って従姉の良き部下であろうとしているらしい。
太政官で実質的な最高権力者の藤原不比等は、実子たちと同世代の長屋王を有能な官人として一目置き、律令とはなんたるかを教授してきた。だから、長屋王は不比等の教え子のようなものだ。
「モヌイ、ここ下総国は確かに蝦夷の地への前線基地になる。その整備をするという任務も私は負っている。けれど、蝦夷との付き合いは交易と褒賞授与が基本だ。主上も支える人たちもそう考えていらっしゃるよ」
「今はね。でも次の主上やその次がどうなるかわからないじゃないか、国守様。時々、和人が攻めてくるっている噂が流れてくるし、俺たちは和人を信用してるわけじゃないから」
最後の言葉を言う時、モヌイは大足と視線を合わせようとしなかった。和人は信用できない、でも高向大足のことは信じたいという気持ちがそうさせてしまったのだった。
モヌイの懸念は大足もよくわかる。官衙にいると、蝦夷などさっさと大軍で攻めて片付けてしまえと息巻く連中も多いのは事実だ。酒の席では特に勢いづいて、上の人々は弱腰だのと言って、危ない批判も飛び出す。
「そろそろ私は戻らないと。モヌイ、また来るよ」
「はい」
大足が背を向けて牧を出ていこうとする。その後ろ姿に、モヌイはぽつりとつぶやきかけた。
「俺はやっぱり国守様のことは、信じてるよ」
眼下に広がる入江が茜色に染まり、さらに濃厚な赤色の球体が水平線に隠れようとしている。夕刻になっても待ち人は現れない。
綾苅は国府の台地の端に座って木葉を待った。日が暮れるととたんに肌寒くなり、綾苅は諦めて立ち上がった。そして、自宅に戻る時に必然的に視界に入る医学舎をなるべく避けて歩く。綾苅にはそれが、愛しい姫が囚われた山城のように思えてならなかった。
木葉が真剣に医学を学ぶことは心の底から応援しているけれども、指導をしている男が大私部勝ということが綾苅を怒りと嫉妬に追いやっている。愛を完全に受け入れてくれたというわけではないが、親密さが増した木葉と朝から夜まで共に過ごしているのがどうして自分でなくて勝なのか。
勉強のためだと頭ではわかっていても、心は納得しない。
(木葉…… もう十日も会ってないじゃないか。その間ずっと君はあの医生のそばにいるんだね)
あまりにも思慕の念が強かったからか、立ち止まって見てしまった医学舎のある建物の影に木葉の姿が現れたような気がした。木葉は枳美のような女らしいなよやかさとは無縁だが、瞳の奥に情熱を湛えていて一瞬見ただけで忘れられないのだ。素直で、自分の気に入らないものに愛想を振り撒くことはないし、媚びるという技を知らない娘はある意味では綾苅とは真逆の存在だった。
幻想だと思ったその姿はすぐに動き始め、後から別の影もついてきている。よく目を凝らすとそれは実体のある木葉と勝だった。会話までは聞こえない。けれども、何か話し合っている。
そして、木葉が抱えていた植物か何かの束を勝が受け取った。ありがとう、と木葉の口が動いたように見えた。勝はいつものように仏頂面で頷き、心なしか木葉の頬が緩んだ気がした。
見てはいけないものを見てしまったような、惨めで滑稽な自分を綾苅は自嘲気味に笑った。勝を鬼のようだと思っていた綾苅は、なぜ木葉が死ぬほどつらい思いをしてまで勝に食らいついているのか、初めて理解した。
自信家で高慢なあの医生は、木葉にとってはもはや鬼ではなくなりつつあるのだろう。
ふと、綾苅は虚しさを覚えた。勝は良民で大領家の親族かつ医人の家系だ。綾苅には持っていないものを全て持っているのだ。
もちろん、木葉が憧れているらしい高向大足などの都の高級官人とは比べ物にならないが、それなりに裕福で不自由な暮らしなどしたことがないだろうし、医人は賢い上に重宝される。綾苅の方が顔の見映えが良いけれども、勝とて黙っていれば知的で落ち着いた雰囲気の若者なのだ。
「でも、あいつにはなくて俺にはあるものがある。木葉への愛だ」
そう独りごちて、綾苅は木葉と勝が再び医学舎の中に入るのを見届けた。
翌日は想い人のことを考える余裕がないほど忙しさを極めた。というのも、放牧していた馬が数疋、様子がおかしくなってしまったからだ。
「仔馬だったら死んでたかもしれないな」
数疋が戻ってこないので探しに行くと、牧の端の地域で倒れていたりぐったりした様子で発見されたのだ。
「呼吸が荒い、痙攣、嘔吐、変色…… でもこの馬たちだけがおかしいですよね。厩にいるのはぴんぴんしてますし」
「馬医は当てにならん。お飾りみたいなもんだからな」
高比呂と綾苅はとりあえず馬たちに無理やり大量の水を飲ませてみた。腹の中に異物が入って嘔吐しているのかもしれない。異常事態を牧長に報告すると、牧長はみるみるうちに青ざめていった。公の馬を預かる身としては当然と言えば当然の反応だ。
「よりによってうちの牧で強い馬が……」
強かったからこそ、致命傷にはならなかったとも言える。馬たちは日暮れには歩いて厩に戻れるようになったが、原因はわからない。
「少し離れた場所にも何疋か長い時間うろついていたのに、そっちは何ともないんですよ。てことは、あの場所に何かあるんでしょうか」
馬たちの行動をだいたいは把握している綾苅が高比呂に言った。
「変なやつが馬たちに悪いものを食べさせたとかも考えられますね」
「どうやって? 仮にそうだとしても、柵で囲まれているし、あの辺りの柵の外側は森だよ」
そう、誰かが森側から侵入する可能性はほぼない。なぜならその森は小美祢の住む松ノ里の奥深い森なのだ。
そこで綾苅は一瞬、謎の修行者が変な術をかけたのではないかと疑った。しかし、そうする理由がわからず、綾苅はその考えは高比呂には黙っていた。
「また明日、あの辺を調べよう」
「そうですね」
果たして馬たちが倒れていた場所に異変が見つかった。昨日は薄暗がりで気付かなかったが、牧草の一部が枯れているのだ。まだ秋なので完全に枯れてしまうには早く、やはり一部だけが変色しているのはおかしい。
「この草を食べたせいってことですかねぇ」
念のために森の様子を見ようと柵ぎりぎりまで歩いてみて、綾苅は片足が地面にのめり込んだのを感じた。足元を見ると、草の間からわずかに水が染み出していて、それがぬかるみの原因になっていた。
「牧子正! この辺りだけぬかるみができてますよ。しかも、枯れた牧草と同じ範囲で」
「本当だ…… この水を吸った牧草を食ったせいであいつらおかしくなったってことかな。おい、綾苅! どこ行くんだ?!」
目の前にいた綾苅が突然柵に向かったと思ったら、そのまま柵を乗り越えて牧の外に出てしまった。牧の外というのはすなわち松ノ里に続く森である。
「水がどこから来てるのか調べます!」
「止めとけ、綾苅! 迷うし、森の神の怒りを買ったらどうする」
高比呂はごくまっとうな意見と不安を伝えたが、綾苅は森に足を踏み入れた。もちろん綾苅も森に一人で分け入ろうとは思っていない。今は水が森に繋がっているかどうかを確認するだけだ。
結局、高比呂の視界から綾苅の姿が消えることはなく、比較的短時間で綾苅は柵の内側に戻ってきた。
「やっぱり森からこの水脈が来てますね」
「神の祟りだとしたらどうすればいいんだ……」
「そうだとしたら怒りか何か知らないけど、それを鎮めないと」
生真面目な牧子正は鬱蒼とした神の力に覆われているような森を恐ろしげに見遣って、頭を抱えた。大事な馬がこれからも犠牲になるのは見過ごせない。
その横で綾苅は別のことを思案していた。
(この森には例の修行者たちが出入りしてる。そして今回の水。修行者が呪術で水に邪気だとか悪霊を移して、それが牧まで流れてきたってことも考えられるな。まぁ、修行者がなぜそんなことをするのかさっぱりわからんけど)
そして綾苅は、森に入って調査する方法も考えた。松ノ里側から入ろうとしてもまた真秦のように取り憑かれる恐れがある。
(でも、牧側から侵入するってのは意外だよな。神が相手ならお見通しかもしれないけど、やってみる価値はある。よし、野郎ども皆引き連れて探ってみるか)
もちろん牧子正には秘密で、牧長には適当に報告をして綾苅は作戦実行に向けて動き出した。
「だーかーら! いつまでもここで経(教科書)を読んでるだけじゃなくて、外に行こうよ!」
いつもよりも甲高い声とパシッという机を叩く音が曹司に響き、勝はうるさそうに眉をしかめた。
「外に出てどうするんだよ。『本草経』は完璧なのか?」
痛いところを突かれたけれども、それで怯むような木葉ではない。そもそも、実践を詰みながら知識を補完していってもよいではないかという思いで、外に出て困ってる患者を探そうと提案したのだ。
「あんただって年末に最終試験でしょ? 臨床経験少ないんじゃないの? 日下部博士みたいになりたいなら、もっと患者に触れた方がいいと思うけど」
教えてもらう立場ながら、木葉は最近では勝にまっとうな口答えをするようになり、それが的を射ているものだから勝には面白くない。
勝としては各種の経を習得していないのに臨床などもっての他だし、木葉はあろうことに里の老人や妊婦や子供の様子を見ようなどと言い出すのだ。しかし、平城の都で働くことがほぼ約束されている勝には、一生縁のない下層の人々の診察は無意味でしかない。
「……あたしがなんで女医になりたいか知ってるでしょ? あんたが診てくれないような人を助けたいからよ。国守様もそれを承知してくれて、あんたをあたしの指導者に選んだんだから、あたしの依頼や提案は国守様のものだと思ってくれていいのよ」
「どういう理屈だ、アホ賤民…… 付け上がりやがって。そんなに言うなら、僕の提示した病に適切な薬を調合できるか? それができたら一回だけ里に出てあげるよ」
勝は最大限の譲歩をして、自分も一年前はよく間違えてしまった薬を念頭に置き、症状を木葉に示した。
「……さて、如何なる薬草が該当するか? そのうち上品の薬草のみ正答とする」
声からして冷淡な勝はもはや木葉が正答すると思っていないらしい。確かに生半可な知識では、どれが上品か中品かという分類が曖昧にしか思い出せなくなる。さんざん悩んだあげく、木葉は一か八かで薬草の名を並べてみた。
「台耳実、
一瞬の沈黙の後、これみよがしに木葉を小馬鹿にする勝の感嘆が漏れた。
「いやぁ、残念だね。里に出る前にもう一度復習すべきということが、よくわかったよ!」
勝は勝ち誇ったように笑いながら言った。里の民をわざわざ救いに行くなんて馬鹿馬鹿しいことこの上ないではないか。
意気消沈して黙りこんでしまった木葉は、それでもやはり納得せずに落ち着かなかった。そして、机を離れると思いがけない行動に出た。勝の腕にすがり付いたのだ。
「何すん――」
「お願いします! 臨床経験を増やしてください! あなたから教えてもらったことを実践して、それが正しかったってことを証明する機会でもあると思うの。一度でいいんです!」
突然、
「うわっ」
押し問答を続けていると、逃げようと中腰になった勝が尻餅を付いて倒れ、その反動で木葉の体も勝に引き寄せられてしまった。
「重いよ、どいてくれ」
「ひっどい、重いとか言わないで!」
勝の目と鼻の先に眉を吊り上げて怒った木葉の顔があった。そして、重いと言った割に、触れた胴周りの細さにドキッとする。
しかし、木葉はさっきから懇願したり怒ったり、感情が収まらないらしく、物理的に離れることに意識が回っていない。圧迫されてさすがに苦しくなってきた勝は両手を木葉の胴体に掛けて、どけようとした。
そしてこの時、曹司の戸が開いて二人の様子を偶然見てしまった人物がいた。
「あー、お邪魔したようだね……」
遠慮がちな声がした方をぎょっとして向くと、日下部博士が忍び笑いをしながら立っているではないか。
「助けて! 何とかしてください、日下部様! こいつ、人を助ける医生のくせにひどいんですっ」
「そんな言い方するなよ、誤解されるじゃないか! 僕が賤民の女に興味ないのは日下部様もご存知ですよね?!」
実は二人の主張は噛み合っていない。木葉は先程からの続きで、勝が里に臨床に行かせてくれないことをひどいと訴えているのだが、突然現れた医博士が理解しているわけがなかった。
「えーっと、僕は退散した方がいいのかな。二人の関係は高向様には黙っておいてあげるけど……」
「ダメですっ。日下部様にもお願いします、里に出掛けさせてください。あたし、たくさん臨床しなきゃって思ってるんですけど、医生は必要ないって言うから……」
「それで、勝君を押し倒したの? 強いねぇ。まぁ、たまには外の空気を吸ってきなさい。というわけで、医生は女医候補生をよく指導するように」
医博士はようやく勝を解放した木葉を見て面白がっている。あの国守も逸材に目を付けたものだ。やはりただ者ではないらしい。
木葉は日下部のお墨付きをもらって満面の笑みだが、勝は日下部が賤民の女に甘いことに憤った。何か不公平な気がする。
「あ、そうそう、夕の給食時間がとっくに過ぎてるから呼びに来たんだった。二人とも熱心だからなぁ」
医博士はそう言って微笑んだ。
翌日、勝は渋々ながら木葉と共に里に出掛けることになった。少し遠い高戸里には前々から体が弱っている人が多いという報告がなされていたのだが、国府は積極的に救済の手段をとって来なかった。
「何で放置しといたのかしら、彼らが働けなくなったら困るのは郡家や国府なのに」
ぶりぶり怒りながら歩いていた木葉だが、菊野牧の横を通過する頃になるとしきりに牧を方に目をやった。そして、勝にちょっと待ってと言い残して、牧へ小走りに向かう。
「綾苅ー! 久しぶりね」
大声で馬の様子を巡回していた綾苅の名を呼び、気付いた方も手を振りながらこちらにやって来た。感動の再会である。
「元気だったか?」
綾苅はただ一言訊いて、答えを聞く前に柵越しに木葉を抱き締めた。何となく馬の臭いがする男の腕の中はとても居心地が良かった。
木葉は先日、綾苅を待ち惚けさせてしまったことを詫び、これから里へ診察に行くのだと告げた。
「だいぶ女医に近付いてきたなぁ。俺はいつでも木葉の味方だよ」
「うん、ありがと。ねぇ、綾苅。あたし、あんたが側にいてくれて嬉しいわ」
今はまだそれしか言えない。女医になる勉強を疎かにできない。けれども、一段落ついたら自分を愛してくれているこの仲間の気持ちに素直に応えることができるようになるのではないか。
「もう少し待っててね、綾苅」
「ああ、いくらでも待つよ」
綾苅は少し強引に木葉に口づけた。もちろん、何をしているのか遠くにいる勝にもわかるように、だ。木葉を傷付けたら俺が許さない、という意思表示を高慢な医生に見せつけたのだった。
逢瀬とも言えない逢瀬が終わり、木葉は再び勝の後について高戸里を目指した。
すると途中でまた久しぶりに顔を見る人物と出くわした。龍麻呂である。
「姉貴! どこに行くの?」
「高戸里よ。診察に行くんだけどあんたも来る?」
勝手に弟を連れていこうとする木葉に文句を言おうとしたが、勝は考えを改めた。何かとうるさい木葉と二人だけよりもマシだ。そして、早朝の国厨での仕事が終わっていた龍麻呂も同行することになった。
姉と弟は勝の存在そっちのけで会話を弾ませながら歩いていたが、目的の里に到着すると楽しかった気分が消えてなくなってしまった。
「悲惨だわ……」
里のすぐ外側に共同墓地があり、真新しい小振りの盛り土がいくつか見てとれた。つまり、最近、里の子供たちが黄泉の国へ旅立ったということだ。
必然的に、生まれてすぐに死んでしまった我が子を思い出して、木葉は胸が締め付けられる気持ちになった。龍麻呂は姉の思いをよく理解できたが、勝にはそんな事情はわからず、また木葉がお人好しの感情に浸っているのだろうと思っている。
里長の家に赴き、医学舎の印が押してある書面を見せて、国府の医生であることを告げると、里長は何度もありがたや、ありがたやと手を合わせて勝に頭を下げた。まるで勝が仏か何かに思われているようだった。
「うちの里はこうして親を亡くした子供らを一所に集めて世話しておるのです」
里長に連れて来られたのは、大きな集会用の家だった。そこには年齢も性別もバラバラの子供たちが二十人弱暮らしている。
「じゃあ、手分けして順番に診察して行きましょうか」
「ああ」
里長から医生たちが来たので、具合の悪いことがあったらちゃんと申告するようにと言われると、家の中は一瞬だけ凪のように静かになったが、またすぐに騒がしくなった。幼児は大きな子供たちが何かを作っている傍を走り回って怒られたりしている。
「きっと、あんただって子供の時はうるさくてあんな風だったのよ」
見るからにげんなりしている勝に向かって木葉は言ってやった。龍麻呂は下の弟がいるので、それほど動じていない。木葉は龍麻呂に勝の補助をするよう頼み、女児から診察していった。
「手足が細いわね。みんな、ご飯食べてる?」
「うん」
満腹になるまで食べられるのは郡司だとか豪農だとかの階層で、庶人以下はだいたい物足りないのが普通である。それでも米を少し混ぜた雑穀を食べられるだけ恵まれている。国守が変わる前は、不当に課税されて国内中が食べるものに困っていた。
木葉は全体を見回して、重症者がいない代わりに何となく元気のない子供たちばかりだということに気付いた。もちろん走り回っている子供もいるが、彼らも長続きはしない。
そして家の中が暗く、どんよりとした空気に包まれている。
(これじゃあ、陰の力が強すぎるわねぇ……)
子供たちが咳をしているのも気になる。
その時、背後で大きな泣き声が始まり、反射的に振り向くと音源は勝の目の前に座っていた。有能な医生である勝は、しかし、おい、とか、泣くなよとか言いつつ固まっている。ただの木偶の坊である。
「ごめんな、怖くないからさ」
何とか優しい口調で言って幼児の機嫌を取ろうとしたのは龍麻呂だが、効果は見られない。
木葉は勝を押しのけて、幼児の頭を撫でながら「お姉ちゃんとこにおいで」と微笑みかけた。
すると幼児はぐずりつつも、木葉に抱きついて、まるで猿の母子のようになった。元々、親をなくして集団生活を強いられているのだ。甘えたい気持ちが吹き出しても不思議ではない。
「あんた、子供の患者にそんなぶっきらぼうな態度でいいと思ってるの? 上から見下ろすみたいに話しかけたら怖がるでしょ、ただでさえ、冷たい口調なんだし」
「うるさいな、僕はこんなところで、子供の面倒みるために医人を目指してるんじゃないんだ。お前のワガママに付き合って来てやったんだよ」
勝には全くもって正当な反論だが、木葉を憤慨させるには充分すぎた。派手な乾いた音が勝の左頬に弾けたが、勝が痛いと感じたのは平手打ちではなくて木葉の悲しみが混じった怒りの視線であった。
「なぜ目の前の人を憐れむことができないの? 苦しいと思っている人を楽にしてあげるのが医人の役目じゃない! あんたの目指してる場所は知ってる。でも、偉い人じゃないなら見捨てていいわけ?」
幼児をしっかり抱きながら、木葉は珍しく声を抑えて勝に訴えた。
「そんなこと言われても……」
「大足さんなら、見捨てていいなんて言わないし、思わないわ。だって、あたしを女医候補として教育しようとしてくれたってことは、そういうことよ。下総国の人たちみんなが健やかでいられるように、それを考えるのが国守の務めだと思ってるの。民を孤独にしちゃダメだって言ってたわ」
木葉の目はどこまでも真っ直ぐ、大足を信じていた。あの変わり者の国守を、どうして一人の賤民の女がこれほど慕えるのか、勝にはわからなかった。明らかに、木葉は国守という地位に惹かれているのではなく、大足の人々への視線に信頼を寄せているようだ。
きっと、大足と自分の見ている世界は全く異なるに違いないし、木葉は大足と何かを共有しているらしい。勝は複雑な感情に翻弄されていた。どうして貴人と卑しい家女が理解し合えるのだろう。
「ねぇ、勝、聞いてる? あたしの子供はね、よくわからない病で死んだの。夫もそう。もしかしたら助かったかもしれないけど、誰も見に来てくれる人がいなかったわ。大足さんが国守だったら、孤独のまま放置されることはなかったかもしれない。もっと早く女医や非公式の医人がいたかもね」
何よりも、木葉がかつては母であり、子を失っていたという告白に、勝は衝撃を受けた。それを知って木葉を見ると、見ず知らずの弱った幼児を大事そうに腕に抱える様子が菩薩のように思え、彼女がどんなに難しく厳しい勉強も今まで投げ出さなかった理由も納得できた。
そして突然、さっき木葉にぶたれたことが何かとても幸福なことに感じられて、勝は戦慄した。
(あり得ない…… どうかしてるよ)
勝は大きく息を吸って、その場を離れた。この女には付き合ってられない。
孤児の家を出て、勝はそのまま高戸里を去ってしまおうと里の出入口に向かった。木葉にはずっと調子を狂わされっぱなしだ。これ以上、茶番に付き合う必要はないではないか。徳麻呂の言葉が真実ならば、いずれ勝は前国守の佐伯の取り計らいで平城宮の医人に取り立ててもらえるのだら。
しかし、あと数歩で里の境界を跨ぐところに来て、勝は呼び止められた。
「待ってよ、勝! ひっぱたいたのは謝るわ。あたしの身分で許されないことをしてしまったから罰は受けるけど、行かないで。あたし、あんたが必要なの」
その時、自分がどんな表情をしていたのかわからないが、後ろを向いていたので木葉に見られてはいない。ひどく胸がざわついて、勝は恐る恐る振り向いた。
「何で僕が必要なんだよ」
「だって…… あたしはまだ全部あんたから学んでなくて、子供たちの診察がちゃんとできないから、あんたにも隣で見てもらわないと」
ああ、子供たちの診察のためか。
そりゃそうだ、この女はまだ『本草経』も完璧に覚えられてないんだから、僕の知識と技術が必要なのは当然だ。
「お願い一緒に来て、あの子たちを見てあげて」
木葉は迷うことなく孤児らの臨床だけを考えていた。そのためなら、勝にさえ頭を下げるし、後で過酷な課題が待っていても構わない。
勝は木葉から視線を外すと無言で歩き出した。里の境界を越えることなく、再び大きな孤児の家へ。
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